小さな喫茶店に入ると、昔と変わらない匂いがした。焼いた小麦とバター、それから少し甘すぎるシロップ。どこか安っぽいホットケーキの匂いだった。今ならもっと美味しいものはいくらでも食べられる。仕事柄、洒落た店に呼ばれることも増えた。それでも俺にとって��ホットケーキ�≠ニいえば、ここだった。
 彼女と二人で一枚を頼んで、半分ずつ分けた。ナイフを入れるたび「そっち、大きくない?」と文句を言われ「誤差でしょ」と笑い結局、最後の一口を彼女に譲った。そんな、どうでもいいことばかり覚えている。
 店内を見回す。壁紙も、カウンターのカップも色褪せたメニューも、あの頃とほとんど変わっていない。そして、あった——。あの席だ。迷わず向かったが先客がいた。向かい合って座る老夫婦が、コーヒーをゆっくり啜っている。別の席でもいい。頭では分かっていた。でも今日はどうしてもここがよかった。俺は二人のもとへ歩いていきできるだけ人当たりのいい笑顔を作った。

「どーもー。おはようございます。急に変なこと言うなって思われるかもしれないんですが、席、替わってもらってもいいです?」

 二人が揃って俺を見上げる。当然だ。朝っぱらから知らない男に席を譲れと言われたら俺だって同じ顔をする。奥さんは俺をしばらく見たあと、旦那さんへ顔を向けた。

「まだ卵が届いてないわね」
「ああ、そうだね」

 会話が再開され、俺の存在がまるごとなかったことにされた。俺は思わず「いやいやいや」と、口を挟んだ。このままじゃ話が進まない。こっちだって、好き好んで朝から見知らぬご夫婦に席を譲ってくれなんて頼んでいるわけじゃない。でも今日ここに来ると決めたときから、この席だけはどうしても譲れなかった。俺は旦那さんに視線を向けて声の調子を上げる。

「わー、いい帽子ですね。それ、すごく似合ってます。おしゃれ。俺、そういうの似合わなくて。ほんと羨ましいなぁ」

 旦那さんが困惑した顔で帽子に触れる。そりゃそうだ。席を譲ってくれと言ってきた男に、いきなり帽子を褒められても困るだろう。
 沈黙が落ちた。奥さんは卵を待っている。もう観念して、その場にしゃがみ込み、二人と目線を合わせた。

「……事情を話します。実はその。ここ、すごく特別な席なんですよ」

 二人の視線が、こちらへ集まる。ようやく話を聞いてもらえそうだ。

「ここのテーブルで、俺、よく……知り合いと、ランチしてまして」

 自分で口にした途端、胸の奥が、少し痛んだ。昔は「彼女と」と言えば、それで済んだ。名前を出す必要も考える必要もなかった。隣にいるのが当たり前だったから。

「任務……いや、仕事で疲れて帰ってきた俺に、その人がここで、キスしてくれたんです」
「……」
「……そう! それが、まさにこの席」

 俺はそう言ってテーブルを指差した。自分でも何を力説しているんだと思う。朝から、老夫婦を相手に何をしているんだ。でも止まらなかった。

「それに俺が『ヒーローが暇を持て余す世の中にしたい』って夢を語ったのもここで。今よりずっと忙しくて、毎日くたくただったけど、いつか、そんな日が来たらいいね、って」

 ふと思い出す。大きなことを言う俺に、彼女は呆れた顔をしながらも、最後には頷いてくれた。彼女の前では、どんな夢だって口にできた。

「それで……閉店まで語り合って、お互いを支え合って頑張ろうって、何度も言い聞かせて……」
「……」
「でも、無理でした」

 声が少し落ちた。あの頃の自分は二人で頑張ることよりも、彼女を遠ざけることのほうが彼女のためだと思っていた。それが正しいと思っていた。だから、手を離した。

「それから八年経った今日、ここで、俺と会ってくれることになったんです」

 まだ、会うと決まったわけじゃない。彼女は、あのあとに連絡をくれて『考えてみる』と言っただけだ。それでも、もしも、来てくれる可能性が一パーセントでもあるなら、ここにいたかった。

「だから、この席が必要なんです」

 老夫婦は、ゆっくりと顔を見合わせた。固唾を呑んで待つ。やがて奥さんが、俺の顔を、じっと見つめた。

「あなた、ホークスね?」

 そこでようやく思い出した。自分が何者かを。席を譲ってもらうために、帽子を褒めたり、聞かれてもいない恋愛話を必死に語る必要もなかったのだ。

「あー......そっか。ええ、そうです」
「なら、このナプキンにサインして?」
「……あ、ええ! もちろん」

 奥さんの目が、少し輝いた。俺は懐からペンを出す。まさか、こんなところで役に立つとは思わなかった。
 ナプキンにサインを書いていると、旦那さんが手元を覗き込んできた。久しくも、サインなんて今まで、何枚書いたか分からない。それなのに、さっきまで席を譲ってくれと頼み込んでいた男が今はサインを書いているのが妙に可笑しかった。人生、何が起こるか分からない。

