愛の言葉はむずかしくて(1/5)

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  • ——たとえば小さい頃、お父さんとお母さんは生まれつきお父さんとお母さん≠ニいう生き物で先生は先生、お医者さんはお医者さん以外の何者でもないと思っていたのと同じように芸能人やスポーツ選手のような有名人はあくまでも有名人であって自分とは別の生き物のような気がしてた。

    それなのに大人になった今では好きな人と憧れの人や、愛と恋すらも区別できないような、ダメな人間になってしまったよ。

    というよりも、大人になってから学ぶ区別のほうが難しくて複雑なことばかりで、未熟者の私には未知の領域すぎるのだ。そもそも好きな人と憧れの人って結局、自分の中では特別な存在に変わりはないでしょう?それに愛と恋っていったい何が違うの……?

    いまだによく、わからない。









     の言葉はむずかしくて





    わいわいと賑やかな居酒屋の中。花金だからか、誰もかれもが明るく酒を飲み交わしているように見えて、それがまたやるせない。

    アルバイトのお兄さんにビールの追加を頼んですぐに運ばれてきたジョッキを一気に呷る……が、まったくおいしくない。これは困ったものだ。

    「名前ー、そろそろやめとけって」
    「同感だ。ただでさえ酒に弱いくせして」
    「だって!!飲まずにやってられるかっ!わたし失恋したんだよ!?」
    「10回目のな」
    「うっさい、ノブ!」

    グーを作ってドン!とテーブルを叩きノブに噛み付けば「唾飛ばすなよっ!」と私以上に興奮して反撃の如くわーわー怒鳴り散らかしてくるノブ。

    「お前も懲りないな。そろそろ諦めたらどうなんだ?お前には高嶺の花だろ、神は。」
    「牧さん……。いや私だって諦められるならもう最初の告白を失敗した段階で諦めてますってば」
    「その告白第一回目はいつだったかな」
    「………大学、一年生のときです……」

    さっきノブが言った通り今回で10回目の失恋。相手はノブの先輩で、牧さんの後輩、神宗一郎。牧さんのいうことも分かっている。私には、手の届かない存在だって……でも——。

    「好きなんだもぉーん!神さァ〜ん!!」
    「……はぁ。だから毎回こうして失恋パーティー開いてやってんだろォ?さっさと立ち直れよー」
    「毎回それ言うなっ!パーティー言うな!!でもいつもありがとうノブ、牧さん!!」
    「相手が違うだけでお前も負けず劣らずだからな清田」
    「牧さァん!俺はいいんすよー、新しい恋見つけたんですからァ!」

    今の彼女とゴールインするんだぃ!と意気揚々と叫んでいるノブには申し訳ないが今回もそろそろ破局のタイミングだろうなと厳しいことを心の中で考える私と牧さん。

    ノブとは大学の頃に知り合って今では兄妹とまではいかないけれど、一番気心のしれた友人だ。そしてノブと仲良くなったことで牧さんや神さんと繋がったというわけ。

    どうやら三人は高校が同じで、部活もバスケ部で一緒だったらしい。なにやら強豪校にいたんだとか。それでもそのバスケを職業にしたのは三人の中ではノブだけでノブはいまやプロのバスケットボール選手。ノブは長いことB2で活躍していたけれど二年ほど前にチャンピオンシップでも常にファイナルまで勝ち進んでいる横浜アルビレックスというチームに移籍して今では横浜アルビレックスの看板の内の一人だ、こう見えて。んで愛称はキヨナガ。ださいよね、絶対ノブがいいと思うんだけど。

    はじめは全く興味のなかったBリーグ、正式名称ジャパンプロフェッショナルバスケットボールリーグ。ノブからの熱烈な勧誘により初めて試合を観に行った二年前からまんまとハマった私。現在はノブと同じチームに所属している、ミッチーの愛称で有名な三井寿の大ファン。彼がこのチームをここまで伸し上げたとも言われるほど三井寿と横浜アルビレックスの絆は深い。もちろんノブよりも前から三井寿はチームを支えてきたのでノブからすれば大先輩にあたる。たしか歳は牧さんと同じとか言ってたかな。

    そもそもバスケが好きになったというよりも三井寿のプレーに衝撃を受けてバスケットに憑りつかれただけの話。そんな私も今ではノブのチームのれっきとしたブースターだ。

    ちなみにNBAでの日本人選手の推しは流川楓。ノブには三井寿より流川が好きだと言っている。特に理由はないけれど親友のチーム内の人を本命だっていうのがなんか恥ずかしかったから。ただそれだけの理由。そして余談だけれど、牧さんと神さんは大学病院のお医者さん。エリート医師。

