翌日、職場の空気はいつも通りに流れていた。けれど私の内側には昨夜の名残がまだ脈を打っていた。
休憩室へと足を運びガラス扉に手をかけて押し開けるとその奥のテーブル席に一人、肘をついて手の中の紙コップをくるくると弄ぶ、ヒーローの姿が見えた。言わずもがな、ホークスだった。
「えっ……やだ、いるなんてびっくり。驚いた。どうしたの」
とっさに口からこぼれたのは軽い調子の挨拶。けれど目は合わせず足早にコーヒーメーカーの方へと向かう。手慣れた動作でいつものマグカップに温かいコーヒーを注ぐ。そのほんの数秒がやけに長く感じられた。
「あ、いや……その。任務向かう前に、ちょっと話せたらって、思って……待ってました……」
「……」
「昨日の、夜のこと——」
不意に彼が立ち上がり、こちらへと歩み寄ってくる。その足音は決して荒くなくむしろ戸惑いを帯びているようだった。
私は、反射的に振り向いた。思っていたよりも距離は近くほんの数センチの隙間しかない。彼の顔がすぐそこにあった。目が合う。けれど、彼が先にその視線を逸らした。
「あの、マグカップが割れたときの、っていうかその、あとのこと……」
ふとした間合いで彼が切り出した。コーヒーの湯気がわずかに揺れて、空気がひとしずく冷たくなる。
「なんでもないよ、ただ……ちょっと、驚いて。ほんと、それだけ」
私はそう答えて出来上がったコーヒーを片手に先ほど彼が腰を下ろしていたテーブル席へ静かに歩み寄り、そのまま腰を沈めた。すると、それを受けるように彼も再びこちらへ向かってきて私の隣の椅子へと身を預けた。
「いや——あれは、なんでもなくなかったです」
彼の声は低くどこか自分に言い聞かせるような硬さがあった。
「その、どう……表現したらいいか、わかんないですけど」
私はそれに何も返さず、ただ、湯気の立つマグに指をかける。
「気にしないで?ホークスは何も悪くないから」
「うん、わかってます。それは、頭ではちゃんと、わかってる」
彼の声が、ほんの少しだけ揺れた。言葉の端が濡れているような、そんな響き。
「でも、あのときは気づかなかったんですけど。あとになってふと思い出したんです」
「……」
「子供の頃、父親に服従してる母親を見て自分がどうしようもなく無力で、情けなくて……」
「……」
「それでも俺は、正しくあろうと。強くなろうと思ったこと」
私は言葉を失った。そんな話を彼の口から聞くのは、はじめてだったから。
「……そんな話、初耳だよ?」
「うん。俺自身、もう何年も忘れてたんですよ。それが、昨日——急に、あのときの感情が、そのまま蘇ってきた」
彼のまなざしが遠い過去を覗き込むように淡く揺れる。
「意図したわけじゃない。予期すらしてなかったし、コントロールもできない」
「……」
「ただ、心が勝手に引きずられた。振り払おうとしても、もう間に合わなかった。不可抗力です」
不器用なまでに丁寧に選ばれた言葉たち。それを目の前で一つひとつ組み立てながら彼は何かを私に説明しようとしているようでもあった。
「なんだろう、なにか専門用語がありそうだね。そういう現象って、なんて言うんだろうね」
無理に軽く言ってみたものの、声の奥にはどうしても余韻が残ってしまった。けれども彼は気づかぬふりをするようにいつもの明るげで楽しげな調子で言い返す。
「間違いなく、ドイツ語でしょうねぇ。それも、やけに長ったらしくて絶対に発音できないようなやつ」
「ふふ、たしかに」
彼のおかげで、そのやり取りのあと二人の間にほんのわずか、柔らかな風が通り抜けた。
「とにかく、そういう過去も、その人の一部なんです」
そう言いながら彼はためらいを置き去りにするように手を伸ばし私の指先へ触れた。片手で触れるだけでは足りないとでもいうように両手で包み込む。まるで今度こそ決して壊さないと誓うかのように。
「……ホークスの手、あったかいね」
「そうです?でも……ずっとこの温度を忘れてた気がするんです」
「……」
「あなたがまた、思い出させてくれた」
握られた手の中で、わずかに震える指先。彼の震えは私の心の奥まで響きその震えごと抱き寄せるように、私はそっと握り返した。壊れたマグのことも疼く記憶もまだ消えない痛みも、すべてがいま、この手の中で少しずつ輪郭を変え、溶けていくようだった。
沈黙が落ちた。けれどそれは気まずさではなく何かを探すための静けさだった。彼が小さく息を吸い、視線を落としてためらいがちに声を紡ぐ。
「……あの、」
「うん?」
「聞いても、いいですか」