「行きましょう、あなた。この席が、いいんですって」
「ああ、そうだね」

 老夫婦が、ゆっくり立ち上がる。俺は咄嗟に、奥さんのほうへ手を差し出した。

「——あっ。手、貸しますよ。モタモタしてると彼女が来ちゃうんで……なんてね」
「それは、急がないとねぇ」
「はは……そうなんすよぉ」

 握った手は思っていたより小さかった。指先も細くて、俺の手の中にすっぽり収まる。俺はその手を一度しっかり握ってから離す。

「……あの、すみませんでした」
「いいのよ」
「助かります。本当に」

 旦那さんと目が合うと相手も笑って、釣られて俺も笑った。こういう時だけは昔と変わらない。変に格好をつけて後から自分で恥ずかしくなる。
 二人の荷物を持ち、後ろの席へ移るのを手伝った。奥さんのバッグは思ったより重かったけれど何が入っているのかは聞かなかった。

「ほんと、ありがとうございます」
「いや、お礼を言うのはこっちだよ」

 旦那さんが、俺の肩を軽く叩いた。その視線の先では、奥さんが席に座り、サインを書いたナプキンを丁寧に折り畳んでバッグにしまっていた。その手元を見て少しだけ救われた気がした。個性をなくした元ヒーローだとはいえ、こんな、馬鹿みたいな頼みを二人は聞いてくれたのだ。

「彼女、ちゃんと来るといいわね」

 奥さんの言葉に俺は少し黙ってから「はい」と答えた。
 二人が座っていた席に戻り椅子を引く。さっきまで人がいた場所に、まだ温度が残っている気がした。テーブルの上には紙ナプキンとメニュー。彼女は、まだ来ない。

「すみません、ホットケーキ一つお願いします」
「ホットケーキですね。お飲み物は?」
「……えっと、じゃあとりあえず、コーヒーで」

 彼女は、この店のホットケーキが好きだった。俺が先に食べると怒るくせに、最初の一口だけはいつも俺にくれた。そんなことまで覚えている。いや、そんなことしか、覚えていないのかもしれない。記念日や旅行よりも、テーブルで重なった指先や、シロップをかけすぎたホットケーキ。
 仕事から帰った俺のヒロスのジャケットを彼女が脱がせてくれた夜。そんな何気ないことばかりが今も鮮明に残っている。世界を救った日のことより、二人で分けた一枚のホットケーキのほうが八年経った今も、ずっと近くにあった。

 入り口を見る。この位置なら彼女が来てもすぐ分かる。時計を見る。まだ、早いかもしれない。そもそも何時に来るかなんて聞いていない。それでも時計を見てスマホを確認する。通知はない。また入り口を見る。誰も来ない。……落ち着け。待ち合わせの時間が決まっているわけじゃない。そう自分に言い聞かせていると、ホットケーキが運ばれてきた。

「お待たせしました」
「あ、どうも」

 皿が置かれ甘い匂いが広がる。湯気の向こうに昔の景色が滲んで、俺はナイフを持ったまま手を止めた。
 もし、来てくれなかったら。そう考えるたび、胸の奥がざわつく。
 八年も経っているのだ。俺から勝手に別れて、勝手にいなくなって、勝手に戻ってきた。彼女に俺を待つ義務なんてない。本当に来ないかもしれない。それでも——。
 ナイフを置いたそのとき、カラン、と入り口のベルが鳴った。心臓が跳ね上がり、反射的に顔を上げると彼女がいた。立ち上がりそうになる体を椅子に押し戻し、軽く手を上げる。

「どーも」

 声は出た。だが表面上、落ち着いているふりをしているだけで内側はまるで駄目だった。彼女が歩いてくる。笑っていたとは思う。たぶん。でも足先は落ち着かないし手の置き場も分からない。
 コーヒーカップを持とうとしてやめ、ナイフを持ち上げかけては置く。位置が気になって、少しだけ端へ寄せた。
 何やってんだ、俺……もう一度、彼女を見る。来てくれた。それだけで、どうしようもなく嬉しかった。八年ぶりにたった一度ここへ来てくれただけなのに。しかし——。

「今さら何の用?元・トップヒーローさん。どういうつもり? 私はもうあなたのファンの一人に過ぎないのに」

 彼女は席につかず、立ったまま矢継ぎ早に言った。ひとつひとつの言葉に薄い棘があり八年分の時間を一度に返されているようだった。
 俺は黙って彼女を見上げた。昔ならこんなふうに怒った彼女を笑わせようと、すぐ軽口を挟んでいただろう。重い空気が嫌で眉間の皺をどうにか伸ばそうとした。でも今日はしなかった。そんなことをしていいほど、今の俺たちは、近くない。
 テーブルの端に置かれた彼女の指先が、ほんの少し震えていた。何度か小さく動いて、それから止まる。言いたいことを、我慢するときの癖だ。気づかないふりをするには俺は彼女を知りすぎていた。
 怒っている。困っている。当然だ。八年ぶりに別れた男が、何の連絡もなく玄関先に現れ、その数日後には昔よく来た店で待っている。逆の立場なら普通に警察を呼ぶ。それでも、彼女はここへ来てくれて今も目の前に立っている。そのことがどうしようもなく、嬉しかった。

