——東京でのチームアップ最終日の昼下がり。エンデヴァー事務所の広い会議室には、ヒーロービルボードチャートJPの上位4名が揃って集められていた。妙な緊張感が漂うなか、ホークスが椅子の背に腕を投げ出しながら背中の剛翼をぱたぱたと揺らす。

「いやぁ……俺、今日の夜には福岡に戻らなきゃなんで。これ終わったら即、飛んで帰ります」

 軽い調子で言ったその一言にベストジーニストが何気なく首を傾げた。

「帰る前に彼女と最後に顔を合わせないのか?」

 その問いにホークスの表情がぴたりと止まった。さっきまでの軽さが一瞬にして消えわずかに目を逸らしながら、喉の奥で言葉を詰まらせる。

「……いや、まぁ……それが、ちょっと。」

 ミルコが、じろりと横目でホークスを見やり、口の端を、にやりと吊り上げる。

「おいおい、なんだよ。ケンカでもしたかぁ?」
「え、……あー、えっと……」

 ホークスは頭をかきながら珍しく声のトーンを落とした。

「……昨日、彼女が寝てるときに……ちょっと」
「ちょっとぉ?」
「俺が……手ぇ出しちゃって。それで、すっごい怒られまして……」
「はぁ?べつに、初夜じゃねーんだろ?じゃあ、相手だってそんな怒るほどのことでもねえだろ」
「…………中に、」
「あン? ナカぁ?」
「……出しちゃったんですよねぇ……ナカに。」

 会議室の空気が、一瞬にして重く沈む。エッジショットの視線が薄く細まり、ミルコが楽しげに鼻を鳴らし、そしてベストジーニストは咳払いで誤魔化した。

「……最低なヒーローだよ、君は」

 ベストジーニストの、静かな声が落ちる。その声音には責めるよりも、諦めに近い冷ややかさがにじんでいた。

「……っすよねぇ。俺も……そう思います……」

 ホークスは両手を広げて降参のポーズを取り、羽根までしゅんと、垂れさせてみせた。その情けない姿に、ミルコが腹を抱えて笑い声をあげる。

「ははっ!オメェ、寝込み襲う系ヒーローだったのか!なんだよ、イメージ台無しじゃねーか!」
「いや、ほんと悪かったと思ってますって……!でも、でもさぁ……」
「……あん? でも? なんだよ」
「寝顔、可愛すぎて……つい……あれは不可抗力ってやつで……」
「言い訳が余計に最低だな」

 エッジショットの冷ややかな声が突き刺さる。鋭い刃のような言葉にホークスは机に額をつけるようにして小さくなった。肩から羽根がだらりと垂れ、場の空気はすっかり重たくなっていった。


 *


 ——朝、目を覚ました瞬間、まず最初に感じたのは、下半身の違和感だった。鈍く重たい痛みが股関節にまとわりついていて寝返りを打つたびに小さな悲鳴が身体の奥から洩れる。
 何がどうなっているのか頭が回らずぼんやりと目を開ければ隣には心地よさそうに寝息を立てている男がうつ伏せで眠っていた。——ホークスである。上半身に何も身につけていない姿などもう見慣れたものだ。が、問題は、その下。なぜ全裸なのだろうか。ん……?あれ、よく見ればそんな自分自身も、全裸である。その疑問が胸を過った瞬間、脳裏に昨夜の断片が閃光のように差し込んだ。夢の中で彼に抱かれていたはずの光景。いやあれは、夢ではなかったのかもしれない。

「……」

 瞬時に、顔から血の気が引いていく。抱かれたことそのものに狼狽したわけではない。彼と体を重ねるのはこれが初めてでもない。けれど問題はそこに伴う記憶の空白だった。
 私は昨夜、同窓会の席で深酒をしていた。帰宅して、彼に甘え倒したあたりまでは確かに覚えている。けれどその先が、霧のなかのように、曖昧だった。待て待て待て。落ち着け。もしかして、
酔った勢いで、私の方から……? 

