風がビルの隙間を縫って夜を撫でていく。私はひとりきりの屋上で空を仰いでいた。街の明かりが遠く星を追い越すように瞬いている。誰の声も届かないこの高さでただ風に身を任せていたのは心のどこかにぽっかりと空いた穴のようなものをどうにか誤魔化していたかったから。
 そのときだった。
 ──サァ、と柔らかな気流が膝のあたりを撫で次の瞬間、背中に羽音が舞い降りた。

「こんばんは。こんなところで何してるんですか?」

 振り返ると、そこに立っていたのは、我が国のナンバー2ヒーロー、ホークスだった。ヒーロースーツを身に付け背中の剛翼は夜の空気を纏って今日も静かに揺れている。

「逃げてきたんです、ちょっとだけ。」

 私がそう答えると彼は小さく笑った。街の喧騒から切り離されたこの場所で彼の笑みは音もなく降る雪のようだった。

「わかりますよ、その気持ち。俺もね、よくここに来てました」
「……」
「仕事と自分のあいだに距離を置きたくなる時があるんです」

 彼は翼をたたみ、わたしの隣に腰を下ろした。ふたりのあいだを、静かな夜風が通り抜ける。

「ねぇ……」
「……?」
「このまま飛べたらホークスさんは、どこに行きたいですか?」

 問いかけに彼は少しだけ首を傾け冗談のような本気の声で答えた。

「うーん、どこでもいいなぁ。」
「……」
「でも──君が一緒にいてくれるなら、地球ひと回り分くらいは飛んでも平気かもですねー」

 その言葉に、不意に胸の奥がきゅっと縮んだ。笑おうとして、でも目元が熱くなって空を仰いだままで言葉を失う。そのときだった。そっと私の手に、彼の手が重なった。

「さみしかったでしょ?」

 まるで何かの歌詞の一節のようだった。埋められなかった隙間がその一言で、ふいに塞がれる。

「ずっと言いたかったんですよ。ほんとは今日、部屋の窓をノックしようか迷ってたくらいで。」

 彼——ナンバー2の目は、夜空よりも深くて、星よりも熱い光を宿していた。

「寂しいの、俺も一緒だったんですよ」
「……」
「──だったら今、飛びます?」
「え……?」
「行き先なんていらない。あなたといるこの空が俺にとっての、天国みたいなもんですから。」

 その言葉に、息を詰めた。寂しいだなんて──私はまだそんなふうに口になどしていないのに。しかし彼は私が言うよりも先にその輪郭を掴んでいた。言葉より前に視線の揺れや、指先の沈黙や呼吸の滞りの中に潜んでいた私の感情を、まるで空気の振動を読むように察してしまう。それは、誰よりも、人の『言葉にならない部分』に敏感な人の在り方だった。
 どこまでも目敏くて、耳ざとい人。
 たとえば、この人は世界のどこかで、涙の音がしたらちゃんと聞き分けてしまうのだろう。私が黙って泣いても背を向けていても、羽のどれかがちゃんと振り返ってしまうのだ。ヒーローとして鍛えられた技術かもしれないけれど私にはそれが彼の��優しさ�≠サのものに思えた。その、精密な優しさに、胸の奥が音もなく揺れた。

 彼は立ち上がり片手を差し出す。ビルの灯りを背負ったその姿はまるでこの大都市に迷い込んだ堕天使のようだった。
 私はその手を取ることはせず差し出された手を見下ろして、そっと呟いた。

「……どうして、ここに来たんですか? 今日」

 そう問いかける私に彼は、差し出した手を一度だけ引っ込めてその手で頬をぽり、と掻いたあと柔らかく笑って言った。

「いや、たまたま通っただけです。」
「……」
「……たまたま、風に流されて」
「……。」

 ああ、まただ。また、風に混ぜて答える。ほんとうのことを、わざとぼかすような口ぶりで──
 私はうつむいて、しばらく何も言えなかった。それでも心のどこかが、彼の言葉を待っていた。だけどその��間�≠ウえ彼は許してくれなかった。

