空気が、張り詰めていた。
会話はとうに終わっていた。いや正確に言えば交わされるはずだった言葉たちは途中で摘み取られ、声にすらならぬ怒りと諦念とで、冷えた壁のように寝室の空間を仕切っていた。
消太さんが、疲れていたのはわかっていた。
連日の授業、職員会議、個別指導、ヒーローと
しての夜の巡回等……それに生徒の誰かが問題を起こすたび彼は静かに、しかし確実にその重責を背負い込む。だからこそ今日の約束をすっぽかされたことが、彼の中で「仕方がないこと」として処理されることもいつもの私なら理解できていたのだと思う。
でも、私だって待っていたのだ。彼のために
作ったあの肉じゃがが冷めていく時間の中で無意味に数を重ねる時計の秒針に焦りを感じながら、ただ『おかえり』の一言を言いたいだけの自分がどれほどちっぽけに見えたことか。
「悪い」とだけ言いながら着替えもそこそこに風呂に向かった彼に「ねえ、その一言で終わりにする気……?」と、思わず言い返してしまった。それが発端だった。あとはお互いに譲らないまま声を荒げるでもなくしかし確実に心の距離を広げるようにして喧嘩らしきものが終わった。正確には、続ける意味すらなくなった空白が横たわっただけだったけれど。
ベッドの上、隣の黒くて大きな塊に背を向けたまま私はその体温から目を背けるようにして膝を折り、毛布の内側に自分を閉じ込めた。隣にいるのに、遠い。息遣いが聞こえるのに、届かない。天井のどこにも灯りはなく、カーテン越しの街灯だけがかすかに白い輪郭を照らしていた。そんなどうしようもなく、寂しい夜だった。
そのとき——背を向けたままの私の耳にほんのわずかな空気の振動が届いた。ぎしっ、とマットレスが軋む音。寝返りを打つ音ではない。違う。私に触れるには遠すぎる。でも、どこか不自然な動作。そしてほんの一瞬、布団の中で、ふに、と何かが揺れた。その何かはそっと宙を切るような音だった。——パサ。続いて、すこし間をあけてから、やや重みを持ったトン、という掌の落ちるような、微かな衝撃がベッドに染み込む。
私は息を止めた。それは、たった一度の偶然のようにも思えた。でも、再び聞こえた同じ音に、私ははっとして気づく。
——パサ。……トン。
先ほどと同じように、空気を払うようにして、ややぎこちない軌道で彼の手がひらひらと布団の中を泳いでいた。まるで、何かを探しているかのように。いや、違う。私の手を、探していた。
ふたたび——パサ。トン。ややリズムが狂ったその手の動きには、見えない焦りとためらいと、そして、後悔が滲んでいた。
パサ——トン。右手の方で空を切りすぐにまたパサ、トン。少し近づいてもう一度パサ、トン。暗がりの中で、私のすぐ背後で、彼の手が何度も何度も、まるで、無言のSOSのようにパタパタと揺れている。
叫ぶことも、謝ることもできない彼が代わりに選んだ唯一の動作。暗闇の中で手を伸ばすまでの彼の迷いと、沈黙と、誇りと、後悔を想像する。それら全部をのみ込んでようやく差し出した一回目の��パサ�≠セったのだろうと。
無言のままで、それでも懸命に繰り返される
その行為は私の胸の奥を静かに、静かに叩いた。私は振り返ることができなかった。けれど、涙が出るほどに彼の『ごめんね』がそこにはあった。
……パサ。……トン、トン。
音にならない言葉たちが、彼の手から落ちて
くる。私の丸くなった背中は、それをすぐ後ろで受け止めながらも、動けなくなっていた。それはほんの些細な音のはずだった。けれど、私の心に落ちたとき、その微かなパサ、とトン、はどんな言葉よりも響いたのだ。目を閉じたままそれでも心だけが強く揺さぶられる。
振り返りたいのに振り返れない。まるで、この背中を向けていることが、意地の最後の砦であるかのように——。
「……」
気づかないふりをしようかと一瞬だけ思った。
このまま無視をすれば、もしかしたら彼は諦めてくれるかもしれない。そうすれば私は、もう少しこの怒りの中にいられる。拗ねたままで、意地を張ったままで、自分の小さな正しさを抱きしめたままでいられる。でも、それができなかった。
なぜなら、彼の手があまりにも、真っ直ぐだったから。手のひら一枚分のぬくもりに、どれだけの言えなかったごめんねが詰まっているのだろう。
彼は言葉が足りない人だ。怒らせたことに気づいても、どうしてそれが起きたのかを、すぐには言えない人。だがその代わりに夜の暗がりの中で静かに何度も手を動かしてくる。そのことが今は悔しいほどに愛おしかった。
……トン、トン。
言葉にならない呼吸が喉で詰まった。泣くほどじゃないのに、泣きたくなるほど、やさしくて、不器用で、ずるかった。
でも、本当にずるいのはきっとわたしのほう。
