雨の音(1/3)
——出会ったあの日も、こんな雨模様だった。私の目には貴方が白馬に乗った王子様に見えた。貴方に会って私は、貴方の優しさに触れた。雨とおなじように、まるでじんわりとしみこむように思いは広がっていく。
日常の中どこを見ても貴方の笑顔を思い出す。あの笑顔が忘れられたら——そんなに、都合よくないかな。
ねえ。私は貴方を好きになってもいい?なんて言ったら貴方は怒るかな。それともしょうがねーなって笑ってくれる?
出会ったあの日も、こんな雨模様だった——。出会ったときお前には婚約者がいた。きっとこのままその相手と結婚して平凡で幸せな生活を送って行くんだろうなって。
ほどけたこの結び目は今も探してる面影は遥か遠い空。雨とおなじようにまるでじんわりとしみこむように思いは広がっていく。
日常の中どこを見てもお前の笑顔を思い出す。あの笑顔が忘れられたら——そんなに、都合よくないよな。
なあ。俺は、お前を好きになってもいいのか?なんて言ったら怒る?それとも笑ってくれるか?いつかまたどこかで二人が巡り会う。そんな夢のようなことを想いながら。いつかまたお前のような人に巡り会えると願って。
*
久しぶりに買い物に出た休日。運悪く雨に降られた。傘もないし荷物はあるし屋根のある場所を探して、とりあえず走る。ふと目の前にバス停が見えた。……よかった、屋根がある。吹き降りはあるけれどさっきほど濡れはしないだろう。タクシーが通りかかったらそれに乗って帰ろう、そう思ってバス停に入った。
「だーっ!……ひっでぇ、雨」
刹那、男の人がバス停に飛び込んで来る。一瞬わたしは固まる。だって、あまりにも大きかったから。身長もそうだけど身体ががっちりしていたので、なおのこと大きく見えたのだと思う。私は思わず目線を反対側へとそらした。
このまま黙ってやり過ごそう。早くバスかタクシー来ないかな、そう思って正面に向き直ろうと思った、まさにそのとき——。
「すげぇ雨だな」
やばい……話しかけられちゃったよ。そう思いながら彼のほうへとゆっくり視線を向けた。短い前髪から落ちる雨の滴を払うようにして彼はこっちを見た。案外、男前な顔つきをしてる。目つきはいい方とは言えないけど。まあ、肌も白いし、どちらかと言えば当たり前にイケメンだ。タイプかタイプじゃないかと問われたら、うん、タイプかもしれない。浅はかだな、私も。
「バスに乗んのか?」
そう聞いてくる彼に正直に話そうかどうしようか迷って、でも結局嘘をついてもすぐにバレそうではあったから素直に「タクシー来たら乗ろうと思って」と、そう答えた。
「お。じゃ、一緒か。」
彼はなんともかわいいらしい笑顔でニッと笑って言った。ずいぶん印象が違うな、目つき悪いのに。なんてことを思っていたらやがてタクシーのテールランプが見えた。
「あー。ちょい、そこにいてくれ」
彼はそう言ってまだ雨が降りしきる中、すこし道路に出て手を挙げた。タクシーを止めて、それから私に乗るように言う。私が申し訳なくて躊躇っていると「いーから」と優し気に困ったみたいな顔で促す。
「……あの、」
「あ?」
「どちらまで、行かれるんですか?」
とりあえず行き先を聞いてみる。そしたら偶然にも近くで今度は私からお伺いをたてて、結局は同乗していくことになった。タクシーの中で今更ながら彼に名前を聞く。
「……あ、の。失礼でなければ、お名前伺ってもよろしいですか?」
「へ? あ、俺の名前か?」
「はい」
「あー......っと。ミツイ、ヒサシ。」
彼はすこしだけ躊躇ってから、なんだか気まずそうに後頭部に手を当てがって名乗った。
ミツイ、ヒサシさん……。ハッとして私もしっかり偽名を使わず本名で名乗った。それから車内で彼としばらく話をした。どうってことないたわいもない話だったけれど。そして目的地に到着し先にミツイさんが降りることになった。
