何も幸福にできない恋情を、この世に溢れさせないと決めていたはずなのに——。

 連絡をすれば、きっと返事をくれる。どれだけ時間が経とうと無視したりはしない。そういう人だった。
 本当なら自分たちは曖昧な関係のまま居続けていいわけがなかった。一度も文字を綴らなかったわけじゃない。何度も何度も書いた。最初の一行だけをどうにか埋めて、そこから指が��送信�≠フ上で止まったこともある。『元気にしてる?』と書いては消し、『仕事が忙しくて』と書いては、それを都合のいい言い訳にする自分が嫌になって消した。
 何を書いたって、正解なんてなかった。『会いたい』と書けば彼女をこちらの暗がりへ引き戻すことになるし、『元気でいてください』と書けば自分だけが、彼女の幸せを願う権利を持っているみたいだった。『ありがとう』なんてもっと駄目だ。そんな使い古された言葉で済ませていいほど彼女が俺にくれたものは軽くなかった。

 彼女が笑いかけてくれるたび、これはズルして手に入れたものだと思っていた。
 別れを切り出し、彼女がそれを受け入れて立ち去ろうとしたその間際。咄嗟に腕を掴んだ。振り向いてくれた彼女を見て、もう戻れなくなった。

「ごめん、うそ。なんでもない」

 そう言って、いつも通り笑えばよかったのに。忘れられたくなかった。ほんの少しでも長く彼女の記憶の中で生きていたかった。自分から終わらせたくせにそれだけは手放せなかった。ずるくて醜い、俺の罪だ。
 彼女の危ういほどの優しさに甘えて、俺は今も彼女の瞳に映っている。もしも、あのときの後悔さえなかったことにできるくらい、どうしようもなく運命だったら。あんなズルをしなくても彼女が振り向いてくれるくらい、どうしようもなく、運命だったのなら――。

「どんなことがあっても好きでいてくれます?」

 たった一言で彼女はきっと俺の言いたいことを全部わかってしまう。だから縋るような目をしてほしかったわけじゃない。むしろいつものように何もかも見透かす、あの少し冷たい目で見てほしかった。そうしたらちゃんと諦められる気がしていた。けれど彼女は、いつもと同じように目尻をなだらかにして笑った。

「死なないでね」

 春の明け方に見る海みたいに穏やかな笑顔だった。責められると思っていた。泣かれるかもしれないって。せめて少しくらい、恨んでくれたってよかった。なのに彼女はなんでもないことみたいに笑っている。だから、伸ばしていた背筋が行き場をなくした。
 彼女の指先が頬に触れる。柔らかくて、ほんの一瞬だったのに、その感触だけが残った。
 咎められている気もしたけれど、彼女はそんな顔をしていなかった。ただ、優しい。それがいちばん困った。俺は呼吸さえ遠慮してその場に立ち尽くしていた。

「じゃあね、ヒーロー」

 彼女はその言葉だけを残して、なんとも、さっぱりした調子で玄関のドアを開けた。あまりにも普通で、俺だけが何か大事なものを取り落としたみたいだった。
 ドアが閉まる。彼女がその向こうへ消えていく姿を、一秒たりとも忘れたことはない。

 もしも、もう一度会えるのなら。今度は、その手を絶対に離さない。
 君に会えるなら、俺は何だってやれるから。


 *


「……プレゼンは、以上かな?」

 夏の残熱をわずかに孕んだ風に秋の冷ややかな気配が混じりはじめる夕刻。公安本庁の屋上で、俺はジーニストさんと缶コーヒーを片手に、息を抜いていた。手すりに肘を乗せ、緩んだ手つきで缶を弄ぶ俺とは対照的にジーニストさんは背筋を伸ばしたまま缶を傾けている。
 中身はもうぬるい。買ってから随分経っているし、そもそもホットを選んだ自分が悪い。けれど捨てに行くほどでもないので持ったままでいる。
 以前は俺も同じ土俵に立っていた。ヒーローという肩書きを背負い同じ空を見上げながら当たり前のように人を救う日々。それが今ではヒーロー公安委員長に収まり、ジーニストさんは今も変わらず最前線で命を張る、プロヒーローのままだ。
 背負うものが変わったと言えばそれまでだが、ずいぶん遠い場所へ来てしまったものだ。

