店を出ると、深夜の空気がひやりと肌を刺す。吐く息が白く滲み、街のネオンが霞んで見えた。赤い羽が夜風を受けて、かすかに震える。周囲の気配を拾うための個性が、今は彼女の呼吸や足音ばかりを追っていた。
ホークスは半歩だけ前に出て自然に風上を取った。その距離は守るための距離であって踏み込むためのものではない。少なくとも、今夜は。隣に肩を並べることはしないまま、それでも歩幅だけは揃えて、二人は夜の飲み屋街を抜けていった。人の流れはまだ途切れず笑い声と酒の匂いが薄く混ざる。その中を一人のヒーローと風俗嬢が少し浮いた速度で歩いている。
「写真撮ろっかなー。マンション着いたら」
歩きながら彼女が言う。その言い方はずいぶん軽い調子だった。ホークスは少しだけ足を緩めて眉を上げた。
一等地のタワーマンション。そこに、身売りの女が入っていく。しかも住人がホークスだということは、ここ福岡では半ば公然の事実だ。炎上、特定、取材——。連鎖的に起こる未来が反射的に頭をよぎる。彼女も、分かっていて言っている。半分は冗談で、もう半分は自分を罰するみたいな言葉だったのだろう。
「写真? なんで?」
「だって、もう行く機会なさそうじゃん。記念に家具とか撮影しておこうかなって。お風呂とかも大理石なんでしょう?」
そこでホークスは今度こそ足を止めて、彼女を振り返った。呆れと困惑が、同時に入り混じったような顔で。
「大理石じゃない。普通のユニットバス」
息を吐くように、嘘をつく。以前の取材映像に映っていたのは紛れもなく大理石張りの浴室だった。だが声色は妙に必死で家具や内装を撮られることを、本気で警戒している。ヒーローとしての危機管理が、こんな場面で顔を出す。
「ユニットバス? それ嘘だったら針千本ね」
「飲みます飲みます。だから写真はなし」
両手を上げて降参のポーズ。笑顔は軽いが線は今も、きっちり引いている。
「二週間ほど、ところてんで生きてた女を、高級マンションなんかに連れてって、大丈夫そう?」
一瞬、ホークスの顔から、笑みが消えた。次の瞬間、堪えきれずに声を上げて笑う。夜道に響くほど、遠慮のない笑いだった。
「ところてんで生きてた女って何。新しいキャッチコピー?」
「バカにしてる?お金なくてさぁ〜。ところてんしか買えなかったの」
「やけん、水炊き行こうって言ったのに」
彼女も笑う。歩きながら目尻に涙を滲ませて。数ヶ月前の、返ってこなかったメッセージが頭をよぎる。食事の誘いに沈黙したのも彼女だった。まさか、ところてんで生き延びていたとは――。さすがのホークスも、想像していなかった。
通りに出てホークスがタクシーを止める。深夜料金だが、迷いはない。ドアを開けて彼女を先に促す。
「どうぞ、お姫様」
「……なに? 今日ずっとそれ言うつもり?」
「嫌?」
「……や、じゃないけどさ」
ホークスは、にやりと笑って隣に滑り込んだ。そのまま運転手に住所を告げる。マンション名を聞いた運転手がバックミラー越しに一瞬だけホークスを見たが何も言わずに発進した。車内は静かだった。窓の外を深夜の福岡が流れていく。コンビニの白い灯り、閉じたシャッター、信号の赤。一定のリズムで揺れる車内で彼女の体が少しずつホークスの方へ傾いていく。疲労が限界に近いのだろう。シートの温かさに意識が溶けかけている。ホークスはそれに気づいていたが何も言わなかった。ただ羽の先端だけをそっと動かし彼女の肩の後ろに添える。触れないぎりぎりの距離で、支えるために。それは守るための仕草で、触れるためのものではなかった。
タクシーは十五分ほどで目的地に滑り込むように停まった。ガラス張りのタワーマンションが、夜空にそびえ立っている。エントランスの照明は白く、深夜だというのに昼間のような明るさで、近づく者を試すような威圧感があった。
運賃を支払うホークスの横で彼女はタクシーを降りるなり、思わず上を見上げた。首が痛くなるほど高い。ホークスが先に歩き、オートロックを解除する。そのまま振り返って彼が、軽い調子で言った。
「ほら、ユニットバスだから。期待しないでね」
「はっ。大理石ってリサーチ済みです〜」
エレベーターのボタンを押しながらホークスは肩をすくめる。半ば諦めたような表情だった。
「そのリサーチがもう怖いんですけど」
二人並んでエレベーターに乗り込む。ホークスは迷いなく高層階のボタンを押した。その瞬間、扉が閉まり、密室になった。
「……そういえば、初めてだよね。こういうの。今まで外で飲むだけだったし」
「あー......言われてみれば?」
「あ、でも一回あったっけ」
「なに」
「ほら、私が関東いたとき。セーフハウス」
「それ、覚えてないでしょ」
「朝起きてからのことは覚えてますけど?」
