サイレンが夜の街を切り裂き、赤い光が病院の白い壁を染め上げる。ガチャン!と救急車の扉が勢いよく開かれて、担架の上には、煤けた羽根と焦げかけたヒーロースーツのインナーをまとったプロヒーロー・ホークスが横たわっていた。
「——20代男性、雷に打たれて心停止。倒れて3分後に圧迫を開始した!」
出入り口で、すでに待機していた看護婦や医師たちに誰よりも早く声を張ったのはエンデヴァーだった。燃えるような双眸で運ばれていく担架を一瞥し、即座に状況を告げる。
「雷は手から膝へ通電、内臓損傷の可能性あり」
その言葉を引き継ぐようにベストジーニストが医師たちへと冷静に説明を飛ばす。病院のスタッフたちが一斉に動き出し緊迫した空気が張りつめたまま、キャスター付きの担架は病院内へと物凄いスピードで入っていく。
「上室性頻拍!」
叫んだのは、担架に跨がるようにして心臓マッサージを続けていたミルコだった。額に滲む汗をぬぐうこともなく拳を打ち下ろす勢いで強く正確に胸骨圧迫を繰り返している。AEDが装着され、電子音が響く。
「——ショックいくぞ、みんな離れろ!」
ビクンッ、とホークスの身体が跳ねる。数秒の沈黙。波打つ心電図が一瞬ののちに微かな律動を刻みはじめた。
「……脈が戻った!」
そばにいた他のヒーローの声に、一瞬だけ場の空気が緩むが、すぐに緊張が戻る。
「——変わるわ。最善を尽くす!」
そう言った医師の合図で病院スタッフが、ヒーローたちから担架を引き継ぎERへと猛スピードで運び込んでいく。車輪の音が床を震わせ、羽根が一枚担架の上から落ちて床に舞った。廊下に取り残された仲間のプロヒーローたちはただその背を見送るしかなかった。エンデヴァーは腕を組み、唇を噛みしめる。ベストジーニストは目を伏せて感情を押し殺す。そしてここまで心臓マッサージを行なっていたミルコは拳を握ったまま、未だ荒い息をついていた。
最速の個性である剛翼を持つヒーローが、今は誰かの手に委ねられている。その現実が誰よりも彼ら自身を打ちのめしていたのだった。
——数十分前。
東京湾岸の高層ビル群。その一角で火災と同時に複数の負傷者が発生したとの通報が入ったのは夕刻のことだった。空は重たい鉛色の雲に覆われ遠くからは、雷鳴が低く響いていた。ヒーローの応援要請を受けて各地のヒーローが急行し現場は緊張と混乱に包まれていた。
『——ホークス、上層の避難はどうだ』
通信に割り込むように低い声が響く。声の主はイレイザーヘッドだ。彼は現場近くで交通規制と負傷者の搬送ルートを確保していた。
『……えーっと、順調っすよ! 残り二名、屋上から確保しまーす!』
ヘッドセットから届く声はいつもの軽い調子。けれど私の耳には強風のノイズと焦燥に駆られた羽ばたきが混じっているのがはっきりわかった。今彼がどれほど厳しい環境にいるのか、想像するだけで胸が締め付けられる。
『……了解。屋上のフェンス付近は足場が脆い、気をつけろ』
『もーぅ、だいじょーぶですってぇ!俺が落ちるわけないでしょー?』
冗談めかしたその声に私は無意識にヘッドセットをつけたまま眉をひそめる。なにか嫌な予感がした——そのとき、ビルの上空に稲妻が走った。轟音が地面を震わせて、光が一瞬、白昼のように現場を照らし出す。
『——っ!!』
突如ヘッドセットから周囲のギャラリーと思わしき悲鳴と機械音のようなノイズが混じる。私は一瞬にして心臓が跳ね上がり慌てて声を張った。
『——ホークス!? 応答してくださいっ!』
急いで通信を割ったが相手からの返答はない。すぐに異変に気づいたらしいイレイザーヘッドの『どうした!?』と聞き返す声が鋭く飛ぶ。
『雷が……もしかしたら雷が直撃したのかもしれません!』
『——! なに、冗談だろ……!?』
『最後の音が、風切り音から途切れて——」
通信回線に混ざるのは、雑音と断続的な羽根の震えるような音。私の指先は震えながらも冷静にキーボードを叩き位置情報を追う。だがモニターに映る座標は、急降下を示す赤いラインを描いていた。