「……うん」
「顔で食器を洗う個性を使った時の——あの瞼の怪我……。あれと、関係が?」
冗談を含ませたはずの彼の声は驚くほど静かでまるで、傷口に直接触れてしまう事を恐れているような慎重さがあった。
私はふっと息を呑み、視線を落とす。長い沈黙のあいだ、心臓の鼓動ばかりがやけに大きく響いていた。
「……どうして、それを」
「昨日マグカップが落ちたとき。名前さんの顔が一瞬だけ……何か嫌な記憶を思い出してるように見えた」
逃げ場を塞がれたように、胸が苦しくなった。けれど、もうこの人に隠すことはできなかった。
「……うん」
「やっぱり」
「あのとき実は……彼と口論になって、突き飛ばされたの。それで……」
口にした瞬間、遠い記憶が生々しく蘇る。肩を乱暴に押された感触。必死で手を伸ばした拍子にシンクからマグカップが落ちていった光景。砕け散った陶器の音と同時に、鋭い破片が瞼を掠めた痛み。しかもそれが、彼専用のマグカップだったこと。
「その口論の原因は……俺ですね?」
「……」
「沈黙は、肯定ですよ?」
「ホークスの……あなたの、マグカップだった」
「……」
「床に落ちた破片で……それで瞼が、切れて」
言葉が途切れる。喉が乾いて、もう声にならなかった。彼の指が、そっと私の手に力を込める。温もりが伝わり、揺れる心を静かに支える。
「ごめんなさい。もう……言わなくていいです」
「……」
「言わなくていい。そばにいてあげられなくて、すみませんでした」
「……ううん」
「守ってあげられなくて、ごめんなさい」
両手で包み込む彼のぬくもりが、本当に「もう大丈夫ですよ」と告げてくれているようで、胸の奥がじわりと揺れた。
「名前さん」
「……ん?」
「これからは感情が蘇ったりしても……それを、俺にだけは、隠そうとしないでほしい」
その声は、いつになく真っ直ぐで、まるで彼の奥底から直接こちらへと届いたような気がした。
私はそのまま視線を上げて彼のまなざしを受け止める。逃げず、逸らさず。ただ、まっすぐに。
「……わかった。もう、隠したりしない」
そう口にすると彼の頬がふっと緩んだ。安堵がひとつ、大きな息となって空気にほどけていく。
「うん、よかった……」
その笑みに、私も自然と微笑みが返る。互いに少しずつ凪いでいく感情の中で彼がふと言った。
「マグのこと、ごめんなさい。俺がお揃いにするって言って買ったのに、割っちゃって……」
彼の声は低く、苦しげに震えていた。その目は罪悪感と後悔と、そして何より私を傷つけたかもしれないという事実に怯えているようだった。
「大丈夫だよ。私こそ……」
言いかけて、でもすぐに言葉は喉で立ち止まった。本当は何が大丈夫なのか、自分でも分かっていなかったから。
「俺、何もできないなって思って。あのときも。今も。大事にしたいって思ってるのに、ほんとになんにもできない」
握っていた手が、そっと離れた。触れるか触れないかの微妙な距離でただそこに置かれた指先の震えが、感情よりも先に私の胸を打つ。
「ちゃんと、話をしたいって思ってた。逃げたくなかったんです。名前さんの全部を、受け止めたいから」
言葉の端々に宿る真剣さが静かに、けれど鋭く私の心を撫でた。苦しかった夜。何も伝えられなかったまま眠った背中。あの温度。今それを取り戻そうとする彼の不器用なまなざしに私はほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「……ねぇ、」
「はい」
「次は割らないでよ。とくに、ペアのものは」
「はい、ぜったい」
「うん。あなたとのペアは無くしたくない。私の大事なものなんだから」
そう言って私は彼の手の甲にそっと自分の指を重ねた。わだかまりが全て消えるわけじゃない。けれど、この触れ合いからならまた少しずつ歩き出せる気がした。彼となら、いつだって何度でも始められる。
ふたりの空気が、一瞬で色を変える。楽しげに響いていた彼の笑い声が今は遠慮がちにこの空気を満たしている。彼は申し訳なさそうに、けれどそれを隠すように軽い口調で呟いた。
「……あれ、さ。
「うん」
「……壊しちゃって、ごめんなさい」
言い訳をしない声だった。それが逆にずるいと思ってしまうくらいに。
「いいよ。もう一個、まだあるし」
「いやいや、そういう問題じゃないでしょ……」
「じゃあ、買いに行こっか。今度は二人で。次のマグは──そうだなぁ、割れないやつ」
「……チタン製とかです?」
「うん、もはや兵器レベルのやつで」
