恋ひとつくらい殺されてあげます *

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  • 時間を潰す能力だけが日々長けていく。のろのろとベッドから降りてパンツとTシャツのまま冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターの入った二リットルのペットボトルを取り出す。あ、残りひとくちかぁ……いいか、ラッパ飲みしよ。

    ポリポリと腰のあたりを掻きながらペットボトルの中身をグビグビと飲み干した。カタン、とそれをシンクの上に置いたとき、そう言えば今日はペットボトルのゴミの日だったっけ……と思い出し側にあったスーパーの袋に飲み終えたペットボトルを入れる。上はこのままTシャツでもよかろう、しかし、下はパンツのまま外に出るわけにはいくまいと仕方なくベッドまで戻り大きめのスエットのズボンにさっと足を通した。

    アパートを少し歩いた先にある専用のゴミ置き場に向かう。そこにペットボトルの入った袋を置いて一息つけば、それぞれ、仕事やら学校やらへと向かう人たちの姿が目に入る。みな足早に歩いていくもんだから、人の往来はあっという間に消え去り、あたりは途端に静かになった。

    いつもと変わらぬ光景に何故か溜め息が漏れる。私はアパートへと踵を返した。ちょっと俯いてるだけでいい。ときどき声を掛けてくるアパートの住人、年配者からの「おはようございます」との挨拶の言葉に適当に返せばそれで済む。

    自室に戻り適当に携帯を開いて適当に操作して。適当に窓の外を見て青い空をただ茫然と眺めて。きっと、タバコを吸う人なんかはこういうときにフゥーと一服したりするんだろうなぁ。

    なんとなくで勉強しはじめたカクテルアナリストの本を読んでいれば、あっと言う間に日なんか暮れるものだ。この本、買ってからいったい、何年経っただろうか。むろん今もなおカクテルアナリストの資格は習得していない。そもそも試験すら受けたこともないけど。受ける気もないけど。

    夕方頃に街に流れる夕焼けチャイムをぼんやりと聞き捨てて、おもむろに立ち上がり、シャワーをあびて準備を済ませアパートを出て職場に行く。


    「お、今日は名前さんか。お疲れさん」
    「うん、お疲れ様ぁー。マスター♪」
    「それやめて、呼び方はいままでのままでお願いします、先輩。」

    充満するタバコのにおい。ちゃんと換気扇つけてよね。私の職場のマスター、水戸洋平くん。彼は昔から小窓を開けて煙草を吸う派らしいからもう言わない。それでも年下の彼との距離感が一番居心地がよかったりする。それは洋平くんの人柄がそうさせるのかも知れないけど。そんな彼は前マスターから最近ここのBarを一任された新マスターだ。スタッフは私の他にあと二人。その中でも私が一番出勤日数が多いのはなぁぜなぁぜ?別にいいけどさ。お金欲しいし。毎日暇だし。

    前のマスターも、とてもいい人だった。善人って感じの人で。地元に帰って奥さんと農家を継ぐと報告されたとき、新マスターには私か洋平くんを推薦したいと言われた。私の名を上げたのにはただ古株ってだけで気を遣ってくれたんだと思う。なので私の方から器じゃない、新マスターなら洋平くんしかいないっしょ!と推したらマスターがホッとした表情を見せたのも、もう半年前の話。

    「てかさ、今日は名前さんかぁって……相変わらずシフトチェックしないんだね洋平くん」
    「えっ?してるよ? してるけど変更があったりするだろ、スタッフ間でさ」
    「たしかに!それもそうか」
    「うん、それに俺は誰でもいいから」
    「誰でもって?」
    「え?ああ、スタッフ。みんな気心知れてるし」

    駅の近くに最近出来た大きなスポーツバーが繁盛しているので、ここは基本的に昔からの常連客が多い。そんな人気店のスポーツバーには、この地域を拠点としているバスケットチームが屯していると有名だが、その中の選手、チームのポイントゲッター三井寿はそちらで時間を潰すよりもこのお店に来ることのほうが多い。どうやら洋平くんとは高校時代の先輩後輩の仲なのだそう。まあ、そんな偶然もあるか、この辺が地元なら。