「迷ってる間に、風が逃げちゃいますよ?」

 その言葉と同時にふわりと背中に回された腕。次の瞬間、地面から足が離れる感覚。体がふわりと浮いて、彼の翼がはためいた一拍あと、世界が足元から剥がれ落ちた。

「──っ!」

 声が喉の奥で跳ねた。反射的に彼の胸にしがみつく。ああ、あの夜とまったく同じだ。決定的に違っていたのは、私が泣いていなかったこと。

「また……っ、勝手に……!」

 言いかけた言葉が風に攫われる。けれど彼は、それをちゃんと聞いていた。

「癖なんですよねー。こういうの、止まれないんです。なんてったって俺、速すぎる男なんで!」

 冗談のように言いながらその手は一度もゆるまなかった。私が何ひとつ決められないままでいても彼はまるでそれが��決まっていたこと�≠フようにして空を選ぶ。
 ビルの灯が遠ざかっていく。風が耳を抜け胸の奥を静かに膨らませていく。見上げた夜の空は、まだ、色の深まりきらぬ紺。地上の明かりと空の濃淡がまるで溶け合う寸前の水彩のように美しく混ざり合っている。
 やっぱりずるい人だと思った。でもそのずるさの中に、また少しだけ救われている自分がいた。

「目、閉じてもらっていいですかー?」

 その声に導かれるように瞼を伏せると、すぐに感じたのは風の起こる気配。
 この人はきっと──答えを出さずに一緒にいてくれる人だ。私が決めきれなくても、怖くても、ただ隣にいてくれる人なのだろう。

「……っ」

 驚きと胸のどこかを掴まれるような衝動が一気に押し寄せる。まさに──押し寄せる波のような感情。心は制御の仕方を忘れて浮上していく熱に身を預けるしかなかった。
 ナンバー2ヒーロー、ホークスの体温は、風の中でもなお、確かな灯火のようだった。

「──さてと。さ、もう目、開けていいですよ」

 彼の胸にしがみつきながらそっとまぶたを開いて見下ろした街は、星座のように瞬いていた。
 ひとつひとつの灯りが、人の営みであることを忘れるほど、幻想的で、遠くて──ただ、ただ、美しかった。

「ね、綺麗でしょ?……地上にいたら見られない景色って、あるんですよ」
「……綺麗、」
「だから、あなたを連れてきたかったんです」

 耳元に落ちたその声は風に溶けて、まるで星のささやきのように響いた。彼がわたしを包む腕は決して乱暴ではなく、ただ確かで、空を共有するには十分すぎるほどに強かった。
 風に煽られた炎のように、感情が高く揺れた。それはきっと感情の高鳴りというより魂が震えるような歓びに近かった。まるで重力の意味を忘れてしまったかのように彼の腕の中で私は私自身の感情からも浮かび上がっていた。

「このまま、どこまででも……飛んでいけそうだね……」

 思わずこぼれた呟きに彼が少しだけ頬を緩めて答える。

「そう思わせたかったんですよ」
「……」
「今夜だけでも、ね。」

 私たちは、言葉にならない想いの重なりを風に乗せて、夜の空を漂っていた。それはただの浮遊じゃない。風が耳元を切っていく。街の明かりが星のように点々と遠ざかっていく。

「何も考えず、ただ空を眺めるのって、たまにはいいもんですよー」

 そう言って微笑む横顔を見上げながら私はふとあの夜のことを思い出す。
 ──はじめて空を飛んだ夜。彼の羽が私の涙に触れた夜。あのときの空はすこしだけ哀しくて、そして、やさしかった。
 でも、今夜の空は違う。手の中に少しだけ熱を宿している。まるであの夜の続きを、今度は私の意思で書き直しているような感覚だった。


 街の灯りが、ゆっくりと近づいてきた。わたしたちは空を降りていた。まるでずっと深呼吸していた胸の奥に、ようやく重力が戻ってくるような感覚。
 足が地面に触れた瞬間、わたしはふたりの間に流れていた��浮遊�≠ェ終わったことをはっきりと知った。
 彼がそっと腕をほどく。それは名残惜しさでも躊躇でもなく、ただ自然に離れる動作だった。
けれどその自然さが、少しだけ胸に刺さった。

「……大丈夫でした?」

 そう尋ねた彼の声は、変わらず軽やかだった。けれど、その目はまっすぐではなかった。まるで答えを直視するのがこわいとでも言うように私の右肩の向こうを見ていた。

「うん、大丈夫です。……ありがとう。」

 そう答えながらも、心の中では別の言葉が膨らんでいた。──どうして、何も言わないの?どうして、触れるだけで終わるの……?けれど、その疑問は言葉になる前に彼の声に遮られてしまう。

