「もうすぐだぜ」
気づけば見慣れない道路に差し掛かっていた。野間の言う近道とはまさにこの道のことを言っていたのだろう。
「あと十分か……」と、自分で再確認するように腕時計を見て言葉を漏らせば隣で「間に合うかな?」と心配そうに抱えた子犬の頭を撫で付ける名前。
「よーし、この丘を登れば空港だぜ」
その野間の言葉を待っていたかのようにスピードを上げていた車が途端に減速し始める。そしてついに最後にはシューと静かに音を立てて路肩に停車してしまったのだ。
「まずい、バッテリー切れだな」
「なにぃ!?チュー、あと一息なのによ!」
「仕方ねえ……花道、押すか」
「おぅよ!」
野間に同意見だった俺と名前も一緒に外に出て車を押そうと手をかけたとき、桜木が声を張る。
「時間がねェ!ミッチー、名前さんとその犬連れて先に行け!」
「え……、だけどよ……」
「バカモノ!間に合わなかったら意味がねェ!」
「そうだぜミッチー、ほら早く行った行った!」
必死に車を押しながら先に行けと促すかつての後輩たちのたくましすぎる姿にぐっと来るものを今は飲み込み「さんきゅ」と呟いて名前と一緒に空港まで走った。
「四時、か——」
しかし空港に到着したのは丁度、四時を回ったときだった。名前が飛び立っていく飛行機を窓から眺めながら胸に抱えていた子犬をぎゅっと抱きしめる。
「ごめんな……間に合わなかったわ」
その子犬に伝えるように名前ごと抱きしめて囁いたとき彼女が俺の腕の中で「大丈夫、私たちがずっとそばにいてあげるからね」と、言った。
「——ねえパパ、私たちはいつ乗るの?」
「えっとね、六時の便だよ」
「そしたらアメリカぁ?」
そんな会話が、そばから聞こえてきたと思った瞬間、子犬がキュンキュンと鳴き出した。それに気づいたその子供が俺たちのそばに寄ってくる。
「パパ!みーちゃんだ!みーちゃんが帰ってきたよ!」
犬にみーちゃんって、と思わずツッコミそうになる気持ちを抑えて事の経緯を父親に説明するとどうやらその家族は、子犬の飼い主らしかった。
結婚式を目前にして、こんな奇跡的な事が立て続けに起こるものかと逆に結婚式が失敗しそうで不安にもなったがとりあえずみーちゃんが無事に家族の元に戻れたので安堵する。
「みーちゃんだって。なんか猫みたいだね」
「ああ、だな……よし、帰るか」
「うんっ」
家族に子犬を引き渡し、二人で空港を出ると、またもハザードランプをつけて停車している見慣れた車が目に入る。外の地べたにあぐらをかいている二人組の姿を過去にも高校時代よく目にした気がして、思わず頬が緩んでしまった。
俺と名前の姿に気づいた野間が「よ!」と手をあげたのでこちらも「おぅ」と、軽く手を翳して返す。
「その様子だと間に合ったみたいだな」
「ああ、お陰様でな。で、車はどーした?」
「そこでガソリン入れてきたぜ。どうも電気自動車は、まだ俺には慣れねーなぁ」
そう言って面食らう野間だったが桜木はいつもと何ら変わりなく、「じゃあ、よーへーの店まで急ごうぜ!」なんて明るく言う。
「だな。みんなで飲みながらよぉ」
ただの軽い打ち合わせの予定だったが、そんな興味をそそる野間の提案に乗らないわけがなく、俺も即答で「おー、いいなそれ」と返すと名前はやっぱり呆れたように隣で笑っていた。
だけどこの顔、高校時代にもよくしてたなーと思った。その懐かしさに、ちょっと嬉しくなったなんて事は一生口が裂けても言えねーわ、と前の席で楽しそうにしている後輩と横で微笑む彼女を盗み見て俺は、苦笑いを浮かべた。
結局、二次会の軽い打ち合わせは水戸と名前で済ませてしまったので、俺はただ桜木と野間と、後から来た残りの野郎軍団と飲みに来ただけとなってしまっていた。
水戸との打ち合わせをさっさと済ませて実家に寄って行くと先に帰った名前がここにいないのをいいことに、俺たちの座る席ではなぜか高校時代の俺のネタで大いに盛り上がっていた。
「でもよー、俺らの青春の一部だったミッチーと姐さんが、とうとう結婚するのかー」
「羨ましいぞ、ミッチーのくせして」
大楠と高宮のその言葉に、何だか今日は柄にもなく照れてしまって突っ込む余裕もなく後頭部をかいて言葉に詰まる俺を見ていたらしい水戸が、次の酒を席に持って来て言った。
「もし名前さんを泣かせでもしたら俺たちが承知しねーぞー?」
「バーカ、わかってるっつの」
「今度こそ幸せにしてあげてくれよ、みっちー」
そう言った水戸からなぜか酒を注がれてしまいグラスを傾けながら「おぅ」と小さく返した俺をニヤニヤと見ていた野郎軍団の姿に、今日だけは俺の心の中の柔らかい部分が少し温かくなった。