『……落下中、墜落の恐れあり!ホークス、応答してっ!』
だが、やはり返事はなく、ただ深い沈黙だけが回線を満たした。そしてイレイザーヘッドが低く罵声を吐く。
『……畜生。ミルコ、ベストジーニスト、即座に収容に回ってくれ!』
轟音と閃光が再び空を裂き、東京の街は一瞬にして闇と光に呑み込まれたのだった。
*
目を開けると、そこは異様なほど静かな都会の街だった。夕暮れとも夜明けともつかない灰色の空気の下で人々が忙しなく行き交っている。だが誰ひとりとして、俺に目を向けない。すぐそばを通り過ぎても肩が触れることすらなく、まるで、幽霊にでもなったかのようだった。ようやくヒーローが暇を持て余す世の中になったのだろうか。だがしかし違和感は他にもあった。手を広げても背に羽根がない。俺はヒーローホークスではなくただの無個性——鷹見啓悟として、ここに立っていた。
不意に前方の歩道に影が差す。そこに立っていたのは、忘れようとしても忘れられない人物。腕に羽根の生えた鋭い目をしている——俺の実の父親だった。
「ヒーローなんて無理に決まってんだろ」
「……」
「お前は死んでも俺の息子だ——啓悟」
「……」
「お前なんかじゃ、誰も救えねーよ」
その声音は、現実よりもなお重く胸を抉った。息苦しくて、思わず目を逸らす。頭痛がした。その場にしゃがみ込んで両手で耳を塞いだ。頭がガンガンする。そのまま気を失ってしまったのか次に目を開けたとき俺は、病院のベッドに横たわっていた。天井の蛍光灯が白々しく光り、ベッド脇に腰を下ろしていた人物が、俺を見下ろしている。——父親だ。
「——おう、目が覚めたか」
「なん……。どうして、俺、ここに……」
「はしごから落ちて頭を打ったんだ」
「……はしご?」
「骨折もしてないし深刻な状況じゃない。MRIも正常だ」
「……あ、っそ。なら、よかった……です」
そう答えると父親は眉を寄せた。過去の記憶が蘇り、殴られるかもしれないと無意識に、身体が強張る。だがしかし、父親は淡々と口を開いた。
「だがな、今度はしごを登るときには——誰かについててもらえよ」
その言葉に、雷鳴の光景がふっと脳裏をよぎった。都会の夜空、閃光が裂け、全身を駆け抜けた衝撃。彼女と交わしていた、緊迫した通信。ヒーローたちの声。仲間の——ヒーローたちの応答。思わず口をついて出た。
「……人は、おったけど」
「……」
「ヒーローたちが、いた」
「それでも、お前は鈍臭い」
父親は鼻を鳴らして、まるで当たり前のように言い切る。その横顔を睨みつけながら俺は思わず汚い言葉を吐き捨てそうになった。だが深呼吸をして冷静に言葉を返す。
「あの……誰にでも、そんな口の聞き方を?」
問いかけたそのとき、不意に視界の端から柔らかい声が割り込んできた。
「そうなの、誰にでもこんな感じだよ?」
驚いて振り返る。そこに立っていたのは、彼女だった。俺の恋人であり、最愛の
「えっ……名前さん!?」
思わず呼んだ声が裏返った。すると彼女は頬をふくらませて、首を振る。
「さん!? やめてよ、きみが悪い」
冗談めかして笑う声が、不思議なほど自然に、ここに溶け込んでいる。そして父親が怪訝そうに眉を吊り上げた。
「ん?誰にでもだと?お前、誰に向かってそんなこと言ってんだ」
「はいはい、ごめんなさい。でも、もうちょっと言い方ってものがあるでしょ」
彼女は、軽やかに言い返す。その瞬間、俺はふと悟った。これは夢の中だと。この夢の中で彼女は俺の��家族�≠ニして、現れているのだと。年齢がそのまま反映されているとすれば、俺の姉か何かだろうか。父親と彼女。ふたりが目の前で、軽い口論を交わしている。俺はただ呆然とその光景を見つめていた。そのとき、目の端で彼女の視線とぶつかった。俺が、視線をさまよわせているのを見て、彼女は小首を傾げて問いかけてくる。