横に並んで飲んで、日付が変わる前に別れる。それが二人の関係の、基本形だった。介抱されたことはあっても、生活の匂いが残る私的な空間に足を踏み入れるのはほとんど初めてに近い。階数表示が静かに上がっていく。30、35、40——。
「なんか……緊張するかも。柄にもなく」
壁にもたれたまま、ホークスはちらりと彼女を見る。それから、口元だけでそっと笑った。
「トップヒーローの家って、そんなに?」
「するでしょ」
チン、と、軽い音。最上階。扉が開いた瞬間、空気が変わった。足音を吸い込む分厚いカーペット、間接照明の柔らかな光、どこか高級な香りの残り香。ここはもう彼女の知っているただのマンションではない。カードキーで玄関を開けた彼が振り返る。そして靴を脱ぎながら、気負いのない声で言った。
「どうぞ」
「お、お邪魔します……」
「はーい。散らかってるけど」
「……いやいや、めちゃくちゃ綺麗だよ。モデルルームじゃん」
リビングの灯りが、自動でつく。とてつもなく広い。天井が高い。視界の端まで、余裕がある。カウンターキッチン、業務用かと思うほど大きな冷蔵庫。ふと開いた風呂場のドアの向こうに白い大理石が覗いた。ユニットバス、とは……。
「嘘つき」
彼女のそのひと言に、ホークスは目を逸らし、両手で後頭部を支えて口笛を吹いている。
「あれは、洗面台」
「針千本、飲みなよ?」
「えー。勘弁して」
即座に降参するトップヒーロー。彼女は今一度部屋を見回しながら、ぽつりと言った。
「ハウスキーパーとか入ってるの?」
「週一で。俺、あんま家いないし」
「さすが、お金持ちは違うね」
ホークスは冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出して、リビングのローテーブルに置いた。その仕草は自然で、ここが彼の生活の場なのだと改めて思い知らされる。しかし彼女はまだ立ったままだった。
「お風呂、入る? 先に」
そう言って彼は背に広がっていた赤い翼を羽音ひとつ立てることなく折り畳む。すると、空気に溶けるように輪郭が失われていった。さっきまで確かにそこにあったはずの存在感が吸い込まれていくのを、彼女はぼんやりと見ていた。見上げた彼の顔には、いつもの軽い笑みが浮かんでいる。貼り付けたようにも見えるその表情は相手を安心させるための癖であり、同時に彼自身の身を守るための仮面でもあった。
「え、いいの? 私、マジで汚いよ?」
彼は答えの代わりにタオルを持ってきて、ひょいと放る。彼女は反射的に、それを受け取った。ふわりとした感触。まだ洗剤の匂いが残る新品のバスタオルだった。
「だから入るんでしょ」
「……これ、高級タオルじゃん」
ホークスは一瞬だけ、しまったという顔をしてから、それでもすぐに笑って誤魔化した。
「いいから。行っておいで」
「はーい。大理石、失礼しまーす」
背中越しにぼそりと「ユニットバスです」と、訂正する声が落ちるが彼女はもう浴室に向かっていた。ドアを閉めて鏡の前に立った瞬間、彼女は小さく息を呑む。そこに映る自分は想像していたよりもずっとひどい。首元に残る痣、鎖骨をかすめる擦り傷に、手首に残る赤黒い腫れ。生々しい現実が湯気の立たない鏡の中にあった。タオルを改めて触ってみると、その柔らかさが逆に傷口を意識させる。湯船にお湯が溜まっていく音だけが浴室に規則正しく響いていた。
その頃リビングでは彼がソファに腰を下ろし、スマホを見ているふりをしていたが、画面は暗いまま指も動いていない。ただ座って待っている。背中の羽が時折わずかに揺れた。壁越しに伝わる水の音や微かな振動を無意識に拾ってしまう癖が完全に抜けることはなかった。やがて、少ししてから彼女が戻ってくる。振り返ったホークスは、差し出されたタオルを見てほんの一瞬だけ視線を落とす。
「ごめん……タオル。血、ついちゃった」
「ん、洗えば落ちるんで。気にせんで」
それ以上の感情を声には乗せない。風呂上がりの彼女は、彼のTシャツを借りていた。丈は膝の下まであり、肩口は頼りなく落ちている。濡れた髪から滴った雫が布地に小さな染みを作っていた。ホークスは立ち上がり、棚からドライヤーを取る。その動きに迷いはない。まるで、そうするのが当然であるかのように。
「髪、乾かさないと風邪引くよ」
「あ、ごめん。借りる」
彼女に差し出しかけたドライヤーをホークスは何を思ったのか、途中で止めた。彼女はそれに、首を傾げる。
「……座って。俺がやる」
「え?」
「痛かったら言って」
「……う、うん」
彼女をソファの前に座らせ、自分はその後ろに浅く腰を下ろす。ドライヤーのスイッチを入れると、温風が静かに回り始めた。手つきは決して、慣れているとは言えない。それでも、毛先に指が絡まらないよう慎重に根元から少しずつ乾かしていく。少ししてから、彼女がぽつりと口を開く。
