それから数ヶ月。彼女からの連絡は、ぷつりと途絶えた。電話番号は解約され、アパートも引き払われていた。
 二週間目までは、まだ待てた。仕事が立て込んでいるのかもしれない、気まぐれな沈黙かもしれない。そんなふうに理由をいくつも並べて自分を納得させる余裕があった。一ヶ月を過ぎた頃にはもう剛翼を飛ばしていた。彼女が最後にいた街。昼も夜も路地の奥から大通りまで。羽を散らし、風を拾い、足音を聞き分け体温の気配を探した。
 アパートにも足を運んだ。鍵のかかっていないドアの向こうは、すでに、空っぽだった。生活の痕跡はきれいに消されポストには『入居者募集』の紙が貼られている。それを見た瞬間、胸の奥で何かが静かに折れた気がした。

 ホークスはその日、サイドキックたちが書類の山を抱えて行き交う事務所の中でデスクに突っ伏していた。翼が邪魔で決して楽な姿勢ではない。それでも、構わなかった。目を閉じているほうがまだましだった。そんな彼の目の下には濃い隈が落ちている。ここ数ヶ月まともに眠れていない。羽を通して拾える情報には限界があった。声紋も体温も、匂いも。今やすべて記憶の中にしか存在しない。街に散らばる何百枚もの羽が誰の足音も彼女のものだと認識しなくなっていた。風の振動が少し似ているだけで翼が反応する。そのたびに立ち上がり、違うと分かり、また座る。それを、何度繰り返したか分からない。

「……俺に、何ができたんだろ」

 吐き出された小さな声は空気に溶けて消えた。デスクの端に置いた自身のスマートフォン。電話帳に残る、彼女の名前。通話もメッセージも送れないただの履歴。ホークスは、親指でその文字をなぞり、また目を閉じた。


 *


 その日、インターンで来ていた、雄英高校一年A組の常闇踏陰が、事務所の一角で珍しく神妙な顔をして、スマホの画面を見つめていた。寡黙で礼儀正しい少年だが、どうも今日は様子が違う。眉間に深い皺を寄せ同じ画面を何度も読み返している。ホークスが顔を上げたのは偶然かそれとも剛翼が何かを拾ったのか。

「常闇くん、どうしたの。そんな怖い顔して」

 いつもの軽い調子で声をかけたが、その目は、無意識に据わっている。それでも、不眠が削ったものを彼は、後輩の前では隠そうとしていた。

「……お節介だと承知で、いいだろうか」

 ホークスは「なに、改まるねえ」と片眉を上げ椅子の背にもたれて肘掛けに頬杖をつく。常闇が言葉を選んでいる様子はどこか珍しく、そして、重たかった。

「これは、ホークスとよく面識のあった女性か」

 差し出された画面には風俗関連のサイト。福岡でも悪い噂で知られる大型店だ。顔はモザイクで下着姿のスタッフ写真の一覧。それでも、分かる輪郭。人気一位の表示。画面を見た瞬間、空気が変わった。頬杖をついていた手がゆっくりと落ちる。蜜色の瞳から温度が消え、口元に残る笑みはもはやその形をしていない。それはもう笑顔とは呼べないものだった。背中の剛翼が、音もなく、大きく広がる。事務所の蛍光灯がひとつ、乾いた音を立てて弾けた。

「……これ、どこで見つけたの」

 静かな声だった。静かすぎるほどに。デスクの上の書類が微かに震え、ペン立てが倒れる。廊下から異変を察したサイドキックが顔を出し、殺気立った赤い剛翼を見て、無言で引っ込んだ。

「調べものをしていたら広告で流れてきたゆえ」

 気づけばホークスは、立ち上がっていた。いつ立ったのか本人にも分からない。自身のスマホを操作する手は冷静で住所、営業形態、スタッフの出入り時間帯、情報が頭の中に滑り込んでいく。個性の剛翼を飛ばす準備は、もう始まっていた。

「警察からマークされてる店だね、ここ」
「すまないホークス……伝えるべきじゃなかったかもしれない」
「いや。ありがとう」

 ホークスは首を振る。常闇を見る目には、さきほどのような殺気はない。

「知らなかったら、もっと遅れてた」

 淡々とそれだけを告げると、彼は室内で剛翼を広げた。そのまま、窓辺へ向かう。カラカラ、と窓枠を滑る音がして、窓が開いた。

「今から向かうのか」
「うん」
「俺も行かせてほしい。足手まといには、決してならない」

 常闇が黒影を展開した。普段は大人しく真面目な少年の、はっきりした意思だった。理由は聞かなかったが、あの画面を見て黙っていられるほどこの少年の心は冷めてはいなかったらしい。
 ホークスは振り返り、一瞬だけ、目を細める。それから小さく笑った。今度は少しだけ、本物に近い笑みで。