「どうしたの? 気分悪い?」
思わず喉が鳴った。覗き込んできた顔が近い。そして、顔を背けて言葉を探し、絞り出すように答える。
「……混乱、してます」
「え、どうして敬語?」
「……え?」
「やだ。本当に検査なんともなかったんだよね」
腰に手を当て仁王立ちで不満そうな顔を露わにする彼女を、ぼうっと下から眺める。その途端、父親がすかさず言葉を挟んだ。
「頭をやられてるんだ。強く打ったからなぁ」
当たり前のように吐き出されたその言葉に胸の奥がざわめいた。視線を落としそうになるのを、必死で堪える。すると隣に立つ彼女は、深くため息を吐いた。
「ほんと、お父さんは言い方が乱暴なんだから。——啓悟、早く家に帰ろうね」
啓悟——?なるほど、こっちの世界では、呼び捨てなのか。俺の名前を呼んだ声が、妙に優しく響いて余計に現実感を失わせる。ん?待って……家?帰る?どういうことだ?そんな混乱を抱えたまま、彼女はさらりと続ける。
「——じゃあ、また明日ね。」
すっと踵を返して病室のドアに手をかける姿に思わず声が飛び出していた。
「ま、また明日って……なん?」
振り返った彼女が不思議そうに瞬きをしてから小さく笑う。
「え?家族で食事会でしょ?もう、そんなに強く頭を打ったのー?」
からかうような声色だった。俺が返す前に彼女は父親と並んで、病室を出ていく。閉まっていくドアの隙間からその背中が消えていくのを呆然と見送りながら、喉の奥からかすれた声が零れた。
「は……? 食事会って、なん……?」
言葉は宙に散った。静かな病室の中、俺はただその場に一人、取り残されるばかりだった。
*
翌日——退院手続きを終えて案内されるように向かったのは実家だと言われる場所だった。俺は幼い頃、福岡のボロ屋で育った記憶しかない。
雨漏りとカビの匂い、ゴミが常に散乱していて薄い布団と、狭い台所。それが、すべてだった。なのに目の前に広がっていたのは、石畳の敷地に大きな鉄門。二階建ての白亜の洋館。芝生が青々と整えられ、ガレージには黒光りする車が並んでいる。俺は唖然として、立ち尽くした。足を踏み入れてもいいのかすらわからない。けれどドアが開くとそこに立っていたのは、実の母親だった。
「啓悟! 顔を見せて……!」
母親は涙ぐみながら俺の腕を取って力いっぱい抱きしめてきた。思わず身体が硬直する。
「ずっと心配してたんだからっ」
標準語すぎる標準語に違和感はあるもののその声があまりに優しくて心臓がひどくざわついた。俺の知っている母親は、決してこんな声を出す人じゃなかった。そこへ、父親が現れた。品の良さそうな服をきっちりと着こなし眼光鋭くもどこか柔らかい表情を浮かべている。
「本当に家族みんな、心配したんだからな?」
そう言って肩を叩かれ、俺は思わず身体を強張らせる。いつ殴られるのかと条件反射で身構えてしまった。だが、痛みはこない。ただその手は、ぽん、と一度だけ俺の肩を押すように叩いただけだった。
「……なんとも、なかよ。大丈夫やけん……」
声が震える。思わず二人から視線を逸らして、そう小さな声で言った。
「てか……こんな、遥々来てくれんでも」
なおも困惑したままそう続けると両親が揃って目を丸くした。俺も釣られて目を見開いて瞬かせる。そして「遥々?」と、父親が眉をひそめた。
「何を言ってるの啓悟。同じ街の反対側でしょ?すぐ近所じゃない」
続けて母親が不思議そうに笑う。同じ街——?俺は福岡で公安に拾われて……その記憶はどこにいったんだろうか。頭が混乱でぐらぐらする中、母親がふと思い出したように声を弾ませた。
「ああ、そうそう。あなたの子供たちからもね、差し入れやお手紙が届いてるのよ」
その言葉に、喉の奥から思わず「……は?」と裏返った声が洩れる。耳に届いた単語をすぐにはうまく処理することができなかった。
「こ、こども……?」
呆然と繰り返す俺に母親は当たり前のことかのように微笑みながら言い返す。
