月の裏側にだけある季節(2/2)
数分後——突然チャイムが鳴る。え、だれ?と急いで玄関に向かってドアスコープを覗き込むとそこにはまさかの人物が立っていた。ガチャ、と開いた扉の先に眉を下げて困ったようにはにかむイケメンが突っ立っていたので、一瞬だけ時間が止まった。そして見つめ合うこと約三十秒。先に声を発したのは相手様のほうだった。
「ちょっと用事あるって、言っただろ」
「……」
「入れてもらえる?——なか。」
「……、は、はい——ど、どうぞ……」
なんだかいいように流されて、とりあえず中へ促す。玄関の鍵を掛けベランダのサッシを閉めて部屋の電気をつける。案の定、水戸さんは黒色のロンTに、下はグレーのスウェット姿だった。
私はソファに腰をかけて躊躇いながらも、ぽんぽんと隣に座るよう促した。水戸さんはどーもと笑って、ソファに腰を落ち着けた。クッションが相手様の体重で、すこしだけ沈む感覚。
普段は、自分しか座らない二人掛けのソファに他のだれかが座っているんだと思うと、なんだか変な感じがする。よかった、元彼と別れたあと、ソファカバーやクッションを買い替えておいて。
「——ねえ、今更だけど名前で呼んでもいい?」「へっ? ああ……いい、ですよ?」
「名前さん」
「……」
「名前、ちゃん?」
「……そっちのほうが、なんか、いいですね。」
「了解。じゃあ俺のことも下の名前で呼んでね」
「えー、なんか恥ずかしい、です……」
「がんばれ。ほら、言ってみて?」
「……洋平、さん」
「……」
「洋平……くん?」
「んー……まあ、おまけでマル、あげますか」
動揺したり緊張していたのが嘘のようにそんなことを言って笑い合っていると、ふとベランダの先に月が映っているのが見えた。あれ?さっきは気が付かなかったなと、しばらくベランダの方を見つめているとそれに気づいた洋平くんが束の間「ベランダ出る?」と訊いてくる。
「さっき、出ましたよ?」
「もう一回さ?出ようよ」
洋平くんに腕を引かれるまま二回目のベランダ進出をする。掴まれた腕が、じんわりと熱い。
いつも隣同士で話していたはずなのに、二人で一緒にベランダに出るのって、なんだか変な感じだなと思った。
「名前ちゃんは、いつもこの景色見てんだなー」
「隣じゃないですか。そうは変わらないでしょ」
「や、なんかさ。この景色は特別って感じ」
そっと洋平くんを見上げる。とてもかっこいいなぁって。すると視線に気づいた洋平くんと目が合う。と、急にふっと微笑まれた。え、やだ……ほんとかっこいい。
「なんか名前ちゃん、いい匂いする」
「……え、」
突如そんな台詞が聞こえてきて脳が止まった。さっきまで缶ビール片手に部屋着で、ここに座り込んでいた女に向かって実物もかっこいいで確定した洋平くんは真面目な顔でそんな事を言った。
「香水?」
「う、ううん。さっきまでお風呂入ってたから」
「へえ。じゃあシャンプーかなぁ?」
急に、いつものような雰囲気と物言いに戻った洋平くんが私の髪に触れた。びくと肩が跳ねる。
「ビンゴ。やっぱシャンプーだ。」
洋平くんは、私の毛束の匂いをすんと嗅いで、軽々しくも、そんなことを言う。不意打ちだったため顔が赤くなった私は、パッと視線を反らして話題を変えようと考えを巡らせた。けれども気の利いた話が一切浮かんでこない始末。そうして、結局、黙って俯くかたちになってしまった。
「——名前ちゃん、顔見せて。」
不意に洋平くんの手が頬に触れた。私は思わずその手を振り解こうと身体を捩った。するとその拍子に相手の腕が私の腰に回ってきてあっさりと身体を引き寄せられて身動きが取れなくなった。
「ダメ……逃げないで。」
「や、やだ……っ、なに、」
耳元で優しく囁かれて頬がかっと熱くなった。どういうつもりなのかさっぱりわからなかった。こんなただの隣人になにをドキドキしてんだろ、これじゃあまるで男の人に飢えているみたいだ。
それでも私はいま、どうしようもなく期待してしまっている。いくら自分を戒めても私なんか、ちょろいのだ。とくに彼のような人からすれば。
「やだ——離して」
「顔、赤いよ?」
「っ、やめてよっ!」