「……このへん、風の流れがいいんですよ。飛ぶと気持ちいいでしょ?」

 まるでたまたま通りかかった場所の話でもするみたいに、さらりと笑ってみせる。けれどもその目の奥は、ほんの少しだけ翳っていた。

「……あの──、」

 私が言いかけると彼はそれよりも少しだけ早く言葉をかぶせた。

「また飛びたくなったら言ってくださいね。俺、わりとヒマなんで」

 ……嘘だ。彼がヒマであるはずなんて、ない。けれどその言い方は、まるで『いつでも逃げ場になるよ』と言っているようでもあった。そういうところがずるい。そういうところが……優しすぎる。
 私は言葉を呑み込んで、ただ小さく頷いた。
それだけで彼は「じゃあ」と手を振り街の灯りの向こうへと歩き出した。その背中を見送っているうちに、少しだけ風が吹いた。彼の羽根の匂いを連れてきたような気がして思わず深く吸い込む。

 胸の奥が、まだ浮かんでいた。でもそれは安心ではなかった。むしろ、あの浮遊がどこにも着地しなかったことに、気づいてしまったような気がした。
 彼の胸の音が微かに聞こえた。風の音の中でも消えなかったそのリズムに、私は何も言わずに、ただ目を閉じた。
 どこへ向かうのかもわからない。それでも今夜見た空はきっと、天国と呼んでいい。


 *


 あの夜──翼の音を初めて近くで聞いた、私が風を信じた最初の夜。
 街の灯りはやけに遠くてビルの灯もコンビニの看板の明かりもすべてが私を置き去りにして点滅していた。

 泣いていた。
 気づいたら、涙が頬をつたっていて、自分でも理由は言葉にできなかった。ただ、どうしようもなく、ひとりきりの感じがした。
 誰にも知られたくないのに、誰かに見つけて
ほしい。そんな矛盾の中で、ただうずくまるしかなかった。
 そのときだった。微かな空気のざわめき。風もないのに、頭上からふっと気配が落ちてくる。
 顔を上げると、そこにいた。ヒーローが。赤い翼を揺らして、まるで天国から静かに舞い降りてきたみたいに。

「……泣いてました?」

 問いかけた声は思ったよりも近くて、やさしく低かった。問いかけというより、確認するような口調だった。私は首を振ったけれど言葉にはできなかった。けれど彼は、それ以上は何も問わなかった。ただ少しだけ目を伏せて、ため息のように言った。

「……やっぱり。羽が勝手に動いたんですよね」

 彼の背で揺れていた赤い羽がひとつ、ふわりと空気を泳ぐ。それはまるで生き物のように、私の肩へ舞い降り、そっと、微細な振動を拾うように触れた。

「振動とか空気の動きに、すごく敏感なんです。だからそういうの、気づいちゃう」

 彼は、私の涙に言及しないまま、あくまでも
��羽のせい�≠ノした。それが優しさだとわかったから、私は何も言えなかった。

「少しだけ、飛びません?」

 唐突だった。けれどそれはたぶん彼なりの手の差し伸べ方だったのだと思う。彼が言ったその
言葉は夜の空気のなかにゆるやかに溶けた。思いもよらない誘いだった。心の準備も、答えを出す余裕もないまま、私は黙って彼を見つめてしまった。
 どうしてそんなことを言うの。どうしてわたしなんかを──。そんな疑問が浮かび上がるよりも早く、彼は一歩近づいてきて、ほんの軽い笑みを浮かべながら言った。

「……迷ってる間に、風が変わっちゃうかもしれませんからね」

 その声と同時に私の戸惑いも言葉も置いていくように私の背中に彼の腕がまわる。体がふわりと浮いた。その瞬間、何かがほどけるような感覚があった。

「ちょっと失礼します」

 その一言は、まるで、羽根のように軽かった。気づいたときには彼の腕に抱き上げられていた。

「──!」

 地上の光が滲んでいく。風が耳元で騒ぎ始める。彼は空を蹴る。世界が、私の足元から静かに剥がれ落ちる。
 そして私はその腕のなかで、はじめて��空�≠ニいうものに包まれた。風が足元から生まれ世界がゆっくりと沈んでいった。
 声にならない声が喉の奥で跳ねた。私はただ、彼の胸にしがみつくしかなかった。強くもなく、優しすぎもしない腕。けれど、離れる気配だけはまったくなかった。