「…………」

 待って。本当に、待って。ありえない。女性としてなんたる失態。だらしなくて、惨めで、情けなさすぎる。しかも彼より年上の分際で。思考を振り払うように私は、そっとベッドを抜け出してバスルームへ向かった。脱衣所の鏡に映った裸の自分に、さらに衝撃を受ける。あえて人目につく首筋を避けたように、胸元から、へそのあたりにかけて、赤い痕が夜空に散った星のように、点在していたのだ。これはどう見ても……盛り上がりすぎた証、キスマークの嵐だ。ため息が止まらずそのままシャワーを浴びて熱を冷まそうとした。
 脱衣所から出ると、すでに彼がリビングの床に正座していた。そしていつの間に着替えたのか、ヒーロースーツの、上着だけを脱いだ姿になっている。バスローブを羽織った私と正座する男——いや、プロヒーロー。状況だけ見れば、何かしら良くない事後の絵面にしか見えない。

「……起きちゃった? ごめんね、おはよう」
「…………おはようございます」

 まるで蚊の鳴くような声だった。それは、耳を澄ませなければ聞き取れないほど小さく彼は頭を垂れたままでいた。私は何もなかったかのようにキッチンでコーヒーを淹れ始める。

「コーヒー、飲む?」
「…………いただきます」

 そうして出来上がったふたつマグカップをローテーブルに置き、私はソファに腰を下ろす。無音の空気が居心地悪く、ついテレビを点ければ今日の占いが流れていた。

『——そして、今日の最下位は、ごめんなさい。山羊座のあなた』

 ちょうど最下位の星座を発表しているところであった。その瞬間、下を向いていた彼が顔をあげテレビ画面を見つめ、まるで天から宣告を受けたかのように、重い重い溜め息を吐く。『山羊座のラッキーカラーは赤、ラッキーパーソンはスマートフォン』なんていうテレビの声を聞き流して、私は視線をそっと彼に落とす。

「……なんか、……大丈夫?」

 と、恐る恐る声をかけたそのときに見えた彼の顔に私はぎょっとした。目尻が赤く滲み、今にも泣き出しそうな表情をしていたからだ。

「え」

 思わず声が出た。が、次の瞬間——彼は正座のまま、ガバッとこちらに向きを変え、深々と床へ頭をこすりつけるように下げた。まるで江戸時代の武士が、切腹を申し出るかのごとく。

「ごめんなさいっっっっ!!!!!」

 その声量にマンションの壁が震えた気がした。慌てて身を引いた私と顔を上げた彼の目が合うと彼は、とんでもない言葉を吐き出した。

「中に出しました! 本当にごめんなさいっ!」

 あまりに突拍子もない告白に頭の中が真っ白になった。もう一度深く頭を下げた彼のその情けなさそうな背中を見つめながら私の胸の奥にはただただ、溜め息だけが溜まっていくのであった。


 *


「——して、どういう流れに? そのあとは」

 ベストジーニストが追い討ちをかけるかのようさらに痛いところをついてきた。沈黙が落ちる。会議室内の秒針の音だけが響くような重い空白ののち、ホークスは、小さな声で吐き出した。

「……アフターピル、用意します、って」

 その場の空気が一気に変わった。さっきまでの冷笑や呆れが今度は濁りのように広がっていく。重い沈黙が流れホークスはちらちらと三人の顔を伺い見る。ベストジーニストは長く深い溜め息を吐き、わずかに目を伏せてから言葉を落とした。