    初めて会ったときから私は神さんが好きだった。三井寿が憧れの人だとすれば、神さんは憧れではなく確実に好きな人、という部類に入るだろう。


    「バスケにハマってるならある程度は充実してるじゃないか。趣味があるのはいいことだぞ」
    「そうですけどぉー、私の本命は海外ですもん」
    「ああ、流川か……たしかにあいつは男前だな」
    「でも牧さん、こいつ神さんとか流川が好きとかいってますけど、Bリーグの中では誰の推しだと思います?」
    「そうだなぁ、神や流川とくれば……わからん」
    「今絶対ちゃんと考えてなかったでしょ!三井!あの炎の男、三井寿っ!!」

    私が声を張れば牧さんは意外だったのか少しだけ目を見開いた。そして「三井って……なるほど」と納得したんだかしていないんだかよくわからないリアクションをする。てかそもそも、興味ないんだろうな、私の好きなタイプなんて。

    「三井はたしか今、清田と同じチームだったか」
    「そっす、そーす。三井寿にお熱なんですって」
    「三井も今のチームに入って長いだろう?」
    「ですねっ!まあ、その辺は俺なんかよりこいつの方が詳しいんじゃないですかねェ?な、名前」
    「……よく知らないよ?三井寿のこと」
    「カッカッカ!よく言うぜ、いつもミツイミツイって興奮して、真ん前で応援してるくせにっ♡」

    もしかして実は流川より三井のほうが好きだってノブにバレてるんじゃ………だめだめ!そしたら次回のシーズンから観に行きづらくなっちゃう。雑念は取っ払って三井を拝みたいんだ私は。よしここは平常心でさらっと受け流そう。

    「別に?私は横浜アルビレックス愛なだけ」
    「またぁ〜どーせ好きな理由は顔だろ?お前も」
    「はぁ〜!?違うもん!私はそんな不純な理由でバスケに興味持ったんじゃないっつーの!」
    「へェてっきり三井さんの顔が好きかとばかり」
    「私はあの頃、流川楓のプレーを見てバスケに足を踏み入れたの!んで三井のスリーポイント見て感動しただけだしっ!」
    「たしかに三井のスリーは、レベルが高いな」
    「ねっ、牧さんもそう思うでしょ?やっぱ三井のかなめはスリーポイントですよっ!」

    言ってスリーポイントのフォームを真似たとき、ガシャーン!と自分のグラスを豪快に倒してしまいノブが「バッカ!!」と立ちあがった。牧さんはすぐに「すみません」と側を歩いていた店員にタオルを持ってくるようお願いしていた。

    「ごっ、ごめん、ふたりとも……」

    急にテンションダウンして謝る私に牧さんは気にするなと手を翳すし、ノブは小言をつきながらもせっせと店員が持って来たタオルでテーブルを拭いてくれている。あらかた綺麗になってまた仕切り直そうとノブが追加注文しているのをぼんやりと見ていたら私の横に座る牧さんが場を和ませようとしたのか「たしかに」と、話を振ってきた。

    「神と流川ならなんとなくタイプとして分かるが三井が好きとは意外だな」
    「えっ、そうですか?」
    「ああ。何と言うか、属性がまるで違うような」
    「属性って……あーでも憧れと好きな人って違うくないですか?」
    「ん?……そういうものか?今時の若者の思考はよくわからんな」
    「牧さん私と歳ちかいくせに何か年寄り臭いよ」

    そのとき酔っ払い共(私とノブ)の介抱のために酒を飲まずして烏龍茶を飲んでいた牧さんのスマホが着信を知らせた。

    「——悪い、電話だ」
    「おっ、病院から呼び出しっすか?牧さん」
    「多分な。戻れないだろうから名字を頼んだぞ、清田。ちゃんと家まで送り届けろよ」
    「わかってますって!まっかせてくださいっ!」
    「えー、牧さん行っちゃうのー?」

    牧さんはスマホに映し出された着信相手の名前を確認したあと何故か私を一瞥する。私は反射的に首を傾げた。

    「ん? 牧さん、電話でないの?」
    「お前の大好きな神がお呼びだ。名字、酒も程々にしろよ」
    「えっ!?うぅ……じ、じん、さん!」
    「あー、もう!また泣くぅ、めんどくせーなー。ほら牧さん!こんな奴ほっといて、ね?」
    「……ホントに、任せたからな清田」