「ファン、なんですね……」
「……何よ」
「いや、嬉しいなって」
「……は?」
「もうヒーローでもなんでもない俺のこと、まだ��ファン�≠チて言ってくれるんだなぁって」

 勝手に緩む口元とは反対に彼女の眉が寄った。

「ほんと……そういうところ」
「どこ?」
「そうやって、すぐ人の懐に入ってくるところ」

 ああ、懐かしい。その言い方まで、昔と変わらない。距離を詰めるたび、彼女は、嫌そうな顔をした。それでも、本当に嫌なら逃げればいいのにいつもその場にいてくれた。
 今はどうだろう。そんなことを考えたところで口が勝手に動いた。

「綺麗ですよ」
「……はぁ?」
「今日も。本当に——マル」

 彼女の表情が固まる。俺も少し困った。これは三つの文章に入れていない。そもそも文章ですらない。完全に、予定外だ。
 でも、本当に綺麗だったから。髪型も服装も、顔つきだって昔とは違う。それでも、目を見れば分かった。八年経っても、俺の知っている彼女がそこにいる。それが嬉しくて、言わずにはいられなかった。

「誤魔化さないで」
「……」
「突然、あんなふうに押しかけてくるなんて……少しはこっちの気持ちも考えてよね」
「うん」

 素直に、頷いた。謝ればいいのかもしれない。でも、それだけじゃ足りない。何を言っても足りない気がして、まずは彼女の言葉を受け止めた。

「謝りに来たわけじゃないんです。いや……謝りたいことは、山ほどあるけど」
「じゃあ、何?」

 答える前にテーブルに目を落とす。手付かずのホットケーキからまだ少し湯気が上がっていた。皿の端まで流れたシロップを見て、昔、彼女に、「かけすぎ」と言われたことを思い出す。そんなことまで、八年経った今も覚えている。

「身勝手にあなたの手を離して、傷つけて、何も説明しないままいなくなった。最低な男だったと思ってます」

 口にすると思っていたより簡単だった。だからこそ、今まで言えなかったのかもしれない。
 あのときは彼女を守るつもりだった。ヴィラン連合への潜入が決まり、任務がどれだけ危険か、自分でも分かっていた。絶対に巻き込むわけにはいかない。そう思っていた。
 でも、本当は、彼女が俺を好きでいてくれると信じる勇気がなかった。何も言わずに別れれば、いつか俺を嫌いになれる。俺がいなくなっても、生きていける。そんな、都合のいい理屈を、正義みたいな顔で抱えていた。彼女を信じるよりも、自分で彼女の未来を決めた。そのほうが、俺には楽だった。傷つけるのも、嫌われるのも、彼女が先へ進むために必要なことまで全部自分で決めてしまえばいい。今思えばずいぶん偉そうな話だ。
 顔を上げ彼女の目を見る。逃げたくなるくらい真っ直ぐに彼女は俺を見ていた。昔みたいに俺を信じてくれている目ではない。でもそれでいい。今度は俺が、この目から逃げない番だった。

「でも今日はそれだけを言いに来たんじゃない」
「……」
「もう一度だけ、あなたに会いたかったんです」

 翼を失った背中は驚くほど軽い。昔なら大きなあの翼が、前へ押してくれた。飛べと言われれば飛べたし、逃げろと言われればどこまでも遠くへ行けた。
 今は飛べない。だからこそもう逃げない。目の前にいる彼女からも、自分の気持ちからも。

「……なに? もしかして、死にかけてるの?」
「え?」
「死期が、近いとか?」
「いや、全然」
「でしょうね……そんなはずないよね。だって、キラキラしてるもん」

 彼女が目を細めて、俺の顔をじっと見る。
 なんだろう……久しぶりに会った元彼に向ける顔として、それはどうなんだろう。もっとこう、感動とか、涙とか。いや、そんなものを期待していたわけじゃないけど。

「お肌もすべすべだしさ。ほんと、ムカつく」
「……そこ?」
「そこ」

 彼女の口元が少し緩んだ。八年ぶりに見た笑顔だった。ほんのわずかでも、見間違えるはずがない。彼女が笑うと一日の疲れが消えた。靴を脱ぐのも面倒なほど疲れて帰った日も、彼女がくだらない話をして笑っていると、もう少し、頑張れる気がした。今も何も変わっていない。いや、変わっていないのは、たぶん自分のほうだ。

「今日は、いい加減にしてって言いに来ただけだから」
「うん」
「……本当に、それだけ」
「わかりました」

 だが、どうやらすぐ帰るわけではないらしい。椅子を引く音がして、彼女が向かいに腰を下ろした。テーブル一枚分の距離なのに玄関先で向かい合っていたときよりも近く感じる。ただ、ホットケーキには、手をつけない。フォークもナイフも持たず、皿を見つめている。食べればいいのに。
 いや、俺が勝手に頼んだのだ。昔は好きだったから、なんて理由で。八年経っても好きとは限らないし、好みを覚えていること自体ちょっと怖いかもしれない。そんなことを考えていると店員が小さな皿を持ってきた。