「頼りにしてるよ」

 窓を開け、夜空へ。常闇がその背を追う。通常なら数十分の距離。だが、ホークスの速度は別格だった。翼が夜を切り裂き街の灯りが線になって流れていく。飲み屋街の明かりが見え始めた頃、常闇の呼吸は、荒くなっていた。それでも速度は落ちない。時間だけが容赦なく削られていった。
 福岡上空。ホークスは数枚の羽を切り離し街の呼吸に溶かした。振動が音にならない音を運んでくる。従業員の足取り、客の出入り、壁の厚み、階段の位置。情報はすべて羽の先で編み上がる。
 ——いた、見つけた。雑居ビルの三階。窓は、すべて遮光され外からは何も見えない。それでも分かる。三階の奥、個室のひとつ。彼女の体温。もう一つ、知らない男の気配。距離が近すぎる。触れているのだろう。翼がびり、と震えた。意識より先に数枚の羽が抜け落ちる。拳は血管が浮き上がるほど、強く握り込まれている。

「常闇くん、裏口を押さえて。逃がさないで」

 言い終わるより先に裏手の方角から金属がぶつかる音が転がり落ちた。パイプ階段を何かが落ちる、乾いた衝撃。続いて、男の罵声。それから、「やめて!わかった、わかったから!」と、叫ぶ女性の声。ホークスは、振り返る。裏口の方角。聞き違えるはずがない。

「常闇くん!」

 常闇は、既に動いていた。黒影を翻して裏口へ急降下していく。パイプ階段の下、酔った中年の男と尻餅をついている女性。男性のスーツの襟が乱れ、上から三つボタンが外されて肌は露出し、額に脂汗が浮いている。その前で蹲る彼女は薄いキャミソール型のブラトップ一枚。下はショーツだけ。手首には掴まれた痕、頬には切り傷。口の端に、赤が滲んでいる。彼女は客を見上げて睨みつけていた。

「金払っててこれか!?殴るぞこのアマ!たかが風俗嬢のくせ——」

 言葉は最後まで届かなかった。赤と黒の影が、同時に降り立つ。着地の衝撃で、アスファルトが鈍く鳴る。男の顔から、血の気が引いた。咄嗟に男が彼女の髪を掴んだ。引きずろうとした、その刹那——ホークスは地面を蹴っていた。音が追いつく前に、距離が消える。男の指を手刀で弾き、彼女を掴んでいた手を離させる。そのまま、腕を背中にねじ上げて、地面に押さえつけた。乾いた音が路地に響いた。ホークスが男を見下ろす瞳は冷酷で、冷え切っている。笑みは微塵もない。

「触るな」

 その男に言った言葉ではない。彼女に関わる、すべてに向けた線引きだった。ずっとそう思っていたのだろう。ホークスは男と彼女の間に立ち、背中で彼女を隠す。そして、すぐに横目で、短く確かめた。

「……大丈夫?」

 彼女は膝を抱え、地面に縫い留められたように動かない。焦点の合わない目。汗と涙が、首筋で混じり、震えが止まらない。何が起きているのか理解が追いついていないのか、それとも追いつくことを、拒んでいるのか。

「すまない、急いでくれ!こっちだ」

 常闇の声と共に遠くでサイレンが近づく。彼が通報していたらしい。警察がこの店の常習を把握していたこともあり、到着は早かった。二人組の警察官が常闇に誘導されるまま路地に駆け込んできて地面に押さえつけられた男とホークスを見て一瞬たじろいだが、すぐに状況を把握する。

「ホークスくん、身柄はこちらで引き取る」

 ホークスは男から手を離した。立ち上がって、彼女の方へ向き直る。一歩近づきかけて止まる。今ここで触れたら、壊れる。そう判断した。赤い翼が力なく垂れ下がり夜風に揺れる。ホークスはヒーロースーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩にそっと掛けた。触れるか触れないかの力加減で。大きな革が、震える体を覆い、膝まで届く。その下から覗く手足の傷が、街灯の白い光に晒されていた。新しいものも、古いものもある。積み重なった暴力の痕跡。ホークスはしゃがみ込み目線を合わせた。何も言わない。手も出さない。ただ、蜂蜜色の目だけを彼女に向けて、そこにいる。

「暴れるな!さっさと歩け!」

 男は連行されて、路地の空気が少しずつ戻ってくる。常闇は一度だけ振り返り、すぐに前を向いた。見なかったのではない。任せたのだ。夜は、まだ、終わらない。それでも、彼女の目の前には逃げ場のない闇だけではなく確かに存在しているヒーローの姿があった。
 ホークスが片膝を折り、身体を前へ傾けると、背中に広がっていた赤い剛翼は音も立てずに畳まれて、まるで吸い込まれるように輪郭を失った。路地裏の薄闇に溶けるように存在感だけが静かに引いていく。見上げてくる彼女の視線を受け止めながら、ホークスは、いつもの笑みを浮かべた。軽くて冗談めいて見えるその表情は、長年の癖のようなものだ。こうしていれば、相手は深く踏み込んでこない。——少なくとも、今までは。