    ノブに念押ししてお店を出て行く牧さんの後ろ姿を見つめながら牧さんが彼の名前を出したせいでフラれたショックを思い出してしまい鬱々とした気分になってしまう。

    今回も清々しいほどにばっさり一刀両断だった。メソメソと追加のビールを頼みながら「私の何がいけないんだろう…」と心の声が思わず漏れる。

    「そりゃあ、コドモだからじゃねーの」
    「……え?どゆこと、」
    「お前ってさぁ、大学ンときから神さん一筋で、そっからオトコ作ったことないだろ?」
    「……ぐっ」
    「てか、ずーっと俺らといたから友だちも少ねェだろうしな」
    「だ、だって……神さんが好きだったし、」
    「それが悪ィとは言わねェけどさ、おまえオンナっぽくないんだよなァー」
    「オンナっぽくない……」
    「そっ。さっきの酒ぶっ倒したりもそうだけど。だから神さんの恋愛対象に入らないんだろ?って話。俺もお前はないし」
    「わたしもゴメン、ノブだけはない……」

    自分が言い出したくせに「なにィー!?」と拳を振り下ろすノブがわけわからん。とにかくつまり色気がないってこと?遊び人になって勉強しろってこと?でも神さんを好きになる前は私にだってそれなりにちゃんと男性との経験もあったんだけど……と思考が迷走しはじめる私の隣でノブが「あっ!三井さん!」と手を高く挙げことで一瞬にして時が止まる。

    「こっちこっち」と尚も手をブンブンと振るノブを凝視して背後を振り返ることが出来ずにいる私。うるさいはずの居酒屋の店内の音が消えて、こちらに向かって来る軽やかな足音だけが鮮明に聞こえるような感覚。三井……?……は?いま、「あっ!三井さん」って言った?

    さっきまで牧さんの座っていた私の隣の椅子が、ガタンと引かれたとき心臓がドクンと高鳴った。めちゃくちゃ良い匂いが横からしてきたと同時にその相手が隣に座ったのが目の端に映る。ノブはそんな私を見てニヤニヤと意地の悪い顔をする。

    「清田、牧は?」


    ——きよた、まきは? とは……?

    脳内で何度もリピートされる「清田、牧は?」の台詞。この声……低くて、でもどこか落ち着いた色気もあって……え、嘘だよね?ノブ。いま私の隣にあの炎の男、三井寿≠ェいるなんてそんな夢みたいなこと言わないよね……!?

    「牧さん、いまさっき急用出来て帰っちゃって」
    「なんだよ、会いたかったのにな。つか何飲んでんだ?俺にウーロン茶注文してくんね?」
    「えっ?飲まないンすかぁー?」
    「車で来てっからな。ほんとならビール飲みてえけど」

    ほんとならビールのみてえけど——ほんとなら、ビール飲みてえけど……本来一発目はビール飲む派なんですね!?——だめ、くらくらしてきた。顔も赤い気がする。ノブ、だめ。助けて——!!

    「ウーロンね。すんませーん!烏龍茶ひとつ!」
    「……てか、清田の女かよ?」

    その言葉に思わず隣にガバッと顔を向けてしまった。勢いあまって。ぱちりと目が合った人物は、やっぱり夢じゃなくて私の推しの子、三井寿で。

    「……」
    「……」

    やだ、肌白い。つやつや。赤ちゃんみたい。てか肩幅広い……ノブで見慣れてたはずなんだけど。やっぱオーラが違うんだ、きっと(ノブごめん)てかっ!そんなことより!私はノブの女じゃないです!!

    「違い——「やめてくださいよ〜、大学ン頃からのダチっすよ!」

    思い切り否定しようとしたのにノブがそれを遮って本当に迷惑そうに手をブンブンと顔の前で振るので今度はノブの方を見て睨みをきかす。すぐに烏龍茶が運ばれてきて一応三人で乾杯したけど手が震えて大事故だった。バレてなきゃいいなって思うけどきっとノブにはバレバレだったと思う。


    ——と、いうわけで……
    自然と緩やかに会話は進行していくのだけれど、ノブがマシンガントークしてるせいで口を挟む間もなく時だけが過ぎていく。あとさっきから姿勢を正してるせいで腰も痛い。緊張してて肩も張っていて痛い。バッキバキに体が痛い、死にそう。

    途中、たぶん気を効かせてくれた私の推しの子がノブと私の関係を深堀りしてたけどノブは「うちのブースターになれって強引に引っ張ってきたんス」とか「前言ったじゃないすかー、友達に流川推しがいてって話」とか淡々と説明してて、その話の中で神さんという医者に長年片思いしてるということは言わなかったことだけが救いだった。