「あのさ。お金、取るつもり?」
「……は?」
「こんな、至れり尽くせりで」
ホークスの手が一瞬だけ止まりかける。そして小さく息を吐いてから、彼は再び、ドライヤーを動かした。
「取るわけないでしょ」
「なんで、そんなに優しいんですかねぇ」
問いかけの形をしていながらも、答えを求めていない声音だった。ホークスは何も言えず、風の音に紛れて言葉にならない感情だけが、その場に残った。彼女の髪が乾いていくにつれて少しずつ部屋の空気も落ち着いていく。誰かを守ることも世話を焼くことも、彼にとっては特別な行為ではない。ただ目の前にいる相手が無事であるようにと願う、その延長にあるだけだった。そしてその距離の近さを二人ともまだ、言葉にしないままでいた。
「ヒーローだもんね。放っておけないか……」
彼女の言葉にホークスからの返事はなかった。代わりに指先が髪を梳くように動く。ゆっくりと慎重すぎるほど丁寧に。まるで触れていい理由を自分自身に何度も言い聞かせるような指だった。
——ヒーローだから。その一言で片付くなら、どれほど、楽だっただろう。ホークスの動きは、善意や義務感と呼ぶにはあまりにも温度が高い。ただの人助けにしては、距離が近すぎた。
ホークスはドライヤーを切り小さく息を吐く。指先で毛先を確かめるように触れてから軽く手を離した。
「はい、終わり」
「ありがとう。いいシャンプー使ってるでしょ?ほら、さらさら」
彼女はわざとらしく肩を揺らして、乾いた髪を見せつける。彼は棚の方に視線をやり袋に入れたまま無造作に置かれたボトルを指差した。彼女が目を凝らすと、外国語のブランド名が照明に反射している。
「……あれ。サイドキックが土産でくれたやつ。なんとなく気に入って」
「へえ。いいなあ」
「……寝る? それとも、もう少し飲む?」
「飲みたい。だって、こんなに夜景が綺麗だし」
ホークスは、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて一本を彼女の前に置く。それから隣に座り直して自分の分を開けて一口含む。カーテンのない窓の向こうには、福岡の夜景が静かに広がっている。光の粒がいくつも折り重なり遠くで瞬いていた。
「これだけは自慢していい?」
「なに?」
「夜景」
「いいよ。全部、ホークスが手に入れた生活なんだから」
「手に入れた、って言うのかな……」
彼はビールを口に運び、それから少し黙った。その言い方が引っかかったのか彼女も夜景を見たまま、何かを考え込むように黙り込んだ。そんな彼女の横顔を盗み見ていたホークスは、数秒後、ふっと笑って首を振る。
「まあ、家賃は滞納せず払ってるんで、俺」
「はいはい」
二人並んで夜景を眺めながらぬるくなっていくビールを少しずつ飲み進める。時計はもう深夜の二時に近かったが眠気よりもこの時間を終わらせたくない気持ちの方が勝っていた。
途中で二本目を持ってきたホークスが、今度はグラスも持ってきて注ぎ直す。夜の光を受けて、琥珀色の液体が静かに揺れた。
「……ねえ。ホークスってさぁ、特定の彼女とか作らないの?」
「急だね」
ホークスが、グラスを回す。中の琥珀色がゆっくり回った。いつだったか、彼から彼女に投げた問いとよく似ていた。巡り巡って因果応報のように戻ってきた質問にホークスは一瞬だけ目を伏せる。夜景の光が横顔を照らし、金髪が淡く浮かび上がっていた。その沈黙が答えの代わりになるかのように部屋の空気を静かに満たしていく。言葉にしない選択肢が二人のあいだに、まだそのまま残されていた。
「いいじゃん、たまには」
彼女も同じようにグラスを回す。琥珀色の液体が縁に沿って静かに円を描き、そのまま喉へ流し込まれる。飲み干したあと、空になったグラスをテーブルに置く音は、思いのほか軽かった。
「作らないんじゃなくて、できないんだよね」
「え!? なんでよ」
ホークスは、ソファに深く身を沈め、足を前に伸ばして、天井を仰いだ。視界に入るのは、均一すぎるほど整った照明だけだ。
「なんでって言われても。忙しいし」
「ああ、そっちか」
ホークスがふいに視線を戻すと、彼女はもう、笑っている。それは肩の力が抜けた表情だった。
「そっちって、どっちだと思ったの」
「なんかさ。作れない理由でもあるのかなって」
「作れない理由? 例えば、俺が犯罪者とか?」
「はは。それはさすがに笑っちゃう」
笑い声が重なったが、彼の目だけが一瞬、落ち着きなく動いた。それを隠すように膝に肘をつき右手で口元を覆う。
「まあ……色々あるよ」
「そうなの?」
ホークスは猫背のまま腕を伸ばしさっき一緒に持ってきていたらしい、新しいビールを開ける。プシュ、と乾いた音が、やけに大きく響いた。