私がようやく笑うと、彼も少しだけほっとしたように目を細めた。
「あっ。じゃあさ、じゃあさ?私、あれがいい」
「あれ?」
「うん。大・爆・殺・神⭐︎ダイナマイトモデル」
「え……あの、手榴弾みたいな形の?うわぁ……小二ぃ〜。それこそ、洗いづらい」
「ふふっ、そうそう。あれがいい」
くだらない冗談を交わすうちに、重かった胸の奥が少しずつほどけていくのを感じた。テーブルの上に残された二つのコーヒーは、もうとっくに冷めきっている。けれどふたりのあいだに流れる空気は、確かにあたたかさを帯びていた。
それでも、しばらく沈黙が続いたのはたぶん、割れたのが、マグカップだけではなかったから。ほんの少しの夢とか想像とか、言葉にしない期待とか。けれど、それでも残った方のカップには、まだ温かい飲み物が入れられる。私たちは、その湯気の先にまた触れられる気がしていた。すると今度は彼が「あの」と、唐突に言った。
「……もうひとつ、割れそうなものがあるんですけど」
「え、なに?」
「心臓」
「は?」
「だってマグ割ったら、愛しの彼女がばり冷とうなって」
「……」
「俺たぶんここ数年で一番傷ついた顔してた自信あります」
その必死めいた言い方と子どもみたいに拗ねた表情が可笑しくて、思わず噴き出してしまった。張りつめていた胸の奥の糸がふっと緩み笑い声が自分でも驚くほど軽やかに響いた。
「それ、自信もって言うこと?」
「はい。しかも俺の記憶だとあのマグで間接キスするって約束してましたよね?」
「それはホークスが勝手に言ってただけでしょ」
「せっかくのペアマグでの間接キス、するまえに割れちゃいましたね……」
「なら……今度は、ちゃんと直接する?」
「……え、」
「ん?」
「え、今? それマジの?えっ?まじのやつ?」
そうしてようやく私たちの時間は少しだけ形を取り戻す。それは、割れたものよりもずっと温かく触れてしまえばまた溶けてしまいそうな柔らかな感触。私はふとある考えが胸に浮かび自然に口を開いた。
「ねえ……?」
「……ん?」
「今日、仕事終わったらさ、電話してもいい?」
その一言に彼は嬉しそうにけれどどこか優しく肩の力を抜いたような顔で答える。
「もちろん。あ、でも……同窓会は?」
「同窓会に行く前に、ちょっとだけ。」
「……ええ、はい。ずっと、待ってますよ」
その「待つ」という言葉のなかには、いろんな意味が込められている気がして、私は胸の奥で、小さく息を吸い込んだ。過去も記憶も、弱さも、全部含めた今の私たちを信じてまたひとつ、歩み寄れる朝だった。
私は室長に「プロヒーローを見送ってくる」と断りを入れ、彼をセンターの入り口まで見送りに出た。そういうところだけは抜かりのない彼が、センター宛に少し高めの菓子折りを持参してくれていたこともあり室長はむしろ上機嫌で送り出しを許可してくれた。
束の間の時間に過ぎなかったけれど、それでも確かなものを私は手にしていた。明日になれば、彼はまた福岡に戻り休む間もなく次の任務へ飛び立っていく。それでも今はこうしてここにいる。その事実だけで、今は充分だった。
「……次は、いつ会えるんだろうね」
「今度はもっと、ちゃんと予定立てて来ますよ。だって新しいマグ、まだ一緒に、買いに行ってないですしぃー」
「ふふっ、そうだね」
「っていうか──マグカップ買う前に名前さんが福岡に来てくれたら問題解決なんですけどね」
彼の背中を見ながら、私は思った。たとえ今は仮の暮らしでもこうして重ねていく時間がやがて本当の暮らしへと変わっていく日が来るのだと。
センターの外、青く澄んだ空を仰ぎ見ながら、彼は緋色の剛翼を広げて囁く。
「ねぇ……今日、
「え? あ……うん。じゃあ、これ……鍵。」
ポケットから、慌ててマンションの鍵を出して渡すと、彼はそれを受け取りながらも、少しだけ不服そうに口先を尖らせた。
「結局……くれませんでしたねぇ、合鍵」
「……あ、ああ。でももう今さらでしょ」
「ふーん……ま、いいです。これ、もう俺のもんにしますから」
ニカッと笑うその顔に私は思わずため息を吐きけれど了承するように、小さく頷いた。再び翼を大きく広げた彼が軽やかに地を離れる。巻き起こる風が、私の前髪を揺らした。
「今日——同窓会から帰ってきたら、くっついて寝てもいいですかー?」
私は何も言わず曖昧に首を傾げてみせた。それだけで十分だったのだろう。彼は、満足げに鼻を鳴らし、いたずらっぽく笑う。いつかではなく、二人の��今�≠ェ、もう始まっている。そのことに私たちはもう、ちゃんと気づいていた。