    だってわたし、神さんの名前をいま出されたら、たとえ目の前に推しの子がいたとしても場もわきまえずわんわんと泣いて神さんへの長年の想いを語りあかしてしまいそうだったから。それくらいに神さんに振られたダメージは大きかったのだ。


    「——てか、うちのブースターだったんだな」
    「……へ?」

    私に話しかけてる?と思って、チラッと横を盗み見ればテーブルに頬杖をついて口角を吊り上げている推しの子——こと、炎の男、三井寿。

    「あ……はい。ずっと前からノブに誘われてたんですけど、ようやく足を踏み入れたのはここ二年くらいの話で……」
    「ふーん。ま、これからも応援よろしくな」

    頬杖をついていないほうの手を差し出して握手を求めてきた推しの姿に私は一気に目頭が熱くなる。一度その幸せを噛みしめるかのように下唇を噛んだあと私は「ハイ……」とすこし俯き加減でその手を遠慮がちに握る。

    「ふはッ。手ェ、あっつ。ヤケドしちまう」
    「あ……!す、すみません。緊張して……」

    三井寿の手は柔らかくて繊細で。そして、すこしだけ冷たかった——。

    手を離したとき、ふと視線を感じて正面を見ればノブが目を細めて小さく笑った気がしたけど、それは脳内お花畑状態の私が見た、ただの幻想かもしれない。

    結局それからノブと三井寿は親し気に会話を進行していくんだけど、やっぱりどうも会話が耳に入ってこない、緊張しすぎて。ぼんやりと二人の会話を聞き流しながら私の推しも牧さんを知ってる口ぶりだな、なんでだろ?なんて考えていたら、今度はノブのスマホが着信を告げた。

    「なまえ!」

    なまえとはノブの今の彼女。しかし喜色を浮かべて電話に出たノブの顔がだんだん青くなる。次回はノブの失恋パーティーだな。と、もうほとんど働かない頭の隅で考えていると慌ててノブが財布を取り出す。

    「わり!急用! おまえ一人で帰れるよな!?」
    「えっ!? だ、だいじょぶ……だけど。次回はノブを慰めてあげるね……?」
    「縁起でもねェこと言うな!あ、三井さん、また明日!」
    「おぅ、気ィつけて帰れよ」
    「はい!」

    あっという間に居酒屋を飛び出していったノブを見送ってひたすらビールを呷る。空になったビールジョッキをぼんやりと眺めてそれからのろのろと会計をしようと立ち上がると推しの子が「へっ帰んのかよ?」とか言ってきてまた時が止まる。

    「え……帰りませんか?」

    酒なんかちっともあてにはならない。だって一言声をかけられただけで一気に赤面してしまうし、声は震えるし。それを酒でごまかすなんて出来そうにない。目も合わせられない。ノブと飲んでるときは、「流川と三井の好きなとこはねっ!」と熱弁してたのに本人を目の前にしたこんなときに話を繋げるためだとは言え、その褒め言葉ひとつだって出て来ないんだから参ってしまう。


    「——じゃあ……もうすこし、飲んで……いこうかな、アハハ」
    「よっしゃ追加注文すんな、ビールだったか?」
    「あー。えっと…………いや、日本酒で。」


    こんなの……いつも飲んでるようなアルコールで切り抜けれるはずがないでしょうが。出来ることなら、テキーラをショットでキメたいくらいにはすでに酔いなど疾うの昔に覚めてしまっている。








    ——頭が割れそうに痛い、二日酔いだ。

    何度も経験したことのある痛みに額を抑えながら身体を起こす。朝だとは思うがあの二日酔いの朝特有の頭痛と共に瞼の裏に感じる不快感がない。もしかしてまだ夜明け前なのかと思えばもったいなく感じる。

    二度寝しようにも気怠い身体は水分を欲していていつも枕元に置いているペットボトルを探るも、一向に手に触れない。用意せずにそのまま寝てしまったのかといまだ目を閉じたまま溜め息をついてベッドに腕を戻す。そのときに触れた感触に、ここではじめて違和感を覚えた。

    「……ん……?」

    なんか隣、あったかくない?
    私の、ベッドじゃ、ないような……?

    そこでようやく目を開ける。薄暗い室内は、完全遮光のカーテンのせいで外の光が入らない。まったく見覚えのない部屋に置かれた大きなベッド。そこで寝ていた自分と、見知らぬ男の姿に一気に血の気が引いた。二日酔いじゃない頭痛に、顔がどんどん青くなっていく。

    「……」

    ……もしかして、もしかする?