「名前さんこそ。彼氏とかいないの」
「いるわけないじゃーん。風俗で働いてる女を、本気で受け入れてくれる人なんてさ」
彼女は即座に笑った。笑いながら、突き放す。ビールの缶を持ったまま、彼の動きが止まった。部屋の空気が、ほんのわずかに冷える。夜景は、相変わらず美しく、手の中のビールは、きちんと冷えている。それなのに、彼女のその言葉だけが重力を持って、そこに残った。
「私はいいの。一人で生きてくから」
彼女は、ホークスからビール缶を奪い取ると、行儀悪くそのまま缶に口をつけた。一口、二口と時間をかけて喉に流し込む。
ホークスは何かを言いかけていた。喉の奥まで言葉は上がってきていた。否定でも、慰めでも、正論でもない、もっと別の何かが。けれどそれを飲み込む。そして、彼女の手の中から取り返したビールと一緒に流し込む。代わりに浮かべたのはいつもの笑みだった。ただし目の奥の温度だけが少し下がっている。
「まあ、一人で生きていけるのも強さですね」
「でしょ」
それで会話は途切れた。ビールの缶に結露した水滴がテーブルに小さな染みを作る。時計の針はいつの間にか深夜三時を回っていた。ホークスは小さくあくびを漏らし、すぐに口元を押さえる。眠気のせいだけではない重さが体の奥に溜まっている気がした。この夜を終わらせるにはまだ少し早すぎる気もして——。
「そろそろ寝よっか。明日……今日か、仕事あるし」
「だよね。ごめんね。私、もう少しこの景色見ていたいから。先に寝て?」
立ち上がりかけていたホークスはそのまま腰を下ろした。ソファの背に体を預け、天井ではなく窓の外に視線を戻す。
「……じゃあ、もう少しだけ」
「いいって。ヒーローさん、睡眠は大切よ?」
ホークスは彼女の言葉に目を閉じかけてから、薄く開いて答える。
「ヒーローの睡眠管理は、自己責任なので」
「ふふ。あら、そう?」
それきり二人とも立ち上がらなかった。並んでソファに座り、ただ夜景を眺める。言葉はなく、必要もなかった。時間は静かに流れていき、ホークスの呼吸が次第に深くなる。起きているのか、眠っているのか、その境目あたりで。
彼女は横目でそれを感じ取っていた。彼の個性の羽が小さく震え周囲の気配を拾い続けている。眠っていても完全には緩まない身体。それがこの男が生きてきた時間の形なのだと、彼女は思う。
空がわずかに白み始めた頃、彼女はまだ、目を開けていた。ホークスが寝返りの延長のように、彼女の肩へ頭を預けてくる。金色の柔らかな髪が首筋に触れてくすぐったい。規則正しい寝息が、すぐ近くで聞こえる。
起きているときの鋭さが消えた顔は、驚くほど無防備だった。二十代のただの青年の顔。片耳の赤いピアスが、室内の間接照明を受けて、静かに光る。
「……ほんと、いい男」
誰かに聞かせるつもりのない声だった。それでも、言葉が口から零れたことに、彼女自身が少しだけ戸惑う。肩にかかる重みは、じんわりと温かい。誰かの体温をこうして静かに受け止めるのは久しぶりだった。その事実を頭より先に体が思い出してしまった気がする。
彼女はそのまま、動かなかった。朝が来るまでこのままでいようと心の中で決める。この温度がまだ奪われていないものだと信じるように。
*
夜が完全に明けていた。朝焼けが街を赤く染め始める頃、ホークスの羽が小さく跳ねた。覚醒の合図のように。彼女の肩に預けられていた頭が、ゆっくりと離れていく。
「おはよ、王子様」
寝ぼけた目でホークスは彼女を見上げた。自分がどこに頭を乗せていたのか理解するまでほんの数秒——。額に手を当てて、大きく息を吐く。
「……寝てた?俺」
「ぐっすり。いびきかいてたよ」
「え」
「嘘。音もなく爆睡してた」
「もう……心臓に悪い」
「いいじゃん、いびきくらい」
ホークスは彼女を横目で流し見て、まだ赤みの引かない耳を気にするようにしながらソファから立ち上がった。
「コーヒー淹れるけど、飲む?」
「のむ」
キッチンに立つ背中は手慣れていた。豆を挽く音が朝の静かな部屋に規則正しく響く。ホークスはマグカップを二つ出し片方にはミルクを多めに入れる。聞く前に、そうするところがなんとも、彼らしかった。
「ねえ、ありがとね。こんなとこ泊まれて、嬉しかった」
ホークスはそう礼を言う彼女にコーヒーを差し出しながら、さらっと言い返す。
「また来ればいいじゃん」
「いいの?」
「いいよ」
「やった」
また来ればいい。その言葉がどれほどの重さを持つのか、彼女には測れなかった。社交辞令か、本心か。確かめる術はなかったし確かめる必要もないのかもしれない。
「ホークスが出るとき、私も出るわ」
受け取ったマグを片手に彼女が言うと彼は少し眉を寄せた。
