手のひらを返すように夕方の風が冷たさを帯び始める頃、私は鍋の蓋を傾けてゆっくりと湯気の香りを嗅いだ。だしの利いた湯気に白菜と豚肉と春菊の匂いがしっかりと溶けていて、これならば文句は言われないだろうと、ひとり胸のなかで、うんうんと頷きながら火加減を見直す。
そもそも彼はこういう何でもない食事に文句を言う人じゃないけれど、それでも私はいつも少しだけ彼の顔を思い浮かべて喜んでくれたらいいなと思いながら味を決める。それはたぶん恋という名前の習性みたいなものなのだろうと思う。
「ただいま」
ドアの開く音がして、続けて低くて少し掠れた声が部屋の空気を震わせるように届いた。声だけでわかる。疲れている日特有の静かな音だ。
私は鍋の火を弱めてから急いでスリッパを手に玄関へ向かう。思った通り彼はまだコートを脱ぎきらぬまま、足元に重そうな鞄を置いていた。
「おかえり〜! ちょっと待って、それ渡して、で、スリッパこっち」
私が手を伸ばすより早く彼は無言のまま片手で鞄を持ち上げ、もう片方の手でスリッパをすっと受け取る。その仕草が妙に自然で私たちが育ててきた時間のかたちを、そっと思い出させた。
「悪いな、遅くなった」
「ううん、大丈夫。今日のお鍋、いい感じに仕上がってるよ」
私がそう言って笑いかけると、彼はほんの少し目元を緩めて頷いた。それだけで私の今日一日が報われたような気がしてしまうから、ああ、私はほんとうに、この人のことが好きなんだなぁ……なんて再確認する。
食卓につくまでのほんの短い時間さえも惜しくて、私は台所に立つたびに彼の視線が背中にあるのを感じながらも言葉にはせずそこにいるだけで充分だと思う時間を味わっていた。お椀に湯気が立ち上り食卓の上に箸が並ぶ。テレビの音はやや小さくして、彼が時折ぼそりとニュースに相槌を打つその合間に私の言葉が浮かんでは沈んでいく。
「そういえばさ、今日、街中でヒーローのポスター見たよ。消太、あんな顔で写っててさ……ちょっとだけ笑った」
「……俺はああいうの断ってるんだけどな。プロダクションが勝手に出してる」
「うん、そんな気はしてた。でも、普通にかっこよかったよ?」
そう言うと彼はほんの一瞬だけ眉を上げたが、すぐに箸を動かしながら「そりゃどーも」とだけ返してきた。しかしその横顔には少しだけ照れたような影が射していた。そんなところがずるいなと思う。何も言わず私の中の好きの温度を上げてくるくせに自分はさほど変わった風を見せない。
鍋を平らげたあとは私が片付けをする間に彼はソファへと移動して毛布を膝にかけて丸くなっていた。彼のそういう姿を見るたびにどんなにプロヒーローであっても夜くらいはこうして無防備にくつろいでくれたらいいなと思う。むしろ、そうしてくれることが私にとっては最大の信頼の証のようにも感じる。
「ねぇ、今夜は帰らない?」
背後からそう尋ねると彼はうっすらと目を開けて、こちらを見た。その黒い瞳の中には拒絶でも了承でもない、ただまっすぐな視線があった。
「泊まっていいか、なんて許可、いちいち取らせんのか」
「ちがうよ。許可じゃなくて……お願い、」
言い終わる前に彼は小さくため息をついてから無言で毛布の隣をぽんと叩いた。私は笑いながら彼の隣に座って、毛布を半分だけ分けてもらう。
「ありがと。……今夜は、帰っちゃいやだなって思ってたんだ」
「……おまえ、ほんとに言いたい放題だね」
「だって、消太には甘えたくなるんだもん」
彼は面倒くさそうに目を伏せたがその横顔にはどこか柔らかい光が灯っていて、それを見た私は思わず手を伸ばし彼の髪を一筋、そっと撫でた。その指先にふれた感触は疲れの中にある彼のやわらかさだった。
時計の針は遅く、外は、すっかり静かになっていたけれど、部屋の中は彼の吐く息と私の鼓動で確かに��いま�≠ェ、存在していた。
