——ピンポーン。
チャイムの音が聞こえて目が覚めた。いったい今何時だろうかと思い徐に携帯を確認すれば……
「……20時!? てか何この着信の嵐!!」
なぜ気づかなかったと思えばサイレントモードになっている。そういえば寝るから誰にも睡眠を邪魔されたくないと通知はオフにしてたんだった!
もう一度着信相手を確認しようとしたとき、またチャイムがなって慌てて飛び起きる。
「はーい! いま出まーす!」
着替える間も惜しい。とりあえずズボンだけでもとベッド脇に放っておいた部屋着用のズボンを穿いて上はヨレヨレの部屋着シャツのままで玄関のドアノブに飛びついた。
「——お待たせしまし、」
「よう。」
「あれ、牧さん?」
「おまえ、無事だったか……なんで電話に出なかったんだ」
「ご、ごめんなさい!ちょっと二日酔いが酷くて寝てて……!今さっき起きて、」
「清田から聞いた。あいつ、お前を置いて昨日は出てきたって言うしお前は連絡が取れないし何かあったんじゃないかと直接来てみたんだ」
「あ、そうだったんですね……それはそれは……ご迷惑をおかけしました」
「いや。あと、これ」
「ん?……なにこれ」
「玄関のドアノブにかかってたぞ?」
牧さんが差し出してきた紙袋を覗く。中にはスポーツドリンクと丁寧に包装された箱が入っていた。そして、一枚のメモ用紙を折りたたんだ紙も入っていて、首を傾げながらそれを開く。
【 無理すんなよ 】
なんとなく見覚えのある筆跡だが名前のないそれにやはり首を傾げたまま、今度は包装された箱を取り出す。
「!! こ、これ……!」
「ん、なんだ?」
「ま、まぼろしの……!一般庶民には手が出せないという、伝説のお菓子……!!」
「ほぅ、ジゴバか。現物は初めて見たな」
「あわわ……!これ、ほ、ほんもの? 中身だけちがうとか、そんなオチじゃないよね……!?」
震える手で丁寧に包装紙を剥がし箱を取り出す。箱にもあのZIGOBA≠フロゴ。ジゴバといえば世界的に有名なスイスの超高級菓子。百貨店に商品がごく稀に並ぶこともあるが試食は一切なし。
基本的にジゴバ専門の菓子店でしか手に入らないが人気商品は一年以上予約待ち。チョコレート一粒ですら数万の値段がつくものもあるんだとか。世界のセレブ御用達のお菓子、それがジゴバだ。
私は牧さんを連れて部屋の中に戻り、震える手でその箱を、そっと開ける。
「こ、こ、こここれ!これっ!!ジゴバの売れ筋ナンバーワンのチョコレートの詰め合わせ!」
「……本物か?まがい物なんかもあるんだろ?」
個包装されたそれを正面から見てもひっくり返しても目に入るZIGOBAのロゴ。信じられなくて、思わず頬を抓る。
「痛い! 現実!」
「こんな高級なものが何でお前の玄関のドアノブに無造作に引っ掛けられているんだ?この箱一つで何万円するんだろうな」
頭を捻る牧さんに私はもう一度メモ用紙を取りだして寝室に駆け込んだ。そして三井さんから手渡された連絡先の書かれた紙と見比べる。……うん同じ字だ。
慌ててスマホを取りだし着信履歴の画面を開いて軽く目を通す。ほぼほぼ相手はノブと牧さんだったが一件だけ。未登録の相手からの着信に確信を持って、その番号をタップした。
トクトク、と自分の心臓の音が聞こえて来る気がする。出て欲しいような、出て欲しくないような複雑な感情のままプルルル、ガチャ——、という機械音に息を呑んだ。
『……もしもし、……三井だ』
向こうも確信を持ったのか一応、名を名乗ってくれたのを聞き入れて私は声をあげる。
「やっぱり! あ……あの、いま玄関先に!」
『あぁ、一回電話を鳴らしたんだけどな、出なかったからよ。寝てると思ってそのまま引っかけて来た。つか体は大丈夫か?』
「あ、大丈夫です!お気遣いいただき……って、違う!あれ、あのお菓子!じ、じ、ジゴバの!」
落ち着いたり興奮したりを繰り返す私がおもしろかったのか電話の向こうから微かにフッと笑ったらしい息遣いを感じて思いがけずドキッとする。