しばらくしてトイレに立った俺は用を済ませてみんなに気づかれないように店を出た。空は満天の星で埋め尽くされている。不意に過去の彼女との思い出が蘇ってきて俺は目を細めた。
これからもこうやって思い出す度に、ニヤけてしまうような想い出を、他でもない二人で作っていきたいなと思う。そりゃあ相変わらずケンカもたくさんするだろうけど。だけどそれなら俺は、何回だって何十回だって謝るし感謝の言葉も忘れないようにするから。
きっと俺の場合「ごめん」「ごめん」「ありがとう」「ごめん」くらいのバランスになる危険性はすこしだけ高めだけれど、そこはあいつのことだから多めに見てくれるだろう。
そんな詩人みたいなことを心の中で唱えて浅く笑った俺はスマホをポケットから取り出して着信履歴の一番上の相手宛に電話をかけた。
『——もしもし?寿?』
「おぅ、まだ実家か?」
『うん……でももうすぐ帰るところ』
「そうか、俺も間も無く帰るとこだ」
『……うん。あの、寿——』
「あ?」
聞き返してすこしの間、沈黙の時間が流れた。そうして『…ううん、なんでもない。じゃあ切るね』と力無く言った彼女を少し不審に思ったりもしたが特に探ることはせずに「ああ」と、相槌を打った。
てっきり電話を先に切られると思っていた俺の耳にガサガサと雑音が入ってきて、すこし離れたところから彼女の声も聞こえて来た。雑音の正体はきっと電話を切ったつもりでその場にスマホを置いた時に発された音なのだろうと察するが切るタイミングを逃してしまいそのままスマホを耳に当てていると、再度彼女の声が聞こえてきたのでなんとなくそのまま少し繋いだままにしてみた。
『お父さん……私、お嫁に行くのやめるよ』
——え。と息が止まりかける。確実に聞こえた聞き慣れた彼女の声が明らかにそう言った。あまりの衝撃に彼女の父親の「どうしたんだ、急に」と焦る声がやけに遠くに聞こえる。思わずスマホを落としそうになる手に力を込めた。
落ち着きなく高鳴る鼓動をどうにかしたい一心で空いていた手をズボンのポケットへと収めて、そっと息を整える。
『私がお嫁に行っちゃったらさ、お父さん寂しくなるでしょ?』
『そりゃあ、もちろん』
『これまでずっと甘えたり、わがまま言ったり、それなのに私は——私からはお父さんに何もしてあげられなかった』
『……』
『それに、それに……家族がこれ以上また、離れ離れになるなんて、やっぱり……悲しいよね』
俺はその場にしゃがみ込みスマホを耳に当てたままで頭を項垂れさせた。
人間も動物も、家族と離れ離れなんて寂しい≠サう彼女に言ったのは紛れもなく俺自身だった。俺には両親がいるけれど彼女の父親は本当に一人きりになってしまうのだ。母親を、幼い頃に亡くした彼女のそんな想いを、今までだって理解したつもりでいたけれど最近は目の前のことばかりに夢中で、一番大事なことを見落としていたのかも知れないな、と自身を振り返ってみたりする。
『とんでもない。少しくらい寂しくても思い出が暖めてくれるだろう。だからお前は、そんな事を気にしなくたっていいんだよ』
彼女の父親の優しげな声とその真っ直ぐで娘を思いやる言葉に俺は、項垂れさせていた頭をあげた。相変わらず真っ暗な夜空には一面を埋め尽くすほどの星が散りばめられてキラキラと無情にも瞬いている。
『——私ね、不安なの。寿とうまくやっていけるのかなって』
もうこのまま切ってしまえばそれで済むだろう——何も聞かなかったことにして明後日の結婚式当日を迎えれば……そう思う悪人の自分と、どうしても聞かなかった事には出来ない、だったらこのまま最後まで彼女の想いを聞け、という善人で真面目な自分が頭の中で互いに引かず言い合いをし始めたので、俺はどうすることも出来ず、ただただ、頭を抱えるしかなかった。
——数分後。
電話を切った丁度そのとき外に一服をしにきたらしい野間と鉢合わせになって、目が合う。
奴は俺を見つけるや否や吸おうとしていた紙タバコをまたポケットへとしまい両手をそこへと突っ込むと俺の元まで気だるげに歩み寄って来た。
「俺は帰るぜ。金は水戸に渡してっからお前らはまだ飲んでけよ」
「かぁーっ!いつも悪いねぇ、センパイ」
「今更そんな関係でもねーだろが。——それじゃ明後日、よろしくな」
そう言って軽く手をあげ野間の横を通り過ぎると背後から「おー、任せとけって」と言う返事が返ってきた。俺は不意に足を止め「あ、そうだ、野間」と、奴に背を向けたまま言う。
「今日は、ありがとな」
「いやぁ、礼を言いたいのは俺たちの方だって」