「——じゃ、お先。……あー。」
颯爽とタクシーから降りた彼はそう言ってまたすこし屈んでタクシーに首だけ入れてくる。
「運転手さん。あとはこれで」
彼は慣れた手つきで運転手にお金を渡す。私は思わず彼の手を掴んですこし大きな声をあげた。
「こっ、困ります……!」
そんな私にやっぱり「いーから」と浅く笑ってドアを自ら閉めてしまった。タクシーって自動でドア閉まるのに、なんて考えているうちにタクシーは発車してしまう。咄嗟に振り返ると手を上げている彼、ミツイさんが見えた。私は何度もタクシーの中から頭を下げて挨拶をした。
出先からの帰り道。運悪く、雨が降ってきた。今日に限って車使わなかったもんよ。あーあ悲惨だ。屋根のあるとこ探すか、そう思った矢先バス停を見つけた。ラッキーだ今日の俺はツイてる。あそこなら屋根もあるし、通りすがりのタクシーでもつかまえっか。
俺は一気に走った。そしたらバス停には先客が居た。一瞬、俺を見た気がしたけど彼女はすぐに端っこへ行ってしまう。俺、やべー奴にでも見えたか?とりあえず意味はないけど肩や髪に付いた雨の滴を軽く手で払ってみる。
なんか会話したほうがいいよな。こういう空気がどうも苦手でそう思って気付いたらこっちから話しかけちまってた。彼女と目が合った瞬間——その黒い瞳に、うおっ、と釘付けになる。
それからほんのすこしだけど彼女と話をした。すげー雨だなとかバス乗るのかとかそんな一言、二言だけだったけど。まもなくして、タクシーのテールランプが見えて、彼女がぬれないよう制止して俺がタクシー止める。申し訳なさそうな彼女に乗るように促すと、彼女は俺の行き先を聞いてきた。一応答えてそしたら乗ってけって言うもんだから「いーって」っていうやり取りを数回繰り返して結局向こうが下りるとこの近くだってこともあって同乗することにした。
道中、名前を聞かれてちょっと焦った。実はこんな感じでよく利用するスーパーで待ち伏せしてたブースターとつい先月もめ事があったからだ。チームから安易に名前を名乗るなだの、同じ店を利用するなだの言われてめんどくさくなって「Xジャパンのヨシキか、もしくはガクトかスマップか俺は」と言い返したらあっけなくスルーされて挙句の果てには「お前のファンは過激で手に余る」なんて言われて押し黙るしかなかった。つか俺のせいなのかよ、それ……。
でも、まあ、彼女なら、いいかなって思って。なんとなくだけど。勘で。タイプだからとか一目惚れしたからとか関係なく。なんか言っても大丈夫だろうなって思えたんだ。雰囲気が柔らかくて優しい感じだったし。こういうとこ一つ取っても俺ってやっぱりバグってるとは思う。そして帰り際、俺が先に降りることになりタクシー代を先に払うと「困ります」って語気を強めに言われてしまいには腕を掴まれた。そう言う彼女にいいからと言って半ば強引にドアを閉めた。タクシーって自動ドアなのにな。我ながら笑える。
車の中から、何回も頭を下げる彼女が見えた。俺は手を翳してそのタクシーを見送った。
*
雨の日の一目惚れタクシー事件から数日後——家にいた俺は小腹が減ったので近くのコンビニにでも行こうと、マンションを出る。レジで会計を済ませて外へ出ると「あ」と、思わず声が出た。
「こんばんは」
「あ、おぅ……どーも。」
そこにいたのは、まさかの雨の日に会った彼女だった。どうやら会社帰りらしく、スーツを着ている。この前とはずいぶん印象が違うな、なんてそんなことを思っていると彼女がこの辺に住んでいるとか話し出して「あー、俺も実はこの辺なんだ」と言葉を返す。どうやら帰り道が一緒の方向だったみたいで、夜道ってこともあり異様な光景だが二人で肩を並べて歩いた。思いのほか本当に互いの住んでる部屋が近くだってこともこのとき解った。