「お待たせしました。追加のバターです」

 皿が置かれると、彼女がそれを凝視した。少し目を見開き、それから、あの頃と同じように眉を下げる。

「……ずるい」
「何が?」

 彼女が「これ」と、店員が持ってきたバターを指差した。当たり前のように「いつも追加してたでしょ」と笑って返すと、彼女はこちらを見た。

「覚えてたの」
「覚えてますよ」
「……」
「だから、先に頼んでおきました」

 彼女が怒っているような呆れているような顔をする。その奥にほんの少しだけ、昔の色が戻った気がした。

「……人たらし」
「慣れてるんで」

 そう答えると彼女は諦めたように息を吐いた。その仕草まで懐かしい。こんなふうにくだらないことで会話ができる日が来るなんて思ってもいなかった。俺は目の前のバターを見つめた。小さな四角い塊。たったそれだけの物が八年分の時間を簡単に溶かしてしまう。
 俺たちはまだ同じ匂いを知っている。同じ味を覚えている。それなら、失ったもののすべてが、なくなったわけじゃないのかもしれない。そんなことを思う自分を、もう止めなかった。


 *


 黙々と、ホットケーキを頬張る彼女を、頬杖をついて眺めていた。ナイフで切る大きさも、口へ運ぶ速さも昔とほとんど変わらない。甘いものを食べているときだけ少し無防備になるところも。
 口元にシロップがついている。教えてあげようかと思ってやめた。昔みたいに指摘したら、今はたぶん、怒られる。
 俺だけが勝手に歳を取って遠くへ行って戻ってきた。なのに彼女は今、目の前でホットケーキを食べている。それだけのことがどうしようもなく嬉しかった。

「その食べっぷり、いいすね。トラックの運転手並みの」
「それ、そっちのことでしょ」
「え?」
「食べるのが速いの。いつも秒でなくなってた」
「ああ、そうだったかも?」

 思わず笑い、コーヒーを一口飲む。苦いのに、笑いが消えない。同じテーブルで、彼女とホットケーキを食べている。それだけで胸が満たされていく。
 やがて視線に耐えかねたのか彼女がフォークを皿の端へ置いた。

「……何?」
「ん? 何が?」
「ずっと見てるでしょ」
「見てました?」
「見てた」
「そっか」

 否定する理由もない。彼女は、少しだけ呆れた顔をして、それから、小さく息を吐いた。

「なんで今さら、会いにきたわけ?」

 ——なんで。本当は、何度も考えてきた。
 仕事が落ち着いたから。昔のことを、整理したかったから。久しぶりに顔を見たくなったから。もっともらしい理由は、いくらでも用意できた。でも彼女を前にすると、どれもいらなくなった。俺はカップを置き、まっすぐ彼女を見る。

「あなたを、忘れられなくて」

 八年分の後悔も寂しさも会いたかった気持ちもその一言に押し込めるしかなかった。
 彼女は、フォークを置いたまま、こちらを見ている。だから、目を逸らさなかった。

「俺、全部失ったんですよ」

 背中に意識を向ける。もう、翼の重みはない。昔は椅子に座るにも邪魔なくらい大きくて、狭い部屋では彼女に「また羽ぶつけた」と怒られた。寝返りを打てば、布団からはみ出すし、洗濯物を干す場所だって取った。あれだけ、生活の中では邪魔だったものがなくなってみれば、妙に静かで少しだけ、心細かった。

「翼も地位も、ヒーローとしての未来も」
「……」
「まあ、肩書きは残ってますけど」

 少し笑ってみせる。公安委員長としての仕事もあるし今も必要とされている。「全部失った」は正確じゃない。それでもあの頃の自分を形作っていたものが、ひとつずつ消えていったのは、確かだった。

「でも、それも別に大したことじゃなかったんだなって」
「……ホークス、」
「うん」

 名前を呼ばれて、続きを急かされた気がした。けれど、うまく言葉が出てこない。それでもなんとか、言葉を紡いでいく。

「全部なくなって、最後に残ったのは、あなたと一緒にいた頃の自分だった」
「……」
「ヒーローになる前でも、なったばかりの頃でもなくて……あなたに『おかえり』って言ってもらってた頃の俺」
「……」
「俺の初恋は、最初からずっと名前さん、あなただけなんですよ」

 昔は、どんなことでも、それらしく言えた。
 大丈夫。俺に任せて。何も心配しなくていい。そう言えば、たいていのことは、丸く収まった。でも今は背中に羽根もないし、彼女を安心させる言葉もない。だから飾らずにそのまま伝えるしかなかった。

「……だから、会いたくなったんです」

 彼女は何も言わなかった。ただ、そばにあった水のグラスへ手を伸ばし、中身をほんの少しだけ口に含む。その横顔が少しだけ寂しそうに見えたのはきっと、気のせいなんかじゃない。

「ずいぶん勝手だね。八年も経ってるのに」
「うん、知ってます」
「今さら?」
「今さらです」
「……ずるい男」

 彼女は困ったように眉を下げた。昔と同じ顔。でも、昔と同じには戻れない。それくらいは分かっているから俺は返事を待った。店の奥で食器が重なり、誰かが笑っている。そんな中、俺だけがヒーローをやっていた頃よりも、緊張していた。