悪いのはあなたと決めつけたまま心のどこかではずっと、抱きしめてほしいと願っていた。でも、先に折れてくれたのはやっぱり彼のほうだった。
——パサ。 トン、トン……トン。
気づかないふりなんて、できないよ……。心の中で小さく呟く。音には出さなかった。だけど、指先が勝手に反応していた。私は振り返らずに、そっと布団の中へと手を滑らせていく。彼のその不器用なアピールに、触れるために。
探るように、躊躇うように布団の中を滑らせていくと、すぐそこにあった。大きくて、骨ばっていて、でもほんの少しだけ、指先が震えている、愛しい人の手が。そして、指が、ふれた。ほんの少し迷いながら、そっと、わたしの指が彼の手に重なった。その瞬間、まるで空気がふたりだけを包むように、世界の輪郭が変わった気がした。
彼の手はすぐに反応した。私の指先を逃がさぬように、でも傷つけぬように、やさしく、そっと包み込む。ぎゅっとでも、握りしめるでもなく、あくまで静かに、しかし確かに、離したくないという意志が彼の掌から伝わってくる。
私の指が彼の手の甲に触れた途端それは静かにでも、しっかりと、私の指を包んでくる。会話はない。謝罪も言い訳も、優しい言葉もなかった。けれどその手がすべてを語っていた。言葉よりも深く、真っ直ぐに。
——ごめん。
——怒ってるの、わかってるよ。
——でも、今夜はこうして、繋がっていたい。
そんな彼の気持ちが。
彼は何も言わない。言葉にはしない。ただ私の手を握ったまま静かに体を寄せてきて背中越しにくっつくようにして眠りの体勢に入った。
ああ、もうだめだ。こんなことで全部ほどけてしまうくらいなら私は最初から、怒ってなどいなかったのかもしれない。こんなふうに手を繋いだだけで泣きそうになるなんて。
好きでいることは時々ずるくて、そして、時々どうしようもなく幸せだ。……本当に、もう。
不器用すぎるよ。だけどそんなあなたが、ずるいほど、愛しいよ——。
言葉をもたない人の感情は、そのすべてが手に宿る。そう思わせてくれるほど彼の掌は大きくてあたたかかった。それはもう愛そのものだった。
私は目を閉じた。指と指が絡まりあったまま、ぬくもりが心にまで染みていくような気がした。たとえ朝になっても手を離さなければいい。そう思いながら、私は小さく、彼の手をぎゅっと握り返した。
夜の温度は、時間とともにゆっくりと降下していく。掛け布団の厚みは変わらないのに体のどこかが冷えたような気がして、私は自然と彼の手をもうすこしだけ強く握った。まるで、それだけが今夜の私の居場所を確かめる鍵であるかのように
——。
その瞬間——ごく静かに、けれど明確な意思を持って背後から伸びた彼の左腕がそっと私の体の輪郭をなぞるようにして回り込んできた。乱暴さはない。ただ、迷いのないぬくもりだけが確かにそこには存在していて、私は思わず呼吸をひとつ逃した。
彼の腕は私の肩の下からするすると潜り込み、もう片方の腕と重なるように、背中と胸の間で、ぴたりと交差する。気づけば私は完全に彼の胸の中にいた。言葉はない。息遣いだけが、ぴたりと背中に伝わる。彼の匂いも、体温も、鼓動の速さまでもがまるで私の皮膚の内側にまで染み込んでくるようで、ひどく静かなのにひどく騒がしい。腕の内側で、言葉を超えているようだった。
ああ、こんなふうに、抱きしめてくれるくらいなら——どうしてもっと早く私たちは素直になれなかったんだろう。
同じ言葉を問いかけるかのように彼の腕が一度だけきゅっと締まった。私の背中に、確かに彼の指先の微かな震えが触れる。それはまるで『ちゃんと、ここにいるよ』と告げるような強さであり
『どこにも行かないで』と、乞うような脆さでもあった。
私は黙ったまま目を閉じた。涙ではないものが喉の奥にじんわりと溜まっていくのを感じながらそれでも顔を背けることはしなかった。
どちらが悪いのでもない。すれ違いの温度は、日々の中に積もる埃のようなものでどこかで拭わなければ、たちまちふたりの隙間に影を落とす。だけど今夜こうして彼が言葉もなく私を抱きしめてくれたこと。それだけで、救われる気がした。何かが解ける音がしたわけではない。でも確かに何かが溶け始めていた。氷のように固まっていた頑なさも、プライドも、強がりも——。
私はそっと、彼の腕の中に自分の背を預けた。それが、今夜の私の答えだった。呼吸が、静かに重なり合う。布団の中、灯りひとつない暗がりの中で私たちはようやく心の温度をひとつにする。
この夜が終わってしまう前に、どうか、夢の中でもこの腕の中にいられますように。
私はなにも言わずに彼の胸の鼓動に耳を澄ませながら、そっとまぶたを落とした。
*
目覚めたとき、世界はまだ色を取り戻していなかった。