その日からちょくちょくコンビニで会うことも増えて今ではたわいのない会話や笑い話なんかもするような仲になっていた。まだこの時点では、自分の気持ちには全く気がついていない俺。あー可愛いなとか、タイプだなーくらいにしか思っていなかったつもりでいたんだ。
その日はチームのミーティングがあった。そのあと何の予定もないから同じチームの宮城と食事に行くことになり外の通りを歩いていたら宮城が不意に立ち止まって出し抜けに言う。
「——三井サン、見て。すっげ、きれい」
宮城がブライダルサロンを指さす。ガラス越しに見えたウエディングドレス姿の女性。ん……?どっかで見た後ろ姿だなとその横顔にじっと目を凝らすと相手はあの彼女だった。どきっとした。そしてなぜか苦しくなった。隣で笑うのは、彼氏か? へえ……結婚、すんのか。
「——三井サン。」
「……あ?」
「全然食ってねーけど。腹でも痛てぇーの?」
「……あ、いや。あんま腹減ってねえのかも」
「ふうん……じゃ、コレちょーだい」
「ああ、勝手に食え。」
その日はなんだか呆然としていた。自分の気持ちに気がついてしまったからだ。でも結婚するんじゃだめだろ、そう思って頭の中の邪念を無理やりに取っ払った。
それからしばらくして夜、コンビニ前で彼女に会った。この前見かけたことを言ってみる。彼女は恥ずかしそうにうつむいて、照れながら話す。学生時代からのつきあいで、気の知れた相手だということや、なれそめなんかも。俺は彼女がエンゲージリングをしていないことが不思議で聞いた。彼女は笑いながらネックレスに通したリングを見せてくれる。仕事をしてるうちは指にははめないらしい。「でも、ちゃんと身に付けているでしょ?」って笑って言う。そのリングは、彼女の首元で光り輝いていた。
やっぱり俺はこの人が好きらしい。会えば柄にもなくときめいて男の話を聞けば心が痛い。告白前に失恋ってことだよななんて考えながらマンションへ戻って思いっきり大きなため息をつく。
ヤベ。結構しんどいぜこれ。俺は破滅願望でもあるんだろうか。なんでよりによって結婚が決まった人を好きになるのかと考えあぐねる。でも、バカな脳は上手い判断が何ひとつ出来ず、溜め息ばかりが出る。ああ、どうすっかな……参った。
*
休日——とくにすることもなかった私は本でも探しに行こうと外に出た。駅前の本屋さん。適当に流し見て……あ、あった。なんとなく頭に浮かんでいた本の題名そのお目当ての本を見つけた。でも手が届かない、お店の人呼ばなくちゃ。そう思って振り向こうとしたら、後ろから手が伸びてきた。振り向くと三井さんが口の端を吊り上げて笑っていた。
「ほらよ。」
そう言って私の欲しかった本を、軽々と棚から取って手渡してくれる。
「あ……ありがとうございます。」
受け取った私に「奇遇だな」と緩く笑いかける三井さんも手に本を持っていて、なんとなく二人してレジに並ぶ。会計を済ませたところで、三井さんが話しかけてきた。
「今日これから、予定あんのか?」
「いえ、」
そう答えると「丁度昼時だし、昼飯でも一緒に食べようぜ」と言われた。とくに断る理由もないので、私は二つ返事でOKした。三井さんの車で和食の店に連れて行ってもらう。全室個室で落ち着いた店だ。食事もおいしくて、箸がすすんだ。そういえばこんな食事しばらくしてなかったな。今の婚約者は家に来るか呼ぶか私が作ってそれを食べるかのどれか。ま、別にいいんだけど。でも最近、とくに婚約してからはないなぁなんて……最近思う疑問がふと頭をもたげた。少しため息が出る。
「……ん? どうかしたか?」
不意に三井さんが聞いてくる。私は何でもないと笑ってやり過ごした。こんなの、相談することじゃないし。そもそも三井さんに言ってどうするのって感じだもんね。
