闇が世界を包み込む前に(2/3)
アパートの給湯機能が、天に召されたらしい。半導体が不足しているとかなんとかで、復旧には二週間かかるそうだ。
夏場であることが幸いして、水でしばらくシャワーを浴びていたけれど気温が高くとも寒いものは寒いことがわかった。あったかいお湯でこその風呂だ。それが使えなくなった今どれだけお湯が文明的な存在であったか痛感した。そういえば、近くにスーパー銭湯があったなとふと思いついて行ってみたらすごく良くて気づけば毎日通うようになった。
給湯機能が復旧するまであと四日、という日。廊下で出会った水戸さんにお風呂はどうしているのか訊けば、「俺はサウナ。シャワー付いてますからね」と答えが返ってくる。そうか、サウナというのもいいかも。
「けど、ここら辺のサウナっつったら男湯しかねえような店ばっかっスからねぇ。名字さんはどうしてんですか?」
「いまはスパ銭行ってます。岩盤浴もあるし」
「ほお、そりゃいいな」
「水戸さんもどうですか?ビール飲めますよ」
「あぁー、今度機会があったら行ってみっかな」
「ぜひ。中にね露天風呂があるんですよ。あれがほんとよくて」
「いいすね。露天。長ぇこと入ってねえや」
「じゃあ今から行きません?私ちょうど行くので道案内しますよ」
「え。今から?」
水戸さんはやや迷惑そうだったが、なにやらもごもご言ってから結局同意を得て一緒にアパートを出た。
夜の町の空気はどこか脂っぽい気がする。でも水戸さんの周囲にはそれらが全く感じられない。マイナスイオンでも出してるのかな、この人。
二人で歩くのって初めてかもと頭の片隅に思いながら努めて考えないよう意識する。私はただの気安い隣人で、たまに飲み友になることはあれどそれ以上には決してならない。ちゃんと、線引きしておかなきゃ。
水戸さん、並んで歩くと私よりは背がまあまあ高いな。私が小さいってのもあるんだけど。彼は私の歩幅に合わせて歩いてくれてる。綺麗な鼻筋の男前な顔立ちだという認識はすでにある。でもこうして一緒に歩いていると感情が無防備になるから、いま彼を見ることができない。もし、目が合ってしまったら、せっかく線引きしたラインがぐちゃぐちゃになってしまうから——。
銭湯につき「じゃあここで」と、私は手を振った。
「お風呂、楽しんできてくださいね」
「名字さんも」
「帰りは別々にしましょ。ゆっくり入ってきてください」
「……、ああ、はい。」
それぞれ男湯と女湯に別れて中に入った。あえて帰りは別々になんて言わなくてもよかったかも知れない。感じが悪かったかも。だけどそうでも言わなきゃ水戸さん、気を遣って待っているかもしれないと思ったから。暴走族とかヤンキーが、そこまで気を回すかな?わからないけど、でも、ゆっくり疲れを癒してほしい。自分の事だけ考える時間を、少なくとも私が邪魔してはいけない。そう思った、すこし寂しかったけど。
入浴後、マッサージチェアを堪能し、ビールを飲みながらロビーに出た。空き缶を捨ててビーチサンダルを履いて銭湯を後にする。
一瞬、水戸さんいるかな、と思って探してしまった自分に苦笑した。自分から別々に、と言ったくせに、あまりに未練たらしい。
来たときよりも夜空は暗く小さな有るか無きかの星のまたたきが見えるがこの町のギラギラした街灯が空をも遠くに追いやっている。カップ酒でも買って帰ろうかな。自分のシャンプーの匂いに包まれながら歩き出すと、背後で「名字さん」と、密やかな声がした。
——え。……水戸さんの、声がする。なんで、別々にって言ったのに。
振り向くのが怖かった。もし振り向いたときにあの困ったふうに細められた目が、優しく見えてしまったら、恋してしまう確信があった。本当は待っていてほしかったのだ。だから——。
だが、その心配は杞憂に終わった。振り向いたら知らないお兄さんが立っていたから。背は水戸さんくらいで前髪が長くて、しかもサラサラで、んでもって黒のスエットを着ている。足元はシャワーサンダルを引っ掛けて、生っぽい肌がみえている。まるで、売れないロックバンドのボーカルみたいだ。
「……誰?」
「いや……��隣人�≠ナすけど?」
ぐいっと掻き上げて見せた前髪の下でハの字に下げられた眉と、やっぱり困ったようなその目。
「……」
「……」
「や……!か、かっこいいお兄さんだなーって!びっくり!」