 あの最終決戦から、八年。世界をまるごとひっくり返すような大惨事すら過ぎ去ってみれば遠い出来事のように霞んでいく。街はすっかり傷口を塞ぎ、かつての顔を取り戻していた。
 もちろん全てが元の通りというわけじゃない。新しく建て直されたビル群、街角の至るところに増設された避難経路や最新の防災設備。そして、ヒーローという存在に対する世間の目やその在り方も大きく変わった。けれど、人は恐ろしいほど環境に順応していく。昨日まで特別だった景色が十日も経てば日常に溶け込み、一年もすれば最初からそこにあったかのような顔をして鎮座する。そうやって苛烈な記憶すら風化させて世界が少しずつ平らな平穏へと均されていく様子を、俺は、ヒーロー公安委員という静まり返った高い窓からずっと眺めてきた。
 平和になった、と言えば聞こえはいい。実際、その通りなのだろう。凶悪事件の発生率は激減しヒーローが命を張って駆けつけなければならない事態も、あの怒涛の時代に比べればずっと少なくなった。世界は今、ヒーローという存在が、少し手持ち無沙汰になるくらいには、穏やかな時間を刻んでいる。

「それで私に意見を求めるため、わざわざ公安の屋上に呼び出したということか」
「……まあ、ぶっちゃけそんなとこです」
「ならば、最初からそう言えばいい。相変わらず君は回りくどいな」
「いやあ……ジーニストさん相手だと、どうにも前置きを並べたくなっちゃって」
「君のそういうところは昔から変わらないな」
「昔からねえ……」

 缶を傾けながら淡々と言うジーニストさんに、俺は肩をすくめて笑った。けれど、その『昔』という響きが胸に引っかかった。仕舞い込んでいた記憶が、蓋の隙間から顔を覗かせる。まだ背中に大きな翼を広げ、風を切って飛ぶことが当たり前だった頃。仕事を終えて部屋に帰り、玄関で靴を脱いで、ジャケットをそこらへんに置く。たまに「またこんなところに置いてる」と呆れられた。いや……ちゃんと羽織って帰ってきたことを逆に褒めてほしいんだけど。そう思いながら、結局は黙って拾う。
 扉の向こうから届く「おかえり」の声。眠たげだったり呆れた溜め息混じりだったり。それだけで身体に溜まった鉛のような疲労も、泥のようにまとわりついた偽りの自分も、少しずつどうでもよくなった。帰れば彼女がいる。くだらない話をして、腹が減ったと言えば「先に手を洗って」と注意される。帰りが遅すぎて夕飯が冷蔵庫で待機していることもあった。それでよかった。ずっと続くものだと思っていた。それを終わらせたのは他でもない自分なのに。

「ホークス」
「……はい?」
「先ほどから、妙な顔をしているな」
「え?そうですかね。いつも通りの男前な顔だと思いますけど」
「それはどうかな」

 ジーニストさんの視線が俺を穿つ。引退してなお、この人の観察眼は恐ろしく鋭い。俺は追及を逃れるように、秋の空へ視線を逸らした。内面を覗かれそうになると少し斜めに構えて笑って誤魔化す。ヒーローになった頃から染みついた、悪い癖だ。

「昔のことでも思い出したか」
「まあ……そんなところです」
「珍しいな。君が過去を懐かしむとは」
「ふはっ。俺だって人間ですよ? たまにはしんみりと思い出に浸ることくらいありますって」
「それは意外だったよ」

 あまりに平然と言われて思わず「ひどいなあ」と乾いた笑いが漏れた。

「褒めているんだよ」
「はは……絶対うそでしょ。今のどこに褒め要素ありました?」

 軽妙な笑い声が秋の風に混じってそのまま空へ流れていく。いつもの軽口。いつもの、穏やかな夕暮れ時。けれど、一度、胸の奥に引っかかってしまった刺のような記憶だけは、消えてくれなかった。
 俺は缶を口元へ運び冷めたコーヒーを喉に流し込んだ。苦味が舌に残る。——まず。いや、そもそも最初からそんなに美味しくなかった気もする。それでももう一口飲んだ。やっぱり不味い。

「そういや、ジーニストさん。俺って昔、どんな奴でした?」
「今よりも落ち着きがなかった」
「それ、完全に悪口じゃないですか」
「事実を言ったまでだよ」
「もっとさ『情熱的だった』とかにしてくださいよー。じゃあ、今は?」
「今も大差ないかと」
「えぇ〜?そこは『大人になって成長した』って言ってほしいとこですけどねー」

 おどけて肩を竦めてみせたがジーニストさんは乗ってこなかった。ただ視線をわずかに細めて、こちらを見たまま何でもないことのように言う。

「ただし、今の君には昔よりも妙な空白がある」
「空白ぅ?」
「本人が自覚していないなら、それでいい」

 ジーニストさんは残りのコーヒーを飲み干し、缶を指先で弄んだ。俺はそれ以上、何も言えなかった。
 空白——無機質な言葉が耳の奥に残る。毎日、公務に追われ、書類に会議に人事……昔の自分が聞いたら笑いそうな内容で一日があっという間に終わる。空白なんて入り込む隙間、どこにあるんだろう。いや、あるのかもしれないけど。

