雨の音(2/3)
三井さんにさんざん愚痴って相談して婚約者と話し合うことに決めた。結婚するにしても、このままじゃダメだと思ったからだ。そして翌日私は彼の部屋を訪ねた。
「なに。」
開口一番そう言って私をリビングへ通してからすぐに「コーヒー」と、それだけ言ってテレビに視線を戻した彼。私は黙ったままコーヒーを入れてそれをテーブルに置いた。コーヒーに口を付ける彼を見ながら、私はずっと気にしていることを話し始める。最初は黙って聞いていた彼だった。でも——
「結婚するんだから、俺の言うとおりにしてればいいんだ。そりゃあ付き合ってるころは気も遣うだろ?なんで一緒に暮らすのに、気を遣う必要があるの?それにお前を抱くのに許可がいるのか?おまえ、何様だ?」
だーっと話されて思わず、はぁ?ってなった。待って、こんな人だった?五年も付き合ってきてこんな言い方されるの?私——。
一瞬何が起こったのか解らなくなって放心状態の私に突如、痛みが走った。なぜか、頬に……。
——え? うそ?わたし今、ぶたれた?目の前にいつもと違う彼が居た。そのまま乱暴に私に覆い被さってくる。怖くてたまらない。精一杯の力で彼を突き飛ばしバックだけ持って私は部屋を飛び出した。靴なんか履いている暇なんてなかった。人目も気にせず走った。タクシーに乗り込んで、家の前に着いたけど彼が追い掛けて来そうで怖くて、どうしようもなくて、歩き回って公園の前に辿り着いた私はとりあえずベンチに座ってみる。
……顔、腫れてるみたい。あつくて、痛い。
『いつでも、かけて来ていいからな……』
三井さんの優しい言葉を思い出す。携帯を取り出した、けど……迷惑だよね。そこまで甘えちゃダメだ。どうしよう、どうしよう。
一人でいると涙があふれた。三井さんに会いたい、と。どうしてだろう……自然とそんなことを思った自分がいた。
「……おっ?」
軽やかな声が聞こえた。振り向くとそこには、三井さんが居た——。
今日もなんとなく、コンビニへ行った。ここのところ頻繁にコンビニを利用するようになってしまったせいで店員に顔も覚えられて、緩い世間話なんかもするようになった。
俺がバスケットボール選手だと分かってからはレジに行くたび「練習帰りですか?」だの「お疲れ様です」だのと声を掛けられる始末。ハハ、と浅く笑って店を出るが毎日コンビニ弁当を食ってるアスリートだと思われかねないので今後は顔見知りの店員がいない時間を狙って行くかと一人、脳内作戦会議をする。
その帰り道公園の横を通った。コンビニを利用するときは決まってこのルートで帰宅する。この前ココで話し込んだよな……あわよくば会えればいいな、なんて思ってこの道を通る俺って、女々しいよな。そんなことを思いながら通り過ぎようとしたとき公園に人陰が見えた。目をこらすと、彼女だった。俺は思わず声をかける。振り向いた彼女は泣いていた。急いで駆け寄って近づいたとき、びっくりした。あきらかに頬が腫れていたから。しかも靴も履いてない状態だ。
「何があった!?」
彼女は俺にすがるように泣き崩れた。とにかくここじゃまずい。あー、どうすっかな……。
「野郎ンとこ……戻んのか?」
そういう俺にブルブルと彼女は首を振る。だろうな、戻るわきゃねえか。一応聞いてみただけだが聞かないほうがよかったよなと後悔の念に押しつぶされそうになる。これだから俺はモテないのだろう。まあ宮城から言わせてみればって話だけどよ。
「と……! とりあえずこれ、履けよ」
言ったまま俺のサンダルを履かせた。そして、仕方がないので自分の家に彼女を連れて帰ることにした。下心は無い、決して——。
自宅マンションに着きリビングのソファに彼女を座らせて、アイスパックを冷蔵庫から出した。それで赤くなっている彼女の頬を冷やしてやる。
「痛むか?」
「……」
「聞かなくても痛てぇよな、真っ赤だもんよ」
「……っ」
彼女は小さく首を横に振る。ああ、痛々しくてかわいそ。服だって乱れてボタン取れてるしよ。
「……ンぁ、ちょっと待ってろ」
そう言ってクローゼットに向かった俺は新しめなTシャツを取り出す。……風呂、入らせた方がいいよな。いや、シャワーの方がいいか。決してこのあと弱っているとこにつけ込んでヤルとか、そーいうんじゃなくて!さすがに、あんな格好のままじゃって思っただけだ。
俺はリビングに戻って頬を冷やしている彼女に言う。
「——とりあえず、シャワー浴びてこいよ。足の裏とかケガしてっし……で、コレ。着替えていいぜ。ちゃんと洗ってるヤツだから」
涙をいっぱいためてる彼女を浴室へ連れて行った。よかった、変な誤解は生まれなかったみたいだ。てか、今はそれどころじゃねーだろうな。
「……タオル、ここにあっから。」
そう言うと俺は、浴室のドアを早々に閉めた。ドア越しにまだすすり泣く声が聞こえる。なんか胸が痛くなる。こっちまで泣きそうだぜ。
しばらくすると、彼女が浴室から出てきた。
「やっぱ少し、大きすぎたか。」
ため息交じりにそう言って彼女をソファに座らせた。救急箱を出してきてすり切れた足の裏を消毒する。裸足でどんな思いで公園にいたんだよ?