    今日も今日とてチームのみんなとスポーツバーで飲んでいたらしい三井選手は一人こっそりと抜けてきたのか、彼は定位置となっているカウンターの一番隅っこの席でビールの入ったグラスをぼんやりと見詰めていた。

    私と洋平くんが一段落ついたところで三井選手に二人で目配せすれば彼は呆れたようにシッシ、というジェスチャーで手を払う。けれどそれは拒否の仕草ではなくて「好きなの飲め」という合図。私と洋平くんは「あざす」と小さく頭を下げて、それぞれに好きなお酒を作る。

    ちなみに洋平くんは、カクテルアナリストも焼酎ソムリエの資格も持っている優秀なマスターだ。最近も何だかのお酒の資格の勉強をしていると言っていたっけ。見た目はリーゼントでハーレーに乗ってるヤンキーなくせして。でも優秀な人ほど人知れず努力しているものだ。彼はそっちの類。

    本日のお客さんは三井選手の他に窓際の席に座っている二人組のOLさんたちと、ソファ席に座る、最近片割れが長く付き合っていた彼女と結婚したらしい若いサラリーマン二人組。みんなここの常連さんだ。とてもいい子たちでたまに朝まで一緒に飲んで語り明かしたりもする。今日は平日のど真ん中、水曜日。まあ……平日の集客なんてこんなもんよ。上出来上出来。

    「あっちゃあ……タバコ切れちゃうな」
    「買って来れば?お店見てるよ?」
    「うーん……いや、帰りに買ってくよ」
    「そう?」

    一杯目のお酒を飲み干して三井選手を見やれば顎をくいっと上げられた。どうやら今日はもう一杯飲んでもいいらしい。今のはその合図。ラッキー

    私はお酒を作ってそれを手に持ちカウンターを出る。空いた方の手で並べられたカウンター椅子の背をなぞりながら一番端の席へと向かう。それを目敏く見ていた洋平くんが最後の一本の煙草を取り出し火を付ける動作が目の端に映る。フゥーと抑揚付けて吐き出した煙が目の前に微かに陰る。

    たどり着いた先、三井選手の席の隣に腰を降ろした私と洋平くんの目が不意に合う。

    「あらま。今日もラブラブだな」

    無表情の中に含みのある笑みを浮かべて彼はそんなことを言う。

    「そんなことないよ。洋平くん、換気扇回して」

    私もへらっと笑って、換気扇を指差した。ここに通う常連客のほとんどが私と彼、三井選手が付き合ってると思っている。そりゃ思うだろうけど。私と彼の距離がこうして意味深に近いのだから。


    数時間後、お客さんのいなくなった店内。今日はアルバイトの子がセレクトした洋楽がbarの店内に流れている。不意にグラスを傾けたとき、トイレに続く手洗い場のドアをキイと開ける音が微かに聞こえた。私はゆっくりと席を立ちあがる。薄暗くて細い渡り廊下の先、ドアを開けてそのまま中にいる人と目がかち合う。私の中で張り詰めていた糸が、そこでぷつんと切れた。

    彼、三井寿は笑った。そのへんにお客さんがいたら、きっとはやし立ててくるのだろうと思う。そんな顔。片方の口の端を吊り上げて笑みを浮かべたままこっちに一歩、歩み寄って。私の腕を強く掴んで。転びそうになるくらいの力で——室内へ私の腕を引いた。

    バタン、と背中の後ろで扉が閉まる音。ガチャリと内側から鍵をかける音。パチ、と脇に設けられている電気のスイッチが消される音。全部パノラマ。響く——脳が震える。ああ、今日も始まる。

    「……」
    「……」

    壁に身体を押さえつけられて首筋にキスされる。全然軽くなくて、深くて、長くて——全然、甘くない。それだけで涙が出そうになった。角度を変えられるたびに吐息がもれるから。があっと全身が熱くなって。彼のキスは、鼻に、頬に、耳に、首すじに——。