カーテン越しの朝日は窓の隙間から斜めに差し込んでベッドのシーツを薄い金色に染めていた。けれど、私の視界はまだ少しぼんやりとしていてどこか夢の中を歩いているようだった。体の後ろには、昨夜のままのぬくもり。腕の重さが背中に優しくのしかかる。それは、とても心地よい束縛だった。心ごと包まれているような感覚。
昨夜、彼は一言も喋らなかった。ただ抱きしめて指を絡めて、眠りに落ちていった。その無言のすべてが、あのときはたしかに言葉以上のものに思えたけれど、それでも心のどこかでは彼の声をずっと待っていた気がする。
「……起きてる?」
その声が背中越しに落ちたのはちょうどそんなことを思ったときだった。喉の奥で掠れるような低音。まだ朝の眠気を含んだ彼の声が、私の耳に静かに染みてきた。私は返事をしなかった。意地ではなく、ただ、彼の次の言葉を待ちたかった。
「……昨日は、悪かったね」
沈黙がその言葉の意味を深くする。続く言葉がなければ、きっとそれだけでも充分だったのだろう。けれど彼はほんのわずかに息を詰めるような間を挟んでから、もうひとつ、ぽつりと続けた。
「おまえが怒るのも当然だった。俺のほうこそ、ちゃんと向き合えてなかった」
語尾はいつもより少しだけ曖昧だった。それは謝罪の言葉としては不器用すぎて、けれど、どこまでも彼らしいやり方だった。
私は背を向けたままゆっくりと指先を彼の腕に重ねた。それだけで、彼がわずかに息を呑むのが伝わってくる。彼の手が私の腰のあたりをそっと引き寄せた。ぴたりと背中を重ねるようにして、彼の額が私の肩甲骨のあたりに、そっと触れた。
「……ごめん」
今度は、確かに届いた。昨夜のように手のひらではなく、ちゃんと声として——。私を包むこの腕の中に込められた彼の後悔と想いと、赦しへの祈りが。
私はそのままそっと目を閉じて、彼の腕の中で微かに頷いた。それが、私なりの返事だった。
朝の光が少しずつ部屋の色を戻していく。言葉と体温が、ようやく重なった朝。それは昨日よりもほんの少しだけ柔らかい朝だった。
ぬくもりを背にしたまま、しばらく私たちは、そのまま動かなかった。
喧嘩のあとの朝はもっとぎこちなくて、もっと苦くて、たぶん目も合わせられないほどの距離があると思っていたのに、実際にはそれとは逆に、二人の間の空気は妙に静かで妙にやさしかった。
ひとつの言葉と、ひとつの腕。それだけで十分だったわけじゃない。でも充分だったことにしてもいいと思えるほど彼の声が、腕が、あたたかかった。
「……もう起きるか」
不意に耳元に落ちた声に、私はこくりと小さく頷いた。彼の腕が解け、体が離れてしまうことが少しだけ寂しくて、けれど振り返ってしまえば、その顔を見たら、たぶん泣いてしまいそうな気がして、私は布団の中で一拍遅れて身を起こした。
髪はぐしゃぐしゃで、たぶん顔もむくんでいてどうしようもなく寝起きだったと思う。だけど、それでも。彼が先に私の顔を見てふっと笑った。ほんの少し口元だけ。声は出さずに、でも確かにそこに浮かんだ、微笑み。それはどこまでも相澤消太らしく、だけど誰よりもやさしい顔だった。私もそれに応えるように口角を持ち上げた。
お互いに、なにも言わなかった。ただ、笑うという一番素直な方法ですれ違った夜を終わらせたのだ。それだけで、胸がいっぱいになるようだった。わかってる。言葉なんて、もういらない。
*
キッチンで湯気が立ちのぼる。ポットのスイッチがカチリと鳴りパンの焼ける匂いが漂い始める頃には、彼は無言でマグカップをふたつ用意してくれていた。
私はその手元を黙って見つめながら冷蔵庫からヨーグルトを出してテーブルに置く。まるで台本があるみたいに、なにも決めていないはずなのに動きがかぶらない。
「パン、焼けてるよ」
彼が言って私は「うん」とだけ返した。その、『うん』に、昨日の夜までの尖った棘はもうどこにもなかった。
トースターの中からカリッと音を立てたパンを取り出して、ふたり分のプレートにのせる。彼はコーヒーにミルクを一滴だけ垂らし私には牛乳を注いでくれる。
「……ちゃんと食えるか?」
その問いに私はひと呼吸おいてから、目を合わせた。そして、曖昧に、少しだけ笑ってみせた。
「食え。死ぬぞ」
「まぁ……今日は、ね」
「はい、よろしい」
ほんの短いやりとり。だけど、それはどこか、恋人に戻るための、静かな合図のようだった。
バターがゆっくりと溶けていく食パンの表面を見つめながら、私は思う。夜の冷たさを越えて、朝のぬくもりにたどり着けるのなら私たちはまたちゃんとやっていける。何もなかったようにふるまうのではない。なにかがあったからこそこんなふうに並んで笑えるのだと。
パンを齧った彼がコーヒーを飲みながら「……
ちょっと焦げてる」とぼそりと呟く。私は思わず吹き出してしまった。そして、また彼も笑った。それはもう、遠慮のない、愛おしい笑みだった。