「大丈夫、落としませんよ」

 冗談みたいに言いながらもその声には嘘がなかった。私は目を閉じて風の音に身を預けた。重力と涙と、全部が地上に溶けていく。

「……気持ち悪くないですか?」

 彼の声は低くて、けれどずっと近くにあった。その問いかけに私は首を横に振った。むしろ不思議と落ち着いていた。

「そっか……じゃあ、もうちょっとだけ遠くまで行きましょうか」

 そう言って、彼はまた空を蹴るように翼を強く広げた。ぐん、と体が持ち上がる。涙の代わりに胸の奥が浮き上がる感覚に変わっていく。振り
返ることもできないほど夜風が強くなる。でも、その風のなかでだけは、私の涙はもう追いついてこれなかった。
 彼の腕の中で、ただ静かに夜空を渡っていた。それが��救い�≠ニいう名でなかったとしても、
あの夜わたしはたしかに、救われたのだと思う。そう、ナンバー2ヒーロー、剛翼の早すぎる男、ホークスに──。

 あの夜、私は地上のすべてを彼の背に預けて、空を知ったのだった。


 *


 指先に残る午後のぬくもりが、まだ手放せずにいた。街は日暮れの呼吸を始めガラス窓には反射する赤の残滓が、幾重にも折り重なっている。
 今日もまた、何ひとつ特別ではないはずだったのに彼からの短いメッセージがその風景に、音と色を与えた。


ホークス

夜、少しだけ
時間ありますか?






 その言葉を読んだとき胸の奥が微かに疼いた。まるで、どこかにしまっていた記憶が呼吸を始めたようだった。その問いに『あります』と返してしまった自分の素直さに、私は少しだけ戸惑っていた。

 約束の待ち合わせの場所に、彼はすでにいた。まるで休日の光に似た気配を纏っていて歩み寄るだけで空気が柔らかくなる気がした。
 彼は私を見つけるとほんの少し肩の力を抜いて笑った。

「こんばんは。ほんとに来てくれたんですね」

 私は黙ったまま頷く。それ以上の言葉が見つからなかった。彼の誘いがただの気まぐれじゃないかという思いが、まだ心のどこかに引っかかっていたから。

「……よかった。」
「……」
「今夜も、あなたをさらいに来たんですよ」
「——、」

 前にも、同じ風をまとって空を翔けた。泣いていた私を彼は何も言わずに抱き上げて遠くの夜空へ連れていった。けれどそれは��救済�≠セった。だからこれが��好意�≠ネのかは、今もわからないままだった。

「……ほんとに、私でよかったんですか?」

 言ったあとの自分の声が、想像以上に小さく、ぽつりとこぼれたその言葉は意図せず本音に近かった。沈黙のあいだに風が通り過ぎていく。彼はすぐには答えなかった。けれど、わざと軽く返すみたいに首を少しだけ傾けた。

「ん? どういう意味ですか?」

 わざとのような軽さがあった。でもその言い方は、まるで、そのまま黙りこまないでほしい、と願っているようにも聞こえた。聞き返すことで、時間を稼ぐように。
 でもその目は冗談のふりをしながら、私の奥を見ていた。私は視線を落としたまま小さく吐息をこぼす。

「……そういう意味です」

 他にも誰かがいるのかもしれない。わたしは、その内のただのひとりかもしれない。彼の優しさは、わたしだけに向けられたものじゃないのかもしれない。
 ほんとうは聞きたくなかった。でもどうしても聞かずにいられなかった。そんな不安が、言葉の裏ににじんでしまった。彼は私のその答えに笑わなかった。笑わなかったことが、かえって答えのようにも思えた。けれど何かを受け止めるように少しだけ目を伏せてそれから静かにこう言った。
 
「そっか……」

 彼の声はそれ以上追い詰めようとしなかった。でも、静かに近づいてきた。そして私の手を取るでもなく、ただ隣に立った。

「……それでも、今夜はあなたがいいと思ったんですよ」

 その声は低く風の音といっしょに流れてきた。それ以上の説明も、誓いもなかった。けれどその一言が風よりも確かに、わたしの胸に触れた。
 約束でも、永遠でもなかったけれど、いまこの瞬間、わたしの不安をすこしだけ溶かすには、
十分だった。
 束の間、彼は急に声の調子を変えて、いつものような口ぶりで言った。