『食べるモンがあんのか気になってよ。今日一日は辛いだろ、好みが分かんねーし適当に入れた』
「てきとう!?ジゴバがてきとう!?こんな高価なものそんなポロッといただくわけには……!」
『……ツテがあんだ。元手はかかってねえよ』
「えっ、それなら……。いやいやいや!そういう問題じゃ、」
『なんだ、チョコは嫌いだったか?』
「だぁ! 大好きですけどっ!?」
『なら問題ねえだろ。とにかく今日は、大人しく休んでろ。じゃ切るぜ、電話』
「え、あ、ご、ごめんなさい!お忙しいのに! 遅くまでお疲れ様です!」
『……。はいよ、じゃあな』
プツリと切れた電話の画面を呆然と見つめる。電話が終わったと判断したらしい牧さんが、こちらの部屋に顔だけ覗かせてきた。
「おまえ宛のジゴバで間違いなかったようだな」
「牧さん……ほんとに食べていいと思う?これ」
「相手も分かったならいいんじゃないのか?お前よくジゴバのお菓子が食べたいって言ってただろこれが最初で最後の機会かもしれないしな」
「そ、そうだよね!うん、最後かもしれないもんね!いや確実に最後だし……ありがたくいただきます……!」
リビングに戻ってきてジゴバの箱を拝む私のヨレヨレのシャツからうっかりのぞいてしまった胸元に、赤い跡がついているのが目に飛び込んできた牧さんが目を剥いた。
が、幸い私はジゴバに夢中でそんな牧さんの様子に気づくことはなかったので、牧さんが昨夜の出来事を容易に想像出来てしまって内心で痛む頭を抱えていることなど、私が知る由もない。
「あ、牧さんにも一個だけあげようか?」
「……ん?」
「でも、一個だけだよ?」
「あ……、ああ。ありがとう」
「ふふ、牧さんにはいつもお世話になってるからねー!あ、ノブには内緒ですよ!」
ややあって、いつものように優し気に「心配するな」と、牧さんは緩く微笑んだ。
—
神さんに10回目の告白を断わられた金曜日。 やらかして推しと朝チュンを迎えた土曜日。恐る恐る手を伸ばして、ついうっかり貴重なジゴバのチョコレートを全部食べ切ってしまった日曜日。
私はすっかりいつもの調子で元気に週明けの月曜日、勤め先に出勤していた。ああ、さすがはジゴバのお菓子。ほっぺたが落っこちるかと思った。
ただ少し落ち込んでいるのは大事に一つずつ食べようと思っていたチョコレートを、一気に食べてしまったからだ。人生で一度食べることが出来るかどうかわからないお菓子を、一日で食べてしまった。我慢のできない自分にこれほど腹を立てたことはないかもしれない。
そしてその日のお昼、久しく牧さんから神さんを交えてお昼でもどうかと誘われてお昼休みに待ち合わせ場所に向かった。
「——! 神さーん!!」
「……、うん。」
「相変わらずテンションが高いな。そう言えば、メッセージをもらっていたがチョコレートはうまかったか?」
「牧さん!もう美味しいなんてもんじゃなかったんですよぉ!」
「甘いもんは苦手だが、あそこのは旨かった」
「ねっ!大事に食べるつもりだったのに全部食べちゃった。あっ、神さんも食べたかったですか?チョコレート」
「俺はチョコ、きらいだから」
「そっか……」
「……それより、おまえ体調は大丈夫なのか?」
「……ん? 牧さん、どうかしたんですか?」
「あ、いや……」
なぜか気まずくなる空間にひやっとして私は咄嗟に口を挟む。
「えっ、あー。金曜日に飲みすぎちゃって。いつもの二日酔い!心配かけてすみません、牧さん」
「……や、問題ないならいいが。清田にもきつく言っておく」
「大丈夫だよ!てかなんか牧さん、ノブにあたり強くない?」
「おまえを居酒屋に置いていったからな」
「別にもう子供じゃないんですけど……」
「子供じゃないから問題なんじゃないの?」
「ん、何か言いました?神さん」
「ハハ、なんでもないよ」
そう言って隣で爽やかに微笑んでいる神と、神に笑顔を向けている名字。しかし内心ではそんなに心配なら少しはフォローしろよ、と神に対して思う。奴の気持ちがよくわからない。彼女を大切に思っているのは確かだろうが、それは妹にでもむける家族のような愛情か、それとも——。
