月の裏側にだけある季節(1/2)


 仕事から帰ってきて風呂に入り適当に着古した部屋着に着替える。それから裸足にクロックスを履きベランダに出て夜風に当たりながらこうして一杯やる、というのが私の最近の日課だ。

「ふう……」

 キンキンに冷やしておいた缶ビールを開けて、口をつける。これは一日頑張った私へのご褒美。わずかに見える星空の下で傾けるお酒は最高だ。
 ここは神奈川県の10階建てのマンション——。いい感じに見下ろせる夜景。さっきまで自分も、あのせせこましい街にいたのかと思うとなんだか不思議な気分になる。明後日は、およそひと月という時間を費やした大切なプレゼンがあることを思い出して溜め息を吐く。緊張せず失敗しないで出来るか。それよりもちゃんと主任たちに認めてもらえるか。そこだけがなによりも、いちばんの不安要素だった。

「……信じるしか、ないよね。」

 ——自分がいままでやってきたことを。そう、自分に言い聞かせて缶ビールを一気飲みしてからぐしゃりと空き缶を握り潰した。そうしてふうと一息ついて部屋のなかに戻ろうとしたそのとき。

「そーそー、自分を信じて。」

 隣から不意に男性の声がした。なかに戻ろうとしていた足を止め再度振り返りベランダの手すりに両腕を乗せてみると、私の口元が自然と緩む。

「どーも。こんばんは。」
「あら、こんばんは。お仕事お疲れ様です」
「名字さんこそ、お疲れ様です」

 夜闇に煙を吐き出しているのか、追って隣から煙草の匂いがしてきた。彼はたいてい、仕事から帰宅したら、ベランダで煙草を吸うのが日課だ。職場が禁煙らしく、これは一日頑張った自分へのご褒美だと、以前に言っていた。数か月前に引っ越してきてから隣人さんとこうして、ベランダの薄いパーテーション越しに挨拶をするのがお酒を一杯やるのに加えて私の夜の新たな日課になっている。お互いの部屋を行き来しているとかそんなこともない。ただのお隣りさんで、白い板を一枚隔てた夜のベランダで、すこしだけおしゃべりをする。それだけの関係。べつに、大した話をするわけでもない。
 お隣さんはなにやら整備関係の仕事をしているらしいミトヨウヘイさんという壮年だ。たぶん、年齢は私と同じくらいだと思う。
 このマンションは駅もそれなりに近くて築浅で且つ独り暮らし向けというよりもファミリー向けだったので、彼女さんと同棲でもしているのかと思っていたけれども水戸さん曰く「もとは親友と住んでて今はひとり」らしい。

「最近さぁ、急に冷えてきましたねー」
「そうですね。私さすがに、コート出しました」
「ですよね。俺きょう遂に羽毛布団出しました」
「私も私も!慌てて衣替えしてます。少し前まで夏日近い気温だったから全然冬服出してなくて」
「はは、わかります。ヒートテックどこにしまい込んだっけって、さっきまで探してましたよー」
「え、見つかりました?」
「んー、なんとか」

 引っ越してきてすぐのころ、毎晩自分の部屋の窓から見える煙草の煙がすごく気になってどうせくたびれた中年のおじさんか夜の蝶か、もしくは夜の貴公子が吸っているのだろうと、ベランダに出て、手すりからなんの気なしに身を乗り出してみたところ相手が普通の好青年でぎょっとした。向こうも急に隣人が身を乗り出してきてびっくりした顔をしていた。すぐにサッと顔を引っ込めた私に相手様はこちらの顔を確認する間もなかったと言っていた。かくいう私も、ハッキリと相手の顔まで見たわけではなかったけれども相手様は、なんだ女性だったのかと、怒る気もなくなったと言っていた。そのときに軽く自己紹介を交わしたのだ。

「あ、そうだ。マフラーどこしまってたっけ?」
「おっ、大捜索しないとだ」
「ふふ、ですね」
「——さてと。一番星も見つけたし。」
「……。」
「今日も……ひときわ輝いてるようなんで。」

 とても余韻を残す声だなぁと、こうして会話をするようになった当初から思っていた。
 この、なんとも穏やかな時間も相手様の煙草が尽きるのが終わりの合図。きょうは意外といつもよりも早かった。まあ、寒いから仕方がないか。

「——俺、そろそろ」
「あ、そうですか。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」

 相手様が室内に入る音を聞き届けて私も部屋に戻るとエアコンで温まっているはずの室内なのにどこか寒く感じた。明日も仕事がある。今日は、もう寝よう。
 水戸さんは一見すると話しやすくて人懐こそうに見えて、でも実際は、ちゃんと境界線を引く人だった。もしかしてちょっと踏み込んでも良いのかなと思った瞬間に逃げていく。そしてこちらも線を引くと逆に今度はこちらの領域に踏み込んでくる。しかしながらそれがあまりに自然体なゆえ不快に思ったことは一度もない。
 たいした言葉のやり取りがなくても、たとえば会話が途切れると決まって水戸さんは「あ、一番星」と言って空を見上げる。そうして「ほら」と私にも一番星を見つけさせようとする、そんな人だった。よくよく思い返せば彼はベランダで会うたびに先のように「あ、一番星ですよー」と必ずその日の一番星を見つけてはどこか安心したように、そしてなんだか寂しげに「今日も一番輝いてますねー」と、嬉しそうに言った。はじめこそ、単純に星が好きなの人なのかなと思っていたが、もしかすると何か大きな夢があるとか、一番星に思い入れがあるのかな、とか。そんなことを思うようになっていった。その一番星の正体が、彼のよく話している親友のことなのではないかと思い至ったのも最近で、しかし、それを本人に直接、確かめたことはない。