 顔を上げると澄み渡った秋空が広がっていた。それは、吸い込まれそうなほど高く、どこまでも広い。かつての俺なら、こんな日は真っ先に空へ飛び出していた。風を掴んで羽ばたけば街も人間関係も背負った責任も、全部地上に置いていける気がした。
 今はもう、あの頃のようには飛べない。背中に残るのは、失ったものの痕跡だけ。それでも空を見上げる癖は抜けなかった。そして、青さを仰ぐたびに思い出す。かつて、唯一の『帰る場所』でいてくれた彼女のことを。名前も、顔も、声も。笑うときに少しだけ目尻が下がることも、簡単に思い出せた。たぶん、今だって——。
 そこまで考えて、意識して思考を断ち切る。今さら、八年も前に別れた恋人を思い出してどうする。月日は人を変える。俺だって公安のトップとして場数を踏んだし、それなりに大人になった。誰かと付き合ったこともある。食事をして映画を観て、休日に出かけて。あれはあれで、ちゃんと恋愛だった。たぶんね。
 ただ、『帰る場所』なんて言葉が浮かんだとき真っ先に顔が浮かぶのは、いつだって同じ人だった。あのころの感情とは、まるで違う代物だったけれど。

「そういえば、先日のパーティで君に繋いでほしいと頼まれたことを思い出したよ」

 ジーニストさんがふと何気ない調子で言った。俺は食い気味に、露骨な拒絶を込めて返す。

「あー、興味ないっすね」
「そう言うと思って丁重にお断りしておいたよ」
「あざす。まあ、その手の女性との会話なんて、大体パターンが決まってるでしょ」
「……パターン?」
「『昔から大ファンで!』『ありがと、君もヒーロー志望?』『そうなんですぅ!ぜひ色々教えてくださ〜い』」
「……」
「で、そのあとは酒、ホテル、ベッド、シャワー、朝方にもう一回イチャイチャして最後はタクシー代を渡してサヨナラ。目をつぶれば結末まで全部見えてますって」
「よく回る口だ。私と君が同じ人間という括りにいることすら、不思議に思えてくる」

 俺はわざとらしく肩をすくめて、手の中の缶を指先でくるくると回しながら、どこまでも軽薄を装って続けた。

「素敵な子なんて、ごまんといますよ?可愛い系からセクシー系、知的系もいいかも……あ、でも知的系って、意外と面倒なんですよね。こっちの言葉尻をいちいち拾ってくるから」
「……」
「仕事のできる女性もいいですよね。急な公務で変な時間に呼び出しても、いちいち腹を立てたりしないですし」
「……それは、恋愛の話をしているのか」
「えぇ? 恋愛でしょ。たぶん」
「たぶん」
「いや、ほら……恋愛の形なんて人それぞれじゃないですか。毎日会いたい人もいれば月に一回で十分な人もいる。連絡が欲しい子もいれば放っといてくれる方がいい子もいる」

 我ながら、よくもまあ滑らかに言葉が出てくるものだ。誰が好みだとか、どんな付き合い方が楽だとか、ただの世間話。なのに理想を並べるほど胸の内側に冷たい膜が張っていく。
 可愛い子がいい。頭の回る子もいい。俺の仕事に理解があるなら、なおさら都合がいい。そうやって条件を並べても肝心の『その人』はどこにもいない。
 ——いや、彼女にだって、当てはまるところはあった。可愛かったし頭もよかった。俺の仕事に文句を言わなかったのも事実だ。でもそんな条件で、好きになったわけじゃない。どこへ向かっているのかも分からず、帰る場所さえ見失ったとき暗がりの中に、真っ先に浮かんだのが、彼女の顔だった。ただ、それだけのことだった。

「……して?」

 ジーニストさんの低い声に、引きずり込まれていた思考の沼から、ハッと意識が引き戻されて、「はい?」と、軽い音を立てて返しながら、隣へ視線を向けた。

「君の恋愛観はよく分かった。それで?」
「それで、とは?」

 何を言われているのか本当に分からなくて聞き返す。するとジーニストさんは手の中の缶を弄びながら、こちらを見た。

「その長大な講釈と、先ほどから君が幾度となく空ばかり仰いでいることに何か関係があるのか」
「……」

 ……参ったなぁ。適当に煙に巻こうとしても、ジーニストさんは、煙が晴れるまで黙って待っている。晴れたところで何も言わずに見ているから結局こっちから喋らされる。どう転んでも、敵いそうにない。

