会議後の個別面談。机を挟んで座っているはずなのにホークスの視線は窓の外を漂う雲ばかりを追っていた。返事だけは器用に返しているものの心ここにあらずなのは、あきらかだった。エンデヴァーはそんな彼の様子を一瞥してから、手元の書類に目を落とし、淡々と口を開いた。

「その手元の書類にお前の評価が記されている」

 ホークスは、一瞬だけハッとしたように瞬きをして、慌てて手元の書類へ視線を落とす。

「——優れている、優れている……って。えっ、��優れている�≠セらけで評価は全部、優秀ばっかじゃないすかぁ」
「……」
「どの項目もずば抜けすぎてて……逆に、単調に思えるくらいなんですが?」
「大体はな」

 そのぶっきらぼうな返答にホークスは納得したんだかしていないんだか、微妙な笑みを浮かべ、また、窓の外へと視線を戻した。白い雲が流れていくのを見つめながら、小さく吐息を洩らす。その仕草にエンデヴァーは太い腕を組み、沈黙した。静寂の中、圧のある視線だけが、じりじりと突き刺さる。

「……ホークス」

 名を呼ぶ声に、ホークスは気まずそうにそっと振り向く。

「……はい?」
「心ここにあらずで、何を守れる」

 短く、重たい言葉。ホークスは返事に詰まり、唇を結んだまま黙り込む。エンデヴァーは机越しに、じっと彼を見据え、低く続けた。

「貴様が私生活で誰を思慕しようと干渉はせん。だが、私情に溺れ、判断を誤ることは許されん」
「……」
「任務に支障を及ぼす私情は、すべて甘えに他ならん」
「……」
「ヒーローとは如何なる時も、規律を崩さず、立ち続けることで存在意義を示すものだ」

 遠巻きに、しかし重い言葉が落とされた。冷たくも揺るがぬその声音にホークスは、視線を伏せる。胸の奥に突き刺さったのは叱責というよりも彼の不器用な諭しだった。ホークスは小さく瞬きをしてやっと視線を持ち上げる。ホークスの胸に痛いほど突き刺さったのは叱責ではなく「すべて見透かされている」という事実だった。

「……分かってます」

 それでも声は、弱々しかった。重苦しい面談の空気のなか、ふと我慢できなくなったようにホークスが口を開いた。

「……あのさ、エンデヴァーさん。恋愛ってどうしたら上手くいくんすかね」

 わざと軽い調子を装ったつもりだったが、声は思った以上に、かすれていた。自分でも取り繕いきれていないのが分かる。机越しに座るエンデヴァーは、腕を組んだまましばし無言だった。熱を帯びた視線だけがじっとホークスの事を射抜く。そして手元の書類に視線を戻したエンデヴァーのその眼差しは、相変わらず冷ややかだった。

「……俺に聞くことか」
「いやぁ、俺だってわかってますよ?相談相手、間違えてるって」

 ホークスは苦笑しながら椅子に背を預け軽口で誤魔化すように肩を竦める。

「でも……好きな人のこと考えすぎて、任務中も頭が重くなる。大事にしたいのに、言葉ひとつで全部台無しにしてしまう」
「……」
「俺ずっと、自分は��スパダリ�≠セと思ってたんすよ。でも、もしかしたら��ノンデリ�≠ネのかもしれない」
「……」

 むむっと眉をしかめるエンデヴァー。その反応にホークスは小さく鼻で笑い、淡々と説明をはじめた。

「あ、すんません。えっとスパダリっていうのはスーパーダーリンの略で容姿・収入・家事能力、全部そろった理想の男性を指す言葉です」
「ふむ……」
「で、ノンデリはノンデリカシーの略。気遣いや配慮がなくて相手を傷つける言動、そういう人や行動を指す、まあ、ネットスラングですねー」

 エンデヴァーは腕を組んだまま、ふむ、と低く相槌を打つ。ホークスはちらっとその顔を伺い、ニヤリとほくそ笑む。

「エンデヴァーさんは、どっちなんです?」
「は?」
「スパダリ? それとも、まさかのノンデリ?」
「……」

 訝しげに顔を歪めるエンデヴァー。ホークスは「ははっ」と笑い声をあげて、背もたれに身体を預け直した。

「すんません、冗談です。まあ、気にせんで」
「……後者の方、だろうと思う」

 ややあった沈黙を破ったその言葉に一瞬、ホークスの目が見開かれる。しかしすぐに、ニカっと笑い「じゃあ、ノンデリ仲間っすね」と、軽口で返した。エンデヴァーはわずかに目元を緩めて、ふっと笑みを滲ませる。その一瞬の緩和を破ったのは、ホークスから出た次の言葉だった。