「……な、なんで、いるの……っ」

 声は震えていた。それでも彼女は目を逸らさなかった。その強さが逆に胸の奥をちくりと刺す。ホークスは表情を崩さずに、肩をすくめる程度の仕草で答えた。

「常闇くん……インターンの子が教えてくれた。彼さ、仕事が早いけん」

 それ以上は言わない。彼女の「なんで」には、幾つもの意味が重なっていることを、ホークスは理解していた。なぜここに来たのか。なぜ、今、こんな姿を見られているのか。その全部を、問い詰めたいだろう。けれど今はどれにも答えないと決めていた。答えた瞬間に、壊れてしまう均衡があることを知っていたから。

「……あ、あの、男が……っ」
「うん」
「ホ、ホークスを、バカにして……っ」

 言葉が、途切れ途切れに零れ落ちる。客の男が口にした侮辱——No.2ヒーローはファンに貢がせて生きているという類の聞き慣れた悪意。それを聞いて彼女が逆上して、掴みかかり、揉み合いになった。そういう、経緯だったらしい。断片的な説明を繋ぎ合わせながらホークスは一瞬だけ目を瞬かせた。それから、ふっと息が漏らす。

「……俺のために、怒ってくれたと?」

 笑いはしなかった。呆れたわけでもない。ただ喉の奥が熱くなるのを堪えるような、そんな息が漏れた。目の縁がわずかに赤くなりかけて夜闇に紛れるぎりぎりで踏みとどまる。

「ホークスの、ためだけじゃない……」
「うん」
「……私自身の、ために……」
「うん……」

 小さく頷いた。否定も肯定も説教も同情も挟まない短い相槌。それだけで十分だった。その一言に込められた重さをこの場で受け取れるのは彼女だけだと、ホークスは思った。路地を抜ける風が金髪を揺らし彼女の肩に掛けたジャケットの裾を同時に翻す。遠くでパトカーのドアが閉まる音がした。ほどなくして、常闇がこちらに戻ってくる気配があった。そのときだった。店の店長らしき男がパイプの階段を駆け下りてくる。彼女とホークスを見るなり、隠しもせずに舌を打ち鳴らして「なにやってくれとったい」と吐き捨てるように言うと咥えていた煙草を彼女の足元へ落とした。
 次の瞬間、ホークスの身体は、考えるより先に動いていた。男の胸ぐらを、片手で掴み上げる。足が地面から浮き、男の短い悲鳴がその喉に引っかかる。背中の剛翼が一気に開き夜気を震わせて近くの窓硝子が、かすかに鳴った。

「今、なにした?」

 声は穏やかだった。穏やかすぎるほどに。だがしかし、その目の奥だけが冷え切っている。

「っ、ひ、ヒーローん管理外やろ!?これは客と嬢の——」

 ホークスは男から視線を逸らさないまま、羽を一枚だけ飛ばして地面に落ちた吸い殻を拾い上げた。まだ赤い火が先端に残っている。

「これ、人に向けて投げるもんじゃなかですよ」

 店長の顔色が、みるみるうちに青ざめていく。弁解の言葉すら出てこず、言い訳は、それ以上、続かなかった。

「ホークス……もう、いいから……」
「よくないでしょ」

 短い一言だった。いつもの余裕も軽さも全部、剥がれ落ちて、残った芯だけで立っているような声音。背を向けたまま彼は振り返らない。そこへ常闇が警官たちを連れて戻ってくる。別の二人が加わり、店長を見るなり表情を引き締めた。
 ホークスはそれを横目に店長を地面に下ろし、警官に突き出すように顎で示す。手錠の金属音が路地に響く。それでもホークスはまだ彼女の傍を離れなかった。守っているつもりなのか、縛っているのか——。その答えを出すには、まだ夜が、足りなかった。ホークスはそう思いながら彼女の影が揺れない位置に、立ち続けていた。

「……また、仕事……なくなった……」

 彼女の泣き出す手前で踏みとどまっている顔を見下ろしホークスはほんの少しだけ眉を下げる。さっきまで貼り付いていた怒りの名残が、まだ、頬の奥に沈んでいた。

「知ってる」

 短く答えた。知っていた。身を売って食いつないできた人間から仕事を奪うことの重さを。明日からの生活を音もなく潰してしまう行為だということを。それでも、胸の内に後悔は浮かばない。先ほどの光景を見過ごす選択肢だけは、最初から存在しなかった。

「余計なこと、しないでよっ」

 その言葉を受けて黙る。数秒、彼女を見つめたまま。余計なこと。その言い方が胸の奥で乾いた音を立てた。ホークスは、口を開きかけて閉じ、もう一度だけ、息を入れ直す。

「……うん。余計なこと、だね」

 認めた。反論はしない。ただ、足は動かない。しゃがんだ姿勢のまま、彼女と同じ目線に留まりジャケットだけは返させないよう裾を指先で軽く押さえていた。ここで一歩退いたら二人の距離が別のものに変わってしまう気がした。