「なんすかー。俺、間違ったこと言ってます?」
「……じっくり話を聞くとしようか。君の思いとやらを」
「いいんすか?……あざす」

 大袈裟に頭を下げてみせても、視線だけは秋の空から離せなかった。翼を失って初めて空の遠さを知った気がする。手を伸ばしても届かないものほど、かつてより鮮明に目に焼きつく。
 彼女との思い出を、誰かに話したことはない。名前すら口にしたことがなかった。それなのに、さっきから理想の女性像を語りながら考えていたのは、最初から最後まで彼女のことだった。
 どんな女性が好みか。どんな恋愛なら、都合がいいか。そんな雑談を装いながら俺は自分が何を失い、どれほど取り返しのつかないことをしたのか、傷口を確かめるように撫でていた。
 新しい誰かを、探していたんじゃない。彼女を忘れるために空いた場所を別の誰かで埋めようとしていただけだ。

「確認しておくが、君の昔の恋人は元気なのか」
「……またそうやって、人の傷口に容赦なく塩を塗りますね。知らんですよ」

 なるべく軽薄な声を装って返す。けれど冷えた缶を握る指には知らず知らず力がこもっていた。硬いアルミが掌に食い込む。まあ、今はそれくらいのほうがいい。何かに気を取られていたほうが余計なことを考えずに済むから。

「本当に?」
「ええ。別れてからもう八年ですよ? 俺のことなんか、とっくに綺麗さっぱり忘れて、どこかで誰かと幸せになってるんじゃないですか」

 口にした途端、自分の身勝手さが可笑しくなった。本当は忘れていてほしいと願っていた。俺の存在が彼女の日常を脅かさないように。俺なんかに時間を費やさず、もっと平和で普通の男の人と幸せになってくれればいい。そう思っていたはずなのに、いざ忘れられている可能性を突きつけられると、胸の奥が冷たくなった。
 忘れていてほしい。けれど忘れられていたら、それはそれで嫌なのだ。我ながら勝手な話だ。

「先日、偶然会ったよ」
「……え?」
「君の話はしなかったけれどね」

 屋上を強い風が吹き抜けた。乱れた髪を押さえようとした腕が理由の分からない戦慄に止まる。

「……会ったって、どこで」
「街中だった。詳しい場所まで、話す必要はないだろう」
「いや、まあ……そうっすね」
「元気そうだったよ」
「……そう、ですか」

 それ以上、何を聞けばいいのか分からなかった。
 元気そうだった。その一言で、彼女の姿が鮮やかに蘇る。今もあの頃のように笑うのだろうか。髪は少し、伸びただろうか。俺の知らない誰かと笑い合い、大切にされて、手の届かない場所で、幸せに暮らしているのだろうか。
 それでいい。それが一番いいに決まっている。そうなるように、あのとき自分から手を放したのだから。
 なのに、胸の底から這い上がる感情を無視できない。黒くて、みっともなくて、ひどく身勝手なもの。見ないふりをしたところで、消えてくれるわけでもないのに。

「……よかった」
「それは、本心で?」
「思ってますよ。本気で」
「そうか」

 ジーニストさんはそれ以上何も言わなかった。その沈黙がかえって苦しかった。責められたならいくらでも笑って誤魔化せる。けれど何も言わずに隣にいられると、自分の中の醜い執着ばかりが嫌にはっきりしてくる。

「ホークス。君は昔から他人の都合ばかりを優先して考える」
「……俺、そんなにお人好しに見えてました?」
「自分のことを後回しにするという意味でだが」
「買い被りですよ。俺はもっとずるい男です」
「そうやって、笑って誤魔化すところも含めて、言ったつもりだ」
「困ったなあ……。今日は説教の日でしたっけ」
「説教なんかしたつもりはないよ。忠告だと思ってくれればいい」

 俺は苦笑して肩をすくめた。何を言っても今は余計なことになりそうだった。ジーニストさんは空になった缶を、手の中で静かに潰した。乾いた金属音が、秋の空気に響いた。

「一見強く見える者であっても、内には抱えきれない弱さを潜ませているものだ。本当の力とは、自分にとって、かけがえのない誰かを守るために振るうべきものだろう」
「……」
「君はずっと、それを背負って生きてきた」

 何も言えず押し黙るしかなかった。それが称賛なのか俺の歪みを突く指弾なのかも分からない。ただ、その声だけが胸の隙間に強く残った。
 誰かを守る。それがヒーローとしての存在理由であり、公安に繋がれた自分の使命だった。嘘を重ね、悪役を演じ、守りたい相手の前から消えることさえ必要な犠牲だと思っていた。
 あのときもそうだった。俺が離れれば、彼女は危険に巻き込まれずに済む。俺なんかより普通の人と出会い、穏やかに歳を重ねていける。そうなればいいと願っていた。けれど、守るという大義名分を盾にして人生でいちばん守りたかった人を自分の手で放り出したのも、また自分だった。
 彼女が何か言うより先に、握っていた手を離した。自分が傷つくより先に彼女を傷つけることを選んだ。八年も経った今さら後悔したところで、何になる。俺も、彼女も、もうあの頃のままじゃない。
 そこまで考えて口を閉じた。その先に何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。