「……アフターピル、用意しますねって言ったんですよ」
「……」
「ジーニストさんたち、ドン引きしてました」
「……だろうな」
「えっ?」

 ホークスが顔を上げる。エンデヴァーは視線を外さず、低く言った。

「どういう関係であれ女性には軽々しく言うべき言葉ではないだろう」
「え。やっぱ、そ、そうなんすか……?」
「過去に、冬美へ携行を指示した際、強い拒絶の意を示され、珍しく声を荒らげられた」
「え、携行って……アフターピル、の?」
「……ああ。」
「ははっ、へえ……冬美さんにねえ。えっ、冬美さん、なんて言ってたんです?」
「……『お父さん、そんなこと常日頃から女性に言っているわけではないでしょう?』——と。」

 ホークスはぽかんと固まった。そして、ふっと笑みをこぼしたあとやがて唇を噛み声を落とす。

「あ、あの……俺、公安で、色んな育成プロジェクト受けてきた中で、昔……言われたんです」
「……」
「任務においてもその他全て女性とそういう(・・・・)事になったら、迷わず渡せって。アフターピル」
「……そう、いう……?」
「俺みたいに公安所属のヒーローがそういうことしちゃったときは、当該事案は速やかに抹消し、痕跡を一切残さぬこと」
「……」
「記録および、追跡の端緒を与えるな——って」

 エンデヴァーは黙り込んだ。拳を組む音だけが静かな部屋に響いた。聞くべきか否か一瞬迷った末、低く問いを投げる。

「……お前、もしや配偶者の選定までも、公安の裁量で定められているのか」
「……ええ。ですね」
「ならば、今の相手は——」
「言ってない。上にはバレんように、うまいことやってるつもりです」
「……」
「恋愛禁止とかってわけでもないですけど、もし耳に入ってたとしても、遊んでるうちの一人だと思われるよう仕向けてます」

 乾いた笑みを浮かべるホークス。その声には、どこか、諦めがにじんでいた。

「俺の人生なんて、そんなもんです。だから、子供なんて考えたこともないし、想像もできない」
「……」
「ただ、彼女に『俺との子供ができても迷惑そうだし』って言った時のあの顔が忘れられなくて」
「……」
「あ、俺。なんか間違ったこと言ったかもって」

 静寂が流れる。エンデヴァーは深く息を吐き、低く告げる。

「ホークス……お前、アフターピルというものがどういうものか、正しく理解しているのか」
「え? あー……緊急避妊薬っすよね?」
「……そうだ。避妊に失敗した場合に妊娠を防ぐ薬だ。健康上の危険性は少ないとはいえ吐き気や頭痛、一時的な不正出血など副作用はあり得る」
「……」
「それを意図的に意中の相手へ用いるよう促した
……そう解されても仕方あるまい」
「……、」
「……結果として、お前は意中の相手に不必要な負担を強いたということだ」
「え」

 ホークスは硬直する。エンデヴァーは、視線を外し、長い沈黙のあと、不器用に吐き出した。

「……すまない。やはり俺は得意分野ではない」
「あ、性教育っすか?」
「違う! その……異性間の、私的交渉に関する話だ」

 静かな言葉だった。冷たいようでいて芯の強さが滲んでいた。ホークスは苦笑しながら「ああ、恋バナ?」と流したが、心の奥では自分の甘さを鋭く正された気がして、ふと天井を仰いだ。

「……俺、向いてないんすかねぇ」

 エンデヴァーはしばし無言だった。その顔には同情も慰めもなく、ただ、揺るぎない影が落ちている。

「——それは、ヒーローの話か?それとも……」
「んー! どっちも、っすね」
「……向いているかどうかなど、考えるな」
「え?」
「守りたいなら、立ち続けろ。それだけだ」