「ちょっとした夜のデートに、付き合ってもらえませんか?」

 それはまるで、問いに終止符を打つように差し出されたやわらかな一言だった。不安を断ち切るでも癒すでもなく、ただ私と一緒にいようとするための言葉。
 私が驚いて顔をあげると彼は片方の眉を上げて冗談のように笑った。でもその瞳は、どこまでもまっすぐだった。私は迷わずその手をとる。次の瞬間、足元がふわりと浮かぶ。風がふたりを抱きしめるように舞い、私たちは誰も知らない空を、人声の波がゆれる夜の街を越えていく。ふたり
だけで──。
 私は彼の胸にしがみつきながら、耳元で囁く。

「ねぇ、これ、夢じゃないですよね……?」
「どうでしょうねー。でも、願わくば──ずっと続いてほしいですよねー」
「……」
「あなたと──名前さんと飛ぶ、この時間が。」

 流れる街の灯が星座のようにひとつずつ滲んでいく。それはきっと��天国�≠ニ呼ぶにふさわしい夜だった。

「どうでした?空のデート」

 彼がこちらを見ずにそう言ったとき、空に向かって、笑っているような気がした。軽口のように聞こえるけれど、どこか、何かを隠している響きだった。

「……ずるいよね、そういうの。」
「ん?」
「いえ。なんかぜんぶが、夢みたいで──」

 そう答えた自分の声が夜気に触れて思ったよりか細かったのが、少しだけ悔しかった。

「夢じゃないですよ。ちゃんと俺の腕の中にいたでしょ?」

 冗談めかして笑うその顔はほんのわずかに目を伏せていた。月明かりに照らされる横顔がやけに静かだったから、私は思わず彼の袖をつかんだ。

「……どうして、誘ってくれたんですか?」

 間をおいて、彼は少しだけ首を傾けた。まるで風の音のほうが重要だとでもいうように耳を澄ますふうで。

「さあ……どうして、だったんですかね」
「……」
「ははっ。欲しがりですねぇ……名前さん」
「え?」
「いや。たまたま今夜の空があなたに似合いそうだったから──ってことにしておきましょうか」

 その言い方は、あまりにも、彼そのものの言い回しで、わたしはただ口を閉じるしかなかった。
 わかってる。たぶん私の気持ちに気づいいて、それでも彼はその輪郭を指でなぞるだけで、塗りつぶしたりはしない。
 けれど、それが彼のやさしさなのだと、そう
思った。

「──じゃあ、また……」
「……」
「連れ去って、もらえますか──?」

 精一杯の勇気。私がそう問うと、彼は一瞬だけ目を見開かせたが、すぐに目を細めて肩をすくめ小さく笑った。

「どうですかねぇ。あなたがまた、窓を開けてくれたら、考えます」

 その言葉にほんの一瞬だけ心臓が音を立てた。明言ではない。約束でもない。だけど、それは、確かな余韻だった。
 彼は軽く手を振り夜色に溶けた街のほうへ背を向けた。その背中に「またね」と声をかけようとして、思いとどまる。だって、この夜を、言葉で包んでしまいたくなかった。だから、ただ黙って見送った。

 月が高く澄んでいた。私の髪に触れる風に彼の羽根の名残が、まだ混じっている気がした。


 *


 週の半ば、午前の陽ざしはやわらかくて駅前の歩道にはまばらな人の流れがあった。
 特別な予定もなくて、コンビニでコーヒーを
買って、帰り道にふと空を見上げた。そのとき、遠くを横切る赤い鳥を見つけた。違うとわかっていた。彼の羽根は、あんなに小さく見える距離
じゃない。でも、それだけで胸が反応してしまうことに、自分でも気づいてしまった。