    頭がはっきりしてくると体の感覚もはっきりしてくる。あらぬところが痛むのはそういうことなのか。足の間を伝うのはもしかして、とガクガクと顎が震える。一応ベッドの隣に置いてあるゴミ箱を恐る恐る覗いてみる……が、ない。


    「……ねえ、よな?」
    「……ない、ですね」
    「……」
    「………———!!?」

    背後から声が聞こえて今さらぎょっと振り返る。こちらも寝起きらしい相手、まさかの炎の男——推しの子、三井寿が、私の背後から私の肩に顎を乗せてゴミ箱を覗きこんでいた。

    「……っ!!?」
    「……あ?」
    「……………みっ、……えっ!?」
    「マジかよ……もしかして、覚えてねえのか?」
    「——っ申し訳!ございませんンンっー!!!」

    咄嗟に土下座をかました私に三井寿が驚いたように目を丸くした。それでもすぐにハァと溜め息をついて都合の悪そうに言う。

    「普段なら、こんなことはしねぇんだけどな……加減も出来てなかったしゴムすらつけてなかったみてえだ」
    「!!!?」

     や、やっぱり——!!!?

    「とりあえず今からでも処理したほうがいい……一人で出来るか?」
    「そ、そうですよねっ!やる、やりますから!」

    推し相手にそんなことまでされてはたまらないと両手を突き出しぶんぶんと振る。慌ててバスルームに駆け込もうとしたが腰が痛くて蹲る。けれど次の瞬間、私の身体が宙に浮いた。

    「うぉ!?」
    「安心しろぃ………運ぶだけだ」

    人生初の俗に言うお姫様抱っこに思わず目の前の首筋に縋り着いた。想像していたよりも安定感があって無遠慮にも目の前の胸板をまじまじと見つめてしまう。

    「……筋肉、すっごいですね」
    「あのなぁ……お前はもうすこし危機感を持った方がいいぜ」
    「あっ。すみません……」
    「……いや、いいけどよ」

    バスルームに下ろしただけで何もせずに踵を返した推しにきょとんとして、やっぱかっこいいなぁなんて思う。

    「——いやいやいや!」

    今はとりあえず出されたものをなんとかしなければと、私は躊躇いながらもそこに指を伸ばした。シャワーの音がまだ止まない頭痛に追い打ちをかけるかのように脳の奥までズキズキと響く。

    なんか……体の力が入らないや。まさに骨抜き?なんつって。……なんで覚えてないんだろう、ほんとはただ酔っぱらった私をホテルに連れてきただけで身体は重ねてないんじゃ……いやいや、じゃあ今処理したものはなんだって話だ——早く、現実に帰らなくちゃ。

    色々な意味で疲れ果てて部屋に戻れば推しがまだそこに居てぎょっとした。普通こんな場合って、いなくなってるもんじゃないの?と軽く混乱状態の私に息を吐いてスーツに着替えた三井寿が私にタオルを被せてきた。

    「わっ、」
    「まだ髪が濡れてるぜ?風邪をひいたらどうすんだよ。拭け、それで」
    「は、はい……ご、ごめなさい……」

    スーツ持って来てたのかな?昨日は私服だったよね?——いや、私が緊張しすぎてて私服だったのかスーツだったのか覚えてないだけかも。あー、もう。なにがなんだかわかんなくなってきた。

    「ん」
    「へ?」
    「これ、俺の連絡先だ」
    「……」

    固まる私を一瞥した推しが、連絡先を書いた紙を渡してきたので私は更に驚いた。普通はこのままヤり逃げするだろうに随分と律儀な人なんだな。

    「もし問題があったら連絡しろよ。まあ……問題がなかった場合でも、してくれると助かる」
    「えっ、あ!わ、わざわざすみません、ほんと」

    私も慌てて自分の番号を書いて手渡すと彼はそれを財布の中にしまった。へぇ、長財布使ってるんだ、意外だ。ミニマリストっぽいのに。三つ折りの小さな財布とか持ってそうなのになあ……

    「そろそろ出れるか?家まで送っていくぜ」
    「……えっ!?あ、いやっ……そこまでご迷惑をおかけするわけには……!」
    「つっても……動けんのかよ?」
    「うっ、」