 声は冷たい。けれどその冷たさの奥には揺らがない強さが確かに滲んでいた。ホークスは思わず息を呑み胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じた。

「いずれにせよ、ヒーローは私情的な親密関係を理由に、職務の安定を損なってはならん」
「……ですよねぇ」
「その自覚を、肝に銘じておけ」

 ホークスは苦笑いを浮かべて、椅子にだらりと身を預けた。わかっている。そんなことは、百も承知だ。だが、どうしても割り切れない。

「けど……もしその人のことで心臓が潰れそうになっちゃったら、どうすりゃいいんすか」
「……」
「エンデヴァーさんにもあるでしょ? ほらぁ、ショートくんの事になったら理性失ったりとか」

 言葉が口をついて出た瞬間胸がひやりとする。自分でも驚くほど声が弱く頼りなかった。エンデヴァーは静かに目を細め、冷えきった声音で吐き出した。

「潰れそうで済んでるうちは、まだ立てる」

 それだけだった。慰めも助言もない。ただ短く突き放すような言葉。けれどその奥に、ひと筋の揺るがぬ、強さがあった。ホークスは、しばらく俯いたまま心の奥にずしんと響くその言葉を噛みしめていた。やがてホークスは顔を上げて、空気を変えるように明るげな声を出した。

「——それじゃ、今度は俺がエンデヴァーさんを評価する番っすねー」

 わざと軽口めかしながらわざとらしく胸に手を当て、芝居じみた仕草を繕う。そのまま、椅子の背にもたれエンデヴァーを下から見上げるようにして続けた。

「エンデヴァーさんは、ず〜っと、俺の手本です。あなたは灯台のように、この混沌としたヒーロー社会を導いて——」
「相変わらず、せっかちな男だな」
「へっ?」
「貴様の評価はまだ終わっていない」

 エンデヴァーの低い声が重なる。ホークスは、言葉を切り、目を瞬かせた。

「ひとつ、見落としているぞ」
「え?」
「よく見ろ。一点だけ��優れている�≠ェ、付いていない。どれだ」

 促されて、ホークスは慌てて書類をめくり直す。視線が行き当たった瞬間ホークスは顔を顰めた。

「——リーダー、シップ……?」

 ホークスが放った言葉の通り、その項目だけが��標準−(マイナス)�≠ニ記されていた。

「え……いやいやいや。あの昇進しようだなんて思ってないっすよ?ご覧の通り、野心はゼロ」
「……」
「だからこそ俺は、あなたを、尊敬してるんです。お手本としてる」

 必死に誤魔化そうとするホークスの声が室内に虚しく響き渡る。だがエンデヴァーは、微動だにせず、ただ一言だけ告げた。

「ホークス——アカデミーに行ってこい」
「……はい? えっ、いま、なんて……」

 次の瞬間、机の上に差し出されたのは幹部候補を対象とした、アカデミー研修の推薦書だった。書き込まれたサインは間違いなくエンデヴァーの筆跡。ホークスは動揺を隠せずにそれを受け取りざっと目を走らせた。

「ちょ、信じられん!俺を今更アカデミーに蹴り落とすんですかぁ!?」
「……」
「あれは新米のプロヒーローたちが基礎知識からリーダーシップまで、みっちり叩き込まれる新人育成研修でしょ……! 俺、何年トップヒーローやってると思ってんですっ!?」
「……」
「あー、なるほど。ヒーロービルボードチャート発表のあの場で俺があなたをちょっと煽ったことまぁ〜だ、根に持ってるんすね?」
「……」
「俺を、トップ5から追い出すつもりでっ!」

