風がビルの隙間を縫って夜を撫でていく。私はひとりきりの屋上で空を仰いでいた。街の明かりが遠く星を追い越すように瞬いている。誰の声も届かないこの高さでただ風に身を任せていたのは心のどこかにぽっかりと空いた穴のようなものをどうにか誤魔化していたかったから。
そのときだった。
──サァ、と柔らかな気流が膝のあたりを撫で次の瞬間、背中に羽音が舞い降りた。
「こんばんは。こんなところで何してるんですか?」
振り返ると、そこに立っていたのは、我が国のナンバー2ヒーロー、ホークスだった。ヒーロースーツを身に付け背中の剛翼は夜の空気を纏って今日も静かに揺れている。
「逃げてきたんです、ちょっとだけ。」
私がそう答えると彼は小さく笑った。街の喧騒から切り離されたこの場所で彼の笑みは音もなく降る雪のようだった。
「わかりますよ、その気持ち。俺もね、よくここに来てました」
「……」
「仕事と自分のあいだに距離を置きたくなる時があるんです」
彼は翼をたたみ、わたしの隣に腰を下ろした。ふたりのあいだを、静かな夜風が通り抜ける。
「ねぇ……」
「……?」
「このまま飛べたらホークスさんは、どこに行きたいですか?」
問いかけに彼は少しだけ首を傾け冗談のような本気の声で答えた。
「うーん、どこでもいいなぁ。」
「……」
「でも──君が一緒にいてくれるなら、地球ひと回り分くらいは飛んでも平気かもですねー」
その言葉に、不意に胸の奥がきゅっと縮んだ。笑おうとして、でも目元が熱くなって空を仰いだままで言葉を失う。そのときだった。そっと私の手に、彼の手が重なった。
「さみしかったでしょ?」
まるで何かの歌詞の一節のようだった。埋められなかった隙間がその一言で、ふいに塞がれる。
「ずっと言いたかったんですよ。ほんとは今日、部屋の窓をノックしようか迷ってたくらいで。」
彼——ナンバー2の目は、夜空よりも深くて、星よりも熱い光を宿していた。
「寂しいの、俺も一緒だったんですよ」
「……」
「──だったら今、飛びます?」
「え……?」
「行き先なんていらない。あなたといるこの空が俺にとっての、天国みたいなもんですから。」
その言葉に、息を詰めた。寂しいだなんて──私はまだそんなふうに口になどしていないのに。しかし彼は私が言うよりも先にその輪郭を掴んでいた。言葉より前に視線の揺れや、指先の沈黙や呼吸の滞りの中に潜んでいた私の感情を、まるで空気の振動を読むように察してしまう。それは、誰よりも、人の『言葉にならない部分』に敏感な人の在り方だった。
どこまでも目敏くて、耳ざとい人。
たとえば、この人は世界のどこかで、涙の音がしたらちゃんと聞き分けてしまうのだろう。私が黙って泣いても背を向けていても、羽のどれかがちゃんと振り返ってしまうのだ。ヒーローとして鍛えられた技術かもしれないけれど私にはそれが彼の��優しさ�≠サのものに思えた。その、精密な優しさに、胸の奥が音もなく揺れた。
彼は立ち上がり片手を差し出す。ビルの灯りを背負ったその姿はまるでこの大都市に迷い込んだ堕天使のようだった。
私はその手を取ることはせず差し出された手を見下ろして、そっと呟いた。
「……どうして、ここに来たんですか? 今日」
そう問いかける私に彼は、差し出した手を一度だけ引っ込めてその手で頬をぽり、と掻いたあと柔らかく笑って言った。
「いや、たまたま通っただけです。」
「……」
「……たまたま、風に流されて」
「……。」
ああ、まただ。また、風に混ぜて答える。ほんとうのことを、わざとぼかすような口ぶりで──
私はうつむいて、しばらく何も言えなかった。それでも心のどこかが、彼の言葉を待っていた。だけどその��間�≠ウえ彼は許してくれなかった。
「迷ってる間に、風が逃げちゃいますよ?」
その言葉と同時にふわりと背中に回された腕。次の瞬間、地面から足が離れる感覚。体がふわりと浮いて、彼の翼がはためいた一拍あと、世界が足元から剥がれ落ちた。
「──っ!」
声が喉の奥で跳ねた。反射的に彼の胸にしがみつく。ああ、あの夜とまったく同じだ。決定的に違っていたのは、私が泣いていなかったこと。
「また……っ、勝手に……!」
言いかけた言葉が風に攫われる。けれど彼は、それをちゃんと聞いていた。
「癖なんですよねー。こういうの、止まれないんです。なんてったって俺、速すぎる男なんで!」
冗談のように言いながらその手は一度もゆるまなかった。私が何ひとつ決められないままでいても彼はまるでそれが��決まっていたこと�≠フようにして空を選ぶ。
