その日の夜。チームアップの任務を終えた彼が帰宅し、ふたりでささやかな夕飯を共にしたあと私はキッチンで食器を洗っていた。
 ふと視線をやれば、彼は珍しくベランダへ出て街の灯を眺めている。夜風が揺れる髪を撫でては流れていく。その背中の輪郭がどこか遠く見えて私は水に濡れた指を拭いながら手を止め、そっと彼の背後に歩み寄った。

「……やっぱり、高いところが落ち着く?」

 問いかけると、彼は小さく肩を震わせるように振り返り、一瞬きょとんとしたあとで、穏やかな笑みを浮かべた。

「え……? あー、はい。でも──」

 そこで言葉を区切り、視線が柔らかく私を捉える。懐かしさすら帯びた瞳がまるで長い旅の末に帰るべき場所を見つけた旅人のように、揺れていた。

「今は、この目線の高さのほうが好きかもです」
「目線の高さ?」
「はい。あなたが、ここにいるから」

 なんでもない調子で言って、彼はひょいと肩を竦めて部屋の中へ戻ろうとする。その自然さが、かえって胸を打ち私は思わずその背に自分の体温を寄せた。すると待っていたように彼が振り返りその逞しい腕が私の腰を包み込んで、静かに抱き寄せられる。

「……ねぇ、都会って、こんな音でしたっけ?」

 低い声で囁くように彼がそう問いかけてくる。

「うーん、そうだねぇ……騒々しい感じ?」
「うるさいのに、不思議と落ち着くんです」
「矛盾してるじゃん、それ」
「矛盾しててもいいんですよ。名前さんがそばにいるだけで、音の聞こえ方が変わるんで」

 その言葉に、私は胸の奥がくすぐったくなり、笑いながらそっと、彼の胸に口付けを落とした。ちゅ、とわざと音を立てる。すると彼はすぐさま腕を緩め少し身を離してから私の顔を覗き込んできた。

「ん?」
「……えー」
「え? なに?」
「もしかして、誘ってます……?」

 子どもみたいに真剣な表情で問うその様子に、笑いがこみ上げる。けれど私は答えず、また彼の胸に顔を埋めてしまった。肩越しに響く彼の鼓動と、夜の街の音が重なり合う。何気ない会話と、なんでもない仕草。そんな小さな断片こそが胸の奥にいつまでも残っていく。
 彼の腕の中に顔を埋めていると抱き寄せる力がほんの少しだけ強まった。胸元から伝わる熱と、耳元で囁くような吐息。彼はそのまま、私の髪を指先でゆるく撫でながら、わずかに、声音を落とした。

「ねえ……そういえば、飛行機事故からちゃんとふたりの愛を、確かめ合ってませんよねぇ?」
「ん?」
「……この続き、今からしません?」

 低く柔らかい声が鼓膜を揺らし、背筋をじんと熱くさせる。今にも唇を重ねてきそうな気配に、私は思わず彼の胸を軽く押しやり、苦笑しながら呟いた。

「……ごめん。洗い物、途中だった」

 その瞬間、彼の表情がぴたりと固まり、抱きしめていた腕がゆっくりと離れていく。

「……え」
「お皿、まだシンクに残ってるから」
「……」

 返事の代わりに彼はあからさまに肩を落とし、しょんぼりとソファの方へ視線をやった。背中がわずかに丸まり、羽根の気配までも小さく縮んで見える。

「俺より、洗い物、優先っすかぁ……」

 その拗ねた呟きがあまりにも本気で、私は耐えきれずに吹き出してしまう。笑い声に振り返った彼の顔はどうしようもなく可笑しいほどがっくりとしていて同時に愛おしくて胸がじんわり温かくなった。
 彼の滞在初日の空気は言葉にせずとも、互いの間に期待と幸福を散りばめていた。まるで、気温そのものまで優しくなったようで私はキッチンに立ちながら、心の奥では確かに感じていたのだ。これはたった数日間の逢瀬じゃなくてもっと長いなにかが始まろうとしてるんじゃないかって。

「なんか、こういうの良いですね。水道の音とか洗剤の匂いとか……」

 背後からそっと近づいてきた気配。彼はわざとらしく足音を殺しながらそれでもその存在だけで部屋の空気を変えてしまう。

「……私をつまみ食いでもしにきたの?」
「ちがいますよぉ〜、人聞きの悪い。味見という名の、幸せ共有です」

 そして当然のように後ろから腰に腕をまわしてきた。もう、それをとがめることすら面倒になるほど彼の体温が心地よくて私は苦笑まじりにその腕に濡れた手で、そっと触れた。それは、ほんのわずか数秒前まで、ただの幸せだった。