    「みつ……い、さん……ッ」

    吐息が重なる。熱い。でも——くちびるには決して触れない。考えたくない汚い思いが思考回路を駆け巡って……息が——詰まりそう。

    「名前」
    「あっ……!」

    耳元で名前を囁かれて体が震えた。すごい低い声で。いつもは私の名前なんて呼ばないのに。店内では呼ばないくせに。出会ったときから、こういう関係になってからだってそうだった。なのに今だけ、私の名前を呼ぶの。声の震動にすら震える私に彼はくすりと笑う。今度は耳に口唇を当ててゆっくり吐息交じりに囁いた。

    「……ほんと、耳弱ぇよな」

    そしてまた、口付けが降るんだ。
    くちびる——以外に。

    「っ……!」

    ——止まない。
    止むことなんて知らない、出来ない。

    「ひ、さ……っ」

    彼が私を求めてくれるから私も彼を求めるんだ。だから今だけは私も下の名前を呼んでもいいの。腕を首に回したっていいの。彼の指が、私の肌をなぞっても、小さく声が漏れたとしても。

    「……」
    「……ッ」

    流れた涙を彼が舐め取る。彼の携帯は今もバイブレータが絶え間なく鳴り響く。彼の帰りを待つ、誰かさんの着信。私の嗚咽がひどくなる。でも、三井寿はずっと楽しそうに、私を求める——。

    もうどうすることもできない。知っちゃいけない秘密の味を、こんなに味わってしまったから。






    二次元の世界なんかで見るbarの綺麗でセクシィなお姉さんたちを見たときにさ、きっとお客さんの中に、いい仲の相手がいるんだろうな、とか、でも簡単に体を許したりしないんだろうな、とか結局はマドンナ的存在で、お客さん全員がこの人のことを好きなんだろうな、憧れなんだろうなぁなんていう不純なことをふと考えたことはない?私はあるよ。

    でも三次元の世界ではそんなことは決して無くてあくまでもお客さんと従業員。中にはお客さんと付き合ったり別れたりするひともいるだろうけど目も当てれないくらいにドロドロの結末を迎えるとか、お客さんが一切お店に寄り付かなくなるとか、そんな展開ばかり。

    付き合ってはいけない職業、3Bなんて言われる中にバーテンダーは存在する。他には、美容師にバンドマンだとか。この際その内のバーテンダー枠をバスケットボール選手に変更しちゃだめかな。でも、どっちにしたってこんなの絶対によくないんだろうなってわかってる。

    三井さんとのファーストコンタクトは、もちろん私の働くbarの中だった。それからかれこれ二年くらいの付き合いになる。こんな関係になるまではプライベートでこそ会ったことはなかったけれど店内では本当に仲が良くて常連さんたちからも有名だった。お似合いだって。朝方まで酔っ払った三井さんと語り明かしたことなんて何度もあるし、そんなときはよく始発の電車に一緒に乗って帰宅したものだ。

    ある日、洋平くんがお休みだった日。スタッフの子も帰ったあと三井さんといつものように明け方近くまで店内で飲んでいたときのこと。なぜか、そういう雰囲気になった。数秒前まではいつもと変わらず笑い合ってバカな話をしていたのに。

    急に雄みたいな顔で近づいてきて長い指先が私の髪の毛を掬って……はちゃめちゃにムードのある雰囲気の中、私の欲しい言葉をたくさんくれた。

    照れ隠しで意地張ってるとこが可愛いよな、とかほんとは甘えただよな、とか。実は体温あったけーよなとか。昔の初恋の人に似てんだよなとか。そればっかりは、なにそれって、ちょっとムッとしちゃったけど。

    だけど——ほんとは最初からどこかで三井さんのことを好きになると気づいていたから私は無意識にそういう雰囲気にならないように避けていたんだと思う。なのに三井さんは言ったの、俺とこういう雰囲気にならないよーにしてただろ、って。まるで、私の心を裸にして丸読みしたみたいに。

