それを愛と呼ぶなら(1/3)
※三井長編『tiimalasi』スピンオフ作品※
「——わたし、結婚するんだよね。」
そう言って笑った彼女の表情がとても綺麗で、痛いくらいに心臓が締め付けられた。そこで俺は思わずごくりと息を飲み込んだ。
彼女は微かに——でも確実に幸せな色を含めた息をその緩やかな弧を描いたくちびるから吐く。静かすぎる夜にそれ以外の音は存在しない。彼女のそばにはいつだって俺がいたはずで、細やかな表情も些細な変化も全てこの目に焼き付けてきたつもりだったのに、まだまだこんなふうに、見たこともない表情を見せてくるのだから本当に彼女には敵わない。
俺、三井寿と名字名前は家が近所の所謂、幼馴染という関係だった。
とはいえ、物心がついたときにはすでに俺の中のいちばん奥の柔らかい部分は端から端まで彼女に陣取られていてそんな俺からしてみれば彼女を��幼馴染�≠ネんて簡単なカテゴリーに分けた事は一度だってなかったけれど。
「そりゃあ旦那になる奴は世界一の幸せ者だろ」
「もう。またそういうこと言う」
「いや、マジでそう思ってんだって」
「ははっ、逆だよー。奥さんになれる私が世界一幸せ者なんだよ?」
ほら……また、そんな幸せそうな顔をして笑うんだ。その笑顔を、一生近くで見つづけられて、そしてこの先また新しい彼女の一面を一番最初に見つけられるなんて、きっと地球の裏側まで探したって、これ以上に幸せな奴なんてそうは居ないだろうと思う。
「いろいろあったよねぇ」
「ああ。急に別れるとか言い出して寒い寒いクリスマスイブの曇り空の下に置いて行かれたりな」
「……」
「あと、婚約者が俺の昔のライバルで、そいつと海外に行くとか言われたり?」
「……」
「『私が寿を幸せにする』とか言って?わんわん泣きつかれたりとか——な?」
「わんわん泣いてはいないし」
わざとらしく指折り数えて、思い出話を語ってみれば彼女の声真似をしたのが気に食わなかったのかそれとも苦い想い出を突かれたからか不機嫌そうにその可愛らしいくちびるを尖らせた幼馴染が、じとりと俺を睨みつける。
「ふつう思い出の中でさ、あえて今それ言う?」
「だってよー、俺にとっちゃワースト上位で忘れらんねー思い出なんだから仕方ねェだろ?」
いつだって俺は彼女しか見ていなかったのに、こいつはいつも俺以外の男しか見ていなかった。幼稚園のときは、彼女と同い年の何とかって奴と遊んでばっかで小学校のときはサッカーがうまかった俺の同級生。そして最近ではあの藤真とか。そんな健気な恋をしていた俺のことを実はずっと思い続けていたなんて事実を知ったのはつい最近の話だ。けれどそれに対して当の本人は「寿がちゃんと私を見ていなかったからだ」なんて言う。
数年ぶりに、実家のまえで再会してから自身の婚約者を紹介したすぐあとに向こうからも『結婚して、海外に行く』と告げられた。お節介すぎる後輩たちからのお膳立てもあって、それからまた彼女と関わる機会が増えた。悲しい顔をする彼女を見るたびに、何度も何度も「俺にしとけよ」と言いかけて何度も何度も飲み込んだ。あんな苦い味、忘れろというほうが無理な話だ。
彼女が俺と別れたいと言ったときも、婚約者と海外に行くと言ったことも嬉しそうに笑った顔も辛そうに溜めた涙も、どういう訳か俺の記憶には全て鮮明に残っていた。それは息をするのと同じくらい簡単に甦ってきて彼女を好きだと思うぶんだけ心臓にずしりと今も変わらずに圧し掛かってくるのだから、もうここまで来れば自分ではどうすることも出来ないので諦めるより他ない。
「寿は、ずっと私を好きでいてくれたんだよね」
「ああ、まあな」
「そっか……ごめんね。」
「……。」