それなりに女と関係を持ったことのある神でも、その欲望を彼女にだけは向けない。しかし傍には置き続ける。彼女の好意は知っているだろうし、神は何度もそれをぶつけられ無下に断っている。出会ってすぐの頃こそ、その度に落ち込み、しばらく神を避けていた彼女も、ここ数年は当日だけ落ち込みすらすれど翌日には今日のように笑顔に戻っている。
そんな関係の二人だけれど、彼女に言いよる男が現れようものなら神が裏から即排除。その事実を彼女、もとい名字は知らない。だから俺も清田も見て見ぬふりをしてきたのだ。神自身いわゆる最上級≠ノ分類される男なのだから対抗しようという気を起こす奴はいないしそもそも彼女本人が神しか見ていない。
そんな彼女が神も面識のある、しかも自分が諦めたプロのバスケットボール選手と一線を越えたと知ったら……と、考えるだけで胃が痛む。
「聞いてます?牧さん」
「あ、あぁ悪い。例の入院患者のことだったか」
「そうです、オペの日程が延長になったので代わりにその日、南棟に転院してきた人のオペになりましたけど」
「ああ、そうか」
プライベートは清田と馬鹿なことばかりしている彼女も、こんなふうに俺たちが仕事の話をしはじめると、真剣な顔つきで会話を聞いている。オンオフの切り替えが出来ているというか、何故このしっかりモードをオフでは一切発揮できないのか。彼女と出会ってからの俺の長年の疑問だ。
「さてと……俺は先に戻りますよ」
「あ、神さんもう行っちゃうの?」
「うん。牧さん、後で詳しく聞かせてください」
「……ああ」
「スルー!わたしスルー!?でもそんな神さんもかっこいいー!」
隣でアホなことを言っている彼女と、さっさと背を向けていく我らが神が、俺の頭痛の種だ。あとあのどうしようもない清田と……目の前の彼女、名字の推し≠ニかいう、三井寿も、か。
—
「お先に失礼しまーす!」
職場仲間に声をかけて退勤する。アパートへの道ではない道を歩きながら、一人のときじゃないと吐けないため息を遠慮なく吐く。
牧さんがいつも気遣ってくれているのは知っている。だからこそ今日みたいにお昼とか夜とか飲みに誘ってくれたりするのだろう、神さん付きで。
なんだかんだでノブも文句を言いながらフラれた後は私を優先してくれる。フッた本人の神さんも何気に気にしてくれているのを知っている。だから、だんだん隠すようになった。大好きなみんなに心配をかけたくなかったから。
それならもう告白するなよ、諦めろよ。そう言われたらそれまでだけど。私だってそう思ってる。何度も諦めようとした。他の人を好きになろうとした。でもいつもピンチの時に助けてくれるのはやっぱり神さんで、私は叶わない恋に白旗をあげるしかなくなるのだ。
そんな神さんも牧さんもノブも……唯一知らない私の感情。私が感情を出すことを許している場所——。
「相変わらず人気がないなぁ……」
泣ける場所を探して、過去に迷い込んだ埠頭だ。当時はたまに老人が猫に餌をやる姿を見たりしたものだがここ何ヶ月かはまったく見ない。年も年だったしなぁ、と少し寂しく思う。話したことはなかったけれど、一度だけ座り込んで泣く私の隣に猫缶を置いていったことがある。あのときは猫缶にひかれて来た迷い猫に癒されて、わりと立ち直るのが早かった。
神さんが好き。神さんを諦めたい。
でも、やっぱり好き。
でも、最近はその神さんよりも私の頭の中を巣食って仕方がない人物がいる。
「連絡——来る、来ない。来る、来ない、来る、
……来ない」
ハッとする。ダメだ、今どき道端にあった花を摘んで花占いなんてやる人いないよね……?わたし絶対に危ない人じゃん。てか占わなくてもわかるでしょ、来るわけないんだよ。一緒に飲んで一夜を共にして帰りについでだからって理由だけで送ってもらって、餓死されたら困るだろうからと、食べ物を与えてくれるためだけに連絡をくれた、ただそれだけなのに——。
わたしのことなんか、とっくに忘れてるってば!