「……借金、あと少しだったのに。返せるまで、あと少しだったのに……」
「……」
「前の店の店長に嵌められて貯めてた分、ぜんぶ取られたの」

 ホークスは思わず、目を見開く。ほんの一瞬、完全に無防備な表情がこぼれた。借金。嵌められた。全部取られた。断片的な言葉が彼の中で重なり合って像を結ぶ。彼女が消えた数ヶ月のあいだに起きたこと。スマホを解約し、アパートを引き払い、福岡まで流れ着いて、それでもなお、搾取され続けていた事実。店を渡り歩かされ、最後に辿り着いたのが、ここだったのだろう。

「……いくらです」

 ホークスの声から、感情が抜けた。怒りでも、悲しみでもない。もっと、深いところで固まった冷たい判断と問い。

「言って。いくら」
「……」
「名前さん」
「……四百、万」

 ホークスは立ち上がった。迷う様子はなかった。ヒーロースーツの後ろポケットから、財布とペンを取り出し一万円札を一枚抜く。そこに何かを書きつけると、そのまま彼女へと差し出した。

「はい」

 説明はない。けれどこれは、紛れもなく小切手だった。返せとも言わない。足りなければ言えばいい——そんな顔だった。少し離れた場所では、常闇が壁に背を預けている。視線を外しながらもこれは、二人の問題だと理解して、距離を保っていた。

「もらえない。……二度目だよ。まだ、前に建て替えてもらった分の、半分も返せてないのに」

 彼女が首を横に振るのを黙って見ても札を持つ手は引かれない。夜風が一万円札の端を揺らす。

「じゃあ、返さなくていいです」

 前回の建て替えも、彼女は必ず返すと言った。ホークスはいつもの調子で「いらないっすよ」と流した。それでも彼女は、毎月ほんの少しずつ、雀の涙ほどの金を渡し続けた。律儀で、愚直で、どうしようもなく真面目だった。その姿が、胸の奥に引っかかったまま抜けずにいた。本気で彼は返してもらうつもりなどなかったのだ。
 ホークスは一万円札を差し出した手を下げずに彼女が受け取るのを、ただただ、待っていた。

「……なんで。なんで、こんなことするの……」

 問いかけは掠れていた。責めるより先に、理解できない戸惑いが滲んでいる声だった。彼は札を持ったまま、空いた手で後頭部を乱暴に掻いた。そして困ったように逃げ道を探すみたいに笑う。

「なんでって聞かれると、正直困るんだけどさ」

 答えを持っていなかった。放っておけないから守りたいから——そんな言葉はこの状況には重すぎる。軽く言うには、本気すぎた。理由を言葉にした瞬間、取り返しがつかなくなる気がした。
 ホークスはもう一度しゃがみ直し、札を地面に置く。コンクリートの上に、一万円札が無防備に横たわる。そのまま両手をポケットに突っ込み、視線だけを彼女に向けた。

「受け取って。返さなくていい。話は終わり……だから名前さんも、これ以上怒らないで」

 笑っていた。うまくない笑い方だった。どうしようもなく、不器用なまま。

「怒ってない……怒ってるのはホークス、あなたの方でしょ」

 その瞬間に、不器用だった笑みが消えた。図星だった。ずっと笑顔で覆ってきたものを、たった一言で剥がされた。口元が引き結ばれ視線が一瞬だけ揺れる。

「……怒ってないよ。怒る権利、ないし」

 自分に言い聞かせるような声だった。権利がない。止める立場にない。分かっている。分かっていて、それでも羽を飛ばし、彼女を探し続けた。灯台下暗し——まさか、自分の活動拠点である、福岡にいたなんて。

「権利……そうだよね。ないよね、権利なんて」

 彼女がそう繰り返した瞬間、二人のあいだに、沈黙が落ちた。権利がない。そうだ。恋人でも、家族でもない。体の関係すらない。ただ夜に時間を見つけて飲んで、話して、それだけの関係だ。それなのに、街を探し回り、二度にも渡って金を差し出し、営業妨害だと罵られても引かなかった男が、ここにいる。

「これは受け取れない……大丈夫。ジャケットもありがとう」

 彼女が脱いだジャケットを受け取りホークスは袖を通した。動きはどこかぎこちない。一万円札だけがコンクリートの上に残されて風で札の端がめくれ、もう汚れ始めている。

「大丈夫って言われても、はいそうですか、って帰れないんですけど」

 ぽつりと零れた本音だった。取り繕う余裕は、もう残っていなかった。

「……ちょっと、待っててもらってもいい?」

 ホークスが、顔を上げる。待ってていいのか。帰れと言われると思っていた。拒絶でも受容でもない、その中間に何かが生まれかけていた。彼は黙って頷き、壁にもたれた。自然と剛翼を畳む。赤いピアスが街灯の下で、かすかに光った。
 階段を上がっていく足音。しばらくして、服を着替えた彼女が降りてきた。さすがに今日はもう帰るのだろう。彼女は先に二人の動向を見守っていた常闇のもとへと行き、短く礼を言っていた。常闇はホークスに一礼したのちそのまま夜の街へ消えていく。黒い影が闇に溶け、すぐに見えなくなった。ホークスは壁から背を離し彼女を見る。私服姿を見るのは、久しぶりな気がした。さっきまでの薄着の姿が妙に目に焼きついていて、今の普段着が逆に胸を刺す。
 二人きりになった路地は、静かだった。遠くのネオンが滲み、風は止み、空気だけが重い。ホークスは地面の札を一瞥して、それからもう一度、彼女へと視線を戻した。