    正直、初めてではないはずなのに経験したことのない痛みに、立っているのもつらいのが現状だ。私は諦めて、推しのご厚意に甘えることにした。


    めちゃくちゃ高そうな車の助手席のドアをレディーファーストの如く開けられたとき、今朝目覚めて隣に推しがいたときの衝撃よりも大きな何かに心を揺さぶられた。

    ——ここを踏み入れたら、もう今までの生活には戻ってこられない気がしたから。

    隣でシートベルトを締める仕種を盗み見る。運転席側のサンバイザーに入れていた駐車券を取り、人差し指と中指でそれを挟んで、エンジンをかけ車を発進させた彼の動向までも一部始終を目の端で追っていた。私のぐちゃぐちゃとした感情とは裏腹に車は静かに進んで行く。

    『——料金は……円です』
    「しっかし、すげえ偶然だな。びっくりした」

    コインパーキングの出入口に設置されている機械から声が聞こえてきて慌てて財布を取り出したけれど、さっさと料金を支払い終えた彼に呆気に取られていたら急にその彼が話し出すからびっくりする。

    「……偶然、とは?」
    「あン?うちのブースターなんだろ?まあ清田の知り合いって言ったら自然とそうなるか」
    「まぁ…………はい」

    ——いや。もうびっくりとか、そーいうレベルの話ではない気が……。たしかにノブは友達だけど三井寿がノブと違うチームだったら私は確実にそっちのチームのブースターになっていただろう。だからどんな出会いであっても流川楓と三井寿の限界ヲタクになったであろう事に変わりはない。

    「ナビに、住所入れてくれると助かんだけど」
    「……え、」

    チラと推しを見れば「ん」とナビを顎で指す私の推し、三井寿。言われた通り画面をタッチする。一瞬、『履歴』という項目を押してみたい衝動にかられたが、それをぐっと堪えて自宅アパートの住所を何とか入力し『目的地に設定する』という文字を押す私の手が、確実に震えている。それを見ていたのか隣からフッと笑う声が聞こえた気がして肩がビクンと跳ねた。

    「ふは。ンなに緊張すんなよ。住所保存はしねーから」
    「あ、はい……すいません……でも……」
    「いや、謝んなくてもいーけどよ」
    「は、はい……でも……もうどうすればいいか」
    「……ったく、なんか俺まで緊張してきちまったじゃねーか」

    「どーしてくれんだ」と言ってる本人は全然緊張なんてしている風に見えないから驚いてしまう。

    「えっ!?緊張!? な、なんで!?」
    「やー、だってほら、昨日はあんなに俺への愛を熱弁してくれてたってのによ?」
    「あ、愛!!?」
    「ベッドの上で。そんな他人行儀だとなんかな」
    「そ、そんな馬鹿な……ほ、ほんとすみません」
    「——いや? 嬉しかったぜ、俺は。」

    信号が赤に変わり、車がゆっくりと停止する。 真っ直ぐと前を見たままで推しは続ける。ああ、横顔がとてつもなくきれいです、はい。

    「でなきゃ、わざわざこうして送ってったりしねーよ」
    「……え?」
    「おれ正直、そんなマメじゃねーしな」
    「——!」

    やっぱり……夢だ、これは。だって現実にこんなことがあるわけないよ。仮にあったとしても、私なんかの身に起こるわけが——

    「……」
    「……」

    ——ない。


    プップー!!という背後の車からのクラクションの音で我に返る。なんで、横に座っていたはずの推しの顔がいま、目の前にあって、私の唇と推しの唇が触れ合っているのかって。

    「……あ?もう青かよ」
    「……」
    「ったく、せっかちな信号だな、オイ……」
    「……っ」
    「まあーでも、俺もせっかちか」

    ふは、と柔らかく、だけどいたずらっ子みたいに笑った横顔を盗み見て、静かに息を整えてみる。そのとき不意に浮かんで来た、ノブの言葉。


     どーやら三井さんはスケコマシらしいぜ


    だけど——今の夢みたいなキスでいきなり夢から覚めた。これは夢物語じゃない。三井寿は王子様なわけじゃないし、神さんでもない。一回寝て、捨てられるのがオチだろう。連絡先をくれたからって愛車でこうして一回だけ送ってもらったからって彼女にしてもらえると思うほど身の程知らずじゃないでしょう?

    じゃあ酔って記憶がないとはいえ、昨日の夜——私はどういうつもりでホテルに行ったんだろう。きっと私もどこかで、こうなることを期待してたはずだ。

    なにもためらうことはない。こんなにすごいこと二度とない。一生に一度の特別な思い出作りだと思えば……今は彼氏だっていないし、後ろめたいことは別に——え?……うしろめたいこと?