「……はぁ」
矛盾した思いが、私を容赦なく苦しめる。いつか自然に諦められるものなのだろうか。いつか、神さん以外のだれかを好きに。金曜日の……推しと寝てしまった夜のことを忘れることが——
「………やっぱ、お前かよ」
「うぇ!?」
ここで誰かには話しかけられるのは始めてで思わず肩がビクついた。振り返ればすこし前に会った人物。ついさっきまで、花占いをしていた相手。
「あ、えと……三井、さん?」
「あァ……こんなところで何してんだ。女が一人でいていい場所じゃねーだろ」
「う……えと、その………少し、」
「泣いてたのか」
「え、」
まさかの台詞に息を呑む。この人、実は読唇術が使えるのでは……?と、思いながら呆然を彼を見上げていたが途端にいたたまれなくなって視線を自分の足元に落とした。
「……えーと、」
「あの日も……やけになってるように見えた」
「……」
「吐き出して楽になるなら聞いてやるぜ。丁度、ここには他人の俺しかいねーしな」
その言葉につい、弱音が零れた。いつもは思っていても誰にも言えなかった、本音が。いつの間にか強がることを覚えて曝け出せなくなった弱い、自分のこと。あと、神さんへの気持ちと。
ぼろぼろと泣きながら支離滅裂なことを言う私の言葉を彼はただ少し離れたところに立って聞いていた。私を抱きしめて慰めるでもなく、かと言って無言というわけではなくたまに相槌をうってくれて。その距離間が私を安心させて饒舌にする。
一頻り吐き出してティッシュを取り出し豪快に鼻をかむ私に「終わったのかよ」と訪ねる三井さん。「終わりです……」と私が答えると彼が踵を返した。
「——来い。飯いくぞ」
「え……、め、めし?」
「腹が減ると余計な事を考えやすくなるんだよ」
「……」
「心配すんな。もう、手は出さねえ」
「そ、それは心配してないけど!こんな、ぐちゃぐちゃの顔ですし!」
心配してねーのか、大丈夫なのかよコイツ……と言いたそうに眉を歪めて私をジロリと一瞥した彼は「個室のとこだ、そこまでは俺の後ろに隠れてりゃいいだろ」なんて言ってさっさと歩き出すので、慌てて着いていくと私の気配を感じたのか、三井さんは歩調を緩めてくれた。優しい。
三井さんに連れてこられたのはなんともお洒落でかつ、高級そうなホテルの最上階にあるレストランだった。そもそもビジネスホテル以外に泊まったことのない私はホテルの入口で思わず尻込みした。そんな私の心情を知る由もない彼に無理やり手を引かれて高級そうなカーペットを踏む羽目になったけれど。
フロントも顔パスですり抜ける三井さんを見たときは、なんだか彼のことが怖くなった。とんでもないセレブじゃん、って。
しかし一人でまたあのフロントを通る勇気もなく彼に手を引かれるままやってきたレストラン。メニューを手渡されはしたが見慣れない料理の名前に、記載のない金額。これはとんでもないことになったと冷や汗が流れるのが止まらない。
そんな私をどう思ったのか三井さんが勝手に注文し、ウェイターの男が去っていく。個室と聞いて個室のある居酒屋を想像していた私にとっては、もう何がなんだか……とガチガチに緊張しているうちに料理が運ばれてきた。
いわゆる、アミューズからメインディッシュまで一度に運ばれてきて、そんな世界とは無縁の私も首を傾げるが、それよりも目の前に並んだ料理に釘付けになる。よだれが出そうになる口元をはっとおさえて、それでも手が疼いてそわそわしてしまう。
「緊張してんのか?食べてもいいぞ」
「これ、ほんとに……?」
「ん、カナッペは手で掴んで食え。他の料理も、人目はねぇ。気にすんな」
「……。——っ!いただきますっ!」
「待てをされた犬かよ」と呆れ口調で笑った三井さんもカナッペを手に取って食べ進める。三井寿とカナッペの組み合わせって、なんか可愛い。
「……、」
「……あ? なんだよ?」
「いや、左顎の……」
