悪運は続くもので。元彼から追い出されたあと会社をクビにされた。クビにされたは大袈裟かも知れないけど…まあ、職を転々としていた中で見つけた職場だった。立場は派遣社員でもそれなりに継続して遣ってもらっていたし、そうそう簡単に切られることはないだろうと高を括っていた矢先、ばっさり派遣切りにあったのだ。あ、やっぱクビか。

しかも、元彼と別れる間際に通い始めた教習所を途中で投げ出すわけにもいかず職探しと教習所通いをダブルでこなして私は死ぬほど疲れていた。

梅雨明けの公式な宣言はまだ出ていなかったが、空は真っ青に晴れ上がり、真夏の太陽が容赦なく地上に照りつけていた。くらくらする頭を手で庇いながら歩いていると、前方で通行人の流れが淀んでいることに気付く。流れを遮っているのは、私の想い人——三井寿だった。寿くんが女の子と歩いているのだ。

小顔で巨乳で、コスプレイヤーと言っても過言では無さそうな派手な格好の今どき女子。そんな二人が放つ異様な雰囲気。ただでさえ長身で無駄に美形なので彼は目立つから行きかう人たちは、チラチラと寿くんらを盗み見して通り過ぎていく。

そのまま何食わぬ顔で、寿くんが私に気付いても素通りしてしまうか、あるいは大きく迂回して、寿くんに気付かれないように帰るか……、考えているのもつかの間、その寿くんと、目があった。





 バニラとストロベリー
 スウィートラブ






寿くんと出会ったのは地元民しか知らないスポーツバーの中だった。

こだわりなくスポーツ観戦が好きだった私。わいわい騒ぐというよりかは、お酒を飲みながらカウンターの端に座ってスポーツを堪能するのが好きだった。寿くん率いるバスケットボールチームの選手がそのバーに通い始めたことで彼のチームメイトや友人らの出入りも増え、みんなで飲むようになったのがきっかけで仲良くなった。

バーで会う以外は特に接点はなかったはずだったのに私が元彼に追い出された日、路上で途方にくれているところ寿くんとばったり街中で会い寿くんの家に泊めさせてもらったことから私たちの今の関係が始まる。

ちょくちょくサシでご飯に行くようになったかと思いきや、なぜか寿くんは私が新しく借りた部屋に頻繁に顔を出すようになった。だけど私たち、恋人同士では決してない。寿くんは私をただの飲み仲間くらいにしか思っていないのだろう。それでも私はこの関係が途切れてしまうのを恐れ自分たちの関係性って何ですか?≠ニ彼に追及したことは、ただの一度だってない。

このままじゃダメだよなあとは常日頃思うものの寿くんが私のところに顔を出してくれることに満足して私は、二人が進展するために必要な、あと一歩を、ずっと踏み出せずにいる。


巷じゃ有名な洋菓子店の紙箱の中、ドライアイスの敷き詰められた中にバニラアイスとストロベリーのアイスが二つ。揺らめく白い冷気に顔を撫でられて、いつもと当然のごとく同じお土産を前に溜め息をつく。

「ブースターからのプレゼントか何か?」
「ちげーわ! 買って来たんだよアホ。」

寿くんの訪問は今週三度目なのでつまり今手元には六つもバニラとストロベリーのアイスクリームがあるわけで。私のアパートの冷凍庫は型落ちした小さい代物であるから、ほうれん草や、去年のお餅や鶏肉の合間を縫って、ぎゅうぎゅうに押し込まなければならない。

「うぅん……入るかなぁ」

ブツブツ言いながら在庫整理している私など意に介さず、寿くんが私のベッドの中に潜り込むのが見える。

「何時に起きるの?」
「あン? や……起こさなくていい。おやすみ」

弱々しい声。今にも眠りに落ちていく瞬間の彼の姿。最近うちに来ることが多いということは今、彼女はいないのかなあ……でも——きょう会ったあの女の子は……。

私が今朝目覚めて、また今夜眠る予定のベッドに横たわっている寿くん。淡い色合いのシーツとカバーに包まる見た目も中身も彼との対比は何百回見てもやっぱり変だ。……ダメだ、アイス。一個どうしても入らないや。