    あの日……あのとき、あんなふうに流されるだけじゃなくて、好きだってちゃんと伝えれていればこんな関係にはならなかったのかな。


    SNSで見かける 『男子に本気で愛される女子の特徴10選』とかいうやつ。

    @一途。流されない女子は魅力的。
    A聞き上手。男子は心を許してしまう。
    B甘え上手。男子は頼られることに弱い。
    C笑顔。癒されてずっと一緒にいたくなる。
    D素直。内なる魅力に心奪われる。
    E目を見て「ありがとう」が言える。

    ……以下、省略。まるで私には遠い世界。私は、素直でもなければ一途でもない。なんてお手軽な女なんだと思われていることだろう。でも私は、好きだったんだけどな、三井さんのこと。でも、きっと彼には伝わらない。でもでも洋平くんだけは気付いていると思う。はっきり確信に迫られたことはないけれど。






    二週間後。あの日から三井さんはお店にぱたりと来なくなった。シーズンオフ中は週に一、二回は足を運んでくれていたものだが、もしかすると、新しいお手軽な子が出来たのかも。それか彼女と上手くいっているのかもしれない。彼女いるのか知らんけど。

    そもそも別に彼の自宅に出向いたこともないし。もちろん私のアパートにだって招いたこともないし。かと言ってラブホテルで一夜を共にしたこともない。いつも逢引きするのは決まって、店内のお手洗いスペースだもんね。どうせお手軽女ですから。


    「私がさあ、もっと可愛らしい女子だったらよかったのかなぁ……」

    突拍子もなく言った私の言葉に、隣でカクテルを作っていた洋平くんが手を止めて、すこし驚いたように目を見開かせた。

    「どう、したんだ?急に」
    「彼氏いない歴、もう何年経ったかなぁー」
    「……ああ、なるほどな」
    「え?」
    「みっちーのこと考えてたのか」
    「——!?……べっ! べつに?」

    カウンターの中の椅子に腰を降ろして両手で頬杖を付き目を閉じて瞑想する。洋平くんが席にお酒を運んで行ったらしい足音が聞こえてそっと目を開ければ常連客の三人組の女子たちが洋平くんに「マスターありがとー!」と微笑みかけていた。あの中の黒髪の子、ぜったい洋平くんのこと好きだよなぁ。可愛いなー、頬赤らめちゃってさ。

    戻って来た洋平くんにニヤリと笑いかければ「え、なに?」と、きょとんとした顔で問う。

    「色男♡」
    「そーいう弄りはやめてください」

    へらっと眉を下げて参った顔をする洋平くんは、誰がどう見たってイケメンの部類に入るだろう。そう言えば、彼女はいまいるのかな。仕事上では上手くやってるけど互いにプライベートに踏み込んだことはないな。でもだから上手くいってるのかも知れないとも思う。じゃあ聞くのはよそう。

    洋平くんが自分の飲むお酒を作って、先にそれを私に差し出してくれた。ありがと、と言う前に席から注文の声が掛かり洋平くんが慣れた手つきでお酒を作り始めてしまいお礼を言うタイミングを逃してしまった。

    こういうところがダメなんだろうな、とは自分でも理解している。気が効かないというか、残念というか何と言うか。これだから『男子に本気で愛される女子』には一生なれないんだろうな、私。

    そのとき——カランカランと入り口のドアに付けてある鈴が鳴って来客を知らせる。

    「いらっしゃい——」

    ませ、が言えなかったのは、相手が二週間ぶりに現れた隠れ想い人——三井寿だったからだ。彼は私と目が合うや否や「ハイボール」とだけ言って珍しく窓際の席に腰を降ろした。一気に色んな感情の呑まれてしまいその場で立ち尽くしていると洋平くんが「名前さん」と横から声をかけてくる。