「……どうしたら、そんな考えに行き着くのだ」
「い、や——。そう……教わったんで」
「教わった……? いったい、誰に」
「……公安、に」

 その答えにホークス以外の全員がやや目を見開いた。ミルコは呆れたように肩をすくめて、吐き捨てるように言葉を洩らす。

「ほんっと、公安って組織は甲斐性がねえな」
「……」
「今後、ヒーロー育成における性教育は、普通の一般スクールで学ばせるべきだろ」

 重苦しい空気のなか、会議室の重い扉が、音を立てて開いた。全員の視線がそちらに向く。

「──揃っているな」

 エンデヴァーが入ってきた。彼の影が会議室の空気をさらに引き締めていく。一同が、反射的に背筋を伸ばす中ホークスだけがまだ微妙に俯いたまま、背中の羽根を、ぱたぱた揺らしていた。

「今年から年次パフォーマンスレビューを行う」

 突如としてエンデヴァーが仁王立ちのまま腕を胸の前で組んで、そう宣言した。今この場に集まっているのは2位のホークス、3位のベストジーニスト、4位のエッジショット、5位のミルコである。普段のチームアップ時の会議とは異なる、その雰囲気に、全員が顔を見合わせる。

「俺がトップとして、貴様らを評価する——だけではない。逆レビューもだ。お前たちからも俺の指揮を評価してもらう」

 その場にいた面々はまた顔を見合わせる。ホークスは羽根をぱたぱたさせジーニストは目を伏せエッジショットは気配を薄め、ミルコは、露骨に退屈そうに耳を揺らした。あのエンデヴァーが、自分をも評価対象に入れると?——と、硬直した沈黙の中、やはり最初に声を上げたのはホークスだった。

「へぇ〜、珍しいっすねぇ。エンデヴァーさんが俺らに点数つけてもらう、なんて」
「これはヒーロー公安委員会のポリシーではなく俺自身のポリシーだ」

 そう言いながらエンデヴァーは会議室の一番前に置かれた代表席へと、重々しく腰を下ろした。その動作ひとつで場の空気がさらに引き締まる。

「これはお前たちを建設的に批評できる場であり同時にお前たちも俺を批評できる場だ。遠慮などいらん。率直な意見を聞かせてほしい」

 低く響く声が会議室を満たし言葉が落ち着くと同時に、場の空気は一気にしんと静まり返った。

「……いやぁ〜、面白くなってきましたねっ」

 緊張をほぐすように口火を切ったのはホークスだった。相変わらずの軽口を叩きながら、椅子の背にもたれかかりだらしなく腰を預ける。けれど気の抜けた姿勢とは裏腹にその瞳は好奇心に鋭くきらりと光っていた。

「まずは……ホークス。お前からだ」
「——えっ、俺っすか!?」

 不満げに声を上げるホークスを残して、エンデヴァーは隙のない動作で、椅子から立ち上がる。

「──詳細は後ほど。……では、以上だ」

 そう言い置いて、エンデヴァーは会議室を出ていった。重い扉が閉まると同時に室内には奇妙な静けさが降りる。残された上位4名。互いに顔を見合わせ、わずかな間ののちにホークスが口角をにやりと持ち上げる。

「……さてと。ぐだぐだ会議の始まりっすかね」

 それを合図に一番最初に口を開いたのはエッジショットだった。

「困ったな。エンデヴァーに何を言えばいい」

 すかさずミルコが鼻で笑いながら口を挟む。

「エンデヴァー事務所はいつでもピカピカ、って私は言っとくぞ」
「あ! それ、俺がいつも言ってるやつっす」

 嬉しそうに目尻を下げるホークスに、ミルコは抑揚をつけて舌打ちを返す。

「誰か──エンデヴァーはいつも、身だしなみがきちんとしている、と言った者は?」
「あーあ、残念でしたー。それも俺が毎回エンデヴァーさんに会うたび言ってるんすよね〜」

 ベストジーニストの問いにまたもやホークスが胸を張って答える。沈黙が流れるなか、今度は、ホークス本人が得意げに言葉を継いだ。

「みなさん必死っすねぇー」
「君は……平気そうだな」

 ベストジーニストが腕を組んだままホークスに流し目を送る。ホークスはそれに肩をすくめた。

「結局、みんなが気にしてるのは自分への評価でしょ。俺はそんなの気にしませんよ?だって俺、エンデヴァーさんより、支持率高いし。みんなが上位から消えても、俺はしぶとく残りますから」