「人の心というのは時に本人にすら割り切れない複雑な形をしている。目に見えないものこそ本当に大切なことも多い」
「なんか今日、言葉がやけに骨身に刺さるなぁ」
「君自身が無自覚のうちに、その言葉を引き寄せているだけだ」
「はいはい……そういうことにしときますかね」

 口元を緩めて笑ってみせたが、今度は、自分がどんな顔をしているのかも分からなくなった。
 逃げるように視線を上げた。雲ひとつない秋の空は夕焼け色に染まり、どこまでも高く広がっていた。

「愛してくれない人を愛し続ける時間ほど無駄なものはない」
「ずいぶんとまた身も蓋もない重い話ぶっ込んできますね」
「話はまだ終わっていない」
「……はいはい、拝聴しますよ」
「それでも愛したいと思えるのなら、それはもう純愛と呼んでもいいのではないかと思う」

 今度は冗談めかして笑うこともできなかった。
 純愛——俺の醜いエゴを、そんな綺麗な言葉で飾っていいはずがない。
 彼女を、危険に巻き込みたくなかった。人生を狂わせたくなかった。陽の当たる場所で穏やかな幸せを手にしてほしかった。どれも嘘ではない、本心だった。
 けれど正しさだけで人を救えるわけじゃない。今の自分には、それがよく分かる。あの頃の俺は『正しい決断』という防壁に隠れて傷つくことを恐れ、彼女から逃げ出しただけだったのかもしれない。

「ホークス、過去は過ぎたものだ。今の自分を、信じて進もう」
「今の、自分……」

 口の中で、その言葉を転がす。昔の俺には翼があった。誰より速く飛び誰かのもとへ駆けつけることも、連れて逃げることもできた。今はもう、その力を失った。それでも俺はここにいる。ヒーローではなく、ヒーロー公安委員長として。
 誰かを守る方法が変わったのなら、昔の自分が選んだことまで、同じように背負い続けなくてもいいのかもしれない。

「君に一つ、助言しておこう」
「まだあるんすか?」
「大事なことだよ」

 ジーニストさんが、こちらへ向き直った気配を感じた。手すりに腕を預けたまま横目でその姿を見やる。

「劇的な愛情表現が効果的なのは自分にとっての運命の人が、最愛の人である場合に限られる」
「ちょっと……何言ってるか分かんないっすね」
「すぐには分からなくていい。君は余計なことを考えすぎる」
「それ、さっきからずっと言われてません?」
「空ばかり見ていないで静かに目を閉じてみるといい」
「え?」
「ほら、それならば今すぐにでも実践できることだろう」

 言われるまま、渋々目を閉じた。瞼の裏が暗くなる。視界から秋の空が消えた途端、風の音が、近く聞こえた。遠くで車の走る音がして、どこかから金属の扉が閉まる音もする。屋上なんて今は滅多に来ない場所だからこんな音まで聞こえるんだなと、妙なところに気が向いた。

「最愛の人を思い浮かべて、その相手を三十秒で取り戻す方法を考える」
「……三十秒?」
「チャンスは一度。伝える文章は三つまでだ」
「ずいぶんと無茶な条件すね」
「恋愛に時間制限などない。だからこそ限られた時間で何を言うかに意味がある」
「……」
「——君は誰に、何を伝える?」

 目を閉じたまま黙り込む。最初に浮かんだのはやっぱり彼女の顔だった。
 帰りを待っていてくれた彼女。遅くなった俺に血で薄汚れた俺に、眠そうな顔で「おかえり」と言ってくれた彼女。別れを告げた俺を責めずに、最後に頬へ触れて「死なないで」と笑った彼女。八年も前のことなのに、どれも鮮明だった。
 ……ごめん。ありがとう。忘れられなかった。ずっと好きだった。会いたかった。
 言いたいことはいくらでもある。けれど、三つしか選べない。そう考えると、不思議なくらい、答えは簡単だった。ゆっくり目を開けると、ジーニストさんが、こちらを見ていた。

「……どうやら、決まったようだね」
「ええ、決まりました」

 自分でも驚くほど声は穏やかだった。怖くないわけじゃない。拒まれるかもしれないし、もう、顔も見たくないと思われているかもしれない。
 彼女には、俺の知らない八年がある。それでも今度こそ彼女のためだなんて言い訳をして勝手にいなくなることだけはしたくなかった。