    「……え?」
    「ハイボール」

    「ん」と、軽く人差し指で三井さんの座った席を差す。作れ、という意味だろうと理解して慌ててハイボール作りに取り掛かった。今日は特別に、生檸檬も添えてあげた。特に意味はない。しいて言えば二週間ぶりに顔が見れてちょっと嬉しかったとか、そんなところ。ちょっと濃い目に作ったそれを窓際の席に座る彼のもとへと持って行く。

    バーテンダーは特別扱いしている相手がモロバレするから気を付けないとな、と常々言っているマスター洋平くんの言葉が不意に頭をよぎる。私はどうやらバーテンダーには向いていないらしい。


    「月が——綺麗だな。」
    「……」

    ハイボールの入ったグラスを二人掛けのテーブルに置いたとき、左手で頬杖を付いて窓の外を見ながら、そっと呟くように言ったその台詞に一瞬、時間が止まった。

    「……」
    「……」

    ——独り、言……?と思ったら、くるっとこちらを見たので、独り言ではなかったのだと悟る。

    「ど、どうぞ、ハイボール。今日は生檸檬も添えてあげたよ。あと、このピーナッツもよければ。お客さんからの海外土産」
    「おぅ、サンキュ」
    「……」
    「こんな満月の日はよ、飲むに限るよな」
    「……月見酒、って?そんなの関係なく飲んでるスポーツマンには全く効力の効かない口実だね」
    「はは、違いねーわ……いただきます」

    テーブルに置かれたグラスを手に取り軽く翳してそう言った彼は、ハイボールを一口飲んで、また視線を窓の外へと移した。確かに今日は月が綺麗だなぁ……。


    深夜一時半、今日はもう閉めよっかと言った洋平くん。ちょうど最後のお客さん、三井さんが会計をするため席を立ったとき言われたその言葉に、うん、と頷いて顔を上げるとカウンターを挟んで立つ三井さんと正面から目が合う。

    「もう、上がりか?」
    「あー、うん。三井さん帰ったら今日は閉めるって、マスターが」
    「新マスターがな?」
    「みっちー、弄んない弄んない」
    「ふはっ……ふうん。閉めんのか、なら——」

    お代を受け取って、二千円のお釣りを返したとき手が触れた。ほんのりと熱の籠ったその温もりに心臓がトクンと高鳴る。

    「一緒に帰ろうぜ」

    間が持たないなんて……表に出したらいけない。ふいに誰かの手が、私の手を掴んだ。誰かって、ひとりしかいないけど。

    「……なに?」

    目を細めて彼を見れば、全部を見透かしたようなその鋭い瞳が私を容赦なく射抜く。ゆっくり口を開いて。私が一番言ってほしい言葉を口にする。


    「——名前」


    ……って、核心に触れられる。掴まれた手を振りほどこうとしても当然敵わなくて。

    「名前」

    耳元で声が聞こえるような感覚。それほどに耳から離れてくれない、ただの人間の、その声が——私の脳を侵してく。

    侵されて。冒されて。犯されて。

    「……ッ」

    途端に口唇が震え出す自分が信じられなかった。それを見て彼はニヤっと笑い、微かに片方の眉を吊り上げる。

    「なァ、名前」
    「……だから、なに」

    二週間前に久しく呼ばれた私の名前を、彼の声が何度も発音する。僅かながら吐息混じりに。

    「水戸に締め作業まかせてよぉ」
    「……」
    「一緒に、帰ろうぜ?」
    「……」

    ——落とされて、侵されて。
    墜とされて、また……犯される。

    だから私は、
    男子に本気で愛される女子にはなれないのだ。






    「——ねぇ、三井さん」
    「あ……?」
    「さっきの、アレさ。」
    「……」
    「意味、分かって言ったの?」

    三井さんの少し後ろから歩いて着いて行く。真横には湘南の海が広がっている。時折ザァッ…、と波音が荒くなる。私と三井さんを今日は——月の明かりが照らしていた。

    「は? 何のことだ?」
    「あ……いや、」
    「……」
    「三井さんにも、趣とかを感じる気管があるんだなぁーって思ってさ」
    「おい、喧嘩売ってんのかァ?まじ可愛くねェ」
    「別に、もともと可愛くないもん私。」
    「……」