「今さら、そんな顔で現れて……」
「そんな顔って?」
「……知らない。鏡で見てみれば?」
「持ってます?鏡」

 彼女がグラスを置く。俺はテーブルの上の自分の手を見た。昔より少し痩せて、骨ばっている。けれどこの手はまだ覚えているのだ。彼女の手を握った感触も、自分から、離したことも。

「……とにかく。会わなかった期間のこと、全部最初から聞かせてくださいよ。ね?」

 そっと手を差し出してみた。彼女はそれを見たけれど、握り返さなかった。代わりに少し姿勢を正して言った。

「……今は、総合病院で看護師長になったの」
「わぁ。看護師長?そりゃすごい。看護師さんの中でもトップってこと?」
「まあね。優秀な、すご腕ってところかな」
「でしょうね」

 彼女が少し胸を張って言うから思わず笑った。この人ならきっとそうなる。人の痛みに気づける人だった。俺が黙っていても疲れを見抜き無理をしているときは何も聞かず隣にいてくれた。人を助ける仕事が似合わないはずがない。

「じゃあ今は、仕事人間? 忙しいんだ?」
「うん。それなりにね」
「休みは取れてる?」
「取る努力はしてる」
「偉い」
「あなたに言われたくないけどね?」
「そこは、まあ……昔の俺よりは、だいぶマシになりましたよ?」

 俺は笑ったけれど、彼女は何も言わなかった。それでも、さっきより空気が柔らかくなった気がして、また少し嬉しくなった。

「また話せて、嬉しいですよ。ほら……なんだかあの頃に、戻ったようでさ」

 それはあまりにも自然に出た言葉だった。その瞬間、彼女の表情が止まった。「あの頃、ね」とその声で、間違えたと気づいた。彼女の目から、さっきまでの柔らかさが、少しずつ消えていく。思わず喉の奥が詰まった。

「……あの頃、何があったか忘れたの?」
「いや——別に、そういう意味じゃなくて」
「やっぱり、来なきゃよかった」
「え?」
「来たのが間違いだった」

 彼女はそう吐き捨てたきり、食べかけのホットケーキを残して椅子を引き、荷物をまとめて立ち上がった。

「帰る」
「え、ちょ。待って、名前さん」
「さよなら」
「いや、ちょっと待ってって」
「もう話すことないでしょ」
「ありますって」

 彼女は俺を置いて店を出た。慌てて会計を済ませ、店を出て追いかけると秋の風が頬を撫でた。彼女は振り返りもせず駅の方角へ向かって歩いていく。

「名前さん!」

 呼んでも、止まらない。ヒールの音が、一定の間隔で響いていた。人の流れに紛れていく背中を追う。

「もぉー......相変わらず、ヒールでも足が速いんだから」

 息を切らしながらも追いついたのは、駅の階段だった。彼女はそのまま改札を抜けて、隙のない足取りでホームへ向かう。

「ほんと、待ってってば」
「ほっといて」
「いや、ほっとけないでしょ」
「私はもう、あなたと関係ないんだから」

 その言葉が思ったより深く刺さった。それでも追った。電車が入ってくると、彼女が乗り込む。そのあとを追って俺も続いて飛び乗った。車内は思ったよりも混んでいた。彼女は人の間を縫って奥へ、奥へと進んでいく。

「ちょっと、ほんと止まってって」
「着いてこないで」
「俺はただ、あなたと話がしたくて——」

 その瞬間、彼女が足を止めた。俺も反射的に、足を止める。怒っている。でもきっと、それだけじゃない。

「……別れたときの、話をしたいの?」
「……」
「一方的に突っぱねたんでしょ。理由も言わずにそっちが」
「……分かりました」

 俺は頷いた。今度こそ目を見て話したかった。人の流れを避けて彼女の正面に回りその腕へ手を伸ばす。触れた瞬間、彼女の身体が強張った。
 昔ならもっと自然に触れられたはずのに。恋人だったから。今は違う。それでも——。

「じゃあ、その話をしましょ」

 しかし、手を振り払われて、彼女は車両の奥へ歩いていってしまった。そして、少し離れたボックス席に、腰を下ろすのが見えた。ようやく辿りつくと、彼女が声を絞り出す。

「あなたとはもう、話したくないの!」

 俺はその場に立ち尽くした。窓の暗闇に映った自分の顔が、ひどく、間抜けに見える。あんなに考えてきた。どうすれば、もう一度会えるのか。何を言えば傷つけずに済むのか。今度こそ失わずにいられるのか。それなのに、また彼女を、追い詰めている。
 彼女の隣には座れずボックス席から少し離れた場所に腰を下ろして、ゆっくり息を吐く。

 八年前——彼女を守るためだと言って離れた。今度は拒まれると分かっていても、ここにいる。
 それが正しいのかは分からない。ただ、彼女の「もう話したくない」という言葉だけが、いつまでも、胸の奥に残っていた。