「やったな、ヒーロー」
「……もう、ヒーローじゃないっすよ」

 そう言うと、ジーニストさんは少しだけ、目を細めた。

「ならば、何者として会いに行く?」

 すぐには、答えられなかった。ヒーローでも、公安のトップでもない。剛翼もない。でも今は、彼女を守るためだと理由をつけて、勝手に消えた男でもない。——じゃあ、何者だ。
 手すりの向こうへ目をやる。さっきまで、遠く感じていた空が、今はただそこにあった。
 会いたい人は空の向こうにいるわけじゃない。ずっと地上にいた。俺が勝手に飛び去って置いてきただけだ。

「ただの、一人の男として」

 そう呟くと、目の前のヒーローは、満足そうに頷いた。
 俺は潰れた缶を弄びながら、八年ぶりに彼女の名前を心の中で呼んだ。けれど、声に出すことはまだできなかった。


 *


 秋になりたての風が通りの建物の隙間を抜けていた。夏の熱を残しながら、肌に触れるたびに、ひやりとしたものを忍ばせてくる。
 季節の変わり目の風はいつも少し意地が悪い。昨日まで当たり前だったものを、もう古いものとして置いていくみたいに知らない顔で吹き抜けていく。

 タクシーを降りてここまで歩いてきた。あとは住所を確認して玄関の前でインターホンを押す。それだけのことなのに、階段を上がる速度を妙にゆっくりにして廊下の窓から何度も街を眺めた。逃げたかったわけじゃない。ただ、ここまで来てしまったことを体のどこかがまだ受け入れきれていなかった。
 八年——出会った頃から数えれば、十年近い。それだけの時間を隔てて今さら彼女の部屋の前に立っている。昔なら、もっと簡単だった。羽根があれば窓まで飛んでいけたし、遠く離れていても数分で会いに行けた。今は自分の足で階段を上り踊り場の観葉植物を避け知らない誰かの玄関前を通り過ぎる。
 今さら、何をやっているんだろう。そう思ったのに、なぜだか、嫌いじゃなかった。自分の足でここまで来たことが今は少しだけ、大切に思えたから。

 廊下の突き当たり。表札を確認する。間違っていない。何度も頭の中で繰り返した住所なのだから、間違えるはずもなかった。それでも指先は、インターホンの前で止まった。押せばいいだけ。たったそれだけなのに心臓はひどく静かだった。緊張しているときほど、身体は騒がないものなのかもしれない。その代わり、昔の記憶ばかりが、鮮明になっていく。

 はじめは、狭いアパートだった。無駄なもののない部屋。床に置かれた剛翼をしまう籠。コンビニで買った夕飯。まだヒーローとして未熟だった俺に「ホークスはすごいね、ヒーローだね」と、笑ってくれた彼女。
 あの言葉に何度救われただろう。本人は大したことを言ったつもりもなかったはずだ。俺が勝手に救われていただけ。だからこそ壊した。彼女を守るためだと、自分に言い聞かせて——。
 ヴィラン連合への潜入という命懸けの極秘任務が決まった日。彼女をこれ以上巻き込むわけにはいかなかった。仕事の内容も、これから、どこへ行くのかも、いつ帰れるのかも伝えられない。
 俺と関わっているだけで彼女まで狙われるかもしれなかった。だから、別れを選んだ。

 『もう、あなたを愛していない』

 よくできた嘘だった。今でも、あれほど自分を嫌いになった言葉はない。
 繋いでいた手を、自分から振り払った。彼女が何かを言う前に、その心に背を向けた。引き留めたら、全部が終わらなくなる気がしたから。
 そして本当に終わった。終わったはずだった。

 指先を伸ばし、インターホンを押す。短い電子音が静かな廊下に響いた。押してしまえば、もう戻れない。そんなことを考えていたくせに、戻るつもりなんて最初からなかった。
 足音が近づく。ドアの向こうで気配が動き鍵が回り、扉が開く。彼女が俺を見た。ほんの数秒。
なのに、その間に十年近い年月が全部、詰め込まれていたような気がした。彼女は何も言わず目の前の俺を見つめたまま固まっている。俺も、何を言えばいいのか分からなかった。もっと格好よく登場するつもりだった。久しぶり、と言うのか。元気だった、と聞くのか。それともいきなり謝るのか。ここへ来るまで散々考えたくせに、どれも違う気がした。そもそも、十年近く会っていなかった相手に「元気だった?」なんて聞くのも変な話だ。俺のほうだって、元気じゃなかった時期はそれなりにあったわけだし。いや……今はそんなこと、考えてる場合じゃないな。
 余計なことばかり考えているうちに彼女の顔を見るのさえ、恥ずかしくなってきた。
 変わったなあと思う。当たり前だけど。八年も経っているわけで……髪型も服装も、部屋の中に見えるものも、俺の知らないものばかりだ。それでも目元や口元には記憶の中の彼女が重なった。だから結局、俺は昔と同じように笑った。