弾かれたように私は、両手で彼を押し返した。なのに、まったくびくともしない。身長のわりにガタイのいい彼にはいくら抵抗しても意味がなかった。これは、緊急事態だ……ど、どうしよう。
「気付いてるよね?俺の気持ち」
「……っ」
腰に回る腕に力が籠る。彼は私とひたい同士をこつりと合わせた。お互いの吐息が交わる。耐え切れなくなって私は目を瞑って、猛獣に捕まった仔猫のごとく、震えた声で弱々しくつぶやいた。
「ずるい……」
「ずるくない」
「どうせ、誰にでも……するんで、しょう?」
「したことないです」
「……うそ、ばっか。だって——」
するとフッと笑って「ずいぶん待ったほう」と私の言葉を遮って囁いた洋平くんのくちびるが、ちゅっと小さなリップの音を立てて降ってきた。それはまるで、啄ばむような口づけだった。
あまりに恥ずかしくて顔を逸らそうとすると、後頭部をすかさず押さえ込まれて、さっきよりも深い口づけがはじまる。
「……っ!」
普段の隣り同士で話す彼からは想像もつかないくらい息をつく暇もない。私は咄嗟に洋平くんのロンTの袖を両手で掴む。
「……ふ……っ!ん、ん……っ」
「……っ、」
「……、っは……!」
「名前……」
角度を変え甘い甘いキスの雨が降り注がれる。舌がくちびるを撫でて強引に開かれて相手の舌が滑り込んできた。その合間に、自分の名前が呼ばれるのを聞いて脳内が溶けそうになる。すっかり麻痺したその脳に流れ込む、洋平くんの声——。
「……っ」
「……、」
ようやく彼のくちびるが離れていくと、今度はぎゅっと抱きしめられた。頭が、状況に追いつかない。だめだ——いつもの彼じゃない。そもそもいままでだってこんな至近距離で彼のことを見たことなんて、なかったけれども。
「……好き。」
「………よ、へ、くん……」
「名前が好きだ」
絞り出すような声が、耳元で響いた。心臓が、痛い。ぎゅうぎゅうと得体も知れない何かに締め付けられるような痛みだ。
「……う、うそだよ」
「はは。こんなときに嘘なんかつかないって」
「……」
「好きじゃなかったら、こんなことしねーよ」
当然かのようにもっともなことを言う彼の私を抱きしめる腕の力が強くなった。ベランダには、冷たい夜風が通り過ぎ、二人の頬を切る。
「それに、名前ちゃんだって毎回俺の話を聞いてくれたり、こうして部屋に入れてくれたり……」
「……」
「俺の自惚れじゃないならさ、脈ありだって……思ってたんだけど」
「……」
「ねえ……名前ちゃん、違う?」
「——っ、」
そうだね。全部当たってる、お見通しですよ。私は返事の代わりに洋平くんの背中にそっと腕を回して抱きしめ返した。
「——名前が、いい……」
「ん?」
「名前ちゃん、じゃなくて……さっきみたいに、名前で呼んでほしい」
「はは。いーよ、お姫様。——名前。」
「……うん。」
こんなの初めてだ。自分の名前を彼が呼ぶと、特別なものに聞こえてくる。
静かに、ほとんど音も立てず全ての物を潤す。彼がそばにいると、目に見えない景色すらもこの目に見えてくるような気がする。
「……付き合ったら、さ。毎日洋平くんのお話、聞き放題だよね」
「はははっ。そーですねぇ」
「うん……。」
くすくすと笑ったあと私は顔を上げた。ん?と目を丸くする彼の頬を両手でつつんで引き寄せ、背伸びをしてちゅと口づけた。そしてくちびるを離した後きょとんと固まる彼に上目遣いで言う。
「わたしも、ずっとこうなりたかった」
「……」
「好きです、わたしのほうが——。」
そう言って彼の首に腕を回し、もう一度キスをお見舞いしてやった。けれどすぐに私を受け止め抱きしめてくれた洋平くんのほうがやっぱり一枚上手で手慣れていて大人の抱きしめかただった。ああ、一生敵いそうにないや。
「……洋平、くん。」
「んー?」
「大好き。」
「うん、知ってた。」
そう短く言い合ったあと、二人で鼻と鼻をくっ付けて、やっぱり一緒に笑い合った。
彼の温かくて広い胸の中「明日のプレゼン成功しそうだな」と言う隣人様に「おかげ様でね」と返して、私は幸せを噛み締めながら目を瞑った。
こんな 貴方 は、誰も知らない。
(あの——。一番輝いてる星は、親友?)
(……え? ああ……そうかもな。)
※ image song『 星月夜/由薫 』