闇が世界を包み込む前に(1/3)
入居したアパートが��訳アリ物件�≠セった。
引っ越してきた日、粗品を持ってインターフォンを押すと中から出てきたのは今どき珍しい、リーゼントをピシッと決め込んだ、若い男性だった。
どうしてヤンキー界隈の人って眉毛が筆みたいに細いんだろう、このご時世に紙タバコを吸っている若者がまだいたんだな、その水色のMA-1風のジャケットはどこで買ったんだろうなどという疑念が頭を駆け巡ったが訊けるほど命知らずではない。彼はドアを開けて、胡散臭そうな顔で私を見ると「保険は間に合ってます」と案外落ち着いた声音で応じた。冷静なトーンだけれど、もしかするとマジでキレちゃう5秒前の静けさなのかもしれない。早く釈明、じゃない、謝罪、じゃないとにかくなにか言わないと。
「わたし、隣に越してきた者でして。名字と申します。こちら、粗品ですがどうぞよしなに!」
「隣? あぁ……そりゃご丁寧にどーも。自分は水戸です」
そう言って彼は人差し指と中指に煙草を挟んだ手、その指先で表の表札を指した。
「……」
「ヨロシク。」
「——は、はい! では!失礼いたしました!」
「はーい。それじゃ」
90度でお辞儀する私に、ぺこりと頭を下げて暴走族(仮)の彼は部屋の扉を閉めた。そーっと自分の部屋に戻ってから心の中でぎゃあ!と叫んだ。実際叫んだらさっきの人が壁ドンしてくるに違いない。これからは無音を心がけて細心の注意を払う生活が待っている。なんだよ!だからここ家賃安かったのか!心理的瑕疵物件かと思ったら幽霊よりもっとヤバいじゃん!でも……ふと彼の物腰を思い起こした。ビジュアルは怖かったけど態度は落ち着いていたし敬語だったし、まともな人間のそれだったと思う。見た目が怖いだけで、本当はいい人だったりして……なんて。ほとんど虚妄に近い希望的観測を抱いた。だってそうじゃなければ今後私の生活はお先真っ暗すぎるから。
お隣さんは、朝から晩まで仕事をしているのか滅多に在宅していないらしかった。だから最初に絶望したよりはずっと快適な生活を送れている。お隣さんが朝出ていったのを確認してから映画を観たり音楽を楽しんだりもできる。さすがにカレーを作ったときは怖かったけど……夜になっても匂いが残っていたし。だけどお隣さんは、何にも言ってこなかった。優しい。文句を言われなかったから優しいと感じるなんて、我ながらバグっているとは思う。
いつだったかの夜。ベッドで寝ていると、お隣さんが帰ってくる気配がした。かんかんかん、と階段を上ってがちゃりと鍵を開けて扉が閉まる。すぐシャワーを浴びたらしく壁の中の配管を伝って水が動く音がする。そのうち古い歌を口ずさんでいるのが微かに聞こえてきた。なんかいいことでもあったのかな。好きな子と、デートしてきたとかかな。ていうか歌うまいな。��今どきヤンキー�≠フ鼻歌を子守唄に、その日は思いのほか熟睡できた。
——燃えるゴミの日の朝。8時には回収されてしまうのに、なんといまは7時58分!ゴミ回収車の青い車体がバックで敷地内に入ってくるのが見える。急いで家を飛び出すと階段のところでお隣さんが歩いていた。
「おはようございますっ!」
「あー、おはようございます」
お隣さんをすり抜けゴミを抱えてダッシュしてゴミ回収車のお兄さんに無事手渡して振り返るとお隣さんが、こちらにやって来た。そのまま通りすぎていくかと思いきや目が合って、ハハと眉を下げて笑われる。
「間に合ってよかったですねー」
私の返事を待たずに彼はすたすたと行ってしまった。よかったです……と。もう聴こえない距離の背中に独り言を言うしかなかった。——はい、いい人そうでよかったです、ほんと。
*
「えっ……」
思わず、声を出してしまった。夜、アパートの前の路地でお隣さんがチンピラっぽい誰かと殴り合いの喧嘩をしているらしかった。オラァ、だの言いながらバキボキ殴打の音が響いている。
こっわ。やっぱり暴力が当たり前って感じの人なんだなぁと感心してから、気付かれないようにアパートの階段に向かったけれど手が震えて鍵が見つからない。息を殺してドアの前に座っているとお隣さんが階段を上って帰ってきた。喧嘩相手の方は走って逃げていく姿が見える。電灯の下でお隣さんの鼻血を出してあざだらけの顔が照らされる。ちらと私を見下ろすと「……大丈夫、ですか?」と訊いてきた。
「わ、わたしは大丈夫です、でもそちらは大丈夫じゃ、なさそう……」
「俺はぁー、まぁ大丈夫ですよ」
「……」
「さっきのヤツ、ありゃこの辺で悪さしてるチンピラだな」
「……、」
「名字さんも、遅くなる日は気を付けてくださいね」
「は、はい……」
名前——覚えていてくれたんだなって、そんなことに驚いてしまった。私も、お隣さんの名前は憶えている。水戸さんという人だ。なぜかというと部屋番号のプレートに律儀に『水戸』と書いてあるから。部屋の前を通るたび、反射的に見てしまうから。
「怖い思いさせちゃいましたね」
水戸さんはぺこりと頭を下げてから部屋に入っていった。扉ごしにすぐ鼻をかむ音が響く。彼がいい人かどうかはわからないけど、やっぱり住む世界の違う人だ。住む部屋は隣同士だけど。