 どこか誇示するような口ぶりに、場が一瞬だけ固まる。だがそのときミルコが椅子の背に片肘をかけ白い耳をぴくりと揺らして皮肉げに笑った。

「──へえ。つまりゴキブリってわけだな!」

 一瞬の沈黙、そして爆笑。ジーニストは咳払いで誤魔化しながらも笑い声を漏らして目尻をひくつかせて、エッジショットは肩を震わせて笑みを噛み殺す。

「おい、だれかそこにある菓子取ってくれ。ホークスがそのうち、這い回るかもしれねぇからな」

 ミルコの追撃に、ホークスは絶句するもすぐに羽根をぱさりと広げて乗り返した。

「ゴキブリて……いやいやぁ、俺、もうちょっとスマートでしょ? せめてスズメとか!」
「あ? スズメだぁ?」
「ほら、かわいげあるじゃないっすかぁー」
「オメェほど可愛げのねえ鳥はいねーだろ」

 テーブル越しに向かい合う二人。ホークスは、わざとらしく両手を広げ余裕を演出してみせるがその羽根は落ち着きなくバサバサと揺れている。ミルコは片肘をついたまま口角を上げ、まるでホークスのそれのように、獲物を追い詰める目で彼を見ていた。

「あーあ、わかってない。言っときますけどぉ?俺は、あくまで事実を述べただけですからねっ」
「へー、あっそ」

 ミルコの吐き捨てるような声にホークスはむきになって椅子の背もたれから身を起こす。琥珀色の瞳に強がりとも冗談ともつかない光が宿る。

「俺はね、人間としてもヒーローとしても常に、完璧に自分らしく生きてますんでー」
「は〜ん、中出しヒーローがよく言うぜぇ」

 その一言に会議室の空気が一瞬止まる。ベストジーニストは眉間に皺を寄せ、エッジショットは肩を震わせて笑いをこらえた。ホークスは、椅子から跳ね上がりそうな勢いで叫んだ。

「ちょ——!それとこれとは、今は別でしょ!」

 ホークスの羽根をばさりと広げて抗弁する姿は必死なのに、どこか滑稽で会議室の緊張を奇妙に和らげている。軽口の応酬に、会議室はいつしか笑い混じりの空気に包まれていた。
 そのとき、ホークスのスマホが小さく震えた。未だ楽しげに羽根を揺らしながら何気なく画面を覗き込んだホークスは、次の瞬間、さっきまでの軽薄な笑みを凍りつかせる。


名前

ちょっと少しのあいだ
頭の中を整理がしたいから
当分、連絡を控えたい






 文章からも伝わる、温度のないメッセージ。胸を撃ち抜かれるような文面だった。

「ははっ、さっすが……山羊座、最下位……。」

 ひとりごちた声がその場に虚しく落とされる。笑い声の渦のなかで、ひとりだけ時間が止まったようにホークスは、動けないでいた。さっきまで冗談半分に俺は残るなどと豪語していた自分が、いかに空っぽなのかを、思い知らされる。
 肩を落としたホークスの羽根が力なく垂れた。彼だけの空気が会議室の中で、一気に冷え込んでいくのであった。


 *


 ——数時間前。

 彼は、淡々と事の経緯を説明していった。私が帰宅してベッドに入るまでの流れから初恋の人に会って落ち込んでいたこと。了承を得て、一緒にベッドに入ったこと。そのひとつひとつを裁判の証言のように重ねていく。淡々としているのは、私も断片的には記憶があるはずだ、という、彼の思い込みがあるからだろう。けれど私は口を挟めなかった。挟めるはずがなかった。なぜならそもそも、寝室に来た記憶すらないのだから。
 記憶にない——、などという馬鹿げたことを、いまさら言えるわけがない。

