空を仰いだ瞬間、頬に触れた雨粒はまるで予告もなく胸に落ちた、静かな愛しさのようだった。
 ひとつ、ふたつと滴が皮膚を撫でるたび、夜の街が息を潜めて私たちの帰り道をそっと見守る。濡れた舗道に灯る街灯の輪郭がぼんやりと滲んでまるでこの一夜を祝福する光の花のように咲いていた。
 デートの余韻が静かに尾を引く中、言葉を交わさないまま並んで歩く距離は妙に落ち着いていてけれどそれが不思議と心地よかった。雨は静かに迷いのない手つきで降り始めていてその自然さがむしろ、懐かしいような気さえした。

「……あれ、降ってきましたね」

 ぽつりと漏れた私の声が雨音と溶け合いながら空へと消えていく。そのときだった。隣を歩いていた彼が、ふいに思い出したように立ち止まり、前に出した腕が、私の歩みをやんわりと塞ぐ。

「ストップ。……ちょっと待っててくださいね」
「……?」

 首をかしげる私の前で彼はポケットから小ぶりの黒い折りたたみ傘を取り出して「俺、傘持ってましたー」と、どこか照れくさそうに、それでも慣れた手つきで傘を開く様子は、派手でも芝居がかってもいない。むしろとても自然で、そして、とても、やさしかった。

「ほら、入りましょ。……あんま、大きくはないですけど」

 傘の中に身を寄せたとき、彼の肩と私の肩が、ほんのわずかに触れ合った。その一瞬、閉じ込められた雨音と彼の体温が交錯して息を呑むほどに静かな幸せが胸に宿った。

「ちょっと、狭いかも……スね」
「大丈夫ですよ。私、寄りますから」
「……いえ、こっちが寄ります。風邪、ひかせたくないので」

 傘の端から、彼の左肩に雨がかかっているのが見えて思わず言葉をのみこんだ。彼はそれに気づいていたのかいなかったのか、ただいつもと変わらぬ柔らかな声音で言った。

「濡れるのって、嫌じゃないんですよ」
「……」
「君が隣にいてくれるなら——たぶん、そんなのどうでもよくなるんです」

 その言葉が、まるでそっと、差し出された傘のように、心に触れた。
 彼の本音はいつも遠回しで、まるで冗談に紛れ込ませるみたいに届けられる。でも、だからこそその奥にあるあたたかさを拾えたとき、胸が締めつけられるほどにうれしかった。

「ねぇ、こうやって肩寄せて歩くの……俺たち、カップル感、すんごい出てますよね?」
「そりゃあもう……傘のサイズ的に、どう見てもそれですし」
「はは……じゃあ、もうちょっと、それっぽく、してもいいですか?」

 雨の音に紛れるように彼の手がそっと私の指を探し、触れ、絡めてくる。指先が重なった瞬間、胸の奥で何かが弾けるように跳ねた。

「ちょっと……どきどきしてきちゃったじゃないですかぁ……」
「こっちも。雨なのに火照ってる」
「……なに、それ」
「でも、こっちはずっと我慢してたんですよ?」
「……ばか」
「知ってます。でも、君の前だけはバカでいたいって、ちょっと本気で思ってるんです、俺。」

 まるで、祈るような声色だった。
 ふたりの歩幅はゆっくりで、雨脚は次第に強くなっていたけれど、誰もその歩みを止めようとはしなかった。むしろ、そうして歩く時間が惜しいとでも言うように世界がこの傘の中だけ別の時間を生きているようだった。

 降りしきる雨は、やがて本降りになっていた。けれどふたりはそれを気にも留めず、むしろその雨音に包まれることすら愛しく感じながら、一歩一歩を確かめるように並んで歩いた。
 外の世界がどれほど喧騒に満ちていようとこの傘の内側はまるで別の時間にいるみたいだった。閉じ込められた空気、肩先のぬくもり、手のひらに重なる指の感触──そのどれもが、今だけはと願うように、静かだった。

「……ねぇ、もう少し濡れてもいいんで、寄り道しませんか?」
「え……どこに?」
「んー、公園でも、コンビニでも。正直どこでもいいんです。ただ……名前さんと、この傘の中にいたいから」