ビルの灯が遠ざかっていく。風が耳を抜け胸の奥を静かに膨らませていく。見上げた夜の空は、まだ、色の深まりきらぬ紺。地上の明かりと空の濃淡がまるで溶け合う寸前の水彩のように美しく混ざり合っている。
やっぱりずるい人だと思った。でもそのずるさの中に、また少しだけ救われている自分がいた。
「目、閉じてもらっていいですかー?」
その声に導かれるように瞼を伏せると、すぐに感じたのは風の起こる気配。
この人はきっと──答えを出さずに一緒にいてくれる人だ。私が決めきれなくても、怖くても、ただ隣にいてくれる人なのだろう。
「……っ」
驚きと胸のどこかを掴まれるような衝動が一気に押し寄せる。まさに──押し寄せる波のような感情。心は制御の仕方を忘れて浮上していく熱に身を預けるしかなかった。
ナンバー2ヒーロー、ホークスの体温は、風の中でもなお、確かな灯火のようだった。
「──さてと。さ、もう目、開けていいですよ」
彼の胸にしがみつきながらそっとまぶたを開いて見下ろした街は、星座のように瞬いていた。
ひとつひとつの灯りが、人の営みであることを忘れるほど、幻想的で、遠くて──ただ、ただ、美しかった。
「ね、綺麗でしょ?……地上にいたら見られない景色って、あるんですよ」
「……綺麗、」
「だから、あなたを連れてきたかったんです」
耳元に落ちたその声は風に溶けて、まるで星のささやきのように響いた。彼がわたしを包む腕は決して乱暴ではなく、ただ確かで、空を共有するには十分すぎるほどに強かった。
風に煽られた炎のように、感情が高く揺れた。それはきっと感情の高鳴りというより魂が震えるような歓びに近かった。まるで重力の意味を忘れてしまったかのように彼の腕の中で私は私自身の感情からも浮かび上がっていた。
「このまま、どこまででも……飛んでいけそうだね……」
思わずこぼれた呟きに彼が少しだけ頬を緩めて答える。
「そう思わせたかったんですよ」
「……」
「今夜だけでも、ね。」
私たちは、言葉にならない想いの重なりを風に乗せて、夜の空を漂っていた。それはただの浮遊じゃない。風が耳元を切っていく。街の明かりが星のように点々と遠ざかっていく。
「何も考えず、ただ空を眺めるのって、たまにはいいもんですよー」
そう言って微笑む横顔を見上げながら私はふとあの夜のことを思い出す。
──はじめて空を飛んだ夜。彼の羽が私の涙に触れた夜。あのときの空はすこしだけ哀しくて、そして、やさしかった。
でも、今夜の空は違う。手の中に少しだけ熱を宿している。まるであの夜の続きを、今度は私の意思で書き直しているような感覚だった。
街の灯りが、ゆっくりと近づいてきた。わたしたちは空を降りていた。まるでずっと深呼吸していた胸の奥に、ようやく重力が戻ってくるような感覚。
足が地面に触れた瞬間、わたしはふたりの間に流れていた��浮遊�≠ェ終わったことをはっきりと知った。
彼がそっと腕をほどく。それは名残惜しさでも躊躇でもなく、ただ自然に離れる動作だった。
けれどその自然さが、少しだけ胸に刺さった。
「……大丈夫でした?」
そう尋ねた彼の声は、変わらず軽やかだった。けれど、その目はまっすぐではなかった。まるで答えを直視するのがこわいとでも言うように私の右肩の向こうを見ていた。
「うん、大丈夫です。……ありがとう。」
そう答えながらも、心の中では別の言葉が膨らんでいた。──どうして、何も言わないの?どうして、触れるだけで終わるの……?けれど、その疑問は言葉になる前に彼の声に遮られてしまう。
「……このへん、風の流れがいいんですよ。飛ぶと気持ちいいでしょ?」
まるでたまたま通りかかった場所の話でもするみたいに、さらりと笑ってみせる。けれどもその目の奥は、ほんの少しだけ翳っていた。
「……あの──、」
私が言いかけると彼はそれよりも少しだけ早く言葉をかぶせた。
「また飛びたくなったら言ってくださいね。俺、わりとヒマなんで」
……嘘だ。彼がヒマであるはずなんて、ない。けれどその言い方は、まるで『いつでも逃げ場になるよ』と言っているようでもあった。そういうところがずるい。そういうところが……優しすぎる。
私は言葉を呑み込んで、ただ小さく頷いた。
それだけで彼は「じゃあ」と手を振り街の灯りの向こうへと歩き出した。その背中を見送っているうちに、少しだけ風が吹いた。彼の羽根の匂いを連れてきたような気がして思わず深く吸い込む。