諦めて、はみ出し者のストロベリーを食べてしまう事にしプラスチックのスプーンを手にベッドにもたれ掛かってフローリングに座る。ワンルームなので別室という空間がないため、こうして彼が眠りに訪れたらいつも静寂を保つのに気を遣う。

電気を消して、パソコンの画面の照明を少し弱くして。しかしパソコンを前にすると寿くんの存在もすっかり忘れて没頭することができる。だから職探しで忙しい今は、彼の訪問は大変ありがたいものだった。

彼は、眠っているときは本当に存在感がないし、音も立てないし、まるで死んでいるみたいだ。 起きているときは嫌って程に目に入ってくるのに眠ったら電源ごとオフしたみたいに思われる。


履歴書を作成したり、モニターを見ながらアイスクリームを食べたりを繰り返して、疲れて首を回して。ふと時計を見ると、一時間ばかり経過していたので、後ろをそっと振り返ってみる。

さっきは横を向いていた体がいつの間にか仰向けになっていて青白い顔にモニターのぼんやりした光の帯が横切っている。顔だけは変わらず壁側へ背かれていて、その長い睫毛と頬、やや寄せられた眉根のカーブの向こう側は暗闇を重ねている。

自分のすぐ側で眠っている人がいるという状況は何となく、くすぐったくて快くもある。息を殺しているのも楽しくそれでいて時々漏れてしまう自分から発せられる音にも悪戯心をくすぐられる。誰にでもこんなふうな気持ちになるわけではない胸がじわりと温かくなる、この気持ちには——。

また画面に向かってキーボードを叩いていると、肩の後ろから、ぬっと手が突き出てきた。


「わぁ!」

冷たいその大きな手が私の肩を掴んだので、心底びっくりして、跳ね上がる。その瞬間まで、また寿くんの存在を忘れて没頭していたので。

「……いま、なんじだ」

疲れてくぐもった声。振り返ると、私の肩を掴んだままの寿くんが暗い顔で上体を起こしているところだった。私はすぐに画面の右下に表示された時計を見る。

「まだ七時半。寿くん、一時間しか寝てないよ」
「そーか、ああ……よく寝たわ」

ふわぁ〜と声に出し腕を目いっぱいに伸ばす寿くん。いつも起き掛けは頭でも痛いみたく辛そうに見えるけど、今日は特にそうだなと思った。またこの一時間の睡眠で十二時間くらいは起動できるのだろう。

「……なんだよ、アイス食ってたのか」

パソコン脇に置き去りにされた空っぽのアイスクリームの容器。目ざとくソレに気付いて寿くんが「名前の大好物だもんなぁ?」と、したり顔で囁くのを、私は少し白けつつ聞いている。

『アイスっつったらバニラかイチゴだよな』という彼の独断と偏見によって初めは手土産に持ってきていたソレが、いつの間にか彼の中で『バニラかイチゴのアイスは名前の大好物』に変わっていたらしい。毎度まいど与え続けられている私が辟易しているとは、彼は微塵も思うまい。

いや思っているかもしれない。気付いていたとしても「ま、喜ぶだろう」の一言で、またバニラとストロベリー味を買ってくるのだ。

「名前、水飲みてぇ」
「水でいいの?うん、ちょっと待ってね」

立ち上がってワンルームのため短い距離の先にある冷蔵庫に向かう。私がいつも使っている安物のコップに入れた水を寿くんは三口ほどで飲み干した。

「もうちょっといれる?ココに。」
「んあ? あぁ……まだ時間は問題ねえな」

そう言って私のパソコンを覗き込む彼の顔が私の肩に乗る。目の動きからして、右下に表示されている時計を確認したのだろう。……横顔、かっこいいな。そしてちょっと……近いな。

「……家、帰るの?」
「いや、きょう飲み会だ。宮城とか諸星らと」
「え?諸星選手?……ふうん、めずらしいねえ」
「あぁ」

「また宮城のふざけたツラ見なきゃなんねぇ」とぼやく寿くんに私は微笑んで、ベッドに座る彼の足元の床に移動して座った。


「……」
「……」

……突然の、沈黙を感じる。寿くんが私の部屋のベッドに仮眠を取りに来ることは、最近では日常生活の一部になるほどよくあることだったが彼は寝て起きれば、すぐにいつも出て行ってしまう。だからこうして、ベッドのふちに腰かけて、私の部屋の壁をぼんやりと眺めているこの人に対してどう反応すればいいのか、私は分からなかった。