私は自分の左顎付近を指差して、三井さんに顎を突き出す。三井さんはそれに気付いて怪訝そうな顔をする。
「……は?」
「その傷って、生まれつきなんですか?」
「ああ、この顎の傷か?んなわけねえだろ」
「ですよね」
「いろいろあったの、こんな俺にも」
「……」
「……目立つよな、やっぱそれなりに」
三井さんがカリカリとその左顎の傷を人差し指で掻いて何だか寂しそうな目をしたあと、その目を伏せ小さく溜め息を吐いた。
「ふゎ?……ング、失礼しました。ううん、普通にかっこいいと思います。チャームポイントですよね、色っぽいし」
「……色っぽいって、おまえなぁ」
心底呆れたというように眉を歪める三井さん。きっとこの人もモテまくって(現在進行形で)苦労してきたんだろうな、と心中をお察しする。
「大丈夫、モテる男のツラさは、傍でよく見てましたから!かっこいいってだけで惚れたりしないので安心してください!」
「……」
「でも三井寿のプレーには心底惚れてますけど」
「あ、そ……。まあ引かねえだろうなとは思ってたけどな」
「へ?」
「ちゃんと説明したぜ?この傷のこと、あの夜」
「……」
「……そう言や覚えてねーんだったな。あの日、気に入ったのかずっと触ってたぜ、お前」
「え? さ、触っていた……とは?」
「この、傷」
言って自分の左顎の傷を擦ってほくそ笑む彼に、私は一気に赤面する。
「ぶっ……!!ちょ、いきなり掘り起こすのやめてください!?まあ……覚えてないですけど!」
「だろ?」
「覚えてない私こわい……ほんとに、何を言って何やったんだろ……!」
「……全部、教えてやろうか?」
「やめてー!!!なんか死ぬっ!私の中の何かが死ぬ!」
机に突っ伏す私を彼は楽しそうに見ていた。実際に楽しい。三井さんも、そうだったら嬉しいな。
「てか適当に頼んじまったけど、うめェか?」
「死ぬほど美味しいですっ!」
「そーか、よかった。」
きらきらと目を輝かせて目の前の料理を頬張る彼女に俺は目を細める。たまたま立ち寄った埠頭で見かけたときには今にも死にそうな顔をしていたし、人を慰めることが苦手な俺は気の利いた言葉一つ出てこなかったけど。強引だったがこうして笑って食事を食べている彼女にほっとした。
「……んで、チョコは食ったのかよ?」
「はっ!そう!チョコレート!!美味しかった!もうほっぺが落ちちゃうかと……!」
「ちゃんと食ったなら、あげた甲斐があったな」
「人生で一度でいいから食べてみたかったんですジゴバのお菓子!しかもあの人気ナンバーワンのお菓子の詰め合わせなんて……大事に食べるつもりだったのに、一気に食べちゃいました。本当にありがとうございました!」
「俺も甘いモンはそうそう食わねえけど、あそこのチョコは好きだぜ。そんなに気に入ったなら、また持ってくるよ」
「……え!?また!?」
また、ということは……またこうしてプライベートで会えるということ?たしかに今はシーズンオフ中ではあるけれど、あっという間にレギュラーシーズンが始まって、それでこんなふうに食事をしたことなんか、三井さんはさっさと忘れちゃうんじゃないかな。
だったらきっと社交辞令だよね?また持ってくるとは言いつつ、もう会うこともなくなって、ノブにも真実を伝えられないまま遠い昔の記憶として葬られていくんじゃないのかな。
「い、いやいや、ジゴバですよ?そんなポンポン手に入るものじゃ、」
「言っただろ、ツテがあんだよ。いつでも手に入るの、俺は」
「なん……ですと!? そのツテ、すっごく怖いような、」
私の驚いたり焦ったりする姿を見て、三井さんはずっと笑ってくれている。こういう表情、今まで見たことなかったな。もちろん試合に勝ったときとかヒーローインタビューのときなんかは笑顔を見せるけど、こんなふうに子供みたいに笑う三井寿を、私は知らなかった。彼がただ笑っているというだけで今のこの空間が、とても特別なもののように思えた。