「電話、くれれば良かったのによ……」
そうつぶやく俺に「迷惑かけちゃ、いけないと思った」とぽつり、小さな声で言った。
「今日は……ここ泊まればいい。もし、帰りたくなかったら明日も全然、いてくれて構わねーし」
これ以上は迷惑をかけられないと言う彼女に、いーって、と半ばごり押し気味に言った。つか、こんな姿でほっとけるわけねーだろうが……。
彼女をベッドに寝かせて俺はリビングのソファで横になった。なんとなく携帯をいじっていたら宮城から着信が入る。
「……あ? 何か用か」
『三井サン?ねぇ、ご飯行かない?大サンとかと行くんだけど』
「ダイ? ああ、諸星か……いや、今日はパス」
『へっ? めずらしー……なんか用事あんの?』
「うっせーなぁ。俺はいつも忙しいの!じゃな」
『あっ、ちょ——』
無理やりに電話を切った。思わず出てしまう舌打ちはきっと宮城に対してではなくて彼女の——婚約者に対してだった。考えれば考える程に腹立たしい。彼女をこんな目に遭わせやがって、なァにが婚約者だ。ったくよ、ぶん殴ってやりてぇ。
一時間後——。ふと気になって寝室をチラッと覗いた。彼女は疲れたのかぐっすりと眠っていてほっとした俺は胸を撫でおろす。今は、ゆっくり休んだらいい。俺は、そっとドアを閉めた。
*
……目が覚めた。ここ、どこ? そうだ、三井さんの家だ。昨日、泊めてもらったんだった。
ふと首を動かすと枕元にブラウスが置いてあった。私の服だ。昨日取れてしまったボタンが縫いつけてある。——え、三井さんが付けてくれたんだ。器用だな、なんか意外。ふっと笑みが零れてしまい、それから胸がジンとなった。
服を着替えて寝室を出る。三井さんは私の気配で目が覚めたみたいだった。
「……はよ。眠れたか?」
めちゃくちゃ寝不足です、って言いたげな顔で聞いてくる三井さんに私は思わず苦笑する。
「おかげさまで、よく眠れました」
三井さんの側まで寄って行って、丁寧にお礼を伝える私。三井さんは気怠そうにソファから起きあがって足を豪快に広げると、浅くソファに座り直した。そしてそっとその長い腕を伸ばしてきて私の頬に触れた。思いがけずどきん、とする。
「——腫れ、引いたみたいだな。よかった」
にっ、と三井さんが口の端を吊り上げて笑う。あ、そっちか。なんだ、びっくりした……なにを勘違いしてたんだろ、わたし。
「あの……昨日は本当に、ごめんなさい」
謝る私に彼は、気にすんなと優しく笑う。三井さんは「座れよ」と私を横へ座るように促した。私は昨日のいきさつをちゃんと話そうと思った。でも思い出すと悲しくて怖くて、涙が溢れて来てしまう。
「……ゆっくりで、いいからな?」
やんわりと肩を抱いて三井さんが言う。時々、嗚咽が漏れるたびに背中をさすってくれる腕は、とても心を落ち着かせてくれた。あたたかい手。優しい言葉。ゆっくり、すべてを話し終えたとき不意に三井さんが私を包み込むようにそっと抱きしめた。
「つらかっただろ?」
涙が止まらない。でも、怖くない。それでいて安心した自分にも驚く。しばらくそのままでいたけれど、三井さんがそっと身体を離して言う。
「ちょっと待ってろ。とりあえず、飯食おうぜ」
そう言いながら彼は、キッチンへと向かった。私もあわてて後に付いていく。
「あー、お前は座ってろって。俺がやっから」