「あからさまな嘘つかなくていいって」
水戸さんはあはは、と笑いながら歩き出した。そして私をチラと見て、「君こそ、そんな恰好で歩き回るのかい。こんな街で」と非難してきた。たしかに……Tシャツと短パンだけど。
「変な目にあったことないですよ?」
「それは運がよかっただけ。待っててよかった、そんな気がしたんだよね」
「……どんな気?」
「いつも隙だらけで歩いてんなぁと思ってましたからねー。ここは治安の悪い町ですよ?も少し、シャキッとしましょっ」
え? なんか怒られたんですけど……。
「せめてもう一枚羽織って長ズボン穿くとかさ」
「長ズボンて……大丈夫ですよ、私、見るからにお金なさそうでしょ?」
「金目当てじゃねえやつもウヨウヨいるって言ってんの。特に、あんたみてぇな……」
水戸さんは、急にそこで言い淀んだ。口元を、きゅっと噤んで、気まずそうにしている。
「私みたいな、何ですか?」
「……」
「え? 何?」
「あんたみてぇな……美人は。気ィ付けろ、ってことですよ」
えっ。
「……」
「……」
水戸さん、すごく気まずそう。褒めてくれたのに、何故そんな顔をするんだろう。私は嬉しいのに。水戸さん、美人と思ってくれてたのか。いつも飄々としていて、全然気のない素振りしてたのに。美人だって、飛び上がるくらい嬉しい。
「えへへ、気を付けます」
「……頼むよ。」
「水戸さん、きょうも飲んじゃいます?」
「ん……じゃーま、一杯付き合いましょうか?」
「せっかくですし、うちに上がってくださいっ。お鍋しません?暑気払いに」
水戸さんは珍しく少し唇を尖らせて「俺の言ったこと、聞いてました?」と言った。
「え?」
「気ィ付けろって言ったでしょ。その俺があんたんちに、行けるわけがねえよ」
「え」
「今日は飲みません。早いとこ帰りましょ」
「え!?」
水戸さんは、大きく溜め息をつきながら歩いている。慌てて後を追いかけながら、それなのに、楽しいのは何故だろう。きっと、許してくれるという確信を持たせてくれる、不思議な人だから。
水戸さんは結局、飲まないと言っておきながらその日は窓ごしに一杯付き合ってくれた。
確かに同じ部屋で飲まなかったのは幸いだったかもしれない。水戸さんのほうから、線引きしてくれて。だって自ら引いた線は、ぐちゃぐちゃでもう見えないから。
*
水戸さんの事、好きなのかな、とふと思う事がある。洗濯物を干しているふとした瞬間や、鏡のまえでスキンケアしているときや、隣人の帰りを待つ、こんな夜に。
暴走族なのに?ヤンキーなのに?彼がそっちの世界の人じゃなかったらどうなんだろう。例えばただのバイク好きとかマル暴の刑事さんとかさ。彼ら、本職みたいなビジュアルするっていうし。いや、ないかぁ。ここ、そーいう町だもん。刑事よりも暴力団員とかにあたる確率のほうがきっと高い。
水戸さんは恋人がいるのだろうか。もしいるとしたら、その人は世界一幸せな人だなぁ。こんなことを想像して胸が苦しくなる時点でこの感情は恋に他ならないのだろう。
暴走族でもヤンキーでも、もはや暴力団だったとしてもいいのだ。答えはとっくに出ていて認めるのが怖いだけなのだ。
水戸さん、きょうも帰って来なかったな。そう言えば夕べも帰って来なかった。私が寝ている間に帰宅していたらしく、まだ朝の暗いうちに出ていく気配がした。
最近、一緒に飲んでない。作り置きがどんどん溜まっていく。ひとりで冷酒を飲みながら、古い映画を眺めていた。あくびをして時計をみると、深夜の2時に差し掛かっている。テレビを消して寝ようかなと思ったときだった。
—— ガチャガチャガチャ。
「ひっ」
私の部屋のドアノブが暴れている。誰かがこじ開けようとしているらしい。変態?泥棒!?いや水戸さんだ!だって「チッ」とか「あれ?」とか言っている彼の声が聞こえてくるもん。怖すぎて総毛立ったが水戸さんだと思うと全身からため息が出た。大方、うちと自分の家を間違えているのだろう。
ドアスコープを覗くと確かに水戸さんだった。見なくてもわかっていたが、酔っぱらっている。
「……、水戸さん?」
がちゃりと鍵を開けてドアノブを捻る。ドアはひとりでに開いて、そこにもたれかかっていた男ごと室内に入り込んできた。
いきなり目の前が水戸さんの肩で圧迫される。
——重!!潰れる!!