「もうちょっとゆっくりしてけばいいのに」
「長居したら、帰りたくなくなっちゃうからね」
コーヒーを啜る手が止まる。彼は何も返さなかった。沈黙が落ちてコーヒーメーカーの保温ランプだけが、規則的に点滅している。
帰りたくなくなる。それはホークスにとって、聞いていい言葉なのかどうか、それが自分に向けられた言葉なのかどうか彼は一瞬で判断できなかった。ホークスは、自分のマグカップをキッチンカウンターに一度置き、背を向けたまま言う。
「着替え、どうする?昨日の服、血とかついてたけど」
「適当に買うよ。今日も寝床探ししないとだからそのついでに」
ホークスが振り返ると彼女は笑っていた。けれどその目の奥にはわずかに翳りがある。今までに彼が何度も見てきた、あの顔だと思った。
「寝床探し、て」
「住む場所ないから」
腕を組んだまま、彼はしばらく彼女を見つめていた。それから視線を外し、天井を仰ぐ。
「……うち、空き部屋あるけど」
「わー、出た出た」
冗談めかして返した彼女にホークスはもう一度まっすぐ視線を戻す。そこに、軽さはなかった。朝の光が二人のあいだに差し込んでいた。まだ、どちらの答えにも転びきらないままで。
「出た出たって、何」
「お人好しヒーロー」
彼女がそう言うとホークスは首を横に振った。そしてゆっくりと否定するように「お人好しとかじゃなくて」と、一度だけ言葉を探すように口を閉じる。朝日の差し込むリビングで金髪が透けるみたいに淡く光っていた。
「俺が、そうしてほしいから言ってる」
それは思ったより静かな声だった。彼女は一瞬言葉を失ってから現実に引き戻すように「家賃、半分とか払えないよ」と言うと彼は、ふっと息で笑った。
「いらない」
「でも……仕事も探さないといけないし」
一歩、距離が縮まる。彼の影が、彼女の足元に重なった。
「探せばいいじゃん」
「……とっても、嬉しんだけどさ」
「うん」
「でも、私が働けるとこなんて風俗くらいで客の相手した体で、ホークスのとこに帰ってくるの、なんか……」
最後まで言葉にしきれず、語尾が落ちる。彼は遮らなかった。ただ黙って、聞いていた。そしてようやく、ぽつりと落ちた言葉。
「別に、いいよ」
「よくない。私が、良くない」
ホークスは組んでいた腕を解き頭をがしがしと掻いた。苛立ちというより、自分の感情の扱いに困っている仕草だった。
「じゃあ、どうしたいの」
「ホークスに……迷惑かけたくない」
彼女の声のトーンが少しだけ落ちる。それは、冗談も強がりも抜いた、素の音だった。
「迷惑って思うなら、最初から言ってないよ」
「……あーあ。負けるんだよなあ、そういうの」
「そう言うのって?」
「ホークス式、論破」
淡々としているのに引く気のなさそうな彼に、彼女が笑う。ようやくいつもの調子に近い笑い方だった。目元も、さきほどよりは少し柔らかい。
「勝った」
「負けた」
「好きに過ごして」
「じゃあ……しばらく落ち着くまでお世話になります。できることはやるから。家事とか」
その瞬間ホークスの顔がぱっと明るくなった。年相応というより、子供みたいな笑い方だった。
「マジで? 助かる。ハウスキーパーさんに頼みにくいとこ溜まってて」
「え? たとえば?」
ホークスの視線が、あからさまに泳いだ。目の動きだけで、できれば口にしたくない、と思っているのが伝わってくる。
「……靴、とか」
「くつ?」
観念したようにホークスは玄関の方を指差す。靴棚——扉の隙間から、何かがはみ出している。おもむろに立ち上がった彼女は、玄関に向かい、靴箱を開けた瞬間、言葉を失った。ブーツは横倒し、スニーカーは上下も向きも無視して重なり、なぜか、剛翼の手入れ用のクリーナーまで、突き刺さっている始末。��靴棚�≠ニしての秩序は完全に崩壊していた。我が国のトップヒーロー。身の回りの片付け能力は、ほぼ壊滅的だったらしい。彼女は一歩、靴箱から後ずさりしながら言った。
「……悲惨すぎる」
「言わんで……」
彼は少し気まずそうにまた視線を逸らしたが、その横顔には、どこか、ほっとした色も混じっていた。この部屋に、生活の気配が増えることを、それを歓迎している自分の気持ちを、まだうまく言葉にできないまま——。
「私、汚い仕事は得意だから」
「汚い仕事って言い方」
「料理も得意だし。こう見えてね」
ホークスはそこで思わず目を丸くした。予想外だったらしい。
「そうなの?」
「うん。あ、でも。女の子呼ぶ時だけは言って?そのときは適当に泊まる場所探すから」
ホークスがなんのことかと「ん?」と声に出し首を傾げる。きょとんとした顔。それから彼女の言葉を理解したらしく耐えきれなかったみたいに声を上げて笑った。
「呼ばないって。誰も」
「えー、どうかなぁ。怪しいもんだよ」