「どーも」

 軽く、手を挙げる。間抜けなくらい、いつもの��ホークス�≠セった。けれど、彼女の声を聞いた瞬間、その軽さは簡単に崩れた。

「……なん、で」

 少し震えた声。聞き間違えるはずもなかった。目の前の彼女は、昔と変わらない澄んだ瞳で俺を見つめている。少しだけ大人になった。それくらいは分かる。なのに、その目を見た途端、全部が昔へ戻ってしまった。
 過酷な任務に押し潰されそうだった俺を彼女は笑って抱きしめてくれた。腕の中にいると自分が何者なのか考えなくて済んだ。強くなくても速くなくても誰かを救えなくてもいい。ただ、ここにいていい。そう思わせてくれた人を、自分から、手放した。
 全面戦争が終わり、世界に平和が戻った。その代償に、個性は失われた。もう空を飛ぶことも、羽根を飛ばして、誰かを助けることもできない。
 その頃から、エンデヴァーさんや常闇くんから言われ続けた言葉が、何度も頭の中で蘇る。

『公安委員長としての責務も重かろう。だがホークス、貴様自身の未来はどうなんだ』

『ホークス。あなたはいつも、誰かのために翼を擦り減らしていた。これからは、ご自身の幸福を考えても、誰も咎めない』

 あのときは、言われている意味がよく分からなかった。けれど、実際に翼を失い、もう、背負う必要がなくなったとき、驚くほど簡単に、残ったものが見えた。たったひとつ。それは、身勝手な未練だった。
 世界を救った。たくさんの人々を守った。ヒーローとして、それなりに、意味のあることもしてきた。それでも、彼女のいない世界はあまりにも静かだった。今こうして目の前にいる彼女を見ていると、その静けさが嘘みたいだ。

「あ……あの——」

 彼女が何かを言いかけたので慌てて「待って」と、制した。自分でも分かっている。久しぶりに会った元恋人の言葉を遮るなんて、だいぶ、イカれていることくらい。でも、ここで彼女の言葉を聞いたら、また何も言えなくなる気がしたから。

「なんも言わんで。まずは文章を三つだけ聞いてほしい」
「……文章?」
「お願いだから」

 もっと普通に話せばいい。元気だったかとか、仕事はどうだとか。なのに俺は、ここへ来るまで何度も練習した三つの文章を、どうしても先に、伝えたかった。
 ポケットの中で握っていた手を、そっと出す。歩きながらも階段を上りながらもインターホンを押す前にも繰り返した。なのに本人を前にすると口の中が妙に乾いて仕方がない。

「出会った瞬間、一目で俺は、あなたに恋をしました。(マル)」
「……」
「別れは、間違いでした。(マル)」

 言ってしまえば、驚くほど短い。八年も引きずって、あれだけ、後悔してきたくせに。けれど、俺には、これしかなかった。

「それから——」

 そこで言葉に詰まった。ここだけは、何度練習しても上手く言えなかった。
 彼女を見ると、目が合った。彼女はずっと俺を見ていた。逃げたくなったわけじゃない。ただ、これを言ったら本当に全部を、渡してしまう気がして。

「あなたは俺の一部で、いわば剛翼みたいなものだから。別れたときは個性を失ったみたいな気分でした」

 彼女は、何も言わない。言ったあとになって、やっぱり変だったかな、と思う。もっと他に言い方があったかも。久しぶりに会った人に言う言葉じゃないだろ、これ。

「あ、マルじゃないんで。まだ、(テン)——話の途中です」
「……」
「この八年間、身体の一部を失ったまま歩き回ってたんです、俺は……まだ、テン、ですよ?」

 笑おうとしたが上手く笑えなかった。口元だけが動いて頬が引きつる。たぶん見ているほうからすれば、笑っているのか困っているのかも分からない顔だったと思う。それでも彼女は言葉を遮らなかった。

「本気で取り戻したい。そう思わない日は一度もなかった」

 声に出してしまうと、思ったよりも普通の言葉だった。もっと格好よく言えると思っていたのに映画みたいな決め台詞は最後まで出てこなかった。
 沈黙が、逆に怖い。昔なら、彼女が黙っている理由くらい分かった。怒っているのか困っているのか、何かを言おうとしているのか。長く一緒にいたから、分かっているつもりだった。けれど、今はもう分からない。目の前にいるのは、確かに彼女だ。でも、俺の知らない八年を生きてきた人でもある。それでも、言葉を止めることはできなかった。