    言葉の通り、本当に私には可愛げがない。こんなとき「じゃあ、教えてあげるよ」とか言って腕を引いて、その高い位置にある首に両手を回して、口唇を奪ったりして、てへって舌でも出せるもんならもうとっくの昔にやってる。教科書みたいな寒いあざと可愛い女子の典型。でも私には絶対に出来ない。

    「……」
    「……」

    仮に——ここで足を止めて振り返ってくれれば、もしかすると私にも目を合わせて手の伸ばす勇気が出るものだろうか。けれども変わらず歩みを進める目の前の想い人に、そんな自分本位な気持ちは届くはずもなくて。だからわたしは——

    「……まぁ、脳みそまで筋肉で出来てる三井さんには当然、縁のない知識だろうね」
    「……」
    「彼女がいるのに通ってる先のバーの店員と気軽にあーいう事・・・・・しちゃうようなチャラ男だもんね」
    「——、」

    言葉の勢いのまま、私は強めに彼の腕を掴んだ。ぐいっとこちらに引き寄せると反動で私のほうに身体を向けた想い人と目が合う。目が合うというよりも見下ろされて睨まれてる感じだけど。

    「——わかんないなら……教えてあげるよ」

    そう言って私は、両手を三井さんの首に回した。回したその手を自身のほうに引き寄せて、吐息が重なる距離まで詰めたけど——

    「……」
    「……」

    え……?なんで抵抗しないの?……な、なんで。突き放してよ。やめろ、って。そして私を、軽蔑した目で見下ろしてよ。もう終わりだなって言ってよ。もう……終わりたいよ、こんな関係なら。

    「……」
    「……っ」

    額に彼の額が触れ、鼻の先がぶつかる。
    そして囁かれる——

    「名前……」

    って……。やめてよ、やめて。
    お願いだから、抵抗してよ——!!

    「……やめてっ、」

    震える声で、私のほうから小さく抵抗したとき、三井さんが私の腕をガシッと掴んだ。そして彼が自分のほうへ、さらに私を引き寄せる。胸と胸がぶつかる。三井さんの、熱が伝わって来る。

    「無理だ」
    「や、やめよ……? お願い、」

    侵される。蝕まれる。
    もっと、聴きたい——。


    私は掴まれていた腕を振り払って無理やりに三井さんから離れた。そうして、彼の胸に両手を押し当てて今出せる最大限の力でぐっと押し退けてやった。彼の体幹では、あまりびくともしなかったけど。私はハァ……と溜め息にも似た息を吐いて彼を通り越した先で足を止める。


    「……月が、綺麗ってのはねぇ、」
    「……」
    「愛の言葉なんだよ」
    「……」
    「期待させないで——落としたいなら、他の子にやって。だからもう……お店にも来ないで」

    そう吐き捨てて歩き出した私の背中を「俺は」という冷たくて低い声が撫でた。私はピタッと立ち止まる。彼に背を向けたままで。

    「何も、答えてねェぞ」
    「……え?」

    反射的に振り返って出た私の声が心無しか震えている。はたしてそこには眉間に皺を寄せ怒り心頭といった表情の三井さんが私を睨みつけていた。

    「なんのことだ≠チて、言っただけだぜ」
    「……」
    「好き勝手言わせておきゃァ……言いてェ放題、言いやがってよ」

    怒った表情と声色のまま三井さんが私に近づいてくる。私は動けなかった。頭の中では逃げないとという意思はあった。でも、なぜか体が硬直して動けなかった。そんな私の目の前に、三井さんが立つ。私を見下ろす鋭い瞳に釘付けになる。