「あの小切手、まだ置いてあるけど」
「大丈夫。それは、ホークスがしまっておいて。それより、何か食べに行こ」

 ホークスは一瞬、意表を突かれたように、目を瞬かせて、それから、くしゃりと笑った。今度は目元まできちんと笑っている。

「奢り?」
「今の状態の私に言う?それ」

 彼は自分で置いた一万円札を拾い上げたあと、両手を軽く上げて、降参の合図を作った。

「冗談。俺が出しますよ。何食べたい?」
「なんでもいいよ。お腹空いてるから」

 歩き出すと、ホークスは、半歩だけ彼女の側に寄った。風上を取る位置。意識してやったというより、体が勝手にそう動いたのだろう。気づかれない程度に、さりげなく。
 深夜の博多の街は、まだ眠る気配がなかった。繁華街の灯りは落ち着くことなく居酒屋の看板があちこちで瞬いている。すれ違う酔客のひとりがホークスの顔を二度見し、反射的にスマホを構えかけた。けれど、隣にいる彼女を見て、その手を下ろす。傷の残る顔。事情を察したのか、それとも深入りが面倒になったのかは分からない。
 入ったのはカウンターだけの小さな店だった。炭火の匂いが濃く扉を開けた瞬間に服にまとわりつく。大将はホークスを見ても騒がず無言で奥の席を示した。ヒーローだからか、それとも二人を見て、何かを思ったのか。いずれにせよ、余計な言葉はなかった。

「……ごめんね、連絡途絶えちゃって。スマホ、解約されちゃってさ。未納だったから」

 ホークスは、メニューに目を落とすことなく、ねぎまを二人前頼んでから彼女に視線を向けた。

「知ってた。だから羽、飛ばした」

 淡々とした言い方だったが、それがどれだけ、無茶な行為かは、彼女にも、分かるはずだった。個性の私用目的。探知行為。規約に触れても不思議じゃない。それを、彼は「知ってた」の一言で済ませる。ホークスはおしぼりを彼女に渡した。手の傷に触れないよう、控えめに。

「解約したなら、また番号教えて」
「スマホ、客に壊されて……ホークスの連絡先、分かんなくなっちゃって」
「そっか」
「……ごめん、入れてもらってもいい?」

 差し出されたスマホは、ひび割れて角が欠けていた。手に取った瞬間、力任せに握られた痕だと分かる。ホークスは何も言わず、自分の連絡先を打ち込んだ。電話番号、メッセージアプリ——。指の動きは迷いがない。操作は一瞬で終わった。

「はい、入れた」

 壊れた端末を両手で包むようにして返す。雑に扱わないのが、当たり前だというように。

「ありがとう」

 ねぎまが運ばれてきた。炭火で焼かれた鶏の脂が音を立て白い煙が天井へ昇っていく。彼は一本取って、タレを少しだけ絡めて口に運んだ。その味を噛みしめながら、隣に座る彼女を見る。
 こうして並んで食事をするのはいつ以来だっただろう。特別なことは何もない。ただ腹を満たすための夜食。それでもこの距離、この温度が今は何よりも、確かなものに思えた。
 隣いるのは傷だらけで、疲れ切って、それでも食べることを選んだ、一人の女性。そして、その隣に座っているのが彼、ホークスだった。

「食べなよ、冷めるよ」
「うん、いただきます」

 二本、三本と串が減っていくにつれて店の音が少しずつ輪郭を持ちはじめた。炭がはぜる小さな音、大将が無言で串を返す手つき、隣の席のサラリーマンたちの笑い声。換気扇の低い唸りが一定のリズムで、空気をかき混ぜている。ついさっきまでの路地裏での出来事がまるで別の世界だったかのように思える。
 ここはただの深夜の飯屋で、腹を満たす人間がいて、酒と煙の匂いがあるだけだ。ホークスは、つくねを追加で頼みながら何気ない調子を装って口を開いた。