「……まだ、テンです」
「……」
「ずっとです。毎日、取り戻したかった」
「……」
「カッコ——今日も綺麗です。本当に」

 彼女の眉が、ほんの少し動いた。それを見て、少しだけ息がしやすくなる。
 ……今のは、笑ってくれたわけじゃないよね。むしろ、何言ってんだこいつ、くらいの顔だった気がする。まあいいか。反応があっただけでも。

「カッコ閉じ。……マルです。文章終わり」

 風が廊下を抜けていく。どこかの部屋からテレビの音が聞こえた。八年ぶりの再会なのに世界はいつも通りだ。車は走るし、誰かは夕飯の支度をしている。そんな普通の一日の片隅で、俺だけが昔の続きを始めようとしている。

「……何か、言ってくださいよ」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。彼女は俯いていた顔を上げゆっくりと俺を見た。

「ホークス……」

 名前を呼ばれただけで胸の奥が痛んだ。嬉しいのか苦しいのかも分からない。ただ、俺の名前をこんなふうに呼ぶ人が、まだ目の前にいると言う事実は確かで。彼女は、小さく息を吐いた。

「この八年間、ずっと会わなかった元彼が突然、連絡もなしに玄関先に現れて、そんなの……何て言えばいいのか、分からない」
「そっか……ですよね」

 当然だ。怒られても、追い返されても、仕方がない。なのに彼女は困ったように俺を見ている。昔ならこの顔を見て、彼女が何を言うのか待てたはずだ。でも、今はその余裕がなかった。

「ちょっと、話せます?」
「……それは、できない」

 はっきりとした拒絶だった。追い返されても、仕方がないと覚悟していたはずなのに、いざ言われると、やっぱり少し堪える。せめてこの落胆が顔に出ていなければいい。

「……なるほど。分かりました」

 笑った、一応。実際に、ちゃんと笑えているかどうかは、もうどうでもよかった。

「なら、考えてみてくれます?」
「……何を?」
「どこかで会うこと」
「……」
「話がしたい。あなたと、話がしたいんです」

 それ以上は言わなかった。今の彼女にこれ以上踏み込む資格がないことくらい、分かっている。
 玄関の内と廊下を隔てる、わずか数十センチ。昔は何でもなかったその距離が今はひどく遠い。だから今はここまでにする。ただ、彼女の目からだけは、視線を逸らさなかった。

「必ず、会いに行くんで」

 昔なら、羽根を広げてでも会いに行けた。今は時間を作り、予定を合わせ、自分の足で来るしかない。でも、それでいいと思った。

「あなたに会えるなら俺は何だってやれるから」

 彼女は何も言わなかった。これ以上困らせないように、一歩下がって「じゃあ」と背を向ける。冷たい廊下を歩き出す。たった数歩なのに、妙に足が重かった。階段まで行って、下まで降りて、外に出る。それで終わり。
 ——終わり。その言葉が昔のことと重なった。けれど振り返らなかった。昔と同じことは、もうしたくない。あのときは振り返れば全部が終わらなくなる気がして、振り返らなかった。今度は、彼女が呼んでくれるまで、自分からは戻らない。

「ホークス」

 背中に、声が落ちた。足を止めて振り返ると、彼女は玄関先に立ったまま、こちらを見ていた。昔と同じ目。でも、昔とは違う距離。彼女が少し困ったように笑う。

「いつも——大袈裟なんだよね、あなたって」

 思わず息が抜けた。八年ぶりに会って、改めて言うことがそれなのかって。でも、なんだか彼女らしくて、笑ってしまった。今度は、さっきまでとは違う笑顔だった。

「そうかも。あなたの前だと、いつも。——ね?名前さん」

 それ以上は、何も言わなかった。口を開けば、余計なことまで、言ってしまいそうだったから。
 彼女も何も言わない。ただ開いた玄関の向こうから俺を見ている。その瞳に昔の俺がまだ残っているのか、それとも、知らない誰かとして映っているのか。確かめる勇気はなかった。
 やがて扉がゆっくり閉じる。彼女の姿が見えなくなるまで見届けてから、ようやく踵を返した。廊下の窓から差し込む夕方の光が、床に、細長く伸びていた。

 八年は思っていたよりずっと長かった。でも、ここまで来るのに、八年もかかったのも事実だ。それなら次は、もう少し短くてもいい。
 ポケットの中でスマホを握り直す。今度は置いていかない。羽根も肩書きも、過去の言い訳も。
 何が必要なのか、まだよく分からない。ただ、自分の足で会いに行く。今は、それだけでいい。


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