 本人の話だと女性には優しい水戸さんらしい。いくら女性だったからとは言えどうして無遠慮に隣りを覗き込んだ私を怒らなかったのかと問うたとき「女の子には、優しくするもんでしょ?」と言っていたことがあった。そうそう、そういえば一度だけ元彼が乗り込んできて、復縁を迫られた事件があった、あのときも——。

「てか、名字さんも喫煙組ですよね?」

 と、聞かれたとき、実は煙草を吸っていたのはその元彼だったと説明したら「よかった」の後に女性は吸うもんじゃないから、などという中年のおやじみたいに偏見でモノを言うこともなく、「えっと、追い出せたならよかったって意味ね」という言葉が返ってきて出ていけと騒いだ声とか物を投げる音が聞こえていたのかなと思って少しだけ気まずかった。それでも結局のところ��女性には優しい水戸さん�≠セなと思った記憶。


 *


 次の日の夜。ベランダに先に出ていたのは水戸さんのほうだった。

「あ、名字さん。こんばんはー。きょうもお仕事お疲れ様です」
「こんばんは、水戸さん。お疲れ様です」
「あれ?たしか明日って大事なプレゼンの日?」
「覚えてくれてたんですねー。はい、そうです」
「そっかー。頑張ってくださいね」
「ええ、ありがとうございます。」

 私はビールの蓋をプシュと開け、相手は煙草に火を点ける。彼はいつも私の疲れきった気持ちを解すように今日あった他愛もない話とか、自分の親友の話を聞かせてくれた。ただ、ベランダには間仕切りがあって決して表情は見えたりしない。だから私も彼も互いのリアルタイムの表情を知らない。帰宅時間もバラバラなのでロビーや部屋の前であらたまってお互いに顔を見せ合ったこともない。それでも毎日のこの短い時間が仕事と家を行き来するだけの私にとっては、癒しの時間でもあった。

「そうだ——今日、流星群見えるらしいですよ」

 水戸さんが出し抜けに言う。私がベランダの柵にもたれて「そうなんですか?」と聞き返すと、水戸さんも同じようにもたれ掛かったらしく肘がちょこっとだけこちら側からも見えた。どうやら黒いロンTを着ているようだ。

「えっと、何時だったかな」

 そう言って水戸さんが煙草を口に咥えたまま、スマホを取り出して検索をしはじめる。

「あー、九時半頃がピークだってさ」
「じゃあ、もうすぐですね」
「ピーク時間まえだとしても、もう流れてるはずなんですけどねー」

 彼は手すりにもたれて、夜空に向かってすこしだけ身を乗り出す。私もビールの缶を傾けながら空に目を向けた。

「あ」
「あ」

 そのとき光が横切り二人で同時に声を上げた。しかしそれはほんの一瞬の出来事で、いまはもう見慣れた夜空が一面に広がっているだけだった。
 すると水戸さんが、少年のように声のトーンをやや上げて言う。

「見ました?」
「見ました」
「こう明るくても見えるもんなんですねー」
「……ですね」

 思わず顔を見合わせて笑う。なんだか少し照れくさい。刹那——隣から百円ライターのヤスリが回る音がした。

「あれ? 二本目ですか?珍しいですね……」
「うん。もうすこし見ていたいなーって」

 この時間が終わらないでほしいと思ったのは、私もおなじだった。さっきまでは緩く会話のキャッチボールができていたはずのに、なんだか急にシン、と静まり返るベランダ内。私も思わず押し黙ってしまった。すると、ややあって水戸さんが口を開いた。

「見ます? いっしょに。」
「え?」
「ん?」

 私は二人のあいだにはばかる間仕切りにちらと目を向けた。そこには当たり前に高くそびえ立つプライバシーを守るの為の大きな壁があるだけ。

「……見てます、いま。いっしょに。」

 そう言って私は眉を下げて情けなく苦笑した。またしても訪れた沈黙。私は口の中が乾いている気がして手に持っていた、すでに緩くなってしまっている缶ビールに口をつける。

「……はは。わざとやってんのかなー、それ。」
「……はい?」

 私は目を丸くした。反射的にまた仕切りの方を見た私をよそにくすっと笑ったであろう相手様の気配。水戸さんは顔こそ乗り出してはいなかったけれども、すぐそこにいるらしかった。どうせ、見えないだろうけど私が首を傾げて苦笑すると、水戸さんは一歩、私と距離を取るように離れた。

「あと一歩って感じだと思ったけどなー、残念」
「あと一歩って言いながら離れましたね、いま」
「ははは」

 彼の軽々しいその物言いは、軽薄そうな性格が見え隠れしているようでいて、それにいつも私は決まって距離感を見失ってしまう。なので私も、会話の隙間に垣間見える��なにか�≠�自らつかみには行かなかった。
 可能性があるような無いような、なんとも説明しがたい雰囲気だけを残して、本日もこの時間は終了する。そのあとに残る寂しさに、水戸さんのことを好意的に思っていると思い知らされる私。

「——じゃあ。俺、ちょっと用事あるんで」
「……あ、はい。おやすみなさい……」
「はーい」

 ……あれ? なんだか、そっけない?
 そんなことを思っていると、間延びした返事を残しただけでカラカラカラとベランダの仕切りの向こう側で、窓枠を滑らせる音が聞こえた。どうやら本当に中に戻ってしまったらしい。
 とりあえず私もそのままベランダをあとにしてしばらく電気も付けず、部屋の中でぼうっとしていた。


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