「俺、この家に女の子入れたの名前さんが初めてですけど」
ホークスが、胸を張るように言い切った直後、自分で何を言ったのか理解したらしく、しまったという顔をした。そのまま耳の先がじわりと赤くなっていく。
「あーいや、その……そういう意味じゃなくて」
「自宅に女の子入れたくないタイプ?」
どうやら彼女にはうまく伝わらなかったらしい。今はそのほうが都合がよかったはずなのに、ホークスは思わず天井を仰いだ。これ以上、取り繕うのは無理だと悟ったような顔をしていた。
「……そういうことにしといて」
「なんじゃそりゃ……。でも、ほんと。遠慮なく言ってね」
ホークスは「はいはい」と軽く手を振りそこで話を切り上げた。逃げたいのが、見え見えの仕草だったが彼女はそれ以上、あえて突っ込もうとはしなかった。
「さ、靴片付けよ」
そう言って彼女は靴の山と格闘し始めた。はみ出したブーツを引き抜くたび小さな雪崩が起こり奥からは、汚れた剛翼用のクリーナーや、用途の分からないケーブルまで次々と姿を現す。それらを床に並べて、種類ごとに仕分け、向きを揃えていく。その動きには迷いがなく、まるで最初からこの家の勝手を知っている人間のようだった。
ホークスはキッチンで、コーヒーのおかわりを淹れながら、そんな彼女の姿を、何度も盗み見ていた。さっきの失言を少しでも早く忘れたいのか背中の羽が落ち着きなくぱたぱたと揺れている。それでも気づけば視線はまた彼女の背中へ戻っていた。朝の光が差し込む玄関で、見慣れなかったはずの後ろ姿が少しずつこの家の景色に馴染んでいく。それが妙に自然でホークスはしばらく目を逸らせなかった。まるで、この家に足りなかったものが、ひとつずつ埋まっていくみたいで。
「……手伝います?」
リビングの入り口付近で腰を落としたであろうホークスの声に、彼女は振り返りもせず首だけを横に振った。
「大丈夫。それより、有名なスニーカーばっかりじゃない? これ、売っていい?」
次の瞬間、その場の空気が、一瞬で変わった。血相を変えたホークスが、文字通り飛んできて、「だめだめだめ!それ限定品!」と、彼女の手元からスニーカーを奪うようにして抱え込み必死な顔で、守りに入る。その様子があまりに切実で、彼女は思わず遠慮もなく吹き出した。
「ホークスがスニーカーマニアなの意外だった」
「マニアって言わんで。これ、全部ちゃんと履いてるから」
胸に抱いたまま反論する彼の声は、どこか誇らしげだった。彼女は靴箱を覗き込み、整然と並ぶスニーカーの列に目を細める。
「一応、色ごとに並べてるの?」
「並べてない。たまたま」
「モデル別に整理してみるね。数、すごいけど」
「……はい、オネガイシマス」
観念したように肩を落とすホークスの背中は、どこか居心地悪そうで、それでもどこか嬉しそうだった。
「好きなんだよね。靴」
ぽつりと零れたその一言は言い訳というより、何かの告白に近かった。彼女は何も言わず、ただ小さく苦笑して、靴を手に取り、並べていった。
結局、靴の整理だけで、一時間近くかかった。しかし、玄関は見違えるほどすっきりし、朝日はすでに高く昇っている。時計を見ればそろそろ、ホークスが出勤しなければならない時間が迫っていた。
「じゃーん!」
彼女が一歩下がって全体を示すと、彼は並んだ靴を見下ろし目を丸くした。しばらく黙ったまま眺め、それから、感心したように口笛を吹く。
「……すげ。もう店じゃん」
「売ろう」
「売らないって」
そう言いながらも「これ、いくらくらいになるっちゃろう」と、ホークスの表情も満更でもなかった。そして一足ずつ視線を走らせ、満足そうにうなずく。
時刻は、八時半を過ぎていた。壁に掛けられたヒーロースーツのジャケットを手に取った彼は、自然に背中の羽を広げて、首をゆっくりと回す。出発前のいつものルーティンらしい。
「じゃ行ってくるけん。好きにしてていいから。冷蔵庫の中も、適当に食べて」
軽い調子の言葉に、彼女は一瞬だけ迷ってから「……ねえ」と、口を開いた。ジャケットに袖を通しながら「ん?」と振り返ったホークスを彼女は、まっすぐに見つめる。
「帰って、くるよね?」
一瞬、彼は目を見開いた。次の瞬間、肩の力が抜けたように心底うれしそうに笑って言い返す。
「当たり前でしょ」
ベランダで、赤い翼が広がる。朝日の中で羽は燃えるように光った。
振り返ったヒーローの笑顔は、いつも通り軽いものだったが、蜂蜜色の目だけは真っ直ぐ彼女を捉えて離さなかった。
「晩飯、一緒に食お」
「うん。作って待ってる」
自分から提案したことだったのに、ホークスはほんの少し驚いたように目を見張った。それから堪えきれないものがこぼれたように、くしゃりと笑う。泣きそうなのではない。ただ、嬉しさも、安堵も、そのほかの言葉にならない感情もうまく隠しきれずに溢れたような笑顔だった。