 半ば椅子から跳ね上がるように声を張る。だがエンデヴァーの答えは淡々としていた。

「そんなつもりはない。追い出しもしていない」
「……」
「だが、お前は、ぬるま湯に浸かりすぎている。己の立場に甘んじて個性だけで飛び続けている」

 エンデヴァーが、組んだ腕を解き、真っ直ぐに言葉を落とす。

「多少蹴られるのも悪くない。己を研ぎ澄ませてこい」

 ホークスはその言葉のあと、眉を寄せて口先を尖らせる。

「……ノンデリ仲間だと思って、信じてたのに」

 呟きは拗ねた調子だったが、瞳の奥には抗えぬ重圧を受け止める覚悟の色が滲んでいた。

「ホークス。返事は」

 低く重い声が会議室に沈んだあと、長い沈黙が続いた。ホークスは声を出せぬまま手元の書類を目の前の机に置き諦めたように深く息を吐いた。

「……了解です、ナンバーワン。」

 それだけを残して面談は終わり、ホークスは、部屋を後にした。廊下を歩きながらもホークスの耳の奥では、エンデヴァーから言われた言葉が、何度も何度も反響する。


 ——潰れそうで済んでるうちは、まだ立てる。


 突き放されたようでいて、確かに芯のあるその一言が胸の奥にずしりと残っていた。肩を竦めてごまかしてきた自分。笑いで包んで、逃げてきた自分。けれど彼女にだけは、もう逃げずに、向き合わなければならない。そう、誓ったのだから。

「……会って、話そう」

 誰に言うでもなく、呟きがこぼれた。気づけば個性の赤い翼は自然に福岡ではなく彼女の元へと向かっていた。
 彼女が勤めるセンターの前。仕事を終えて出てくる気配を探りながらホークスは街灯の下に立ち尽くしていた。風に揺れる羽音を抑えるように、個性である翼をたたみポケットに手を突っ込む。緊張と期待で胸の鼓動がやけに早い。やがて自動ドアが開いて彼女が姿を現した。蛍光灯の明かりに照らされて仕事帰りの疲れを隠しきれない横顔が浮かび上がる。ホークスは息を呑み思わず一歩踏み出した。が、足が止まる。ただ名前を呼べばいいのに喉の奥で声が引っかかって出てこない。

 胸の奥で反芻されるのは、数時間前の、エンデヴァーから突きつけられた言葉と、自分が抱える後悔の数々だった。握った拳に、力が入る。今度こそ、逃げない。そう自分に言い聞かせながらも彼女の背に声をかけるまでの一瞬が永遠のように長く感じられた。


 *


 自動ドアが、背後で閉まる音がした。ようやく今日一日の仕事が終わったという安堵と、全身にのしかかる疲労感を抱えながら、私は夜風に肩をすくめた。街路樹の葉がさらりと揺れて、涼しい風が頬を撫でる。と——そのとき。

「……お疲れさまです」

 聞き慣れた低い声が、闇に溶け込むようにして響いた。足が止まる。心臓が、ひゅっと掴まれるように跳ねた。振り向かなくても分かる。あの声は、彼だ。ほんの数秒前まで、頭の片隅で「もし待っていてくれたら」と、淡い期待を抱いていた自分を思い知らされる。ゆっくりと振り返ると、街灯の下に彼が立っていた。彼の個性である赤い剛翼の翼はたたまれ、いつもの、軽やかな笑みもない。ただ真っ直ぐにこちらを見つめていてその視線に射抜かれる。

「えっ……どうして」

 思わず声が漏れた。彼は一歩だけ私に近づき、わずかに息を整えるように言った。

「当分——連絡控えたいってメッセージもらってたのに、すみません」
「……」
「でも、話したいんです。ちゃんと。」

 その声音は軽口の影もない真剣さに満ちていた。私は立ち尽くし夜の街のざわめきの中で彼の瞳を見返す。逃げられない——いや、逃げるべきではない。胸の奥にそう確信が芽生えた。彼の言葉が夜気に溶けて消えていく。
 胸の奥で何かがじわりと疼いた。迷いながらも私は足を動かした。アスファルトの上でコツリと小さな音を立てて一歩だけ彼との距離を縮める。そのわずかな歩幅でさえ、心臓は大きく打ち鳴らされる。触れたわけでもないのに彼の体温がほんの少し近くなったように感じられて、息が詰まりそうだった。

「……分かった。話そう。」

 そう口にした自分の声が震えているのを私自身がいちばんよく分かっていた。彼の瞳が、ふっと緩む。その表情に安堵の色が差すのを見て、胸の奥の強張りが、少しだけ和らいでいった。彼は、ほっと息を吐いたように微笑み片手を差し出してきた。差し伸べられたその手にまだ触れることはできなかったけれど、私たちは自然と並んで歩き出していた。夜風が二人の間をすり抜けていく。近づいたはずなのにまだ遠い。けれどその一歩が確かに始まりになるような気がしていた。
 センター前の明かりが背後に遠ざかっていく。夜風に街路樹がざわめき、すれ違う人々のざわつきも次第に減っていく。足音だけがアスファルトに重なり互いの沈黙を埋めていた。やがて街灯がぽつりぽつりと灯る並木道に入ったところで彼が足を止める。