「……っ、——あ。」

 軽い音がした。彼が私を振り向かせようと体を大きく動かした瞬間。私が振り向くより先に耳がそれを察知する。ガシャン──思いのほか鋭く、空間を裂くように響いた音。
 心臓が鼓動よりも先に震えた。床には、さっき箱から取り出したばかりの彼とのペアマグカップ��風の花�≠ェ、儚い音を立てて割れていた。

「……ご、ごめんなさいっ」

 彼が言ったその声は思いがけず焦りと戸惑いが混ざっていて思わず数秒、黙ってしまった。私は時が止まったように、立ち尽くしていた。そう、あの日の記憶がぬるく脳裏を舐めたから。ここと同じ場所で、元婚約者から執拗に、ホークスとの関係を問い詰められ、怒りに任せて投げ飛ばされ彼専用のマグがあのときも同じように床に落ちて砕けて、私はその破片で瞼を切ったのだ──。

「……あ、ごめ。ほんとに、わざとじゃなくて」
「……うん」
「いや、なんか、羽根……ぶつかって……」
「うん」
「そこに、上がってたの、見えとらんくて……」
「うん……」
「俺、ちょっとだけ……あー……その、くっつきたくて……」

 私はなにも言わずに、割れたカップを拾おうとしゃがんだ。けれど私の手より先に、彼の指先が粉々になった破片へと伸びる。

「……触らないでっ!」
「え」
「怪我、するから……」

 と、その言葉だけは反射的にきちんとした声で出た。けれどその直後、無意識に自分の唇から、思いもよらぬ言葉がこぼれる。

「…………ごめん、なさい——」

 まるで、自分が、悪いことをしたかのように。ほんとうに無意識に。床に膝をつき破片を手繰り寄せながらただ小さく何度も何度もごめんなさい——と。

「……名前、さん?」

 彼が戸惑ったように私の肩に触れる。その瞬間私は思わず身体を強ばらせてしまっていた。すぐさまパシン!と反射的にその手を振り払ってしまった自分にすら驚いて目を見開く。

「……どう、したんですか?」
「ううん……なんでもない、なんでも……。」
「いや。なんでもなくは、ないでしょう……」
「ほんと、大丈夫。……ごめんなさい」

 乾いた声でそう言いながら私はまた黙々と床に散らばった破片を集める。音を立てないように。心が、軋まないように。

「待って——触らん方がいい。俺が片付けます」
「……いいの。大丈夫」
「ほうき、どこです? 俺、持ってきますよっ」
「いいってば!」
「……」
「あ……ごめん。でもほんと、大丈夫……」
「……」
「ごめん……、大丈夫だから──」

 重ねて発する言葉の多さが、私の不安の深さを物語っていた。それでも私の手は止まらずまるでなにかを償うように破片を拾い続けた。
 ささやかな夜の幸福が音を立てて砕けて、その余韻だけが床にも心にも、じわりと残っていた。


 *


 あの瞬間——割れたのは、マグカップだけじゃなかった。床に散らばる破片を前に彼女が見せた表情の変化は俺にとって衝撃が強すぎた。いつも笑って誤魔化す人なのに、どうしてかあのときは必死に「大丈夫、大丈夫」って、言葉を重ねて、破片を拾う指先が、震えてるのを見た。血が滲むかもしれないのに手を止めなくて、まるで何かに取り憑かれたみたいに——まるで、��償い�≠ナもするかのように。俺の声なんて届いてなくて……それが、どうしようもなく苦しかった。
 俺は人を救うのが仕事のはずなのに、目の前の大事な人にさえあのときは手を伸ばせなかった。差し伸べるどころか、どう接していいのか分からなくて重苦しい空気に押し潰されて気づけば——

「あ、あの……。今日は俺、別で泊まりますね」

 なんて逃げるみたいな言葉しか出せなかった。そして今、俺は、いつもの癖でここにいる。
 ジーニストさんの事務所。深夜の静けさの中で広すぎる窓に映る自分の顔を見つめながら溜め息ばかりが出る。

「……なんか、かける言葉がなかったっす。もう、なんていうか、言葉を失いましたね」

 ソファに沈み込みながら口に出すと、背後で、書類を整えていたジーニストさんが、視線だけをチラリとこちらへ向けてくる。
 ヒーローとして何百人も救った事があるくせに彼女ひとり前にして、立ち尽くすしかなかった。割れた陶器より脆く崩れそうな心を、どう扱えばいいのか、ほんとうに分からなくて……。
 ジーニストさんの残した書類が机に積んであって、その整然とした束をぼんやり見ているとふと自分は整えるどころか乱すばっかだなと笑いたくなる。今は笑う余裕もないけど。
 夜風が窓を叩く。彼女の「大丈夫」という声がまだ耳の奥で響いている。大丈夫じゃない声で、大丈夫って言い続けていた、あの声が——。