 *


『——車両故障のため運転を見合わせています。復旧まで、もうしばらくお待ちください』

 車内アナウンスを、ぼんやり聞き流しながら、こちらに背を向けて座っている彼女を見ていた。
 細くなった肩に、少し伸びた髪。膝の上で手を重ねる仕草は昔と同じだ。けれど、この人は俺の知らない八年を生きてきた。
 隣では老人がずっと俺の肩に頭を預けて眠っていた。そろそろ限界だ。起こさないようにそっと隣の席へ戻してから立ち上がる。
 もう話したくないと言われた。それでも、目の前で困っている人を、「嫌だと言われたから」と放っておくなんて元ヒーローとしてできるはずがない。まあ、今回の相手は、俺を困らせている人でもあるけれど。
 今度は、迷うことなく歩いて行き、彼女の隣に座る男性へ声をかけた。

「すみません。そこ、変わってもらえません?」

 男性は、俺と彼女を見比べ、小さく頷いて立ち上がった。
 男性がいなくなると彼女からものすごい形相で睨まれた。当然だろうと思う。だから、言い訳はしない。

「……横、いいです?」

 一応、伺いを立てる。彼女はしばらくこちらを見てから窓の方へ視線を逃がし、小さく頷いた。「ありがと」と言って隣に座る。肩が触れるほど近くもないのに、心臓が妙に落ち着かなかった。
 横目で見ると、彼女の右手の親指が左手の爪を何度も擦っていた。

「……不安なんですよね。昔から、そういうとき爪を噛む癖があるから」

 俺の指摘に、彼女が、ハッとしたように口元に運ぼうとしていた手を引っ込めた。

「……まだ、覚えてたの」
「覚えてますよ」

 忘れられるわけがない。彼女のことだけは忘れようとしても、忘れられなかったのだから。

「閉じ込められるの、苦手ですもんね。軽い閉所恐怖症って診断されたとき、泣いてましたもん」
「泣いてない」
「泣いてました」
「泣いてないって」
「めちゃくちゃ泣いてましたよ」
「……うるさいなぁ」

 彼女の頬が小さく膨らむ。その仕草や表情まで懐かしくて笑いそうになるのを堪えた。そして、できるだけ、穏やかに伝える。

「狭いところですけど、大丈夫ですよって言いにきただけです」
「……」
「故障が直れば、電車もすぐ動きますから」
「……」
「オッケー?」

 彼女は少し考えて、小さく頷いた。それだけで満足だった。昔も俺が「大丈夫」と言えば、完全には信じていなくても頷いてくれたから。
 しばらく沈黙が続いた。空調の低い音と、人の気配だけが、止まった車内に満ちていく。彼女が話したくなるまで、待とうと思った。昔はそれができなかった。守るためだと決めつけて、彼女の気持ちを聞きもしなかった。だから今度は、俺が待つ番だ。

「……サイドキックの皆さんは、元気?」

 沈黙に耐えかねたころ、彼女がようやく、口を開いてくれた。驚いて横を見ると、その横顔は、意外なほど穏やかだった。嬉しくて声が弾んだのを、気づかれないといいけれど。

「え?あ、うん……元気ですよ。絶好調。うちの一人なんて、婚約までしましたしね。相手の方もすごくいい人みたいで」
「わあ、素敵」
「ね。幸せですよね。ほんと、よかった」

 もう、サイドキック本人には、お祝いの言葉を伝え終えているのに彼女とこうして話しているとまた嬉しさが込み上げてくる。そうして、彼女は小さく笑って続けた。

「常闇くんは?」
「元気ですよ。ダークシャドウも相変わらず」
「そう」
「今じゃ、俺よりずっと落ち着いてますけどね。あの子、昔から真面目だから」
「ふふ」

 その笑い声に、張り詰めていたものが少しずつ緩んでいく。

「じゃあ、エンデヴァーは?」
「わー、そっち行く?」
「何で? だめ?」
「いやあ、なんでそこに行くかなあって」
「あなたの大好きな轟エンジさんのことでしょ」
「その呼び方〜」

 思わず顔をしかめると、彼女が、周りを気にしながらも声をあげて笑う。俺もつられて笑った。

「もう、ほんとやめてくださいよー。俺、あの頃からずっとその呼び方、嫌だったんですけど」
「えー、知らなかった」
「今、知ってください」

 止まった電車の中、八年間途絶えていた会話が少しずつ、昔の調子を取り戻していく。世界から二人だけが取り残されたような時間も、今は悪くなかった。このまま話していられたらそれだけで十分だと思った。

「……そういや、お母さん。具合、あんまりよくないんでしたっけ? 大丈夫ですか、いろいろ」
「……え?」
「ん?」
「どうして……知ってるの?」

 彼女の笑顔が消えた。——しまった。完全に、やらかした。さっきまであんなに穏やかに話していたのにたった一言で空気が変わってしまった。
 目が合い、咄嗟に視線を逸らす。「それは」と口を開いたものの肝心なところで言い訳が浮かばない。普段ならいくらでも言葉が出てくるのに、こういうときに限って頭が回らないのはいったいどういうわけだろう。

「えっと……実は、あなたとは、SNSで友達なんです」
「違うでしょ」
「いやっ! 友達、なんですよ……」
「そんなはずない」
「あー......」

 ですよねぇ。そうなりますよね……彼女の疑い深い目を前に、俺はとうとう観念した。ここまで来て誤魔化し続けるのも無理がある。そもそも、最初からこんな嘘をつかなければよかったのだ。
 わかってはいるけれど、八年分の未練を前に、そんな殊勝な判断ができていたら苦労はしない。