少し前までは彼の前で寛ぎ、のびのびと過ごせたし寝転がって漫画を読んだりだらしなくすることもできた。でも、最近はもう出来ない。無理だ。今ではあんな事をしていたのが遠い昔の出来事のようだ。寿くんは、何も変わっていないのに。


「——そーいや、名前」
「ん?」
「おまえ今日なにしてたんだよ?駅前いただろ」
「あ、うん……。」

わざとそこは触れないようにしていたからどきっとしたし少し傷ついた。あの女の子と一緒にいた寿くん。寿くんからしたら、私に女の子とデートをしているのを見られてもなんともない、わずかでもマズイと思ったりされない、その当然すぎる事実が、分かってたけど……ちょっとだけ、ショックだった。

「教習所行ってたの」
「ほぉ、で? いまどこらへんなんだよ?」
「えっとねー、こんど高速乗るよ。いやー若い子たちには負けちゃうねー……みんなバンバン予約入れちゃってさ」
「なに言ってんだよ、お前まだまだ若けーだろうが。ま、せいぜい死なねぇよーにな」
「うん……」
「免許取ったらドライブ行こうぜ、俺が助手席でハンドルさばき検定してやるよ」
「ええ〜……静かに乗っててくれるならいいけどさぁー」

そのあとは口を噤んで、その傍らにいた女の子の影を必死に思い浮かべないようにしているけれど真っ赤なショートヘアや洋服の柄なんかが、ちらちらと脳裏に焼き付いていてふとしたときに見えてしまいそうになる。

こんなことで悩んで、バカみたいだ。いや、本当にバカなのだろう。私が寿くんの身辺の女の人のことを考えたって、なんにも出来ないのに。仮に私が文句を言ったって、当然寿くんは怪訝な顔をするだけだ。私なんて、ただの飲み友達の一人で男に捨てられた℃Sめな女相手に彼のお人好し精神から生まれた優しさでこうして世話を焼いてくれているだけなんだから。

「で? 職探しはどーなんだよ、いけそうか?」
「うーん……あんまり。厳しいよねえ」
「バーカ、もっとガツガツいけっての」
「私にやれることはやってるもん、不況が悪いのこの不況が!」
「はぁ〜あ、今の若い奴らってのは本当によぉ」
「事実だもん、仕方ないよ」
「まーな。ふーん、不況ねえ……」

大袈裟に溜め息をつく寿くんが、ごろりと床に転がって私の膝におもむろに頭を乗せる。どきっとして体がすくむけれど私の顔の真下にある寿くんの顔を見る。横向きになったその顔は気持ちよさそうにくつろいでいて目を閉じて、なんだか子供みたいだった。

微かに触れる髪の感触とか、首筋とか、そういう重さや質感の触れるところ以外でも私の体はざわざわしておかしくなってしまいそう。膝枕なんて寿くんはしょっちゅうしてくるけど。でも最近はあまりなかった。だからいま、ちょっとやばい。

「まっ、頑張ってんならいいけどよ」
「う、うん……まあ、頑張るよ」
「選り好みしねーでどこでもいいから受けてこいよ。受かったとこから名前が何やりてえか決めたらいいだろ」
「わかてるよぅ……もう。」
「どーせ、メジャーなとこしか受けてねんだろ、あ?急がねえと一年終わるぜ、暗い雰囲気で無駄に歳ばっか取りたくねえだろ」
「はーい……」

膝枕しながら親みたいなこと言われてもねぇと、思うけれど、その発言はやっぱり体に響く。私が一番焦ってるんだから。どこでもいいともまだ割り切れてないけど。でも職探しのことに関しては寿くんが帰ってからじっくり考えてみるとして。今はどうしても、意識が膝の上に傾いてしまう。

「……」
「……」

……髪の毛、案外柔らかいよな、とか、顔を動かすたびに耳が触れるな、とか。じっと見つめてみたいし、頭や顔に触れたいな、とも思うけれど、どれもこれも、私には許されないことだから。