何も特別なことはない。ただこうして夜がきて彼がここにいて私の傍で目を閉じてくれるだけで私は世界に、ちゃんと愛されているって感じる。
——それだけで、明日もまた、頑張れるんだよ。
*
きらびやかな照明と場違いなシャンパンの泡に私は、ちょっとだけ緊張しながらグラスを持っていた。会場の片隅に立てば懐かしい制服の色や、忘れかけていた顔ぶれが少しずつ輪郭を取り戻してゆく。
今日は、雄英高校のヒーロー科と普通科合同の同窓会。大人になった誰もが、かつての肩書きにもうひとつの��何か�≠�背負ったまま久しぶりに集っていた。
私はというと、あの頃とたいして変わらず目が合えばにこにこと笑って話し酔いすぎない程度にグラスを傾け、けれどどこかこの懐かしさという空気の中で、少しだけ浮いているような気がしていた。そんなときだった。
「……先輩」
後ろから、ひどく落ち着いた声音で名前を呼ばれた。低くて抑えめで、それでいて耳の奥に残るような、妙に静かな呼びかけ。
振り向くと、黒髪を低く束ね、淡いグレーの
シャツを着た背の高い男が立っていた。薄い表情に疲れの影が少し混じっていて、だけどその視線だけは、まっすぐにこちらを射抜いていた。
「……あれ? 相——澤くん、だよね?」
「��くん�≠ヘ、もうそろそろやめてもらっても……」
「あ、ごめんごめん!つい後輩扱いしちゃって。いや、久しぶりすぎてさぁ」
私が笑うと彼はほんのわずかに目元を緩めた。それがなんだか言葉よりも、ずっと多くを語っているような気がした。
「変わってないですね、先輩」
「そっちこそ……なんていうか、ちゃんと大人になってるって感じするよ。ちょっと驚いた」
「……まあ、それなりに時間、経ちましたから」
間の取り方が昔とまるで変わっていない。あのころも教室の隅っこで静かにノートを取っていた彼は必要以上に言葉を飾ることがなかった。後輩なのにどこか同じ空間にいてもひとつ奥の景色にいるみたいで当時の私は理由もなく近寄りがたいと感じていたのかもしれない。
「ところで先輩……あいかわらず、まわりに人が多いですね」
「え、なに急に。どうしたの?」
「いえ……普通科の男子の間では、ちょっとした話題になってましたよ
「まじで? それ初耳なんだけど!」
「……本人が自覚なかっただけ、だと思います」
その言い方がなんだかやけに正直で私は思わず吹き出しそうになった。
「え〜、ちょっと待って、バカにされてない?
それ、どういう意味?」
「今も変わってないってことです。目立ちます」
「……ぇ。そ、そんな?」
私がグラスをくるくる回しながら言うと彼は、それには答えず静かに目線だけを合わせてきた。視線に言葉が混じるような、そんな無言の告白が一瞬だけ走った気がした。けれどそれを深く詮索するには、まだ夜が浅すぎる。
「先輩」
ふいに彼が、少しだけ声を低くした。まわりの笑い声やグラスの音にその言葉がかき消されそうになるくらいの、小さな声で。
「もし今、お付き合いされてる方がいなければ、
……連絡先、教えてもらってもいいですか」
その一言があまりに素直でまっすぐで、思わず私は握っていたグラスの縁を見つめてしまった。
「うん。もちろん。えっと……まって。スマホ、出すね」
差し出したスマホを受け取り彼は淡々と自分の番号を打ち込み始めた。やや角張った親指がためらいもなくキーを叩いていくのを私はなんとなく息を潜めて見つめていた。そして最後に表示名をひらがなで『相澤しょうた』と登録してそのまま黙ってスマホを返してくれた。
「名前……ひらがな、なんだね」
「打つのが早いんで、そっちの方が」
「……うん、なんか、らしいね」
私は笑って、彼も、ほんの少しだけ口元だけで笑ったように見えた。
その夜。家に帰って着替えていたときスマホが一度震えて、画面には短い通知があった。

ちゃんと帰れましたか

次はもう少しゆっくり
話せたらと思ってます

都内で落ち着いた店
知ってますか