 その声は軽やかなようでいて、どこか祈るようだった。たとえ雨に濡れても構わないというよりその冷たさすら君と分け合いたい──そんな心の奥の願いが、彼の言葉には滲んでいた。
 私は知っていた。きっとずっと前からこうして隣に並んで、歩くということを。予感していた、そんな、眩しすぎる未来を。
 でも、実際にこの距離で彼と歩いてみると、
それは想像していたよりも何倍も優しくて何倍もあたたかくて胸の奥をじんわりと満たしていく。この人の隣なら、傘の中でずっと歩いていける。たとえ雨が止まなくても、それでいいと、初めて本気で思えた。


 *


 小さな寄り道をしたあとの静かな帰路。ふたりとも全身にしっとりと雨をまとっていた。けれど寒さよりも、笑いの余韻の方が勝っていたのは、あの傘の下で確かにふたりの心が近づいたからだろう。
 やがてマンションに着き私は濡れた靴を脱いでそのまま玄関に腰を下ろした。

「……ふぅ、やっと着きましたね」

 小さく吐いた息が胸のうちに灯ったあたたかさをふわりと伝えていく。濡れた靴を脱いで、その場に腰を下ろすと、彼も隣にそっと腰を下ろして苦笑混じりにぼやいた。

「傘、あったのにねぇ……けっこう濡れてる」
「途中で笑いすぎましたし。狭い傘のせい、ってことにしましょ」
「……じゃあ、責任とって、今夜は看病してくださいね」

 その軽口に呆れながらも頬が緩む。そしてごく自然にふたりして中に入っていく。未だ呆れ顔の私に、彼はやさしくタオルを押し当ててくれた。

「拗ね顔も大変かわいいですけど、風邪ひいたら困りますからねー。先にシャワー、どーぞ」

 いつものようにやさしく、でもどこか少しだけ声が奥に沈んで聞こえた気がした。
 言われるがままシャワーを浴び、髪を乾かしてからリビングに戻ると、彼は、変わらずソファに腰を掛けていた。そして、肘を膝に乗せ、組んだ指の先を見つめながら、深く息をついていた。

「ホークスさん?シャワー……浴びませんか?」

 呼びかけると、はっと我に返ったように彼が
顔を上げる。

「あ……うん、はい。なんかちょっと、考えごとしてました」
「そっか。次、どうぞ?」

 促した私をゆっくりと見つめ返し、彼はふいに声を低めて言った。

「ねぇ……今日、」
「……?」
「帰らずに、ここにいちゃダメですか?」

 唐突だった。でも、その声の奥にあったのは、冗談でも、軽い気持ちでもなく──たぶん、どこかでしまい込んでいた願いのような響きだった。戸惑う私を前に彼は、言葉を選ぶように慎重に、それでいて、切実な声を重ねた。

「いや、別に、泊まりたいってわけじゃない……っていうか、うん、できれば——」
「……」
「帰りたく、ないんですよね……」

 絞り出すように続けられたその言葉は、思っていたよりも深く、静かで、まるで、雨音のようにしとしと、と私の胸に沁みていく。

「……相合傘って、なんか不思議ですねー。手、つないで、笑って。たったそれだけのことで……なんか、」
「……」
「こういうの、ずっと続いちゃえばいいのになぁなんて、思っちゃってました」

 そのまなざしは、まるで何かを置き去りにしてきた子供のように、切実だった。語尾がかすかに滲んでいた。濡れた髪の先からぽたりと滴る雫のように、彼の言葉は心の奥からゆっくりと落ちてきて、私の胸に音もなく染みこんでいく。

「このまま部屋を出てドアを閉めたら、さっきの時間ごと、どこかに消えちゃいそうで」
「……」
「そう思ったら、動けなくなっちゃいましたね」

 彼がこぼしたその本音には羽根も名声も背負わない、ひとりの青年としての脆さが宿っていた。
 不意に訪れる沈黙。その空白は決して気まずいものではなく、むしろ、雨上がりの空気に似た、やわらかな静けさだった。私は、ゆっくりと歩み寄り彼の前にしゃがみ込む。そしてそっと首からタオルを持ち上げ彼の髪に被せて静かに言った。