食事を終え、わざわざアパートまで送ってくれた三井さんの車が私のアパートの前に止まり私はお礼を言って車を降りた。そして三井さんが見えなくなるまで見送った。
どうしてなのか——さっきの彼女の様子が気になる。ときどき溜め息をついて、それでも何でもないと弱く笑う笑顔。彼女に会うたびに惹かれていく自分に気がつく。彼女の黒い瞳。少し目尻を下げて笑う顔。首をかしげて考えこむ仕草。目を閉じれば浮かんでくる。あーあ、相当重傷だな、こりゃ。そもそも、婚約者がいんだぞ。でも諦めきれないで、何とか繋がっていようとする自分もいたりして。ほんとイカれてる。どうするんだ、俺——。
それからしばらく彼女を見なかった。少し心配になって家も知ってるしな、と思うが、行くのは失礼だよなと思いとどまる。そんなことを悶々と考えていて、久しぶりに彼女に会えた日。でも、なんだか彼女はいつもと違っていた。
今日はなんだか具合が悪い。風邪を引いたらしく、熱もあった。会社を休んで横になっていたら部屋の鍵を開ける音が聞こえた。婚約者が来てくれたのだ。思いがけず嬉しくなる。それはきっと身体が弱っていたせいもあるのだろうけど。
「なにやってんだ?」
寝室で横になっている私に彼が言う。具合が悪いと返したがさして気にする様子もなく彼はリビングでくつろぎ始める。熱っぽい身体で、すこし考えてた。この人は婚約してから変わったって。ドレスも勝手に自分で決めて招待客も……しまいには住むところや家具まで。仕事だって辞めると決め込んでここへ来たって何をする訳じゃなくて病気で寝ていてもほったらかしで。
昔はおかゆとか不器用なりにも作ってくれたりしたのに。そんなことを思っていたら寝室へ彼が入ってきた。やっぱり心配してくれていたんだと思った次の瞬間、彼がいきなり私に覆い被さってきたのだ。
「ちょっと……!わたし、風邪で熱……っ」
「うるさい、黙ってろ」
そう言い放たれてすぐにパジャマのズボンだけを脱がされ、そのまま自分の欲求だけを満たして彼は帰って行ってしまった。
どうして、こんなことができるの?前はこんなじゃなかった。私はしばらくベッドの上でひとりただ呆然としていた。
熱が下がってから、コンビニへ買い物に出た。何か食べないと、そう思ったのだ。そこで、久しぶりに三井さんに会った。相変わらず明るい笑顔だ。私も笑って挨拶をしようと思ったけど。でもうまく笑えない自分が憎い。三井さんもそんな私の様子を見て不思議そうな顔をしている。きっと言われる——
「オイ……なんか、あったのか?」
ほらね、やっぱり……。三井さんてって意外と目敏いもんなぁ。
「いや、なんでもないです」
「……」
声をかけた俺の顔を見て泣き笑いみたいな顔になる彼女。なんか、おかしいよな絶対……。
「……ちょっと、話そうぜ?」
そう言って、帰り道の公園のベンチに座った。夜だからもう誰もいない静かな公園で彼女はぽつりぽつりと話し始める。ある程度聞いたあと俺は無性に腹立たしかった。
「病気で寝てるっつーのに……ンなこと、できるもんなのかよ?」
って、怒りを抑えながら言ったら彼女の瞳から涙がこぼれた。
「俺ならしねぇ、絶対に……っ」
彼女を見てはっきりと言った。無意識に自分の膝に乗せられていた手で拳を作る。
「どうしてですかね……婚約するまではこんなんじゃなかったのに」
涙を流しながら、彼女はため息をつく。
「友達はマリッジブルーだって言うけど。それで私も、こんな風に思うのかな……?」
「……、」
……いや、それは違げーだろ。
「ちゃんと話し合うことは必要だと思うけどな。またいつでも、話聞くからよ」
俺が言えることはこれが精一杯だ。「いつでもかけていいから」と、もう一度つぶやいて彼女に自分の携帯番号を教えた。——結婚すんの、止めとけよ。喉まで出かかっていた言葉を必死で飲み込む。彼女の気持ちが俺にない以上、そんなこと言えやしねぇ。