「名前さんが寝落ちしたあと、俺のがどうしても元気いっぱいだったんで……」
「……」
「これは処理しとかないとなって……で、自分でどうにかしようと」
「……、」
「でも、名前さんが起きて……キスしてきて」
「……っ、」
「そのまま俺のを掴んで……中に、入れちゃったんで、それで……」

 大事件である。本当に、まったく記憶がない。自分の性欲の強さに呆れるまである。いやそれは相手が彼だからだ。過去にもそんなことは一度もなかった……はず。いや、絶対にない。そんなものあってたまるか!
 そしてもうひとつ、タイミングを完全に失ったまま口にできなかったこと。それは、私はすでに何年もピルを服用しているということだ。避妊のためではなく過去に婦人科系の検査で軽く異常を指摘され、そのときから体調が安定するから飲み続けているだけなのだが。どうしよう……今さら言えない。よし、今はひとまず、彼の流れに任せよう。

「あ、あの……。えっと、その……」
「……はい」
「出、そう……に、なって、どうしてその、抜かなかった……の?」

 私のストレートすぎるその問いに彼は顔をやや赤くして、きゅっと唇を噛んだ。

「——ほんとは」
「……う、うん」
「シュッと抜いてバーン!の予定だったんです」
「……は?」
「でも、その……ビュッ!といって、バーン!になっちゃって」
「……」
「ウィングヒーローホークス版の、プロミネンスバーンが、炸裂しちゃったわけです、はい……」

 当たり前に訪れる沈黙。次の瞬間、今度は私が顔を一気に赤面させ、頭から炎が噴き上がった。

「ちょっと待って!なんだその擬音祭りはっ!」
「い、いや、説明しようとしただけでっ!」
「ビュッといってバーンってなに!?ふざけてるの!? 私は笑い事じゃないんだけどっ!」
「ふざけてないですって! むしろ必死なんですって!!」
「必死でビュッといってバーンはないでしょ!?ホークス版のプロミネンスバーンって何!?もう最低っ!!」

 私はクッションを掴んで彼に投げつけた。ホークスは正座のまま慌てて避けるが、背中の羽根がバサバサと揺れて余計に滑稽だ。

「ご、ごめんなさいってばぁ!本当に!俺だって、こんなかたち、望んでなくて……!」
「望んでない!?」
「い、いやいやいや!言い方間違えた。あなたの中には、いつでも入りたくって!」
「はぁ!?」
「あーっ!もう!ばりきもちーんですよっ!名前さんのナカっ!だから、つい……!」
「つい、じゃない!ついで済ませられるわけないでしょ!」

 リビングに、二人の声が響き渡る。泣きそうな彼と、怒りで頬を紅潮させた私。はあ、はあ、と息が上がるなか、頭の中で言葉を整理する。彼はまだ若い。大切な恋人であることに間違いはないけれど身体も心も、まだまだ余裕のない年頃なのだろうということは容易に想像はできる。ただ、若さだけで片付けられないことも世の中にはたくさんあって……などと考えあぐねている私を意に介さず彼が、仁王立ちしている私の足に、すがるように腕を回して子どものような上目遣いでまとわりついてきた。

「……!? ちょ、離してっ……!」

 思わず勢いよく払いのけると、やや大袈裟に、ゴロリと後ろへ転がった彼は、まるで、とんでもない奥の手を出すかのように信じられない言葉を真顔で言い放った。

「……アフターピル、責任もって用意するんで」
「は……はぁ?」
「え、だって必要ですよね?」
「……」
「なんかその感じじゃ、俺ともし子供ができたとしても、迷惑だって感じですし」
「……ちょ、ちょっと待って、本気でそんなこと言ってる?」
「ん? ええ。そう教わったんで」
「教わった、って?……だ、だれに」
「公安です。性教育とかみっちりだったんです」