……あーあ、ったく。そんな顔して謝らないでくれよな頼むから。謝られると惨めにもなるし。俺はこいつのこの落ち込んで困った顔にめっぽう弱い。たとえば、どんな大きな喧嘩の最中だってこの表情をされてしまえば俺なんかすぐに折れてしまう。
「はぁ……そんな顔すんなよ」
「だって……」
「さっさと迎えに行かなかった俺が悪いんだってそれに今さら過去は変えられねーし、今となれば変えたいとも思ってねェけど」
それは——少しだけ嘘だった。変えられるものならいくらでも変えてやりたいくらいだが言ったところでどうにもならないのならせめて……と、見栄くらい、張りたかっただけだ。
「でもね、わたし……結婚する前に一度ちゃんと言いたかったの」
「あ? なにを」
「寿に……ごめんなさいと、ありがとうって。」
申し訳なさそうに眉を下げた彼女が俺をじっと見つめる。そんな顔をさせたくてずっと好きだったわけじゃなかったんだけどな、なんて言ったら彼女は100%泣くだろうから色んな理由を右手に託して、彼女の頭を撫でつけてやった。
「いろいろ……本当にいろいろあったけど終わり良ければ、すべて良しって言うよね」
「……あのよぉ、結婚するんだぜ?そこは始まりなんじゃねーのかよ?」
「だって、結婚は人生の墓場って言うじゃん」
「はぁ〜あ、これから花嫁様になる女の言葉とは思えねェな、ったく……」
半分だけ開けた窓から入り込んだ夜風が彼女の髪を揺らした。ほんの少し乱れたそれは彼女の細い指先にするりと通されてまた元に戻っていく。一日の内、彼女を一番綺麗に見せるのは夜だなとぼんやりと、そんなことを考えた。静まり返った世界は彼女の声をダイレクトに耳に届けるし謙虚な月明かりは彼女の肌に明暗を付けるし、なんてそんなことを挙げはじめたらキリがないだろう。
「——ねえ、どう思う?これから二人で、やっていけると思う?」
「さぁ、どうだかな……でもまぁ、とりあえずは一緒にいたいとは思ってるぜ、
「そこ強調するのね?」
「おぅ。」
「うん、そうだね。だけどさ……もしまたなにかあったら、つぎは私がフラれると思うな」
「それ、お前が言うのかよ……まぁ、未来なんてわかんねェけど一緒にいてみりゃいいんじゃねーのか」
とにかく俺はこの時間の何気ない瞬間に何度も彼女に恋をしたのだ。でも彼女はそんな俺の気持ちを知っている訳がないしこれから先だって一生知ることはないだろう。まあ、こればっかりは今まで素直に言えなかった自分が悪いのだけれど。
「また、新しく始まるんだよ。」
俺の言葉に控え目に笑った彼女の目が再び開かれたときには、すこしだけ瞼が落ちていて、もう随分と夜が更けていることに気付いた。
「眠くなったか?」
「うん、すこしね……寿も眠いよね?ごめんね、変な話に付き合わせちゃって」
「たいしたことねーよ、ほら」
伸ばした腕の中に潜り込んだ温もりを抱きしめると力なく服を握り返されていよいよ眠りに落ちる寸前の彼女の額にそっとくちびるを落とした。
「——寿とね、始めるんだよ。三井名前になった新しい人生を。」
なるほどな、悪くねェ。と心中で納得する俺の隣から、すうと規則的な呼吸音が聞こえてきた。今度こそ意識を手放したらしい幼馴染の彼女——未来の俺の花嫁に声には出さず、口の動きだけで「おやすみ」と伝える。
もう覚えていないくらい幼い頃から焦がれつづけた彼女の心も彼女自身も苗字さえもついに俺のものになるのだ。いままでの俺は、曲がったことばかりしていた気がする。だからせめてコイツのとこには真っ直ぐに、ただ真っ直ぐに走って行きたいと思う。
やっぱり世界一の幸せ者はきっと自分だったんだなと、その寝顔で再確認して、俺もゆっくりと目を閉じた。
*