「えーっと……『空野(そらの)ツバサ』。ほらぁ、あの、アカウント名」
「え?」
「あれ、俺」
「は? あの、毎回コメントくれた……」
「そう。あれ俺です」
「うそ」
「ほんと」
「嘘でしょ」
「本当ですって」

 彼女の顔が、みるみる呆れ顔に変わっていく。自分でも何を言っているんだろうと思う。けれどここまで白状した以上、今さら引き返すわけにもいかなかった。

「あなたのこと知りたくて偽のアカウント作って偽名使ってちょっとずつ近況とか覗いてました」
「……うそでしょ。信じられない」
「いやぁ、それがほんとのほんと」

 彼女はとうとう、頭を抱えた。そりゃそうだ。八年ぶりに現れた元恋人が実はずっと別人のふりをしてSNSにいたなんて、俺だって聞かされたら頭を抱えるレベルだ。
 いや、むしろもっと怒っていい。自分でもそう思うくらいには、なかなか卑怯なことをしている自覚があった。

「……あなた、空野ツバサさんなの?」
「うん」
「あの、プロヒーローを目指してて、北海道が、出身って言ってた人?」
「そうそう」

 俺は妙なところで胸を張った。そこまで覚えているのかと思わず感心しかけたが、今は感心している場合じゃない。どうせ、ここまで呆れられているのならいっそ最後までやり切ってしまおうと彼女の顔を覗き込んだ。

「初めまして。やっと会えましたね」
「……最低。何が『初めまして』よ」

 なんとも呆れ切った声が返ってきた。それでも俺は笑っていた。彼女がこんなふうに呆れたり、容赦なく俺を罵ったりするのがたまらなく懐かしかったから。もちろん怒らせたいわけじゃない。できることなら、もっと、まともな再会の仕方があったはずだ。それでもこうして同じ場所で言葉を交わし、昔みたいに呆れた顔を向けてもらえることが、どうしようもなく心地よかった。
 そのとき、車内の照明がふっと明るくなった。暗がりに沈んでいた乗客たちの顔が浮かび上がり止まっていた時間が、ゆっくり動き出すように、車内の空気も変わっていく。続いて頭上のスピーカーからアナウンスが流れた。

『大変お待たせいたしました。まもなく、運転を再開いたします』

 車内に安堵の声が広がり、子どもが嬉しそうに笑う。やがて、電車が小さく揺れ、窓の外を光が流れ始めた。その隣に、彼女がいる。たったそれだけのことが、長い旅の終わりみたいに思えた。けれどこれは終わりじゃない。ようやく始まったのだ。

「よかったですね。もう安心だ」

 笑いかけると、彼女も小さく頷いた。俺は膝の上で手を組む。話したいことは山ほどある。八年分の空白を埋めるには、今日一日じゃ足りないだろう。それでも、もう逃げるつもりはなかった。

「とにかくさ……わかって欲しくて。俺は変わりました。あの頃とは違います」
「……」
「昔みたいに勝手にあなたのためだって決めつけて、何も言わずにいなくなったりしない」

 口にした言葉は自分自身への約束でもあった。
 あの頃の自分は、彼女を守ることばかり考えていた。けれど、守ることと遠ざけることは違う。ただ自分が傷つくのも、彼女を失うのも怖かったのだ。

「あなたと別れてから一度、実家に戻ったの」

 彼女は窓の外を見たまま、静かに話し始めた。俺の知らない八年間——俺がいなくなったあと、彼女がどんな朝を迎えて、どんな夜を越えてきたのか。

「たくさんのクズ男とデートして、全部ダメで。それから、塞ぎ込んでた。長いことね」

 長い月日、何ひとつ知らないし、知ろうとすることもできなかった。だから今は聞くしかない。
 自分がどれだけ傷つこうと、彼女が俺のいない場所で生きてきた時間を、受け止めたかった。
 しかし彼女は、窓の外を眺めたまま、穏やかな声音で続けた。

「だけど、今は幸せ」
「……」
「仕事も気に入っているし。レンガが剥き出しのアパートも好き」
「レンガとか、好きでしたよね」
「うん。大好き」

 その返事に思わず笑みがこぼれた。壁紙の剥がれた古い部屋を見つけては「こういうところが、いちばん落ち着く」と言っていた。
 休日の朝、二人でコーヒーを飲みながら窓から差し込む光が、レンガの凹凸をなぞっていくのを眺めたこともある。誰に話しても、大したことのない、そんな記憶ばかりが残っている。
 大きな出来事より何気ない日々のほうがずっと忘れられないらしい。

「——で。やっと、いい人と出会えた」

 彼女が、少しだけ笑った。綺麗な横顔だった。胸がきゅっと縮む。彼女が八年間ずっと一人だったなんて、そんな都合のいいことを期待していたわけじゃない。それでも、こうして本人の口から聞くと、やっぱり痛かった。

「彼は、放射線技師で……とっても誠実な人」
「……そっか」

 自分でも驚くほど声が小さくなった。その人は彼女の「ただいま」を、知っているのだろうか。疲れて帰ってソファに座れば温かい飲み物を差し出してくれるのかもしれない。爪を噛む癖も閉じ込められるのが苦手なことも、甘いものが好きでホットケーキにはバターを追加したがることも。
 俺の知らない彼女をその人は知っている。俺がいなかった八年間を、隣で、過ごしてきたのだ。