「……ここなら、人も少ない」

 そう言って示されたベンチに私もゆっくり腰を下ろした。冷たい金属の感触が、背中に伝わる。隣に座った彼はしばし口を開かず夜空を見上げていた。肩と肩の間に、ひんやりとした夜の空気が漂っている。けれど彼がいることでその冷たさはどこか和らぎ、心地よい静けさに変わっていた。

「すみません……待ち伏せみたいなことして」

 彼の声が夜の闇に落ちた。私は息を吸い込んでから彼の横顔を見つめ返した。ここで逃げるわけにはいかない。言葉にするのが怖いこともある。けれど、彼と向き合うためならば——。
 彼は俯き、両手を膝に重ねて、しばらく黙っていた。夜風が彼の髪を揺らし、街灯の光が、その横顔を淡く照らしている。やがて、低く絞り出すような声が落ちた。

「……俺、ずっと笑ってればいいって思ってました。飄々として軽口叩いて、そうすればあなたも笑うだろうって」

 胸の奥がちくりと痛む。私は、ただ黙って耳を傾ける。

「でも……それだけじゃ守れない。昨日も今日も何度も思いました。俺は、あなたを大事にしたいって。それなのに言葉ひとつで壊しそうになる」

 彼は視線を落とし、拳をぎゅっと握りしめた。赤い羽根がかすかに震え、夜の静けさの中で彼の息づかいだけが、やけに大きく響いた。

「俺は……どうしたらいいんでしょうねぇ。好きすぎて、空回りして……結局、あなたを困らせてばかりで」

 その声音は弱く、けれど、確かな決意を孕んでいた。彼がふざけることなく自分の弱さを見せるのは珍しい。私は唇を噛み胸の奥で答えを探していた。しばらく沈黙が降りていた。彼の声が夜に吸い込まれたまま、私の胸の中で何度も反響している。迷いも不安も、すべてが込み上げて言葉を奪っていったけれど、それでも私は、ゆっくりと口を開いた。

「……困らせてばかりなんかじゃ、ないよ」

 自分でも驚くほど静かな声だった。彼がはっとこちらを見て、揺れる瞳が私の表情を探す。

「確かに、戸惑うこともあるし……喧嘩もする。でもね、あなたが本気で向き合ってくれてるってこと、ちゃんと伝わってるから」

 夜風が頬を撫で、心臓の鼓動が痛いほど響く。私は視線を伏せながら続けた。

「……私も、大事にしたいの。だから、こうしていま、座ってる」

 隣で彼の肩がわずかに揺れた。言葉にならない安堵が伝わってくる。街灯の下、互いの影が少し重なった。それはまだ不器用で頼りないけれど、確かに寄り添い始めた二人のかたちだった。彼はわずかに俯いたまま、拳をほどいて膝の上に広げた。声は震えていないのに、どこか自分を責める色が滲んでいた。