「ええ、あなたが受け持っている、園児たちよ。みんなあなたのことが大好きで」
言葉が胸の内で転がり、形を失った。俺はただ虚を突かれたように呆然とその場に立ち尽くす。
「え……俺が、先生? 俺、ヒーローじゃ……」
挙動不審になりながらも否定しようとした矢先父親が抑揚をつけて鼻で笑った。
「お前にヒーローなんて無理に決まってんだろ」
それに対し間髪入れずに母親が「ちょっと!」と、声を上げて父親を睨む。それでも父親は気にせず続ける。
「精神年齢が同じようなもんだからな。お前には天職だろう、今の仕事は」
「あんたまで、そんな言い方をしなくてもいいでしょう……」
その場の空気が一瞬で凍りつく。父親の眉間に深い皺が刻まれて、その手がゆるりと持ち上がる気配が走った。次の瞬間、体が先に動いていた。考えるよりも早く俺は母親の前に飛び出していたのだ。反射のようにただ守るべきだという衝動に突き動かされて。
「やめろっ!」
声は自分でも驚くほど大きくて荒かった。顔は熱く、視界が赤く染まるほどの怒り。俺は母親を背に庇い父親を睨み据える。しかし母親は驚いたように目を瞬かせて俺の肩に手を置いて言った。
「……どうしたのよ、啓悟?」
その声音は、本当に心配そうなだけで。父親も拳を振り上げたわけではなく、ただ困惑して立ち尽くしているだけだった。俺は肩で息をしながらあたふたと周囲を見回した。何が現実で、何が夢なのか、わからなくなっていく。
数時間後——。実家のソファで休んでいた俺の前に現れたのはこの世界では��姉貴�≠ニして存在しているらしい彼女だった。そして彼女の隣には旦那だと言われる男の姿。その相手を見た瞬間、息が詰まった。見覚えのある顔。彼女の元婚約者——あの男だった。夢と理解していても胸の奥が詰まる。頭が真っ白になりながらも��家族団欒�≠轤オき食事の時間は始まった。大きなテーブルに並ぶ料理。母親は明るく振る舞い、父親は淡々と箸を進める。だがその場の空気に薄く影を落としていたのは彼女の旦那の態度だ。彼女にだけ投げかけられる些細な言葉、些細な動作。その全てにわずかながら、棘が含まれていた。
「だから君はダメなんだよ」
「うん……そうだね、ごめんなさい」
「どうせオペレーターの仕事だって腰掛けだろ」
「……」
「君の人生なんて、俺がいなきゃ終わってたよ」
何気ない調子で吐かれるその言葉に彼女が小さく肩をすくめる。だが、誰も何も言わない。見て見ぬふりをして食事を進める。俺だけが箸を止め顔を歪めた。やがてエセ旦那が「さあ、これから雄英体育祭の中継だな」と言い出した。日本中が注目する一大イベント。それはこっちの世界でも同じらしい。父も母も当然のように立ち上がり、リビングのテレビの前にあるソファへと移動していった。仲睦まじく三人並んで座っているその姿に反吐が出る。テーブル席には、俺と彼女だけが残された。その瞬間ふと過去の光景が脳裏をよぎった。彼女の瞼に残った切り傷。あのとき彼女は「過ちは誰にでもある」と言っていた。途端に、胸がざわつく。
「……食後の、コーヒー入れるね」
彼女がそう言って席を立ち、キッチンの方へと向かう。俺は迷わず立ち上がりその背を追った。
「……啓悟は? コーヒーでいいの?」
何気ない調子で振り返った彼女に、俺は思わず声を荒げた。
「……もう、やめてくださいっ!」
「えっ?」
「あ、いや。その呼び方は、悪くないですけど」
「は?」
「——てか、なんで? なにしてんですか?」
「なにって……食後のコーヒーを。それに、昨日から何? どうして敬語なの?」
「……そ、それは……」
「はしごから落っこちて礼儀正しくなったぁ?」
棚からカップを取ろうとした彼女の手首を思わず強く掴んでしまった。そこで見えた、袖口から覗いた皮膚に青黒く浮かぶ痣。俺の心臓が大きく跳ねる。彼女は咄嗟に腕を引き袖口を引っ張って何事もなかったかのように振る舞う。逆に、その反応が俺をさらに苛立たせた。