 言葉を失うとはまさにこのこと。公安仕込みの性教育って、どういうカリキュラムなんだろう。ヒーローという職業は、そういうところまで管理されるものなのだろうか……わからない。理解がまったく追いつかない。

「ごめん。公安のことはよくわからないけど……一般的には、そういう台詞は言うべきじゃない、かと……」
「えっ、そうなんですか?……うーん、そっか。なんか、すみません」
「……」

 会話がぷつりと途切れた。何を言い返せばいいのかまったく頭が働かない。とりあえずアフターピルは必要ないとでも言うべきなのか。それとも常識を叩き込むべきなのか……。いや、そもそも自分の感覚が、絶対に正しいとも言い切れない。個性と同様に世の中、十人十色なのだから。

「あの、さ……。わ——」

 とりあえず言葉を挟もうとしたその瞬間——。バサッ!と、大きな音がして、彼の剛翼が一気に開き座ったままでいた彼をすっぽりと覆い隠してしまった。まるで、真っ赤な羽根のかまくらだ。初めて見る光景に、私は軽くパニックを起こす。

「え、あ……の、ホー、クス……?」

 私がそっと声をかけると中からぐぐもった声が返ってきた。

「…………聞きたくないですぅ」
「へっ?」
「今、『別れる』って言おうとしましたよね!」
「え」
「聞き入れられませんっ!それだけは、ぜったい嫌ですっ!」

 困った……言おうとしたのは「あのさ、私」という言葉だったのに。しかしよく見ると彼を覆った剛翼が、ぴくぴくと小さく動いている。ずっと見ているとなんだかハートマークに見えてきた。思いがけず笑いが込み上げてくる。大きくて真っ赤なハートが、宙に浮かんでいるように見えて、これはもうなにかの悪い冗談のようでもあった。

「あ、ちがうよ? ちょっと、出てきて……?」

 宥めるように問いかけると、羽根の隙間から、ちらっと琥珀色の瞳が覗いた。やばい……すごく警戒している目だ。

「違うくて、さっきはね? あのさ、わ——」

 言い直そうとした矢先、また、バサッ!と音を立てて翼が閉じ、再び彼を覆い隠す。ここで私が、「ピルを服用している」と言えば簡単に片がつくのだろう。そして「私も酔っ払って、煽っただろうし、おあいこだね」と笑って済ませればそれで終わり。——でも、なぜだろう。言えば、負けた気がしてしまう。勝ち負けの話ではないのに彼と対等でありたい気持ちが私を妙に意固地にさせていた。
 それと、あまりにも自然に『アフターピル』という単語を出されたことが、胸の奥に、妙な傷を残していたのだ。まるで彼女としてではなく処理の対象として見られてしまったかのようで。
 説教じみた事は言いたくない。彼のプライドを傷つけるのも気が引ける。けれど胸の奥の焦燥は冷静な判断とは対照に、もう抑えきれなかった。

「やっぱ、若いよね……」
「…………はい?」
「浅はかっていうか。ほんと……やりたい盛りの中高生でもあるまいし」

 そのとき不意に翼がふるりと震え赤いかまくらの形をほどいていった。剛翼が左右にゆっくりと開かれる。まるで最後の砦を解くように彼は隠れていた顔を露わにした。琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを射抜く。怒りとも、哀しみともつかない光を帯びた視線に、息が詰まった。——まずい。言った瞬間に悟った。これ以上は絶対に言ってはいけないと。けれど歯止めが効かなくなった心は溢れ出した言葉を止めてはくれない。

「その年齢だし……勢いで中出しならまだ理解もできるよ。いや……したくないけど理解なんて」
「……」
「でも、それよりも相手が意識朦朧としてる中で欲に負けて中出しなんて、ありえないでしょ」
「……」
「今までの女性はそれで喜んでくれたのかもしれないけど……ほんと、ありえない」