「ちょ、ちょっと!!」
思い切りよろめいて、壁にぶつかる始末。水戸さんと壁に圧迫されながらなんとか足を伸ばしてドアを閉めた。
……っ、酒臭!!水戸さんからはアルコールの他にも外気の埃っぽい匂いがした。喧嘩してきたらしく手の甲が汚れている。顔は思い切り私の肩口を枕にしているため見えない。くすぐったい。
「水戸さん? も、重〜……!!」
とにかく、なんとかしないと。水戸さんを玄関のマットに寝かせて靴を脱がせてからマットごとずるずる床を引っ張ってリビングに連れ込んだ。顔を見ると、こめかみと口元に怪我してる。消毒くらいしたほうがいいかな、いや、無暗に消毒しないほうがいいとも言うよな、と思いコットンを湿らせて汚れを落としてから、絆創膏を貼っておいた。
「うーん」
ジャケットぐらい脱がしてあげたいけど……。
眉間にしわを寄せて目を閉じている。酔っぱらいってこんなんになるんだな。自分も気を付けなければならないな。
とりあえず片腕ずつ袖を脱がして、引っ張ってジャケットの回収に成功する。もう30分くらい格闘した気がするが、せいぜい10分程度しか経過していないのだろう。
乱れた髪のひとすじが、額に掛かってさらりと揺れる。すうすう寝てる。
そういえば水戸さんって、何歳なんだろう。30代前半?でも、寝顔はもっとあどけなく見えた。……綺麗な顔。どうして普段、いつも不機嫌そうにしているんだろう。
「水戸さん? 水飲めます?」
「ん……」
「み、と、さん!」
ゆさゆさ揺すってみるが目蓋がぴくりと動いただけだった。……だめだ、私にこの人を世話する力がない。
飲水とベッドに寝かせることは諦め、代わりに頭の下に枕をいれてタオルケットを掛けた。そのうち起きるだろう。
電気を消して、自分も寝ようと立ち上がろうとしたとき——。
「わ!?」
ぎゅうと手首を掴まれて体が水戸さんの胴体にぶつかる。何が起きたのかわからなかった。気付いたら捕獲されていた。彼は、はーと長い溜め息をこぼして、もぞりと仰向けから横になる。私を抱き寄せたままで。
「え……」
目の前に、水戸さんの顎や首筋がある。めちゃくちゃ水戸さんの匂いがした。柔軟剤なんかじゃなくて、洗濯石鹸みたいな爽やかな匂いと、肌の匂い。
衣擦れの音が落ち着いたら古いエアコンの稼働音、蛇口からシンクに水が垂れる音、外のバイク音が、ゆっくり耳に入ってきた。どっくん、どっくんと胸をノックする鼓動は私だけで水戸さんのそれは、落ち着いたものだ。寝息も穏やか。私はサイズ的に抱き心地がいいのだろう。水戸さんの手、無意識なんだろうけど胸触ってるし。掴んでもみもみしてくる。動けない。熱い。
どうしたらいい?怒ればいいの!?暴れて離れたらいい?とりあえず、腕から抜け出さなきゃ。このままじゃ心臓発作で死ぬ。
腕の中でもがいていると、抑えつけるように、ぎゅうっと腕の力が強くなった。圧死する。
「……水戸、さん。離してください」
必死に訴えるとフェロモンなのかなんなのか、耳のあたりで、すごいいい匂いがした。彼の頭が動いてすこしだけ私の顔を覗きこむ仕草をする。切れ長の瞳が、ゆっくり私を眺めて細められる。掠れた声が、乾いた唇から零れ落ちた。
「……、暴れんなよ」
「!?」
「一緒に、寝てくれんだろ?」
「……」
なんかまたむにゃむにゃ言って水戸さんは目を閉じてしまう。耳元で囁かれた威力に放心して、抵抗を諦めた。私が暴れなくなったからか、腕はゆっくり落ちてずるりと脱力した。手が、今度はお腹を撫でている。胸と間違えてるのか?失礼だな、この手……。
ため息をついて、私も彼の胸にもぐりこんだ。自分の腕の置き所に悩んですこしためらってから彼の背中に回してしがみつく。
寝れるかな。寝れるわけがないよ。すうすうと寝ている水戸さんが羨ましい。あまりにも刺激の強い現実だから一緒に眠りの世界に連れていってほしい。