「なんでまだ、あんな奴と一緒にいるんです?」
「え……?なに急に……。うまくいってるよ?」
「じゃあその手の痣は?うまくいってるとは言えないでしょう」
その言葉に彼女は一瞬だけ目を見開いてから、慌てて俺から視線を逸らした。
「こ、これは……壁に、ぶつけて……」
「へえ。壁に指なんてついてましたっけ?」
「……」
「腕ぶつけてこんな痣作る個性でもお持ちで?」
皮肉が口を突いた。彼女はため息をひとつ付いて観念したようにキッチンに腰を預けた。そして視線を足下に落とし、震える声で必死に答える。
「——わざとじゃない。事故だった」
声は淡々としているのにかえってその平板さが胸の奥をざらりと逆撫でした。沈黙は一瞬で部屋の温度を変えて言葉よりも雄弁に俺の中の不信を滲ませる。
「……過ちは、誰にでもあるから」
そう続ける声はどこか他人事でまるで定型文を読み上げているかのような冷たさを帯びていた。
「嘘ですね」
俺は、抑えた声音を落とした。胸の底から這い上がってくる怒りを、必死に噛み砕き、低い声に変えて。
「あなたは前にもそう言ってた。前はそのSOSを見逃した。でも今度は、絶対に見逃さない」
言葉を紡ぐたびに、血の気が引くような記憶が甦る。彼女を覆っていたあの影を見て見ぬふりをした自分。その悔恨が脈打つたびに、声は鋭さを増した。
「……何、言ってるの?」
彼女の瞳が細かく揺れる。その揺らぎは恐怖か迷いか、それとも、自分自身への嫌悪か。
「名前さん。あの人と別れたいんですよね?でも行動に移すのが怖い?」
突き刺すような問いかけに彼女は唇を強く噛みしめた。赤く染まった口元は、返答を拒むための最後の抵抗のようにも見えた。
「自分は強くないって、そう思ってる」
「……」
「でも違う。あなたは強い」
「……、」
「——ね?……俺も、協力しますから」
必死に言葉を紡ぐ俺を、彼女はじっと見つめていた。自分でも驚くほど必死な声が漏れていた。胸をえぐる後悔が背を押すようにしてただ言葉を差し出すしかなかった。だが、彼女の瞳はやがて伏せられ、感情を隠すように踵を返す。
「ねえ、待って。どこ行くんです?」
思わず手を伸ばす。けれどその指先は、空を掴むだけで彼女の背は揺らぎもせず遠ざかっていく。
「頭痛がしてきたから薬を飲む。あなたと話してると……頭が痛くなるの」
その背中は、拒絶そのものだった。力が抜けた手がだらりと落ち胸の奥に苦い空気だけが残る。吐き出した溜め息が重く宙に沈んでいくと同時に彼女は別室へと姿を消した。
その時、不意に父親がキッチンに現れた。彼は何事もなかったかのように無造作にコップへ水を注ぎ、そのまま吐き捨てるように言った。
「あの男の話はあと一秒だって聞けない。反吐が出る」
父親が持っていたコップのなか、透明な水面が揺れるのを、俺はただ呆然と見つめた。
「こんなの……付き合いきれん。我慢できない」
自然と吐き出ていた言葉はまるで自分自身への呪詛のようで、耳に突き刺さった。
「これじゃまるで——悪夢の中で生きとーみたいばい」
その途端、父親が低く笑った。笑みは嘲りとも哀れみともつかない。俺はそっと視線を、父親のほうへと向ける。
「——前は、夢のような人生だったのか?」
鋭い問いが胸の奥を射抜いた。思わず目を伏せ喉の奥で息を詰める。答えなど見つからないまま胸をえぐる問いだけが、静かに残響となって広がっていった。するとそのときハッとして俺は目を見開いた。
「人間って昏睡状態になったら夢って見るっちゃろうか……」
自分でもよくわからない言葉が零れた。父親はグラスを口に運び、軽い調子で答える。
「さあなァ。んなこと知らねぇよ。昏睡なんざしたことねーからな」
明るげな声色。記憶の中にある父親の口調が、かえって不気味だった。俺は、胸の奥に燃え立つような違和感を振り切るように勢いよく玄関へと向かう。
もう耐えられない。こんな世界、こんな幸せなふり——俺には付き合いきれない。