翌日の夕暮れ時、買い物から帰宅すると玄関のドアノブに、ビニール袋が引っ掛けられていた。なに?イタズラ?と思いながらビクビクして中を覗くと私の愛する缶ビールが5本入っているではないか。それと一枚、メモが袋に貼ってあった。
『 飲んで下さい 水戸 』
——え、水戸さんが?なぜ?あ、夕べのお詫びのつもりだろうか。そんなの水戸さんのせいじゃないのに。ていうかビール好きなのなんで知ってるんだろう。絶対に、ビール缶ばかりのゴミ袋を捨てているのを見られたんだろうな。あぁ、ちょっと恥ずかしい。
お風呂に入って冷蔵庫からビールを取り出してぷしゅっとやった。窓を開けるとぬるい夜風が漂っている。まだ生乾きの髪からトリートメントの花の香りが、生々しく空へ放たれていった。隣室を覗くと、窓べの桟から光が漏れている。知らない間に帰宅していたらしい。お隣さんもシャワーを浴びたらしくドライヤーの音が聴こえてくる。音が筒抜けなのは、彼も窓を開けているからだ。ドライヤーの音が止み彼が冷蔵庫を開けて、それからこちらに——正確には、窓ぎわにやってくる気配がした。かちっ、とライターを遣う音。彼が煙草を吸っている姿を思い浮かべる。
「——水戸さん」
声を掛ける、その声が上擦っている。水戸さんは一瞬黙って、それでも事態を飲みこんだらしく「はい」と返事をしてくれた。
「あの。ビールありがとうございました。いま、頂いてます」
「……ああ。いや、迷惑かけちまって。ほんの、気持ちですよ」
「私の好きな銘柄ばかりでしたよ」
「美味いっスよねー俺もいまやってるところで」
声はすぐそばに聴こえた。隣の窓から、煙草を持つ手が見え隠れしている。彼も窓べに寄っているようだ。けっこう長いことドライヤーを掛けていたから私と違ってきっちり乾かしているのだろう髪や、お風呂上がりの頬を想像した。このまま「じゃあ」と会話を打ち切ろうかと考える。でももらいっぱなしっていうのもなぁ。そもそもこの近辺で悪さをしていたという人をやっつけてくれたのだから恩人のようなものなのではないだろうか、という気すらしてしまう。
「……水戸さん、お腹空いてません?」
「腹、ですか。はぁ、まあ……それなりに」
「おかず作ったのいっぱいあるんですけど、おつまみにどうですか?」
……あぁ、言ってしまった。いや普通だよね?変じゃないよね?親切な隣人に対する当然のコミュニケーションだよね。なんだか水戸さんの方が予想を超えて親切な人に思えて自分もどこで歯止めを利かせるべきかわかりづらい。
「それは……嬉しーですね」
ほら。なんか人懐っこいし。案外人たらしなのかもしれない。いや、見た目は暴走族かヤンキーだから結果的にトータルで見ると、プラマイゼロなのかな?
ジップロックのタッパーに主菜や常備菜を詰めて袋に入れてから窓へ突き出した。いまあるやつ結構自信作ばかりなのだ。水戸さんは「ありがとう」と受け取ってから「豪華だなァ」と呟いた。
「いいんですかね、こんなに……かえって世話になっちまって」
「いいえ。隣人同士ですし、仲よくしましょう」
「それは……ハハ、願ってもないことで」
顔に似合わずちょっと高くて優し気な喉の奥で転がすような聴いてて照れてしまう声。だけど、もう少し聞いていたくなるような柔らかな未練を残す色気があった。顔が見えないから全然こわくない。といったら、水戸さんに失礼だけど。
「お、すげえ美味い。これ、名字さんが?」
「そうです。お口に合ってよかった」
「久々にこういうの食ったなぁ……。ありがとうございます、いっぺんに食うともったいねえや」
「まだまだあるから食べちゃってください。よかったら、また差し入れますよ」
「ほんと?じゃあ、そんときは酒と物々交換ってことで」
「いいですね、それ。乗った」
「ハハハ。」
もし水戸さんが、私が感じているようにすごくいい人だったらどうしよう。最初はあんなに怖かったのに今ではいい人でないことを祈りはじめている。だってもし本当に予感している通り底抜けにいい人だったら。いい人だったら?どうするんだろう、私。自分ってギャップに弱いんだなぁ。
水戸さんは何も知らずにゆるい世間話を始めている。ドキドキしているのを押し殺してビールを一気飲みした。今夜は、酒が妙に進む。
*
窓越しに一緒に酒を飲んだ翌早朝。アパートの廊下で水戸さんと出会った。私は出かけるタイミングで、水戸さんはコンビニの袋を提げて帰って来たらしい。目が合って、お互い頭を下げた。
「昨日はどーも。」
その軽やかな口調とは裏腹にちょっとだけ気まずそうに見える眉を下げて困ったような瞳。しらふだと気まずいのはこちらも同様だ。夕べは馴れ馴れしくしすぎた。怖いお兄さんであることには変わりないのだから。
私が「楽しかったです。また飲みましょうね」と言うと、水戸さんは黙って会釈した。そのまま通りすぎようとしたときそっと背後から声が追いかけてくる。
「つぎは——焼酎でも差し入れしますね。イケる口ですか?」
「あっ……黒霧島、大好きです」
「了解。つか、名字さん。結構、飲兵衛ですよね」
じゃあ、と呟いた横顔が大人っぽかった。もうあれっきりだったんだろうな、と思っていたから次の話をされて面食らったし喜んでいる自分にも驚いたりして。
まだ赤ちゃんみたいなこの感情。きっと、手に負えないまでに育ってしまう気がする——。