「……今朝も、そうでした。あなたを傷つけた」
「……」
「冗談みたいなノリで済ませようとして、余計に最低なことを口にした」

 私の胸に、ひやりとした感覚が走る。彼がこれから言おうとしていることの先を、もう想像してしまったからだ。

「……アフターピル用意する、だなんて。俺……本気でそう、言っちゃったんです」

 静かな夜の空気にその言葉が落ちた。彼は歯を食いしばり、さらに拳を固めていた。

「今日まで叩き込まれてきた……事案を速やかに無効化し、痕跡を残すな、って」
「……」
「ずっとそれを正しいと思い込んでた。だから、あんな言葉が出た」

 顔を上げた彼の瞳は、夜気を映してどこか痛々しく光っていた。

「でも、違うんですよね。あれは、相手を大事にする言葉じゃない。……本当に、最低でした」

 私は返す言葉を失い、ただ膝の上で組んだ手を見つめていた。彼の告白は責任の放棄ではなく、ようやく口にした、後悔そのものだった。

「俺、きっと、恋愛には心底無知で……あなたを傷つけることなんて、この先、まだまだたくさんあると思います」

 彼の声はいつもの軽口を失っていた。膝に置かれた拳はぎゅっと固く握られ言葉を吐き出すたびに少しずつ震えている。私は何も返せずただその横顔を見つめる。

「だから……教えてほしい。その都度、それは、間違ってるって。あなたから教わりたいんです」

 夜風が、ふたりのあいだを通り過ぎる。思わず私は視線を落とし、かすかに息を吐いた。

「……でも、私が思っている常識が正しいとは、言い切れないよ」

 自分でも弱々しく響くその声に彼はすぐにかぶせるように首を振った。

「それでもいい。いや……それがいいんです」
「え……?」

 顔を上げると琥珀色の瞳が真っ直ぐにこちらを捉えていた。その視線は必死で、まるでどこにも逃がすまいとするようだった。

「次の女の子にどう思われるかなんて、どうでもいい。俺は……あなたを傷つけたくないだけなんです」
「……」
「あなたが傷つかないのなら、それでいい」

 その一言に、胸の奥がぐっと熱を帯びる。私は思わず唇を噛んだ。彼は小さく笑みを滲ませて、けれど、声は震えるほどに真剣だった。

「だから、名前さんの常識が……俺の常識です」

 静かな夜の空気に、彼の言葉が深く染み込んでいく。胸の奥にずしんと重たく響いて、逃げ場のないまま心臓を掴まれているようだった。私は、小さく息を吸い込んで彼の横顔を見つめた。必死に、真剣に、自分を差し出すように語るその姿があまりにも不器用で、愛おしくて——。

「……そんなふうに、言われちゃったら」

 気づけば声が震えていた。彼の瞳が、こちらを見つめ返す。

「……許さないと、いけなくなるねぇ」

 自分でも驚くほど静かで柔らかな響きになっていた。彼の肩がわずかに揺れて、安堵したように息を吐く気配が伝わる。

「……ありがとうございます」

 彼の声が夜に溶けていったあと短い沈黙が訪れる。けれど次の瞬間、彼はふっと笑みを消して、視線を落とした。

「でも……あの、ほんとに……傷つけちゃって、すみませんでした」

 その声音は深く沈み、冗談や軽口の影は欠片もなかった。私は思わず胸の奥が熱を帯び、彼を、じっと見つめるしかできなかった。

「俺……あなたのことばかり考えていて。正直、子供ができたらとかそういう未来のことは一度も真剣に思い描いてなかったんです」

 彼は言葉を選ぶように、ひとつひとつ噛みしめながら口にする。夜風がまたふたりの間を抜けていく。

「ただ、あなたがそばにいてくれればいい、それだけでよかった。ほんとに、それで満足してた」

 唇が震え、視線が揺れる。彼はゆっくりと顔を上げて、まっすぐに私を見つめた。

「でも、ずっと一緒にいるって……きっと、そういう未来も含めて、ですよね」

 彼の声が夜に沈む。私の胸の奥で、答えを探すように心臓が強く打った。けれど言葉はすぐには出てこなかった。そんな私の沈黙を埋めるように彼が琥珀色の瞳に迷いのない光を宿して言った。

「子供ができたら……ちゃんと責任とりますよ」

 その一言は、夜気を震わせるほどに真っ直ぐで重かった。あまりに唐突で、思わず息が詰まる。

「え……」

 声にならない声が漏れる。それでも彼は視線を逸らさずに、先を続けた。

「今まで、考えが浅かったのは認めます。でも……もしそうなったら、絶対に俺は逃げません」
「……」
「俺が父親としても男としても、ぜんぶ背負う。だから、怖がらないでほしい」

 その声音は飾り気のない必死さに溢れていた。不器用で若さの残る決意。それでも胸を打つのはその言葉が本気だからだ。私はぎゅっと指を握りしめながら、胸の奥が熱くなるのを抑えきれなかった。胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。彼の言葉は重たくて不器用で、でも、真っ直ぐで。どれだけ怒って、拗ねて、突き放しても、最後に必ずこうやって心を掴んで離さない。
 私は視線を伏せてしばらく何も言えずにいた。けれど、このままでは彼を縛りつけたままにしてしまう。そう思った瞬間に私は、観念したように深く息を吸い込んだ。