まだ半分夢の中にいた俺は聞き覚えのある自身のスマホから放たれているアラーム音を、いまだ夢見心地で聞いていた。腕を伸ばしスマホを探るが一向にその手に触れることはなく室内にはピーピー!という、爆音の機械音が鳴り響いている。ついに目も覚めてしまい「あン?」と声に出しながら目を擦った俺はようやくスマホを見つけるとアラームを止める前に上体をベッドから起こす。そうして、ようやく切ったアラーム音が止むと、室内は一気に静まり返ったのだった。
「何時だよ、オイ……」
そうつぶやいて、時刻を確認する前に隣にいるはずの人物の姿がない事に気づいた俺は反射的に彼女が眠っていたはずの隣のスペースに手を滑らせた。ひんやりとしたその肌触りに「はっ?」と思わず声が出てしまった。そんなに長い時間寝ていたのだろうか。しかし耳をすましてみても寝室の外、リビングにいる気配すらも感じない。出かけたのかもしれないが特にそんな予定があるとは昨日も報告は受けていなかった気がする。いや、おかしいな……。
「——あ?」
途端に何かを思い出したみたいに閃いた自身の顔が、みるみるうちに青ざめていくのがわかる。「やべぇ!」と発した大きな声と共に、半分ほどかかっていた布団を豪快に剥ぎ取り急いでベッドから降りてバタバタとリビングへと向かう。
がらんどうな室内を見渡して段々と息も荒くなっていく。人は動悸と焦りが頂点に上り詰めると冷や汗が流れてくるものだ。俺は今まさにそんな状態だった。
「やべぇ、やべぇ、やべぇ……!」
呪文のようにブツブツ唱えながら急いで身なりを整える。何を着たらいいんだ!?といつもならすぐそばでアドバイスをくれる相手が今日はいない事態。とりあえずスーツなら問題ないだろうとクリーニングに出してくれていたであろうスーツを身に纏う。そうしてマンションを出た俺は自家用車に乗り込みF1ドライバーの如くブォォン!とアクセルを踏み込んで式場へと車を走らせた。
そう……今日は何を隠そう、時を経て復縁した幼馴染の彼女、名字名前との結婚式だ。
今年は丁度、結婚式に当たる日取りの前後が、休日だったため結婚式もあるからという理由から部活は副顧問が請け負ってくれていたので、休みボケ……いやもしくは幸せボケでもしてしまったのかと自分を心底悔いる。
どうして起こしてくれなかったのかとかなんで新郎を置いて行くんだよ!とか、言ってやりたい気持ちが大いに芽生えたが、今はそれどころではない。とにかく急いで式場に向かわなければならないのだ。式の当日に遅れてきた無様な新郎なんざ、死ぬまで高校時代の友人や後輩たちのネタにされるに決まっている。そんなのはごめんだと、もはや黄色信号はほぼ無視でアクセルを踏む足に圧を掛けた。
「やべェ……マジでやっちまった……」
なんて無意識に独り言が出てしまう始末だが、青はススメ、黄色もススメ、赤は急いでススメ、という……ヤンキーの常套句とまでは言わないが今の俺はまさにそんなヤンキーたちと何ら変わらないだろう。しかし今日ばかりは許して欲しいと歴代の三井家の御先祖様たちに願ったところで、不意に財布がポケットに入っていないことに気がついた。という事は免許証も不携帯ということになる。奥歯を噛み締めて眉間に皺を寄せた俺は、急いでUターンし、自宅マンションへと戻った。
「……っンだよ、どこ置いたんだ、俺——!」
急いで戻ってきたはいいが財布を探すも一向に見当たらない。仕方なくタクシーを呼びつけて、またも猛スピードで、式場へと向かってもらう。しかし……このときの俺は気づいていなかった。財布を持ち合わせていないことと、そうすると、タクシー代も払えないということを——。
「到着しましたよー」
目的地——式場の目のまえに降ろしてもらい、急いで車から降りて式場の中に入ろうとする俺の背後から「お客さんお金!」と言われたその声は残念ながら、今の俺の耳には届いていなかった。