「楽しみにしてる。行ってきます」
「いってらっしゃい」
ひらりと手を振って窓から飛び出して行くヒーロー。赤い翼が風を掴んで、あっという間に空の点になる。
静かになった部屋。広すぎるリビングに、彼女だけが残された。テーブルの上には、ホークスが飲みかけのまま置いていったコーヒー。マグは、まだ少し、温かい。空き部屋があると言ったこの家は一人暮らしには広すぎて、二人でもまだ余るほどだった。窓の外では朝日を浴びた福岡の街が何事もなく、動き始めている。誰かが帰ってくる場所で待つのは、いつぶりだろう。彼女はマグを洗いふと部屋を見回した。散らかってはいないが生活の気配が薄い。掃除は行き届いているのに、人が長く留まる温度がない。その中で靴箱だけが妙に、存在感を放っていた。彼の執着と愛着が、あそこにだけ集まっている気がした。
*
数時間後。彼女はふと財布を開く。中身は心許ない。今夜の宿代が浮いた分、多少の余裕はある。けれど、仕事を辞めるとなれば、話は別だ。風俗を辞め、家事をして、それで何が残るのか。考える時間は、嫌というほどあった。何せ彼が、帰ってくるまでのあいだ。
晩飯を作ると約束した。なので冷蔵庫の中身は把握しておきたかったし、彼の好物が何なのかも結局、聞きそびれたままだ。
焼き鳥を好んで食べているのは知っているが、それは、酒のつまみとしての話であって、食事としての好みとは少し違う気がする。
彼女は軽く支度を整えて近所のスーパーへ向かった。野菜コーナーの前で足を止め並んだ葉物を眺める。バジル、鶏ひき肉、目玉焼き用の卵——頭の中で、献立を組み立てていく。ガパオライスなら手軽だし、見た目も悪くない。辛さは後から調整できるし、ナンプラーさえあれば、味はまとまる。カゴに次々と食材を入れながら彼女はふと気づいた。誰かのために食事を考えるなんて本当に久しぶりだと。仕事柄、客の前でそんなことをする必要はなかったし、そもそも食卓を囲む相手がいる生活自体、長らく縁遠かった。
会計を済ませて、マンションに戻る頃には昼を回っていた。買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込み部屋をあらためて見回す。広いリビング、使われていない空き部屋、そして扉の閉じられた書斎。別に書斎だけは触れるなと言われていないのに、触れてはいけない空気を纏っていた。なので彼女はそこから自然と距離を取った。
夕方まではまだ時間がある。シャワーを借り、昨日着ていた服を洗濯した。血の跡はしぶとく、何度も揉み洗いして、ようやく薄くなる。完全に消えたわけではないがそれでも放っておくよりはましだった。ベランダに干すと乾いた風がすぐに布を揺らした。そのままソファに腰を下ろし窓の外をぼんやりと眺める。昨日と同じ街並み、同じ空。けれど見え方は違う。隣に誰もいないという事実が景色の輪郭を少しだけ変えていた。気分を変えようとテレビをつけると、ニュースが流れていた。
〈速すぎる男ホークス、本日も市内で個性犯罪を即座に解決〉
そんなテロップと共にパトロール中の姿が映し出される。空を切り赤い羽を広げ、いつもの軽い笑顔で手を振っている。テレビの中の彼は、完璧だった。市民に愛想よく応じながら、犯人を追い詰め数分で事件を終わらせる。インタビューでも余裕を崩さず、爽やかに笑う。その姿と、昨夜、傷だらけの彼女を助けに飛び込んできた男とが、同じ人物だとは思えないほど、切り替えが早い。
ニュースが終わり、画面は昔のドラマか何かに切り替わった。内容を追う気にもなれず時間だけがゆるやかに流れていく。
夕方になり、彼女はキッチンに立った。包丁を握る手にわずかな緊張が混じる。失敗したらどうしよう、などと考える自分が少し可笑しかった。フライパンを火にかけバジルを刻む。ナンプラーの香りが立ち上がると、無機質だった家の中に、ようやく生活の匂いが入り込んできた。炒め終えた鶏ひき肉を皿に移し、刻んだバジルを散らす。あとは卵を焼いて乗せるだけ——それだけなのに手が止まった。今朝「当たり前でしょ」と笑った顔が、ふと浮かぶ。けれど、ヒーローにとっての当たり前ほど、信用ならないものはない。パトロール中に何か起きたら。事件が長引いたら。考えたくなくても、思考は勝手に先へ進む。待つ側の癖だった。ずっと、こうやって待ってきた。客が来るのを、あの路地裏で——。
そのとき、窓を叩く音がした。外からだった。ベランダの窓が開き彼がひょいと顔を覗かせる。赤い翼がばさりと折り畳まれ、汗と埃の混じった空気が部屋に入り込んだ。
「ただいま」
「おかえり。……どうしてベランダから?」