そう言い切って、私をキッチンから追い出してしまう。やがてご飯とスクランブルエッグとお味噌汁がテーブルの上に並んだ。どうも不思議な感覚だったがそれでも二人で向かい合って朝ご飯を食べた。なんだか穏やかで幸せな気持ちだった。
三井さんは仕事でどうしても出なくちゃいけないと支度を始めたから、私も帰る準備をしようとしたのだが、その様子を怪訝な顔で見てきた三井さんに「お前はここにいろ」と、強い口調で言われてしまう。
「帰るときは、ちゃんと送るからよ。」
次いで「それに靴、買ってくっから」と言ってそのあとにしかたねーなって顔でふはって笑っていた。
結局私はその日も三井さんのところでお世話になったってオチ。
彼女を自宅に泊めて、俺の気持ちはさらに深いものになっていった。俺のそばにいればいい——素直にそう思った。だから帰るという彼女を止めた。それに、一人で帰すのは心配だったからだ。
テレビ番組の打ち合わせ後。とりあえず、靴を買わなきゃなと応急的に一足買いに向かったとき靴屋の中で偶然、宮城と諸星コンビに遭遇してしまう。
「あれ? 三井じゃん。なにしてんの?」
「……いや、打ち合わせで出てきた」
「あー。三井サン番組の打ち合わせとか言ってたもんね」
「ああ……。……じゃあな」
「え! なに買ったのー?三井サン」
フルシカトで、そそくさと手に持っていた靴を隠し持ちレジに向かう。しかし——こんなときに限って「ポイントカードはございますかぁ」だの「いま二足買って頂くと20%オフに〜」だの「クレジットカードを申し込んでいただくと…」なんて説明やら勧誘に遭う始末。普段はチームのイメージもあるので外では愛想を振り撒いている俺でも今日ばかりは「カード持ってねーし、クレカも作らねえ。急いで会計してくれ」なんて矢継ぎ早に言う。そのお陰で店員も静かになったのでまあ良かったっちゃあ良かったが。今日はキャップも被ってるし顔バレもしねえだろうと勝手に自分で自分を納得させる。
さっさと会計を済ませ店を出る。目の端に呆然と俺を眺めている二人の間抜けヅラが見えた気がしたが目配せすることもなく俺は急いで帰った。
マンションに着きドアを開けたらなんだかいい匂いが漂って来る。
「冷蔵庫にあるもので作っちゃったけど……」
そう言って、彼女が申し訳なさそうに微笑む。見るとテーブルには夕食ができていて。それが、無性にうれしかった。
着替えをすませて彼女に買って来た靴を渡せば中を開けて「可愛い!」なんてお世辞にも素直に喜んでくれて安心した。
「センスいいね、三井さん」
「センスはいいんだ、センスは」
「え?」
「女心はよくわかんねーけど……」
そう面食らう俺に彼女は綺麗に笑って「そんなことないよ、ありがとう」なんて言う。また彼女と同じテーブルにつき、一緒にご飯を食べた。
「あとで、コンビニいってもいい?」
出し抜けに彼女が言う。朝食の材料がないと続けざま言うのでコンビニではなく近くのスーパーまで一緒に行くことにした。簡単な食材を買い込んで店を出たとき不意に横を見ると、彼女に笑顔が戻っていて安心と同時に嬉しくなる。そして、公園の横を通り過ぎる間際、彼女が言った。
「三井さん、ありがとう。ここで三井さんが見つけてくれなかったら……私いまごろ、どうなってたか……」
「……ンなこと気にすんなよ、俺は——」
そう言い掛けたとき、公園から人影が現れた。