    ……神さん。そうだ。
    神さんのことは、どうしよう。

    神さんを思い出して一気に血の気が引くのを感じたとき、信号で止まっていた車を指差し「あ!ミッチー!!」と叫ぶ二人組の若い女の子たちの姿が助手席側から目に入った。それと同時に運よく信号が青に変わり、車が発進してしまったけれど私は咄嗟に女の子たちから顔を背けた。

    俗にいう港区女子みたいな綺麗な子たちだった。ああいう子たちが今の私の立場なら、もっと冷静に、なんなら匂わせとかいうやつですでにSNSに三井寿との甘いひとときをUPしていたんじゃないだろうか。私は出来ない、そもそも覚えてもいないという間抜けっぷり。ほんと、なんで覚えてないの、底なしの馬鹿じゃないのか私は!推しの子と、あの炎の男、三井寿と寝たってのに……!

    え、てか……見られた?よりによって私物の愛車の助手席に乗ってるとこ……ヤバくない?週刊誌に載っちゃう?ワイドショーに取り上げられて。え、やばくない?

    「あ、あの、三井——選手、いや。三井、さん」
    「はぁ?……『サン』?」
    「!!」
    「いつもは『三井』とか『ミッチー』って言ってるくせにな」
    「っ、そ、そーですけど……そんなことより!」
    「あ?」
    「ホテルの記憶飛ばしてる私が言うのもなんですけど!こんな堂々と、女を乗せていいんですか?せめてもっとこう変装とかしたほうが……」
    「変装? しねーな」
    「し、しねーなって……」

    慌てている私と至って冷静な彼。それでも一瞬だけ目を細めて、なんだか遠くを見るみたいに「あー」と言葉を紡いだ彼の声色は、冷たかった。

    「平気だって。俺を付け狙うほど週刊誌の記者もヒマじゃねえよ」
    「……」
    「バスケは野球やサッカーとは違うからな。そこまで人目を気にしなきゃならねーほど、顔知れてねーし、俺」
    「な、なに言ってるんですか!三井、さんは有名ですよ?自覚しましょうよ」
    「それはお前がファンだからだ」
    「——、」
    「普通は知ってて流川止まりだろ」
    「……」

    皮肉っぽい言い方にも聞こえるんだけど、なんか情けないって感じの声色でもある。イライラしてるのか特になんとも思ってないのかつかめないような口ぶり。それもそのはず。だって私、プライベートの三井寿を知らないんだもん。

    「だって、さっきも歩道で女の子たちが指差してたじゃないですか!」
    「あーあれな。びびったよな、うお!って思ったさすがに」
    「思ってない!冷静でしたよ!?めちゃくちゃ」

    彼は私をチラと目の端で見てから小さく溜め息をはいた。めんどくせーなって思ってるのか、何かそんな雰囲気を醸し出して。

    「俺なんて点数めっちゃとる人とか、そんなん」
    「……」
    「どーせ、俺の下の名前すら知らねー奴のほうが多いだろうよ」
    「……そんなことない」
    「あ?」
    「そんなことないもん!わたし的には、三井寿が一番!三井のほうが流川なんかより……あっ。」
    「……ふはは、サンキュ。」

    そう言って笑った炎の男、三井寿の顔は、確実にいまこの瞬間だけは世界で一番綺麗なんだろうなと、このとき思った。


    たとえば小さい頃、お父さんやお母さんは生まれつきお父さんとお母さん≠ニいう生き物で芸能人は芸能人。スポーツ選手はスポーツ選手以外の何者でもないと思っていたのと同じように自分とは別の生き物のような気がしていた。

    けれど、こうして同じ空間にいて私に笑顔を向けてくれる相手は……やっぱりスポーツ選手という枠組みの有名人≠ナしかないのだろうか。

    私と同じように怒るし笑うし、ご飯も食べるし寝るし、動物的本能でセックスもするし……きっと恋なんかもするのだろう。ただの人間の私と一体なにが違うんだろう。同じなんじゃないのかな。






    わざわざ玄関まで送ってくれた三井(さん)は、このまま雑誌の打ち合わせに向かうらしい。スーツは車に常に入れているらしく、それを聞いたときやっぱり昨日は私服で登場したのだということが明らかになり、ちゃんとそれを覚えていた自分に少しばかりほっとした。

    忙しい中、本当に申し訳ないとは思いつつも今はとにかく横になりたかった。三井さんを見送り、なんとか寝室まで歩いてきた私はベッドに倒れ込んだ。

    周りがどんどん結婚していく報告と、ずっと叶わない相手に恋心を抱いている自分に実はうんざりしていて、そんなとき急に推しが目の前に出現して飲み過ぎた昨日のことがずいぶん前のことのように感じる。いっそすべてが夢だったらと思うが腰の痛みがそれを許してくれない。