あの、赤髪の女の子ならそれができるのだろう。膝に触れる感触は、同じはずなのになぁ……。


「——やべ。寝ちまいそうになった」
「……寝れば?」
「いや、もう行くわ」

がばっと起きて気だるげに立ち上がった寿くんの膝に残された感触を名残り惜しみながら私も立ち上がる。先に電気をつけて寿くんを追い越し玄関に向かうと、お尻をパァンと叩かれて体が強張った。

「……!!? 痛ったァ〜!なによ!」
「いやぁ?ちっせーケツしてっから叩いてでかくしてやろーと思ってな」
「……なっ!」
「そんなケツしてっから良い職決まらねんだよ」
「ば、ば、ばっかじゃないの!?」
「そう怒んなって。短気だよなー、ほんとお前」
「最低すぎるね。もー、早く行きなよ変態。」
「行くけどよ、言っとくが俺は変態じゃねえぞ」
「そしたら痴漢!じゃーね!」
「うるせぇ!……おう、またな。」
「うん……、またね。」

立ったまま靴を履く背中を見つめる。突然その背中に触れてみたら、このひとはどんな顔をするのだろうか。「あンだよ」と不機嫌そうに言うのだろうか。扉を押し開けて頭をやや屈めて出て行く彼が一度わたしに振り向いた。その目に「好き」と伝えたらどうなるのだろう。出会ったころからずっと、って。

……とても言えない、言えるわけがない。関係が壊れるのがこわいから。「またな、」と挨拶してくれたその言葉が、無くなってしまうのがこわいから——。

ぱたんと閉まった扉を見ながら、アイスクリームだらけの冷凍庫を思い出して、ため息が出た。









その通知を受け取った直後にがちゃりと扉を開けて寿くんがやって来たのは本当に何かの関連性があったとしか思えなかった。だって、タイミングがよすぎる。それが私にとっていいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。

「名前アイス買って来たぜー……って!おまえどーしたっ!?」

例のアイス屋さんの箱を提げた寿くんが私の顔を見るなりガニ股になって大げさに驚いて見せる。パソコンの前にへたり込む私は、呆然としながら無言で茶封筒を彼に突き付けた。

「……あ? なんだよ、これ」

躊躇いながらも開封している中から長い指が一枚のコピー用紙を引っ張り出す。かさりと音を立てて文字を読んだ彼の顔が一瞬険しくなるのを見て私はその紙の内容が私の見間違いでなかったことを知り、再度、絶望の淵に立たされた。

「……ご縁がなかったって書いてんな。なんだよダメだったのか」
「……」
「まァ、気にすんな、他になんぼでも良い会社はあんだろーが」
「そこ……第一希望だったの」

最終選考まで残ったのに……と呟く私に寿くんがほぉ、と軽い調子で相槌を打つ。彼は座りこんでいる私の前にアイスの箱を置いてベッドにどかっと座った。

「くよくよすんな、ダメだったもんはダメなんだからよぉ」
「もうやだ。あんなに頑張ったのに……」

毎日のように職探しをして、何件も説明会はしごして、行ったこともない土地で迷子になって、勉強、面接、じめじめした空気、汗、ため息、満員電車、ダッサい就活用の髪型とスーツと靴。何年も前に使ったのをクリーニングまでして挑んだのに……もうやだ。

「あはは、」
「……」

笑いながら自分が可哀想だなーと思うと、あ……何かほんとに惨めな気持ちになってきた。それに寿くんには、あの赤髪の女の子がいるし。

あの女の子の家では一緒のベッドで彼女を抱いて寝るのだろう。手料理も食べるし、髪を触ったり触られたり、私にするみたいに説教するんじゃなくて、優しいことを言ったりするのだろう。アイスクリームじゃなくて、ダイヤモンドとか、洋服とか、そういうのを手土産に持って。私だって、寿くんが好きなのに……。

「オイオイ……、なにも泣くことねえだろうが」
「泣いてないよ」
「んならその目に溜まってんのはなんだ、ヨダレかよ?」
「目にゴミが入ったんですよぉー」
「……なあ、こっち向けって名前」
「そっち向いて仕事が決まるなら向く」
「ほんっと、お前はガキだよなぁ……」

うんざりしてるのか呆れているのか、面倒くさいのかよくわからない感じの弱った声が聞こえる。寿くんが俯く私の隣に座りなおしたとき涙がぽろっと膝に落ちた。どうして、よりによっていま、寿くんがいるのだろう。いなかったら私、絶対、泣いてなかった。泣いてなんかなかったのに……