「それより、お前は——」
「はい?」
「どこで働いてんだよ……まだ聞いてねえ」
「……え。あれ……アレ!? わ、わたしってば大恩人に身元も明かさず……!」
恩人…?暴行犯だろうが、どう見たってと小声で言った三井さんは無視するとして。私の職業なんか改めて聞いてどうするんだろう、でもまあいっか。私の職業を知ったところで明日からの三井寿の人生になんの影響もないだろうし。
「失礼しました、私はこの近くの個人病院に勤めてます!」
「へっ?…………医者、かよ?」
「まさか!想像通り違います。その疑わしい目、やめて!でも事務!」
「あァ、だろうな」
「な、なんか……なんか……その反応!」
「医者だったら即廃院になってんだろ、絶対」
「し、試験だって難しかったんだから!ギリギリ合格したんですからねっ!」
「そこは威張るとこじゃねーだろ……」
呆れたようにため息をつく。それでもその雰囲気は自分でも何となく柔らかい気もする。宮城たちがもしこの場にいたら二度見をしたかもしれない。気心の知れた仲間以外の女(彩子と赤木の妹)に近づこうともしなかった俺が、まさかこんな表情をみせるなんて、と。
最初の出会いこそアレだったが俺からしたら彼女は、手のかかる妹のような存在だと思っていた。そうだ、それこそなんとなく桜木に似ている気もする……でも、いまは——。
「あー。そう言やデザートだけどよ、」
「デザート!! メインのご登場ですね!」
「……ったく。いちいちリアクションがオーバーなんだよ、びびるわ」
「え、これがいつもの私なんですけれども……」
「あっそ。で、実は期間限定でこのレストランとジゴバが、ある企画をしてるらしくてな?公には宣伝してねえけど常連客のみにサービスするんだってよ」
そんな説明をしている俺に「はて?」と言いたげに彼女が首を傾げていると、扉の外から声がかかった。
「お待たせいたしました。本日のデザートはジゴバ製濃厚チョコレートソースがけ、ふんわり揚げドーナツ、バニラアイスクリーム添えです」
彼女の目が今までで一番といっても過言ではない程の輝きを見せ、無意識に胸の前で小さくパチパチと手を叩くその姿に俺も思わず口元を弛めた。
—
楽しい食事の時間が終わると厳しい現実がのしかかって来る。三井さんは口にこそしなかったが、一体この食べたことのないような高級料理フルコースの金額はいくらなのか。やばい、財布にいくら入ってたっけ……たしかホテルの一階にコンビニが入っていたはず。ちょっとATMいってきていいかな?
悶々としながら化粧室から出て個室に戻ると帰り支度を済ませた三井さんが立っていた。
「あ、あのぅ……」
「あ? どーした」
「す、すこし一階のコンビニに行ってきても、」
「なんか欲しいモンでもあんのか?じゃあ帰りに寄っか」
「いやっ!そうじゃなくって!」
「あ……?」
「その、ATMに……ここのお支払い、手持ちが足りないかもしれなくてですね、」
「あぁ、それならもう済ませたぜ」
「そうなんです、済ませ、…………………え?」
「女に金を出させるわけねーだろ。用がねぇならさっさと帰るぞ。明日も仕事だろ?」
「……………えぇぇぇ。なにこのイケメン国宝」
「バカなこと言ってねーで早くしろ」
心底呆れたという感じの三井さんは、本当に最初から奢ってくれるつもりだったらしい。女に金を出させるなんて冗談じゃないと本心から言っている様子に、神さんを好きな私ですらかっこいいと認めざるを得ない。ノブにも三井さんの欠片でも男気があったら……と、そんな失礼なことを思いつつ、恐る恐る身支度を整える。
「夜はまだちょっと冷えるな……」
「……」
え、なにこの高待遇。わたしまた食べられない?食べられないか、三井さんなら女の人なんてまるで花の蜜にたかる蝶のように寄ってくるだろうしそんな中で蛾は選ばないよねえ。じゃあ私、売られる?でも臓器は超健康な自信あるよ?