    「神さん以外の人と、しちゃったよ……」

    こういうのは好きな人とだけ、と神さんと出会ってから漠然と考えていたが知らぬ間にそれを失っていた。一種の願掛けみたいなものだったんだけどな、神さんと付き合うまで、もう他の人とはやらないという。

    なんて馬鹿で、お手軽な女だと思われることだろう。通りでノブの言っていた『オンナらしくない』とはかけ離れるわけよね、こんなんじゃ。

    だけど私は本来そういう女なんだどうせ。だから神さんだって何年も振り向いてくれないわけで。私にだって今まで色々あったし、神さんに恋してからは昔より慎重になっていたつもりではいたけれど、結局わたしは昔から何も変わっていない。

    きっと三井寿の周りにも、私みたいなバカな女がたくさん群がっていて、私はその中の一人にすぎなくて、でもそれを承知の上でなら、昨夜の一晩くらい、夢を見たってかまわないよね?まったく覚えてないから、なんかもったいないことをした気分ではあるけど。

    でも、だからって『でなきゃ、わざわざこうして送ってったりしねーよ』という一言だけで真に受けちゃダメだ。大丈夫、そこまでバカじゃない。やっぱりもう、昔の若かりし頃とは違うんだよ。

    それでも今は、この瞬間の幸せに酔いしれていられたら明日の事なんてどうでもよくなるから。

    大丈夫、覚悟は出来てる。本気になったりしないだって私には神さんがいるから。神さんが今でも好きだから。ただ、ほんのしばらく……夢が見たいだけだ。


    ——そのとき、携帯に着信が入る。画面を見れば相手はノブだった。気怠い身体をのっそりと起こして電話に出れば開口一番『もっしもーし!』とノブの明るい声が鼓膜に響いた。

    『何回も電話したのに出ねーから心配したぜ!』
    「……ごめんごめん、ノブこそこんな時間にどーしたの?いま何してるの?」
    『あー、俺は今からちょっと雑誌の打ち合わせ』
    「あ、そっか。午前中からスーツ着ないとなんだもんね」
    『え……よく知ってるな、なんで?』
    「——!! えっ、」

    ——ノブには言えない。知られたくない。こんな尻軽女みたいなマネしたなんて知られたらきっと軽蔑される。

    「だ、だって!きのう言ってなかったっけ!!?ほら、居酒屋で三井——さ、ん……と」
    『えー?言ったっけっか?』
    「言った言った!超言ってた!」
    『……だ、っけ?覚えてねーなァ……』
    「は、はは……」

    そのあとは昨日大丈夫だったか?とか三井さんとゆっくり話せたかよーとか、そんな感じの質問をされた気がしたけど、のらりくらりと上手く交わしたと思う。ぼーっとしてる間にノブとの電話は終話してた。


    私だって本当はノブみたいに、真っ直ぐに誰かを愛して愛されてみたいんだよ。ノブと牧さんと神さんみたいに強い絆で誰かと結ばれたいんだよ。

    本当は、わたし全然、大丈夫じゃないよ。
    ねえ、ノブ。私のために三井さんを呼んでくれたんだよね?私を励まそうと思って、それで——。私だって憧れの三井寿に一夜限りで捨てられるなんて、本当は嫌だよ。覚えてない自分も嫌だよ。

    でも、なんとなく覚えていることもある。三井寿の髪の毛は柔らかくて、私に降りかかる吐息はマイナスイオンみたいに心地よくて、私はそれを体中に浴びながら一生このまま私を抱いていて欲しいと思った。もう二度と、触れることは出来ないかもしれないのに。


    どうしよう、怖いよ。だけど今さら逃げ出すなんて出来ない。ちゃんと心から愛して欲しいなんてとても言えない。

    三井さんはこっちまで緊張してきたとか言うわりには私を降ろしたあと、颯爽と車を走らせて帰って行ったよ。引き際までせっかち……ゲームの流れなんて追えなくなるくらいのスピードで華麗なスリーポイントを打つ、あの瞬間みたいに。

    忙しい王子様だな……ダメだ——また傷だらけになるかもしれない。だから私も、お姫様ごっこはもうおしまい。やっぱり早く現実に帰らなくちゃいけない。

    肉体的にも精神的にもなんだか疲れた。押し寄せてくる眠気に抗わず私はゆっくりと目を閉じた。

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