 その夜、部屋に帰ってからもずっと彼のことを考えていた。あの夜の風の音、彼の声、地上が
滲んで、遠ざかっていく浮遊の感覚。全部、心のどこかで繰り返していた。

 ��また飛びたくなったら言ってくださいね��

 そう言った彼の声が、まるで録音のように思い出される。それなのに、私はまだ、その一言すら返せていない。どうしてこんなに気になってしまうんだろう。どうして、ちゃんと聞けなかったんだろう。あの夜、どうして誘ったの?──って。
 夕方、風が少し強くなった。カーテンがわずかに揺れて、ベランダの向こうの空を連れてくる。
 彼の羽の感触がふと背中に蘇った。あの温度、あの腕の強さ。でも、それが本当にわたしだけに向けられていたのか確信が持てないままだった。
 私はスマホを手に取って、しばらく画面を見つめていた。連絡先には、彼のヒーロー名。でも、どうしても文字を打てなかった。

「……会いたい」

 ぽつり。声に出してはみたけれどそれは部屋の空気に吸い込まれて消えた。
 そんなとき、偶然開いたSNSのタイムラインに彼が救助活動をしている写真が流れてきた。写っている彼の横顔は、どこか疲れているようにも
見えた。その一瞬で何かが決壊した。理由なんていらない。私が会いたいと思った、それだけで、充分じゃないか。指が、勝手に動いていた。


名前

今夜、空
あいてますか?






 送信ボタンを押す瞬間、息を止めた。羽ばたく音もしない部屋の中で、心臓だけがひとつ、音を立てた。

 夕食のあと、彼からの返信はまだなかった。
スマホを何度も確認してしまう自分が、だんだん情けなく思えてくる。送った一文は、たった十数文字。それなのに胸の奥はずっとざわめいたままだった。
『今夜、空 あいてますか?』
 何度読み返してもやっぱりどこかぎこちない。もっと自然に言えたらよかった。もっと軽く振る舞えたらよかった。でも、今のわたしにはこれが精一杯だった。
 時計の針は、夜九時を少しだけ過ぎていた。
たぶんもう、来ない。そう思ったとき、心のどこかで音がしないまま、なにかが小さく折れた気がした。スマホを伏せてベランダに出る。風が頬をなぞる。空は広いくせに今夜はやけに遠かった。
 あの人は、今ごろどこを飛んでいるんだろう。何かを救っているのか、誰かを癒しているのか。そう思うたび、わたしだけが特別なはずがないと胸が静かに冷えていった。そのとき、ポンと短く通知が鳴った。窓を開けたまま中に戻りスマホを掴んで画面を見た瞬間──目の奥が、じんわりと熱くなった。


ホークス

空いてますよ






 たったそれだけ。でも、その六文字の向こうに彼の声が確かにあった。あの低くて冗談めかしていて、それでいて、人を抱きしめるような声が。その瞬間、どこからか羽音が聞こえた気がした。顔を上げる。夜の空気がすっと変わった。遠くで何かが風を割く音が、すこしずつ近づいてくる。
──来る。わたしの胸が、そう確信した。夜空を切って彼が飛んでくる。風に混じって羽の鼓動が聞こえてくる。わたしのために……今、この空を越えてくる。
 そして音も立てずに軽やかに。ベランダの縁にそっと舞い降りた��ヒーロー�≠ェ、そこにいた。

「返信、遅れてすみません。……ちょっと、風の読み、間違えてて」

 おどけたように言った彼の声に、わたしは何も言えず、ただ頷いた。言葉にしなくても、今夜はすでに��約束�≠フ中にいた。

 彼がベランダの縁に舞い降りたとき、わたしは言葉を、用意していなかった。足音はなかった。羽根の気配だけが夜の空気を押し広げた。室内の明かりが彼の輪郭を柔らかく照らしていてまるでここが帰る場所であることを何も言わずに告げているようだった。
 私はただ、目の奥が熱くなっていくのを必死でこらえて、すこしだけ顔を逸らした。しかし、「どうぞ」と言わなくても彼は黙って一歩を踏み入れた。それはこの部屋に彼がはじめて足を踏み入れた夜でもあった。玄関ではなく空から──。ノックではなく、風を連れて。それがどこか嬉しかった。それは心の鍵も同様で、開けたわけでもないのに、なぜか入ってくるのが当たりまえの人だった。その違和感のなさが、少しだけ怖くて、でもとても、愛しかった。

 部屋には小さな灯りだけがともっていた。彼は無言でコートを脱ぎ、わたしは何か温かいものを出さなきゃとキッチンへ向かおうとして──ふと後ろから手が伸びた。軽く、でも確かにわたしの手首を掴んだ。