    「もし俺が——そうだ≠チて答えたら」
    「……」
    「お前は、どうするつもりだったんだ?」
    「——!!」

    ひくっと息を呑んでしまった。どうする、って。そんなの、急に言われたって……だって……私はずっと……

    「……わたしが……」
    「……あ?」
    「私が教えてあげたんじゃん、勘違いさせるようなこと言っちゃだめだよって」
    「……」

    ああ、わたしは本当に可愛くない。聞き上手にもなれなければ甘え上手にもなれない。かと言って笑顔で素直に目を見てチャンスをくれて「ありがとう」も言えない。

    そうだよ。今、きっとチャンスだった。どうするつもりだったって聞かれて、そう言ってほしかったって素直になれる絶好のチャンスだったのに。

    「むしろ、感謝するのは三井さんのほう——」
    「彼女がいるなんて、俺がいつ言った」
    「……」
    「いい加減、鈍いんだよテメェは」

    変わらず憎まれ口を叩く私の可愛げのない言葉を遮った三井さん。私はまた先の言葉を呑み込む。

    「気付けよ、バカヤロウ」

    三井さんが最後の一歩を踏み出したことで私と彼の距離はゼロになった。バカヤロウなんて乱暴な言葉とは裏腹に優しく呟いたその口唇が私のくちびるに重なる。「好きだ——」と、囁いて。

    「……」
    「……」

    触れ合うだけのそれ。はじめての、キス。私は口唇が震えて目頭が熱くなる。止める間もなく私の頬に涙が伝った。そんな私に反して三井さんはフッと微笑むんだ。いつもの勝ち誇った顔をして。

    「……ふ、……っ」
    「……俺に、名前を呼ばれるの大好きだろ?」
    「……っ、ふぇ……っ」

    三井さんは、ふは、と笑って私をそっと抱きしめた。彼から放たれる大好きな言葉。「名前」と繰り返し囁く三井さん。そうして泣きじゃくる私の耳元で彼は柔らかい口調で言う。

    「泣くかキスに集中すっか、どっちかにしろぃ」

    私は思わず気が抜けてしまって情けなく笑う。そして、ぎこちない手つきでその大きな背中に腕を回した。

    「み、みついさんの、くせに……」
    「ああ?」
    「確信犯だなんて——かわいくないっ」
    「……バーカ、お前にだけは言われたくねェよ」
    「バカって言った方がバカらしい、よ?」
    「……ったく。へらず口ばっか叩きやがって」
    「ふふっ……」


    いつか壊れてしまうなら初めから作らなければ、その方が良かった。失うのが怖くて、繋がってしまうのが怖くて……

    なのに、あなたは何度も——
    何度も、私の名前を……


    「名前」
    「……ん?」
    「見ろよ。月が、綺麗だぜ」
    「……」

    見上げれば三井さんが夜空を仰いでいる。
    左顎の古傷が、やけに色っぽく見えた。

    「——死んでもいいわ」
    「……」
    「……なんちゃって。」

    そう呟いた私のつむじに視線を感じた。痛いくらいに。もう一度、そっと顔をあげてみれば、その視線の犯人とかっちり目が合う。私は微かにくちびるを動かして密やかに声を発する。


    「……。ねえ、」
    「ん?」
    「もっと、呼んで。わたしの名前」
    「……急に甘えたかよ。ったく、敵わねえな」

    抱き合ってキスを交わしている私たち。傍から見たら、なんだあのバカップルって、きっと白い目で見られるだろう。だけど今だけは——このひとときに、酔いしれていてもいいですか。


    ああ、このままほんとに
    死んでもいいかも、わたし。










     はやく、そのをください



    (……ねぇ三井さん、目閉じてよ)
    (ンぁ?……ンなもん、今さら要求すんな)
    (私はムードとか大事にしたいタイプなんだけど)
    (……)
    (まぁ、相手が三井さんならムードも何もないか)
    (……先にぶち壊したのは名前だろが)
    (なっ——!こんの、確信犯め!)
    (うっせ、故意犯)
    (〜〜〜っ!!)


    ※『 僕の名前を/backnumber 』を題材に。

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