「……ありがとう」

 震える声で、まずはそう言った。彼がわずかに眉を緩めるのを横目に見ながら、私は続けた。

「でも、大丈夫だよ。」
「え……」
「私ね……ピル飲んでるの。もう何年も前から」

 言った瞬間、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。秘密を解いたというより、ずっと抱えていた緊張が解けたような感覚だった。隣で彼の瞳が、一瞬大きく見開かれる。驚きと安堵と、そして、少しの戸惑い。そこにはなんとも言えない複雑な色が浮かんでいた。

「……そう、なんですか」

 呟くように落ちた声にはほんのり温度が戻っていた。私はそっと彼の方へ視線を向け、微笑みに近いものを浮かべる。

「だからね。そんなに、自分を責めなくていいんだよ」

 夜の風がまたひとすじ吹き抜けて、二人の肩に柔らかく触れた。彼は少し俯き、やや動揺の色を残して、低く問いかける。

「でも……どうして、わざわざそんなこと……」

 私は小さく息をつき、肩をすくめて笑った。

「うーん。正直、今朝は本気でムカついてたから絶対に言ってやんないって、決めてたけど」

 彼の目がわずかに揺れるなか、私はそれを見て見ぬふりをして続ける。

「でも、ちゃんと話してくれたから」
「……」
「自分の弱さも、後悔も隠さずに……。だったら私も、隠しておく理由なんてないよね」

 私はふと夜空を仰ぎほんの少し笑みを深めた。視線の端に彼がこちらを見つめている気配が映り込む。

「ずっと不安を抱えさせてヒーローさせとくわけにいかないでしょう? そんなの、もっと無責任だもん」

 言い終えて彼の方へ視線を戻すと彼は、まるで言葉を失ったように黙り込んでいた。けれどその瞳の奥には少しずつ安堵の光が戻りつつあった。彼はしばらく、黙っていた。夜風に揺れる前髪の下で、視線だけが何度も揺れ動いている。それがやがて意を決したように私をまっすぐに捉えた。

「……あの、」

 声はすこし、かすれていた。いつもの軽口とはまるで違う、ためらいを含んだ響き。

「いい、です?」

 何をとは言わなかった。けれどその瞳に宿った切実さを見た瞬間、私はただ小さく頷いていた。次の瞬間、彼の腕がそっと伸びてきて迷いがちにけれど確かに私を抱き寄せた。胸元に押し寄せる体温に全身の強張りがふっとほどけていく。彼は深く息を吸い込み、囁くように言った。

「……離したくないです」
「……」
「もう、離れとうなか……」

 その声は震えていて子どものように不器用で。けれど今までで一番真剣な彼の告白だった。私は彼の背に腕を回し、そっと抱き返した。彼の胸に顔を埋めたまま鼓動の速さが伝わってくる。そのリズムに自分の呼吸を合わせるようにしていると彼の唇がそっと耳元に近づいた。

「……ごめんなさい。ほんとに、ごめんなさい」

 かすれた声が、真っ直ぐに心に届く。胸の奥がきゅっと熱を帯びて私は思わず彼の背に回る腕に強く力を込めた。

「……私も、ごめんね。」

 小さく耳元で、囁き返す。どちらが先に悪かったとか、正しかったとか、もうどうでもよかった。ただ互いに「ごめん」と言い合えたことがこんなにも救いになるなんて。
 夜風が二人を包み込むように吹き抜けていく。やがてそっと腕をほどき、少しだけ距離を取って見つめ合う。その瞳に互いの想いを映し、自然と小さな笑みがこぼれた。言葉を交わさずとも同じ想いを抱いていると、確かめ合うように——。





寄り添う常識、重なる夜



(ねえ、誰かに説教されたの?それで来た?)
(え……あ、いえ。これは、自分の意思で)
(ふーん。ずいぶんと成長が早いなぁって)
(実はアカデミーに強制送還されちゃいまして)
(えっ……アカデミーって、あの?)
(ナンバーワン直々の命令っす……)
(ははっ。ガンバレ、新米ヒーロー)
(ゔぅぅ……やめてくださいよぉ〜)


※image song『 君が好き/清水翔太 』


  • prev | next

  • back
VERTEX