意外な返しに「え?」と、声に出し振り返った俺にさっきしまったはずの火をつけていないタバコを口に咥えた野間が情けなく笑って言う。
「なんかよぉ、高校ん頃みたいで楽しかったぜ。ミッチーのおかげよ」
「野間……」
「それによ、何で姐さんがミッチーに惚れたのかなんとなくわかったしな」
その言葉には声に出さず口の端を吊り上げ返事をして、また奴に背を向けて歩き出す。そうして歩きながらもう一度「じゃーな」と、言うように右手を挙げた。だから奴が最後にどんな顔をして俺を見送ったのかは知る由もない。
しばらくゆっくりとした足取りで、マンションまでの帰り道を、少し遠回りしながら歩いていた俺の足が自然と止まった。次いで空を見上げて「ほんと今日は星が綺麗だなァ」なんて、台詞を吐いてしまう今日は、どうやら少々、酔っ払ってしまったみたいだ。
突如「はくしゅん」と小さく聞こえたくしゃみに驚いて「誰だっ!」と言ってしまった後につい声が出てしまったと後悔した、が——。
「……ほっほっほ。その声は、三井くんかな?」
まさかの、安西先生だった。先生は、いつもの薄手の着物姿で、細く白い息を吐いて笑う。
「先生!どうしたんですか、こんな時間に」
「ええ、ちょっと。星を見にね、君は」
「あーっと……水戸んとこからの帰りです。実は桜木たちも集まってて」
「そうですか。私も昨日あの子たちに会ってね。水戸くんたち、スピーチは短めになんて言っていました。まあ、君のエピソードなら一晩あっても語り尽くせないくらい——」
その先の言葉を遮るようにして夜空を見上げながら両手を組んで寒さを凌ぐように腕を摩っている先生に、自分の着ていたスーツのジャケットをそっと羽織らせた。先生は、驚いた表情で俺を見やる。
「先生——、明後日は、よろしくお願いします。じゃあ……おやすみなさい」
九十度でお辞儀をし先生に背を向け歩き出すと「——三井くん」と名を呼ばれ条件反射でピタッと立ち止まり「はい!」と、先生に背中を向けたままで返事をする。
「当日は——喧嘩に巻き込まれて遅刻してこないよう、お願いしますね」
「……、はいっ!」
背筋をぴんと伸ばし再度大きく返事をした俺が軽い足取りで走り去る間際——ありがとう≠ニ小さく言った先生の声が背後から聞こえた気がしたが、もしかすると俺の妄想が生んだ空耳かもしれない。
——数時間前。
電話を、切るか切らないかの選択肢で追い込まれていた俺の耳に『——やれるよ。寿くんを信じなさい』と真っ直ぐに言った彼女の父親の言葉に俺は息を呑む。
『寿くんを選んだ、お前の判断は、正しかったと思うよ。彼は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だと思う』
『うん……』
『それが一番、人間にとって大事な事なんだよ。彼なら間違いなく名前を幸せにしてくれると、お父さんは信じてる』
俺は目頭が熱くなってゴシゴシとスーツの袖で目元を拭う。そうして安心したのか、「ふぅ」と出てしまった溜め息の後ようやく通話を切った。
そのとき丁度、外に一服をしにきたらしい野間と鉢合わせになり、パチリと目が合う。
野間と軽く会話を交わして、先に帰ると告げ、その帰り道で安西先生と会った。
大切な人たちと一緒に小さな命を救ったこととその大切な人たちからのありがたい気持ちと言葉をもらって今日は、彼女に花束でも買って帰ってやりたいくらいに、いい気分な一日だった。
何でもない日に、しかも、式を明後日に控えているのに花束なんて買って行ったら、何か隠し事でもしているのかと疑われそうだ。俺は信用ねえからなぁ……
でも、そうやって俺たちは——何回だって、何十回だって抱き合って手を繋いでキスをして……甘い甘いこの気持ちを互いに忘れなければ、何も問題はないんじゃないかな、と思う。
そりゃあ、これからだって相変わらず、喧嘩もするんだろうけど。それなら何回だって、何十回だって謝るし感謝の言葉もきっと忘れないから、お前となら綺麗事を抜きにどんな朝も夜もいつも笑い合って生きていけるんじゃないかって、思うんだ。
そんなふうに脳内が、自分本位に動いてしまう結局は浮かれ散らかしている結婚式前日——の、そのまた一日前、前々日の話。
言う よりも
飲み込む ことの多い一日。
(どう思う?二人でやっていけると思う?)
(さぁ、どうだろうなァー)
(あー、前に聞いたときと同じ返し!)
(あ?そうだったか?)
(うん、そーだよ)
(まぁ、でもとりあえず。俺は名前が好きだぜ)
※『 花束/backnumber 』を題材に
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