いや……ほんとに裏はないの?何もなくてジゴバ食べられて、こんな超お高いコース料理おごってくれるなんて、そんなこと、ある……?
「あの……」
「……ん?」
「わたしの体は一体おいくら……?」
「……なにアホなこと言ってんだよ」
また呆れた溜め息を吐かれたが、そんな簡単に受け入れるにはレベルが高すぎる。三井さんは私の様子が整うと、さっさと出口へ向かってしまって慌てて追いかける。こんな場違いもいいところな場所に、一人残されるなんて絶対ごめんだ。
ホテルを出ても、そのまま振り返らずに歩いていく三井さんに、なんとなく着いていく。どうやら車を停めていたらしい。近くのパーキングで支払いをしている三井さんに声をかけるタイミングを失って、そわそわと挙動不審になる。
「なにしてんだ、乗れよ。家まで送るぜ?」
「おっ、ふ……またしても男前な発言……!いえいえ大丈夫、まだそんなに遅い時間じゃないですし!」
「夜道なんか一人で歩くもんじゃねえって。何があるか分かんねーだろ。知らない野郎共に声でもかけられたらどーすんだ」
「いやいや、私に声をかける物好きなんて、そうそういないし!怪しい人がいたら大声出すし!」
三井さんはジロっと私を睨み小さく舌を打ち鳴らす。え、なぜ?と困惑している間もなく深い溜め息を吐いてから言った。
「ジゴバの菓子……いらねーのか?」
「ジ……ジゴバの、お菓子……!?」
「……車に、ひと箱あっけど」
「もちろん!いくら私でも、お菓子にひかれたりなんてしませんよ!」
「説得力がねぇ。いいから早く乗れ」
「ぅお!?」
腕を取られて助手席に詰め込まれる。これ傍から見たら誘拐案件じゃないか?てか私こういうときにも可愛い声を出せないのかよ……だから神さんに振り向いてもらえないのか。うん、納得。
ひとり助手席で打ちひしがれていると、車が発進した。ちらりと窺うとたしかにアパートの方向に向かっていて、ちょっと疑ってしまったことと、どこかでこの先を期待していた自分にもさらに落ち込む。もうだめだ、こんなにいい人を疑うなんて、しかも勝手に期待するなんて私は人間として最悪、いや、もはや失格だ……。
「……ずいぶん百面相だな。見てて飽きねぇわ」
「それ……褒めてないですよね……?」
「ええ? めちゃくちゃ褒めたつもりだって」
「……」
褒めたの?え、褒められた?だめだ、頭ぐるぐるハツカネズミでもうよくわかんないよ。
「いつも試合……前の席で観てるよな」
「えっ?」
やけに落ち着いたトーンで言われて、きょとんとしてしまう。試合って、ああ……バスケットの話かな?