「今日のとこ、辞めるでしょ」

 彼女は少し間を置いてから視線を串に落としたまま答えた。

「ホークスが店長を警察に突き出したから、もう働けないよ。営業停止にもなるだろうし」

 彼女の手が、止まった。ホークスも、串を口に運ぶ手を止める。

「あー......それは、うん。ごめん」

 今度は取り繕わなかった。さっきまで「よくない」と言い切った自分がここではちゃんと後悔の顔をしている。軽く店を一つ潰したという現実がようやく腹の底に落ちてきたのだろう。首の後ろを掻く仕草に、居心地の悪さが滲む。

「あの店さ、金は良かったんだよ。その代わり、痛い系もオッケーな店でさ。変な客も多くて……今日みたいな」

 彼女は串を取った。動きはゆっくりで、言葉を選ぶ時間を稼ぐようでもあった。

「痛い系って、オプションとかじゃなくて?」
「あ、それそれ」

 軽く返したその言葉が嘘だとホークスはすぐに分かった。今日のあの男がやったことは、どんなオプションの枠にも収まらない。
 串を置いてテーブルの下に隠された彼女の手。その甲に残る爪痕が、何よりも、雄弁だった。

「ごめんね、こんな汚い格好で再会とか」
「汚い?」

 思わず聞き返していた。本気で理解できない、という顔だった。少しして、鼻で小さく笑う。

「俺、三徹くらいで、風呂入ってないっすよ今。どっちが汚いかって話」
「……。ほんと……あんたは、いい男だね」

 ホークスは目を丸くしてそれから照れたように前髪をいじる。金髪が無造作に崩れるのを見て、彼はわずかに居心地の悪さを覚えた。照れ隠しに「やめてよ、急に」と茶化すように言ったが声は少しだけ上擦っていた。

「ホークスに、利用してもらえたらな、とか……弱音吐いた日が、最後だったじゃん?」

 手が止まる。前髪をいじっていた指がそのまま固まった。あの日の夜が否応なく脳裏に浮かぶ。酒が回って、いつもより饒舌だったかもしれない彼女。冗談とも本音ともつかない調子で、軽く、「ホークスが利用してくれたらいいのになぁ」と言った。その言葉にホークスは間を置かずに首を横に振った。軽くもなく、否定する意思だけは、はっきりと伝わる仕草で。
 今思えば、あれは助けを求める声だったのかもしれない。けれどその時の自分は踏み込む権利がないと思い込んでいた。線を越えないことが彼女を尊重することだと、信じていた。串から落ちた脂が皿に当たって小さく音を立てた。ホークスは視線を伏せたまま冷めかけたつくねを口に運ぶ。噛んでも、味がよく分からなかった。取り返しのつかない��間�≠ェ、二人の間に静かに横たわっていた。

「こんなふうに連絡取れなくなるなんて、思ってなかったからさ。めちゃくちゃ後悔してた」
「……」
「あのとき『それだけは無理』って言い切られてほんと、何言ってんだろ私、って思って」

 ホークスはすぐには答えなかった。炭がぱちりと弾ける音が短く、妙に大きく耳に残る。
 「それだけは無理」。あの夜、自分が口にした言葉だ。笑みも浮かべずにはっきりと。線を引くつもりで言ったその一言がどれだけ鋭く、彼女を切ったかを今になって、ようやく理解している。彼は、グラスの水を一口飲み、ゆっくりと置く。その瞬間、中の氷が、からんと鳴った。

「無理って言ったのはさ……利用するのが無理、って意味じゃなくて」

 声は低く装飾のない調子だった。いつもの軽さは削ぎ落とされ、言葉の芯だけが残っている。

「金で繋がったら、それ……客と同じじゃん」
「わかってる」
「……」
「……わかってるよ。だから、後悔したの」

 彼女は水のグラスを指先で回し、天井を見上げた。蛍光灯の白が目に刺さるのか、細く目を眇める。分かっている。彼女も、分かっていたのだ。金で買われる側にホークスを置きたくなかった。だからこそあの言葉を後悔した。だがホークスの心に残ったのは「無理」と突き放した二文字だけだった。その残響が、この数ヶ月間という距離を作ったと思っている。

「ホークスはさ、きっと、花みたいに綺麗な子と付き合って、幸せな家庭とか築いていくんだろうなぁ」

 天井から視線が戻る前に、ホークスは、彼女を見ていた。まっすぐに。そして彼女のその言葉を否定はしなかった。花みたいに綺麗な子。幸せな家庭。世間が彼に重ねる未来図だ。ファンレターには、そういう願いが山ほど書かれている。爽やかで、強くて、かっこよくて、優しいヒーロー。その隣に並ぶのは、無垢で清潔な誰か。

「……名前さんは?」

 静かに問い返した。自分の話を逸らし、彼女の話を引き寄せるための言葉。

「……私? 私はせいぜい、変な嗜好の金持ちに見初められて、永遠に奴隷生活とかじゃない?」

 ホークスは笑えなかった。冗談として受け取るには現実があまりにも近すぎた。傷だらけの腕、路地裏で震えていた身体、四百万に膨れ上がった借金、痛みを許容する環境。彼女自身が、自分をそう呼ぶことを、聞き流せなかった。彼は大将にビールを二つ追加で頼む。声は平静を装っていたが、グラスの縁を掴む指先に力がこもる。しかし彼女のそんな未来図をここで受け入れるつもりはなかった。少なくとも、今夜は——。