 部屋の空気が一瞬で凍りつく。時計の針のカチカチという音だけが、やけに大きく響き、テレビからは場違いに軽いトレンド特集が流れていた。すると彼の低い声が、その雑音を押し潰すように落ちてきた。

「……中出しなんて、したことなか」

 心臓が跳ねた。——初めて。彼の初めてが、私だった。困惑と動揺が、胸を覆い尽くす。これは、本当にまずい。この先は今までの喧嘩どころでは済まないだろうという気配が、濃厚に漂う。私は慌てて収めようとした。

「……勉強に、なったでしょ」
「…………は?」

 その一言で完全に水に油を注いでしまったのが瞬時に分かった。失敗した。言葉の選択肢を私が誤った。彼の声が低く沈み怒りに傾いていくのを目を合わせなくても音だけで察する事ができた。焦りからなのか、それでも私の口はもう止まらなかった。

「次に女の子とするときは欲に負けないで相手を大切にすることだね」
「……」
「気持ちいいと好きを一緒にしないこと。若さで乗り切れるのも、今だけ。ヒーローがそんなことしたら格好つかないでしょ」
「……」
「気持ちよさなんて一瞬。朝には消えて顔を洗って歯を磨いて、仕事に向かう。そうやって日々を生きるの」
「……」
「いつも損をするのは女性側。それをしっかり、肝に銘じておいた方がいい」

 沈黙が落ちる。重く、底知れない沈黙だった。私は悟った。こういう勘だけは昔からよく当たる方だ。——だめだ。終わった、って。もう本当に終わったのだと。そして、その予感が正しかったことを告げるように彼の低い声が室内に響いた。

「……そんなこと思いながら、俺と、付き合ってたんすね」
「え……」
「自分は踏み台やと。俺がこれから先、出会うであろう誰かのただの繋ぎの一人に過ぎないって」
「……」
「次に女の子とするときってそれ何すか。そんなこと考えながら、俺に抱かれとったと?」

 彼はよく私のことを「頑固」だと言う。けれど今は私よりも彼のほうがずっと、頑なに見えた。怒りに背を押されて心の奥の痛みまでむき出しにしている。

「ずっと一緒だよとか、離れないでねとか……。そう言われて、俺がどんだけ舞い上がってたか」
「……」
「俺ばっか、なんかいつも馬鹿みたいっすよね」
「……」
「弄んでたってことでしょ。手のひらで、うまく転がして、こんなにハマらせて最後には、捨てるつもりやった」
「……ちが……、」
「笑えない。最低なのは、どっちなんです?」

 刺すような彼の言葉に、私は息を呑んだ。抗いたいのに声が出ない。けれどその沈黙こそが彼をさらに追い詰めていく。

「どげなつもりで、福岡に転属願いなんて出したとね?」
「そ……それは、」
「なんも考えんで、気まぐれで動いたっちゃろ?俺が本気で信じとったことまで、軽く扱っとーんやろ?」
「……違う、そんなつもりじゃ……!」
「んじゃあ、どげなつもりやったんか言ってくださいよ」
「わっ……わたし、は……」

 声が震えた。何を言えば彼に伝わるのか、自分でも分からない。ただ、言葉を選ぶより先に涙が視界をじわりと滲ませていった。こんな場面で、涙を武器にするのか……なんて私は愚かな生き物なのだろう。でも——

「……そもそもっ!本気で好きな相手にアフターピル進んで渡す人なんて、聞いたことないっ!」
「だからっ、それのどこがどうダメなんです!?俺にはわからんって!」
「私はあなたが、本気で好きだから!だからっ」
「本気で好いとったらそげん言い方せんやろ!」