「ねえ?俺はあなたのサイコパスな元婚約者とは違いますよ、って。俺を怖がる必要なんてなにもないんですよ──って、言えたらよかったんですけど」

 自嘲混じりに吐き出すと、ジーニストさんは、整えた資料を机に置き、指先を軽く揃えた。

「なんて言えばよかったんですかねぇ……彼女、怯えてた。一瞬だけど確かに怯えてたんです」

 言葉を重ねるほどに胸の奥がざわつき、空気が詰まるようだった。結局俺はまた小さくため息をついて、思わず弱音を漏らしていた。

「俺、よくわからないんですよねー。こういうのってどうするのが、いちばんなんです?」

 沈黙を破ったのは、ソファに大きな体を預けていたファットさんだった。夜食代わりに、煎餅をぼりぼり噛みながら、のんびりした声をあげる。

「おっ! これ、美味いやないかい!」

 俺は思わず馬鹿でかい溜め息を吐き散らして、ファットさんを睨むように目を細め、ついでに、口を尖らせながらぼやいた。

「悪かったっすねー。俺の危機的状況が、そんな退屈でぇ〜」

 ファットさんは「へ?」と、一瞬目を丸くし、それから大げさに肩を落とす。

「いやいや退屈とは言うてへんやろ。ただなぁ〜わからんことはわからんままでええんちゃうか」

 ぼそっと言い足す声は噛んでいた煎餅の軽い音とは対照的に、妙に胸に残る温度を持っていた。

「え?」
「わからんって言えるだけで十分やと思うで?」
「じゅー、ぶん……?」
「せや。人は誰でも傷持っとる。ましてや過去にそんなことがあったんやったらそら一瞬で怯えることくらいあるやろ」
「……」
「そこで正解の言葉探してピタッと埋めようなんて……逆に難しいで」

 ファットさんの声はいつもどおり柔らかいのにやけに胸に刺さった。そこにジーニストさんが、低い声を重ねる。

「言葉を飾る必要はない。大切なのは相手の動揺に振り回されず自分が隣にいるという姿勢を示すことだ」
「自分が、隣に……」
「恐怖は一瞬で浮かぶものだが安心は積み重ねでしか生まれない」
「はぁ……」
「そうやって人と人とは、紡いでいくものだよ」

 静かに響く声が夜の事務所内に落ち着きをもたらす。俺は天井を見上げ手の中の割れたマグカップを持つ仕草を想像してしまう。彼女の手の震え、それを受け止めてあげられなかった自分。

「でも……結局、俺、逃げちゃいましたけど」
「逃げてもいい。ちゃんと元の場所へ戻るなら」
「……」
「繰り返すことだ。何度でも。そうして彼女に、��揺るがないもの�≠�見せればいい」

 言葉を置くようなジーニストさんの声に、ファットさんが続ける。

「せやせや。お前、背負っとる羽が泣いとるで?次会ったらまず、心配した、ごめんって、伝えたらええんちゃう? それだけで変わるやろ」

 俺はふっと笑った。深夜の静けさにふさわしくない笑いかもしれないけど少しだけ胸の詰まりがほどけた気がした。

「……ほんと、二人とも頼りになりますねぇ」
「ん?珍しい……君がそんなことを言うのは」

 と、ジーニストさんが、やけに感心したように言うと「へへ、素直やん。ええこっちゃ」とファットさんも続けた。大きな窓の向こう側では街が眠っている。今夜はまだ眠れそうにないけれど、それでも、戻るべき場所を思い出させてもらった気がした。

「──今日は、ここに泊まっていくのかな?」

 不意にジーニストさんがそう口にした。静かな声だったのに、不思議と、胸に落ちてくる重みがあった。俺は溜め息をひとつ吐きながら、小さく頷く。

「ここにいることくらいは、彼女に伝えておけ」
「え?」
「あの子なら、きっと今頃、心配しているよ」

 その言葉に胸の奥が少しだけ痛んだ。俺は手元のスマホを見つめ、乾いた笑みを浮かべながらも答える。

「……っすね。はい、メッセージ送っときます」

 ジーニストさんはそれ以上は何も言わずただ静かに書類を揃え続けていた。その沈黙に支えられているような気がしてなおさら自分の不甲斐なさが浮き彫りになる。

「……ほんっと、ダメダメですねー、俺は。」

 誰に言うわけでもなく呟いて深くソファへ身を沈めた。窓に映る自分の影がいつもよりも小さく見えた。背中に広げるべき剛翼の個性の羽根も、今夜ばかりはただの重りみたいで、俺をどんどん下に引きずり込んでいくようだった。それでも、明日にはもう一度懲りずに会いに行くのだろう。何度くじけても彼女を手放せない自分を俺はもう知ってしまっているから。


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