でも——気持ちよさそうな顔がかわいいから、眠れなくても許してあげるよ。
*
「うそ、名字さん、?」
はっ、と息を殺して、小さな掠れ声が、耳元にそよぐ。水戸さんの唇と顎と首が目の前にある。重い目蓋を擦って何度かまばたきを繰り返した。視界がクリアになると、水戸さんの表情が見えてくる。
彼もまだ事態が受け止め切れていないらしい。お互いぴったりくっついて寝ていたので体のあちこちが痛い。水戸さんの体、肉がなくて硬いし。
朝が来たらしい。カーテンの隙間から、金色の陽光が射している。
「え……?」
たとえば、異次元に巻き込まれたら人間はこういう反応をするのだろう。彼は、部屋をぐるりと見まわして最後に私を見た。
「………俺、まさか、とんでもねえこと——」
「……えっと、水飲んだほうがいいですよ」
むくりと起き上がってちゃぶ台のコップを手渡す。水戸さんは大人しく一口飲んだ。異次元から帰ってきたらしく彼は「スンマセン……」と片言みたいに言って恐縮している。
「や、だいじょぶですよ。重かったですけど」
「……」
水戸さんはもし江戸時代の武士なら切腹しかねない気迫で反省している。私もまだぼーっとしていたが、だんだん覚醒すると水戸さんが可哀想になってきた。
「大丈夫ですってば。大したことじゃないです。ね、落ち込むことないですよ」
「……」
「あっ、じゃあお酒また持ってきてくださいよ。それでチャラでいいです」
「なにしでかしました?俺」
「え?」
「教えてください」
真剣な眼差し。狼狽するのは私のほうだった。いや別に何もされてないけどね。ただ水戸さんの方は何かしたと思い込んでいるらしい。二人とも服、着てるのになぁ。
「胸と、お腹を触られました」
「……」
「で、抱きしめられてました。それだけ、です。ほんと、何にもなかったですよ」
「何もなかった、だって?体触られて、何もなかったはないだろ」
いや、なんで私が怒られるんだろう……。水戸さんはため息を飲みこんで、喉仏を上下させた。
「怖い思い……させちゃったよな」
「いえ、べつに。まあ、すこし、苦しかったですけどね?」
「……」
「そりゃ、知らない人だったら怖かったでしょうけど……」
口の渇きを覚える。水が飲みたいけれど、水戸さんをなだめるほうが先決だ。
顔が熱い。勇気を出さなきゃ。言え……言ってしまえ……!
「水戸さんなら——いいです。」
水戸さんは、唇を固く閉ざして私を見つめている。苦しい沈黙が流れた。すう、と息を吸い込む音がする。そのあと彼の頬に落ちた筋っぽい影がぴくりと動いた。
「……昨夜はちょっと、ゴタゴタがあって。酒が過ぎて、あんたの顔が……見てえなって、思っちまってさ」
「……」
「だからって押しかけるなんて事……申し訳ない殴られても仕方がねえし、二度と口利いてもらえねえかとも思ったよ」
「……」
「……なのに、許してくれるのかい?」
私が肯くと水戸さんは息を飲んでありがとう、と言った。
昨夜のこと、もし私以外の女の子にしたなら、ショックで立ち直れなったと思う。彼は誤解しているだろうが私は優しい女の子なんかじゃない。水戸さんに知られたくないくらい嫉妬の念を持ち合わせている。
「二日酔いとか、大丈夫ですか?」
「まあ。ちょっとぴりっとするくらいで、大したことないよ」
「よかった。じゃあ、朝ごはん作りますね。水戸さん、シャワー浴びてきてください」
「や。さすがに帰るよ。そこまで世話になるわけには……」
「もう今更ですよ。じゃあシャワー浴びたら戻ってきてください。一緒に食べましょ」
水戸さんが苦く微笑む。寝不足だけど気持ちのいい朝だ。窓ごしの水色の空が今日の快晴を約束している。
彼が出て行ったのを一旦見送ってから、すぐに冷蔵庫から材料を取り出した。やがて隣室から、シャワーを遣う音が響いてくる。鼻歌が聴こえてこないかなって耳を澄ませながら彼の好きそうなごはんを作りはじめた。