 互いに声を荒げて、もうどちらが悪いのかすら分からなかった。ただ、胸の奥の痛みだけがぶつかり合い部屋の空気を鋭く張り詰めさせていく。

「若い……そうですよ、ええ、若いですよ俺は」
「……」
「あなただってそんな綺麗ですからね。賢いし、俺なんかと別れたって、すぐに次の男ができるでしょう」
「……」
「何人もと恋愛してきたあなたには、分からんでしょうね。初恋に足を取られてどうしようもなく不器用で惨めな男の気持ちなんて」
「……」
「ホークスだ、ホークスだって、持てはやされるたび、反吐が出た」
「……」
「雑誌のインタビューに、商品の宣伝。ホークスモデルのあれやこれや……そんなもん、世に放つために俺は、ヒーローやってるわけじゃない」

 吐き出す声が震えながらも揺るぎなく耳に突き刺さった。

「俺はただ、正しくありたかった。悪い奴をやっつけて、人を救うヒーローでありたかった」
「……」
「でもスーツを脱いだときだけは……俺はあなただけの——鷹見啓悟でありたかったんです」

 言葉の最後はかすれて押し殺すような低い声になった。私は息を呑んだ。胸の奥が痛んで、もうどうにかなりそうだった。

「……啓悟、くん」

 その名前を呼ぶだけで精一杯だった。声が震えすぎて、それ以上の言葉が出てこない。彼の拳が膝の上で震えているのが見えた。その震えは怒りなのか、悔しさなのか、あるいは、どうしようもない弱さの表れなのか。
 長い沈黙の中で、彼がかすかに笑った。けれどそれは、笑みとは言えなかった。痛みを覆い隠すために顔を歪めただけの脆く危ういものだった。

「俺が……求めすぎたんですかね。全部、間違うとったんですかね」
「……」
「もう、やめたい。こんなふうに、いつも心臓が潰れて、えぐられるくらい苦しくなるなら……」
「……」
「恋愛なんて、二度と……しとうなか」

 朝の光は、容赦なく部屋を射して、その白さが傷口に塩をすり込むように、私たちを照らした。窓の外では鳥が鳴いている。今日という始まりを告げるその明るさが、かえって残酷だった。

「あなたとこうしてすれ違うたびに思うんです。
任務中は動じないって、絆されたりはせんって」
「……」
「でも……あなたは違うんですもんね。俺のことなんて微塵も考えずに、淡々と、一日を過ごしていける」
「……」
「好きだよ、会いたいよって口にして心の中では自分はただの通過点に過ぎないと割り切ってる」

 彼の言葉のひとつひとつが胸に杭のように打ち込まれる。返したいのに声が出ない。否定したいのに、何をどう言えばいいのか分からなかった。

「すごいっすねー、ほんと。今度、その切り替え術、教えてもらっても?」

 皮肉な、問いかけだった。声は静かだが、その静けさこそが怒りよりも怖かった。彼の瞳は潤みながらも真っ直ぐにこちらを見据えて、逃げ場を与えなかった。
 私は唇を噛みしめることしかできなくて、喉の奥では声が震え、何も言えないまま沈黙を重ねてしまう。自分の息遣いさえ彼をさらに追い詰める音に聞こえてしまった。崩れ落ちていく。二人の関係が、軋む音を立てながら。

 彼がおもむろに立ち上がる。無造作にソファの背に掛けていた、ヒーロースーツのジャケットを羽織り、テーブルの上に置いてあったゴーグルと耳当てをつける。その一連の仕草で一気に彼は、鷹見啓悟からヒーロー・ホークスへと、変貌していった。私はその動作をまるで第三者の立ち位置で眺めていた。もう、手を伸ばすことすらできなかった。彼が無言のまま、私の横を通り過ぎる。その瞬間、ふと鼻をかすめた彼の香りに胸の奥がぎゅっと痛んだ。

「——任務、行ってきます」

 背を向けたまま小さく告げる声。振り返ることなく彼は玄関を出ていった。閉まったドアの音がすべてを断ち切るようにして静寂の中へと落ちていったのだった。





愛の残響、怒りの残響



(どうしていつも私たちは——)

(こげんふうにすれ違うてしまうんやろ……)


※image song『 つよがり/JUJU 』


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