「え……なに?」

 咄嗟に出たそれは声にならない声だった。彼は答えず、ただそのまま、私の肩に額を寄せた。
そしてまるで、誰かに許しを乞うような手つきで私の背中に腕をまわした。
 静かだった。冷蔵庫のモーター音さえ遠く感じるほど、わたしたちは、呼吸の音だけで会話していた。やがて彼が、背中越しにぽつりと呟いた。

「……今日、やっぱり……。キャンセルでもいいですか?」

 その言葉が��飛ばないこと�≠�意味しているのだと気づくのに、そう、時間はかからなかった。『飛ばない夜でも、いいですか?』──そう言い換えたくなるような声だった。
 私は少し黙ってから彼と距離を取り、コーヒーカップをひとつ手に取った。キッチンへ行くふりをしながらほんとうは心の中で、静かに、答えを出していた。
 私は一緒に飛ぶことよりも彼に、今夜だけは、ここにいてほしかったのかもしれない。

 カップに注いだ湯の音が、思ったよりも大きく響いた。それすらもふたりの間にある沈黙の濃さを際立たせていた。
 彼は、ソファの縁にそっと腰を下ろしていた。そのシルエットが、息が止まるほどに、泣きたくなるほどに、美しかった。
 カップを差し出すと静かに受け取ってくれた。そして、それを口に運ぶ前に、こう呟いた。

「空って、不思議ですよね。……飛ぶための場所なのに、たまには降りたくなる」

 私は、それに返事をしなかった。ただ、自分の膝を抱えて隣に座った。彼は続けなかった。私も追わなかった。なのに、言葉にならないまま、
何かがそっと伸びてきた。それは彼の手だった。そっと私の指先に触れ、確認するように、優しく手を重ねてくる。彼の手が、そうして私を包んだ瞬間、私はようやく理解した。この人は、今夜、��言葉にならないもの�≠�渡しに来たんだ、と。

 部屋の灯はそのままで、音楽も流れていなかった。でもふたりの間に確かに何かが降ってきた。それは羽根の重さでも、言葉の重さでもなく──ただの、心の呼吸のようなもの。
 彼がゆっくりと手を伸ばし、私を抱きしめる。力を込めすぎず、でも決して、離さない腕。その静けさのなかで私はなにも言わず、ただその胸の中に身をあずけた。
 呼吸の音が、耳に近かった。羽音はないのに、なぜか、風が吹いているような気がした。そう、たしかに、何かがこの部屋の空気を変えていた。
 夜が呼吸を止めたように感じた。彼の唇がわずかに動き、そしてそれは、そっと放たれた。

「好きです」

 わたしの肩に、微かに額を預けるようにして。大きな音ではなく、誓いのようでもなく、ただ、いまこの瞬間だけを大切にするみたいな声音で。

「ちゃんと、言葉で言っておこうと思って」

 そのとき、私の胸の奥に眠っていたなにかが、音もなくほどけていった。怖かったこと。確かめられなかったこと。受け取ってもいいのか分からなかったこと。全部が、ゆっくりと抱きしめられる側の沈黙に変わっていく。
 私は顔をあげなかった。返事もしなかった。
でもいま、彼の腕の中にいるということが、私のすべてだった。
 彼はそれ以上なにも言わない。けれども、抱きしめる強さだけが、すこしだけ変わった。
 
 今夜、翼は広げなかった。風も巻き起こさなかった。それでも、あの夜より、あたたかかった。
 きっと彼もずっと飛び続けてきたのだ。誰にも言わずに、誰にも預けずに。でも今夜だけはほんのすこしだけ、降りたかったんだろう。
 空を飛ぶことだけが、彼のすべてじゃない。
静かに羽を休める夜もあっていい。翼を閉じて、誰かの隣で目を閉じる時間も。今夜、彼はそれをわたしの部屋で選んでくれた。だからわたしは、羽音のない夜に寄り添った。飛ばない夜の、いちばん高い場所で──。





 

羽音に眠る、夜の約束


(やっぱ……ずるい、ほんと。)
(今夜だけずるいの、許してもらえますか?)
(……今夜だけって、それ、うそでしょ)
(ふはっ、……ばれちゃいましたね)

※image song『 Heaven/COMA-CHI 』


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