胸の奥が、まだ浮かんでいた。でもそれは安心ではなかった。むしろ、あの浮遊がどこにも着地しなかったことに、気づいてしまったような気がした。
彼の胸の音が微かに聞こえた。風の音の中でも消えなかったそのリズムに、私は何も言わずに、ただ目を閉じた。
どこへ向かうのかもわからない。それでも今夜見た空はきっと、天国と呼んでいい。
*
あの夜──翼の音を初めて近くで聞いた、私が風を信じた最初の夜。
街の灯りはやけに遠くてビルの灯もコンビニの看板の明かりもすべてが私を置き去りにして点滅していた。
泣いていた。
気づいたら、涙が頬をつたっていて、自分でも理由は言葉にできなかった。ただ、どうしようもなく、ひとりきりの感じがした。
誰にも知られたくないのに、誰かに見つけて
ほしい。そんな矛盾の中で、ただうずくまるしかなかった。
そのときだった。微かな空気のざわめき。風もないのに、頭上からふっと気配が落ちてくる。
顔を上げると、そこにいた。ヒーローが。赤い翼を揺らして、まるで天国から静かに舞い降りてきたみたいに。
「……泣いてました?」
問いかけた声は思ったよりも近くて、やさしく低かった。問いかけというより、確認するような口調だった。私は首を振ったけれど言葉にはできなかった。けれど彼は、それ以上は何も問わなかった。ただ少しだけ目を伏せて、ため息のように言った。
「……やっぱり。羽が勝手に動いたんですよね」
彼の背で揺れていた赤い羽がひとつ、ふわりと空気を泳ぐ。それはまるで生き物のように、私の肩へ舞い降り、そっと、微細な振動を拾うように触れた。
「振動とか空気の動きに、すごく敏感なんです。だからそういうの、気づいちゃう」
彼は、私の涙に言及しないまま、あくまでも
��羽のせい�≠ノした。それが優しさだとわかったから、私は何も言えなかった。
「少しだけ、飛びません?」
唐突だった。けれどそれはたぶん彼なりの手の差し伸べ方だったのだと思う。彼が言ったその
言葉は夜の空気のなかにゆるやかに溶けた。思いもよらない誘いだった。心の準備も、答えを出す余裕もないまま、私は黙って彼を見つめてしまった。
どうしてそんなことを言うの。どうしてわたしなんかを──。そんな疑問が浮かび上がるよりも早く、彼は一歩近づいてきて、ほんの軽い笑みを浮かべながら言った。
「……迷ってる間に、風が変わっちゃうかもしれませんからね」
その声と同時に私の戸惑いも言葉も置いていくように私の背中に彼の腕がまわる。体がふわりと浮いた。その瞬間、何かがほどけるような感覚があった。
「ちょっと失礼します」
その一言は、まるで、羽根のように軽かった。気づいたときには彼の腕に抱き上げられていた。
「──!」
地上の光が滲んでいく。風が耳元で騒ぎ始める。彼は空を蹴る。世界が、私の足元から静かに剥がれ落ちる。
そして私はその腕のなかで、はじめて��空�≠ニいうものに包まれた。風が足元から生まれ世界がゆっくりと沈んでいった。
声にならない声が喉の奥で跳ねた。私はただ、彼の胸にしがみつくしかなかった。強くもなく、優しすぎもしない腕。けれど、離れる気配だけはまったくなかった。
「大丈夫、落としませんよ」
冗談みたいに言いながらもその声には嘘がなかった。私は目を閉じて風の音に身を預けた。重力と涙と、全部が地上に溶けていく。
「……気持ち悪くないですか?」
彼の声は低くて、けれどずっと近くにあった。その問いかけに私は首を横に振った。むしろ不思議と落ち着いていた。
「そっか……じゃあ、もうちょっとだけ遠くまで行きましょうか」
そう言って、彼はまた空を蹴るように翼を強く広げた。ぐん、と体が持ち上がる。涙の代わりに胸の奥が浮き上がる感覚に変わっていく。振り
返ることもできないほど夜風が強くなる。でも、その風のなかでだけは、私の涙はもう追いついてこれなかった。
彼の腕の中で、ただ静かに夜空を渡っていた。それが��救い�≠ニいう名でなかったとしても、
あの夜わたしはたしかに、救われたのだと思う。そう、ナンバー2ヒーロー、剛翼の早すぎる男、ホークスに──。
あの夜、私は地上のすべてを彼の背に預けて、空を知ったのだった。
*
指先に残る午後のぬくもりが、まだ手放せずにいた。街は日暮れの呼吸を始めガラス窓には反射する赤の残滓が、幾重にも折り重なっている。
今日もまた、何ひとつ特別ではないはずだったのに彼からの短いメッセージがその風景に、音と色を与えた。

夜、少しだけ
時間ありますか?

今夜、空
あいてますか?

空いてますよ