どうして寿くんの前では、心がいつも剥き出しになってしまうのだろう。一番、隠し通したい相手なのに。


「あーあ、しゃーねぇ。ハイハイ、よーしよし」
「……」
「名前は本当に頑張ったって。」
「……っ、」

彼の大きな手が私の背中をぽんぽんと叩く。本当なら、そのまま抱き締めて欲しい——。

「名前ちゃんはよぉーく頑張ったぜ、なあ?えらい、えらい。大したもんだ」

珍しく甘い声を出す寿くんに、一体この人どんな顔しているのだろうと横目で顔を窺うと、なんとニヤニヤしていた。こともあろうに。

一粒こぼれてしまったら涙がぼろぼろと出てきて驚かされる。普段滅多に涙なんか出さないものだから、蓄積されたストレスや、まったくどうでもいいことの分まで、どんどん涙腺から溢れてくるようだ。

「そうだよ、わたし頑張ったよ。集団面接だって一番頭よさそうなこと言えたし。それなのに……私を採らないなんて、なに考えてんだろうね!」
「そーだな!俺が社長だったら一発で採用してたぜ!ンな先の見えねえ会社はお断りしてやれ!」
「……お断りされたのはわたしなんだけどね。」
「急に真顔になんなよ……、ったく。」

浅く息をついた寿くんの私の背を叩いていた手が私の頭に触れる。その手が、頭の一番てっぺんを撫で始めた。びっくりして寿くんの顔に顔を向ける。そうしたら、顔と顔が思ったより近くて。

「……、」
「……あン?」

怪訝な顔をされて、我に返った。わたしが赤髪の女の子なら、絶対そのままキスしたくせに……。


「……慰めてくれてどうもありがと」

ぶっきらぼうに顔を背ける私は本当にまるで子供みたいだ。結局、私の希望なんて一つも叶わないのだ。そういう人生、そういう運、そういう人間なのだ、私なんか。

このまま私はどこかブラックな会社に入って、たぶん、寿くんのことを引きずったまま、いいのか悪いのかよくわからない人と結婚して、寿くんと離れていってしまって、あと十年もしたら何もかも忘れてしまっているに違いない。

お先真っ暗なことを考えていたら、涙は止まったけれどますます気分が落ち込んでいく。なんか、もう……消えてしまいたいよ……わたし。

「ほんとごめんね寿くん。もう大丈夫、寝にきたんでしょ?」

寝なよ、と言いながら力の入らない手で彼の手、私の頭を撫でる手を、やんわり退ける。さっきはニヤニヤしていたのに、今度は不機嫌そうに顔をしかめた彼の顔が、顔を上げた先にあった。

「——いや。やっぱ今日ンとこは帰るわ」
「え?なんで?気にしないで、寝ていってよ。私もう大丈夫だし」
「大丈夫そうじゃねーだろうが。俺は邪魔みたいだしな、消えることにすらぁ」
「え?本当に帰るの?なんで?」
「バカ!惚れた男でも呼びつけて慰めてもらえ」

いま呼ばねえでいつ呼ぶんだよ、とか、勢いで押し倒してみろ!とか有り得ないことを言うので、唖然としてびっくりして寿くんの顔をじろじろと見つめる。何を言っているのか、よくわからなかった。だって、惚れた男って目の前に……え?

「………。なんの、こと?」
「名前、最近好きな奴いるらしいじゃねーか。隠さなくてもいいぜ?宮城も言ってたわ、名前チャン最近、急激に綺麗になったーって」

宮城さんの声真似をしたかと思いきや、とりあえずダメ元でもいいから連絡してみろとか、俺でも分かるわ、バレバレだぜ、とか。バーの奴らには黙っとくから安心しろ、とか。どんな男かチェックしてやろうと思ったけどよ、きょうは目ェつぶっといてやる、とか……。