「実は金曜にお前を見たとき、見た事ある奴だなーって思ったけど、あえて言わなかったんだよ」
「あー、はい。でもノブを使わず自力でチケットは獲ってますよ?」
「へえ。最後のハイタッチのときは後ろに下がってっけどな」
「おお、よく見てますねえ」
「あんなキラキラした目で試合観てんのに選手との触れ合いには全く興味なさそうだったからな」
「……なんか、神々しくて……ハイタッチなんて恐れ多くて出来ませんよ」
「ハイタッチどころの騒ぎじゃねーだろ、もう俺とは」
「は、ははは……」
途端に訪れる沈黙。でも不思議だ。ちっとも嫌じゃない。……変なの、三井さんとそんなに親しい間柄ってわけじゃないはずなのに。
「なあ、聞いてもいいか」
「……ぅ、あい?」
「……なんで、断り続ける男を想い続けるんだ?そんなに苦しいなら手放しちまえばいいじゃねーか。忘れてぇならもう会わねえとか、いろいろ出来んだろ」
「……」
「不毛だって、思わねぇのかよ」
ぱちり、と。
ふいに思考がクリアになった。
「……そりゃあ、思いますよ。神さんが振り向いてくれるはずがないっていうこともほんとは分かってて」
「……」
「でも、神さんだから。」
「……」
「実は高校生のとき……助けられたんです、命も心も。そんなに年の変わらない男の子に」
——思い出す。高校時代ノブとも牧さんとも出会う前の、入学式のとき。ノブと牧さんにも話したことのない記憶。入学式が行われる予定の高校へ向かう、通学路での出来事。
「——私、車に轢かれそうになって。急いで信号渡ろうとしたら信号無視の車が突っ込んで来て」
「……え、マジかよ」
「はい。で、自転車で通った神さんに助けられたんですよね」
「そうだったのか……」
「それから何年も経ってからノブと知り合って、ノブの先輩が神さんだったってわかって」
「……」
この世に、偶然はないという。私は自分のことが嫌いだし目立ちたくもないし、いつも色んなことを諦めて生きてきたけれど……それでも神さんと再会した、あの瞬間だけは——
「運命だ、って思いました。神さんには言わなかったけど、助けられたこと。でも神さんはいつも穏やかで優しくて。いつも守ってくれた。なにかあったら、いつも」
「……」
「そりゃあ好きになっちゃうじゃないですかぁ。顔よし頭よしスタイルよし、スポーツも出来て。ここぞと言う時には頼りになる。私に興味がなくたって大事にしてくれてるって分かってるから」
「へえ、」
「……でも、神さんの恋愛対象にならないこともちゃんと分かってて」
「……」
「だって、神さんの好きな人は、ずっと……中学のときに亡くなった、神さんの幼馴染だから」
恋すら知らなかったあの頃のことは分からないけど、恋を知ってしまった今は分かってしまった。神さんは私に限らずもう恋はしないってことを。
「……別に、恋をしなくてもいいと思うんです」
「……ん?」
「だって、愛があるならいいじゃないですかぁ。家族愛ならもうあるんだから。あの三人は、私を家族みたいに愛してくれる」
「……」
「だからたとえ何度失恋しても、私は神さんから離れることはないと思う」
だから、この恋を手放すのは——だれか別の人に恋したときだけだ。
「おまえは相手のレベルが高すぎるんだろーな。大学病院の外科医?だっけっか、たしか」
「そうなんですよねぇー……神さんを超える男の人なんて、そんじょそこらにいないかも」
なんだかしんみりしたみたいな空気が車内に流れはじめてしまって、しまった、と思ったけれど私が口を挟む前に三井さんが、なぜか気まずそうに呟いた。
「あのよ——その、神ってやつの下の名前は」
「え?あ、神さんの下の名前ですか?神、宗一郎ですよ」
「——!!」
三井さんは、はっとしたように一瞬だけ目を見開く。そして何かを納得したみたいに「そうか」と言いたげに頷いた。
「そりゃ、難儀なもんだな」
「うぅ……、いいの!いつかきっと神さんよりもいい人が現れたらいいなって思ったりしなくもないし、無理な気がするけど何なら神さんが独身のままならこのままの関係もあり!」
「……」
「でもやっぱり家族は欲しいな。あーあ、神さんに本気の彼女できたらどうしよう」
「……まあ、いい奴がいたら、紹介してやるよ」
「三井さんの紹介なら信用できる気がする!でもめっちゃハードル高そう」
「お前は俺を、なんだと思ってんだよ」
「相手は私ですからね、そこは忘れないで!ほどほどの庶民でお願いします!」
「へいへい」
神さんと同じ最上級に分類されるだろう三井さんの選ぶいい男。なんだかそれはそれで恐ろしい。
いい男すぎると釣り合いがとれないが神さん以下の相手に恋ができる気もしない。何とも矛盾した気持ちに頭を抱えて唸る私を三井さんが同情した目で見ていた。
神さん以外に、恋ができる気がしない?
じゃあ……三井さんは?——なんてね。
やっぱりバカだな、わたしは底なしに。
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