「玄関、遠いんで」
靴を脱ぎながら、彼は悪びれもせずに答える。そして部屋に入った彼は、すっと鼻を鳴らした。次の瞬間、その目がわずかに輝く。
「なん、この匂い」
「ガパオライス」
光の速さでキッチンに向かったホークスの足が止まった。バジルの深い緑に、半熟の卵の黄色、パプリカの赤。色味のバランスがよく、なにより皿がきちんと二枚並んでいる。それだけで、この部屋の空気が少し変わった。彼が自宅の食卓で、誰かと向かい合った記憶は、曖昧だった。サイドキックたちとの打ち上げは外の店が多く、普段の食事はコンビニかデリバリーを立ったままで済ませることも多い。作って、待っている人間がいる食卓。それは思い出そうとすればするほど記憶の底に沈んで見つからない種類の光景だった。
「ちょっとシャワー浴びてくる」
ホークスはそう言って浴室に消えたが、戻ってくるまでに、大した時間はかからなかった。髪はまだ湿っていて首元に水滴が残っている。さすがと言うべきか、落ち着く暇もない男だ。
リビングの床に腰を下ろすと、ホークスは皿をじっと見つめた。食べないわけではない。けれどすぐに手を伸ばすこともできずにいる。
「……もしかして、苦手だった?」
彼女からふいに、心配そうに声をかけられて、ホークスは、はっとしたように顔を上げた。
「違う違う。そうじゃないデス。いただきます」
スプーンを手に取り、一口。そのまま、動きが止まる。けれどすぐにまたスプーンが動き二口目三口目へと続いていく。顔は上がらない。感想もない。ただ、食べる速度だけが、静かにすべてを語っていた。そして、皿の中身はみるみるうちに減っていく。
「……今度は、好きなもの作るね。ごめん」
その言葉にホークスは、ようやく顔を上げた。口の端に白い米粒がついている。指で慌てて拭いながら「謝んないで」と言った。
「でも……」
「めちゃくちゃ美味い。ほんとに」
彼は最後の一口を掻き込んでスプーンを置く。そして、深く息を吐いてから、満足そうに背筋を伸ばした。
「……おかわり、あります?」
「あるある」
彼女が立ち上がってフライパンに残してあった分を皿に盛って戻ってきた。それを渡すと、彼はまた何も言わずに食べ始めた。翼を維持するには相応のエネルギーが要るのだろうが、それを差し引いても気持ちのいい食べっぷりだ。誰かに作ってもらった食事を遠慮せず躊躇せずに口に運ぶ。その行為自体が彼にとってどれほど久しぶりなのかを、彼自身も薄々感じているようだった。二杯目を平らげ、ようやくスプーンが止まる。
「今日、もしかして何も食べてなかった?」
「あー、昼にコンビニのおにぎり一個だけ」
「それは、お腹空くよ」
彼女が少し呆れたように言うとホークスは頬をわずかに緩めた。
「事件が長引いちゃって」
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
「次、食べたいものあったら教えて」
その言葉に、ホークスは、ふにゃっと笑った。張りつめていたものが一気にほどけたような仕事終わりの顔だった。それから、少し考えるように首を傾げる。この家で、誰かと食卓を囲むという新しい習慣を、どう受け止めればいいのか。その答えを、まだ探しているような仕草だった。
「……鍋、とか?」
「いいね。私も好き」
ホークスは目を細めた。嬉しさを、隠そうともしない、素直な表情だった。
「冬になったら、やりましょ」
「……そうだね」
——冬。まだずっと先の話だ。それでも彼は、ごく自然にその季節を彼女と一緒に過ごす前提で言葉を選んでいる。そのことに気づいているのかいないのか、本人はもう皿を重ねて立ち上がっていた。私が下げるよと言わんばかりに伸びてきた彼女の手を、さりげなく制してシンクに向かう。
「作ってもらったんで、これくらいは」
「ほんと、いい男」
ホークスは蛇口を捻りながら、背中越しに肩が小さく揺れていた。
「……それ、何回目です?」
「何回でも言うよ。事実だもん」
皿を洗う手つきは意外なほど丁寧だった。泡が翼の先に垂れそうになり、慌てて身を引く様子に生活の不器用さと人柄が同時に滲む。
「事実ね」
「だめ?」
「だめじゃない」
「ねえ、提案」
「はい?」
「今夜、また夜景見ながら一杯やろうよ」
彼女からの提案に彼は手を拭いて冷蔵庫を開けビールのストックを確認する。振り返った顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
「まだ六本ありまーす」
「わーい」
昨夜と同じソファ、同じ並び。けれど、流れる空気は、確実に変わっていた。他人の家に転がり込んだ女と、それを受け入れた男。たった一晩でその関係は、名前のつかないものへと、形を変え始めている。