腹が立ちすぎて眩暈がしてくる。なにを見当違いなことを言っているのだろう……信じられない。


「寿くんはねぇ………」
「……あ?」

震える声で顔がかーっと熱くなっていくのを感じながら私は自分の足元のカーペットを見つめた。

「寿くんはいいよね!だってバスケの才能あるし自由だし、かっこいいし人望あるし、モテるし」
「は?……おぅ、まぁな」
「それに、すてきな彼女もいるしっ」
「あぁ? 彼女だあ?……」
「わたしみたいな馬鹿に出来る暇つぶしの相手もいるし。満ち足りてるよね。楽しいだろうね。」
「……」

一瞬ぽかんとしていた寿くんが、ぐっと力強く、眉間にしわを寄せるのが見えた。

「お前……心の病気にでもなったんじゃねえよな?」
「違う!けど、そうかもね!!」
「はぁ?何だぁ?じゃあ酔っぱらってんのか?」
「もういい!わたし、ひとりになりたいの、帰ってくれる?」
「あぁ?……」
「——帰って。二度と来ないで」
「……」
「……」
「なんなんだよ……ンならもう来ねーよクソ。」

自分のうなじを撫でながら寿くんが立ち上がる。私はカーペットに俯いたまま、彼の脚が動くのを視界の端で見ていた。その影が玄関に行き一瞬で靴を履き扉を開けて、出て行って。——バタン。


「……。」

数秒してから、寿くんが本当は出て行ってないんじゃないかと期待して玄関を見たがもう誰もいない。当たり前のことだ、いるわけがない、あんな暴言を吐いといて。

「……はァ。」

私って最低だな……と思いながら、膝を抱えて、ようやくテーブルに置かれたアイスの箱に気が付いた。中を開けてみると、相変わらず保冷材に守られたバニラとストロベリーのアイスクリームが入っている。触ってみると溶けかけて紙の容器がすこしふにゃふにゃしている。慌てて冷凍庫に!と思ったけれども、そういえば冷凍庫、いっぱいなままだった。もう、入らないや。

寿くん……どう思っただろう。本当にもう二度と来ないかもしれないな、と思う。

よく考えてみれば寿くんみたいな傍若無人な人がいつも同じ代物だとはいえ、手土産を買ってくること自体大変なことなのではないか。こんなに毎回忘れずきっちり持ってきてくれているとなるといつも彼が眠気を感じて、私の部屋にくるとき、一緒にアイスクリームをセットで連想している、ということになる。

私が喜ぶと思って。私の大好物だと思って。それなのに私……もういらないのにと思ってた。しかも、二度と来ないで、なんて、言ってしまった。出会ったときから、元彼に捨てられたときだってなにかとずっと面倒を見てくれていたのに……。

さっきだって、私が落ち込んでるから、よかれと思ってあんなことを言ったのだ。百パーセント、私を思いやっての行動だったに違いない。それなのに私………何てことを言っちゃったんだろう。


「……っ、」

追いかけて謝らなきゃ、でも、なんて言えばいいのだろう?もういっそのこと、全部打ち明けてしまおうか?そのことで寿くんに掛けてしまったストレスが軽減されるなら、私の恥ずかしさなんてどうでもいい。好きだから、素直になれなくて、かっとなって、当たってしまいました。ごめんなさいって。

………そうだ。後ろめたさも気まずさもこれからの私と寿くんの関係性も、もうどうでもいい。 寿くんが、私のせいでいやな気持にならないことのほうが大切だ。追いかけていって、言ってしまおう。全部、隠していたこと、ぜんぶ。

「……よしっ、」

急いで立ち上がろうとしたとき、ガチャ!と勢いよく扉が開いて、私は硬直した。入ってきたのは寿くんだった。彼は顔を神経質そうに強張らせてたいそう立腹した様子で「オイ名前!」と、声を張ると、ズカズカ部屋に上がりこんで来た。

「寿くん……」

よろけながら立ち上がる私の顔を寿くんがじっと見据える。冷静に考えれば彼が戻ってきただけのことなのだがあまりのことに思われてまるで瞬間移動にでも遭遇した気分で私は呆然としていた。

「ひとつ……訊きてえことがある。いま、やっとわかったぜ」
「え? え……、なに?」

こめかみのあたりに力を入れて顔をこわばらせた彼が、躊躇わず早口に言う。

「名前、おまえよ、俺に惚れてんだろ?」
「えっ!?う……うん。」

急いで肯くわたしに、寿くんは今世紀最大級に顔を歪めた。

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