「前に建て替えてもらってる分は、時間がかかっても必ず、返すから」

 彼女の声は落ち着いていた。決意というより、帳尻を合わせるための言葉だ。運ばれてきたビールの泡が、照明を受けてきらりと光る。彼女は、ジョッキを持ち上げ一口含んだ。泡が唇に触れ、そのまま消える。

「いらないって言ったでしょ。受け取らないよ」

 ホークスは、同じ言葉を繰り返した。さっきと同じ声音のはずなのに今度は逃げ道を塞ぐ重さがあった。軽口に偽装する余裕は、もうない。

「あ、怒ってる。また羽根が逆立った」

 彼女の視線に追われるようにホークスは背中へ手を回した。翼の付け根、そこだけが意思に反してざわついている。指で押さえ込むと羽根は名残惜しそうに揺れてから静まった。

「……マジ? やば、恥ずかし」

 癖だ。感情が強く振れたときどうしても出る。それを彼女に見抜かれているという事実が、妙に居心地を悪くする。プロヒーローの失態。カメラがなければ許される種類のやつだ。

「ふふ、変わんないね。ホークス」

 その笑みを見た瞬間、羽を抑えていた手が止まった。数ヶ月ぶりだ。写真でも、通話でもない。ここに座っている彼女が、ちゃんと笑ったのは。目の下の隈も荒れた唇も、見ないふりができないほど近い距離で。
 ホークスの視界が一瞬だけ滲んだ。慌てて瞬きをして、何事もなかった顔に戻す。

「……変わんないのは、そっちでしょ」

 声は軽く保ったつもりだった。しかしジョッキを持つ手の力だけが、少し緩んでしまった。

「私は相変わらず、体売ってるよね」

 彼女はビールを置いた。ことん、と乾いた音。自嘲でも挑発でもない。ただ事実を置くみたいな言い方が、胸の奥に沈む。笑いながら言えるほど彼女は慣れてしまったのだ。ホークスは何か言いかけて、やめた。代わりに皿に残っていた二本のうち、一本を彼女の前に滑らせる。

「お、ありがと」

 もぐもぐと串を頬張る横顔を盗み見て、自分も最後の一本を取った。しばらく、無言で食べる。気まずさのない沈黙。店の外では、どこかの酔っ払いが調子外れの歌を引きずっている。大将は、黙々と皿を拭き、深夜の店内は少しずつ音を減らしていった。ホークスは串を置き、頬杖をつく。

「名前さんさ、これからどうすんの」
「さあ。あの店、住み込み可だったからさ。帰る場所もなくて……今日は、安いラブホかな」

 頬杖をついたまま、蜂蜜色の目が自然と彼女を追った。安い、ラブホ。今夜、一人で——それを聞いて平気な顔をできるほど、彼の神経は鈍っていない。けれど、これ以上は踏み込む資格がないことも、嫌というほど分かっている。

「ビジホより安いし。漫喫でもいいけど、混むでしょ」

 彼女が続けるあいだホークスの指はテーブルをとん、とん、と叩いていた。これも個性とは別の無意識の癖だ。

「……うち、来る?」

 言葉が先に落ちた。言ってから自分でも驚いた顔をする。だが取り消さなかった。彼女の反応を待つために視線を逸らさず、ただそこに留まる。店の静けさが、二人の間に張りつめる。

「いや、別に変な意味じゃなくて。ソファあるし毛布もほら、余ってるし」

 自分で言っておいて苦しい言い訳だと分かっていた。独り暮らしの男が女を泊める理由としてはあまりにも脆い。それでもホークスの表情に下心はなかった。あるのはさっき路地裏で見た彼女の首に残る、赤黒い指の跡への、どうしようもない苛立ちと、行き場のなさだった。

「ホークスのメインハウスって福岡で有名な高級マンションでしょ?」
「……へ?」
「行けないよ、こんな体であんな立派なとこ」

 ホークスは思わず、眉をひそめる。立派だから何だ、という顔だった。彼にとってはただ寝床として住んでいる場所であって誇示するための舞台ではない。

「風呂もあるし、寝るとこもある。ラブホテルと何が違うの」

 論点がずれているのは分かっている。それでも今は理屈より現実だった。彼女が今夜、安心して横になれる場所があるかどうか、それだけだ。

「……結構、ノンデリな発言してるからね?今のホークス」

 ホークスは呆気に取られたように、きょとんとした。本気で、心当たりがないらしい。

「え、どこが?」
「……だってさ。どうせ窓からは福岡の街が一望できて、カウンターキッチンで、冷蔵庫がやたら大きくて、ワインセラーとかあるんでしょ?」

 ホークスはふと斜め上を見やり、自分の住んでいる部屋の間取りを思い浮かべた。そして思わずぷっ、と吹き出す。

「ワインセラーあるけど。使ってない。なんか、もらった」
「なんか、もらったって……」
「まあ……カウンターキッチンもあるけど。え、なんで知ってんの、来たことないのに」
「有名じゃん。あのマンション。CMも多いし、駅前なんて看板が、でかでかと出てるし」