「うん、そっか……」

 同じ言葉が、もう一度、口から落ちた。電車が駅に滑り込み、車体が揺れる。彼女の髪が耳からさらりと落ちた。扉が開くと彼女は何も言わずに立ち上がり、ホームへ降りていく。
 俺は「あ」と、慌てて後を追った。人の流れに紛れそうな背中を見失わないよう、足を速める。

「ねえ、待って。名前さん。もう一回、チャンスください」

 さっきと同じ光景だった。しかし、彼女は振り向かない。駅の人波を縫うように歩きながら俺は言葉を続けた。

「もしも本気でその人を好きなら邪魔するつもりはないです!あなたには、幸せになってほしい」

 それは本心だった。だからこそ、苦しかった。彼女の幸せを願うなら本当はここで身を引くべきなのかもしれない。でもそれができない。八年前とは違う。それでも今度は自分の気持ちを『君のため』という言葉で、隠したくなかった。

「だけど——!初めてのデートの日に、あなたが着てた服、覚えてます?」

 そこで、彼女の足が止まった。ゆっくりと振り返った顔には、困惑が浮かんでいる。

「覚えてるわけないでしょ。忘れた、そんなの」
「俺は、覚えてますよ」

 あの日のことなら——。あなたとのことなら、今でも全部、昨日のことみたいに思い出せる。

「黄色いワンピース」
「……」
「普段は、あんまり着ないんだって言ってましたよね」

 そこまで言うと、彼女は何も言わなくなった。黙ったまま、その瞳がほんの少し揺れる。

「俺の瞳の色に、似てるからって」
「……」
「耳には、赤い小さなピアスをつけてた。俺の、羽の色だって言って」

 あの頃の俺は、それが嬉しくて仕方なかった。ヒーローとしてじゃなく、ただの自分を見つけてもらえた気がしたから。翼の色を好きだと言ってくれた人。何者でもなかった頃から俺自身を見てくれた人。

「名前さん」

 名前を呼ぶ。それだけで、胸の奥が痛くなる。

「あなたと出会えたのは、俺の人生で最高の瞬間でした」

 少し考えて「……いや、違うな」と首を振る。彼女はその間も、黙ってこちらを見つめていた。

「あれは二番目ですね。人生で一番は、あなたが俺の告白を受けてくれたとき」

 自分で言っておいて、思わず笑みがこぼれた。あのときは嬉しくて、どうしていいかも、わからなかった。自分が生きていてよかったと、初めて思えた瞬間だった。何を失ってもあの記憶だけは消えなかったから。

「今でも未練たらしく、名前さんを愛してます」
「……」
「身勝手なのは分かってる」

 一度息を吐く。もう格好をつける必要はない。ヒーローとしての言葉も、公安委員長の肩書きもいらなかった。ただの一人の男として彼女の瞳をまっすぐに見つめる。

「でも、もう二度と、嘘はつかない。俺の残りの人生をかけて、あなたを幸せにさせてほしい」

 言い終えると、彼女の瞳から、涙がこぼれた。ひとつ、またひとつと頬を伝う。泣かせたかったわけじゃない。それでも涙を流しながら俺を見つめる彼女から、もう目を逸らせなかった。
 怒っているのか、悲しいのか、それとも少しは嬉しいのか。まだ分からない。だからこそ今度は分からないまま、隣にいると決めた。

「明日の朝。あのカフェの、いつもの席で待ってます」
「……」
「来て、くれますよね?」

 彼女は答えなかった。それでも俺は、もう一度手を差し出した。翼を失い少し無骨になった手。彼女はしばらく見つめていたが、やがて涙を拭いゆっくり手を伸ばした。細い指が触れる。そして今度は、離れなかった。確かめるように握られたその手を、そっと包み込む。
 駅の構内では人々が変わらず行き交っている。誰も俺たちを気に留めない。世界はいつも通りに動いている。空を飛べなくなっても、こうして、誰かの手を取り戻せるなら、それだけでいい。
 背中はもう軽い。空へ戻る翼はない。けれど、掌に伝わる彼女の温度は、昔よりずっと現実だった。自分から振り払った手を、今度は絶対に離したくない。

 明日の朝、彼女があの席に来てくれるかは分からない。それでも俺は待つ。
 八年分の時間を埋めるには、きっと長い年月が必要だ。それでもいい。飛べなくなったとしてもまだ歩いていける人生が残っている。
 彼女の手の温度を掌に残したまま俺は笑った。もう、どこへ飛んでいく必要もない。帰る場所があるのなら今度こそ、そこへ歩いて帰ればいい。





君を忘れ得ぬまま、
    八年越しの初恋を

(ホットケーキ頼んでおいてくれたの?)
(もちろん。バターもマシマシ追加で)
(……相変わらず、ずるい男)
(そう? でも、来てくれた)
(そうだね。じゃあ改めて——おかえりなさい)
(……ただいま、名前さん)

※image song『 マイオンリー/SixTONES 』


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