 ホークスから「あー......」という、間の抜けた声が漏れる。

「家賃は、結構するかもね」
「うげー。自慢話おつでーす」

 ホークスは、けらけらと笑って手を振る。だがトップヒーローの収入なら妥当な選択だ。むしろ控えめかもしれない。世間が期待する��成功したヒーロー像�≠�なぞっているだけで見せびらかす意図はない。それでも高級マンションに身売りの女を連れ込む構図が外から見て相当に危ういことは理解していた。

「してないって。ただの事実でーす」
「はいはい」
「いや、そもそもね?あそこを選んだのはセキュリティ面だけの問題で——」
「はいはーい!」

 彼女が茶化すたびに、空気が少しずつ柔らぐ。重たい話題の合間に軽口を挟むのは昔から二人が身につけてきた、距離の取り方だった。路地裏の惨状が遠のき、ただの��飲み仲間�≠ニしての夜に戻りかける。それでもホークスは笑いながらも、視線だけは真剣なままだった。

「でも、行くとこないんでしょ」
「ないよ?」
「じゃあ——」
「そんな王子様の豪邸には可憐なお姫様を呼んであげてください?」

 ホークスは、じっと彼女を見た。数秒の沈黙。奥で大将が皿を洗う水音が、やけに大きく響く。

「王子様の家にお姫様呼ぶの、何がいけないの」
「……え、いるんだ? お姫様」

 彼女が、にっと笑う。いつもの余裕をまとった笑み。ホークスは視線を手元に戻して声の調子を落とした。

「いないよ、そんなの」

 あっさりと言い切った。嘘か本当か判別のつかない声色だった。彼の交友関係を思えば、いても不思議ではない。取材で会う女優、イベントで並ぶアイドル、ファンレターに混じる熱のこもった言葉。選択肢はいくらでもある男だ。素直に信じる方が難しい。それでも、彼女の前でそう言った理由だけは、自分でもうまく説明できなかった。

「私がいるときにさ、お姫様が乗り込んできたら嫌だしねー」

 冗談めいた響きだったが笑いは浅かった。ホークスはそれを聞いて、ふっと息を抜くように笑い立ち上がる。

「会計してくるわ」

 話題を切った。このまま続ければ、自分が何を言い出すか分からなかった。
 彼女の言葉に含まれた距離感。自分が選ばれる側にいないという前提。それに反論する権利も、肯定する覚悟も今はまだ、持ち合わせていない。
 財布を取り出し大将に金を渡す。お釣りはいらないと短く告げると大将は何も言わずに頷いた。戻る途中で深く息を整える。席に戻ったときには顔は、いつもの軽い笑みに戻っていたが、耳の先だけがまだ少しだけ、赤かった。

「ごちそうさまぁ〜、王子様♡」
「お姫様にご満足いただけたなら、光栄です」

 席に座り直して、わざとらしく胸に手を当ててみせる。いつかの夜も見た、芝居がかった仕草。けれど、その目元は少し悲しげだった。さっきの「お姫様が乗り込んできたら」という言葉が胸の奥に引っかかっていた。

「姫扱いしてくれるの?いつも客から風俗嬢扱いしかされないから、ちょっと嬉しいかも」
「嬢扱いしかされないなら、たまには別の呼ばれ方もいいでしょ」

 ホークスはカウンターの椅子の背にもたれて、首を傾げながらさらりと言った。慰めるためでも優しくするためでもない。自分が、そう呼びたいから、そうする。そういう顔だった。その仕草は軽くも見えるが、言葉の底はまったく軽くない。

「でも、私はホークスのお姫様にはなれないよ。程遠い。天国と地獄くらい」

 ホークスは首を傾けたまま、ふうんと短く息を漏らし「天国と地獄ね」と、小さく呟いた。その視線が彼女の手元に落ちる。傷だらけの指。腫れの残る手首。そこに天国と地獄を見ているのか、それとも、自分と彼女の距離をそう呼んだのか。

「で? 来るでしょ?」

 話を戻した。有無を言わせない調子。選択肢を示しているようで最初から一つしか用意していない言い方だった。店の外では風が強まり、暖簾がばたばたと音を立てている。ホークスは絶えず、にこにこしているが、圧は隠しきれていない。

「えー」
「えー、じゃないよ、お姫様」
「……うわ、ずるいヒーローだなあ」
「ずるくないと、ヒーローなんてやってらんないのよ」

 ホークスは再度立ち上がり薄汚れたジャケットを羽織る。面倒なのか他の要因か、前は留めないままで。彼女はそれを見て、そっと目を伏せた。


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