「じゃあ——、」
「……」
「ちゃんとお風呂入って。あたたかい飲み物でも飲んで……それから、今日の続き、しましょ」

 その瞬間、彼の顔にぱっと灯がともる。表情が解けて、タオルの中から覗いたその瞳が、まるで心まで裸にしたみたいに、素直に笑っていた。

「……もう、ダメですね。今日はぜったい、帰りません。確定です。」

 宣言するように言い切ったその言葉は子どものような拗ねと大人の誠意がまざった告白にも似ていて、私はただ静かにそっと目を細めた。

「……はいはい、わかりましたから。ほら、早くシャワーどうぞ、ナンバー2ヒーローさん」
「ほんと君ってさ……俺の傘みたいな人ですね」

 その冗談混じりの小さなやりとりの中に、夜の湿気とは別のぬくもりが宿っていく。二人の間に流れる空気がやわらかく緩んでやがてどちらからともなく笑った。

 窓の外ではすっかり雨がやんでいた。それでもこの部屋の中では時間が止まったままでも構わないのだと、初めて本気で思えた。
 交わしたキスの余韻がまだ、唇に残っている。ずぶ濡れだったはずの体の奥が、今も熱を帯びていた。
 今日のことを私はきっと一生、忘れない。彼もまた、そうであってくれると信じたい。


 *


 シャワーの音が止み、湿り気を含んだ空気と
ともに彼が戻ってくる。髪から滴を落としながらバスタオル片手にゆっくりと私の隣へ座る仕草になにか、言葉以上の気持ちがにじんでいた。

「ただいま」
「おかえりなさい。あー、ほら。やっぱりもう、帰る気なんてないって顔、してますよ」
「ですねー。なんかもう帰る気ゼロになってますねー」
「まあ、外はまだ寒いでしょうからね」
「……うん。今日は、傘もすんごく小さく感じたしね」
「それは……ふたりが、近かったからです」

 濡れた髪からしずくが落ちるその横顔に、私は目線だけで返す。言葉は冗談めいていたけれど、彼の目は最初から、今夜の行き先を定めていたのだと物語っていた。彼は視線を落とし、ぽつりと呟くように言う。

「……ねぇ、さっきの帰り道でキスしたの、覚えてます?」
「え? あ、う……うん」
「あのキス、濡れてたはずなのに、なんかすごくあったかくて」
「……」
「思い出すたび、心臓が落ち着かなくなるんですよね」

 その言葉は決して技巧的でも情熱的でもない。ただただ、真っ直ぐで。ひとつひとつの音節に、あの一瞬に詰め込まれた彼の想いがそのまま乗っているようだった。
 自分でも気づかないうちに指先に力が入り彼の言葉のひとつひとつに、私は静かに飲み込まれていく。

「ねぇ、あれ……もう一回してもいいですか?」
「……」
「……」

 戸惑いながらも小さく頷いた私に彼はすぐには動かず、ただほんのわずかに身を寄せたあと一瞬だけ私の目の前で呼吸を止めた。目と目が合う。

「さっきより、もっと好きになってる気がする」

 その声が夜の帳をやわらかく裂いていく。そして今度のキスは、あの雨の中のものよりもずっと熱く、ずっと深く、ずっと優しく、心の奥底まで染みわたるようだった。ただ触れるのではなく、ただ重ねるのではなく。まるで過去をそっと塗り替えるように私たちはそのひとつのキスに新しい意味を与えていった。

「……もっと、知りたい。触れて、抱きしめて、全部、自分のものだって、言いたくなる」
「……ホークスさんになら、ぜんぶ、預けても
いいって、思ってます」

 口に出した瞬間、彼の両腕が何かに突き動かされるように私を強く抱きしめた。けれどその力強さの裏で彼の腕はほんの僅か、震えていた。たぶんそれは彼が差し出そうとしている��心の傘�≠ェ本当はとても脆くて、それでも彼が自分自身を、私を、世界を——必死に守ろうとする人だと示すたしかな証だった。

「名前さん、男がどういう生き物かって、知ってます?」
「え……?」
「そんなこと言われたら、止まれなくなるんですよ?」

 その声に滲んだ苦笑はどこか不器用で、けれど優しさを諦めきれない人だけが持つ温度を宿していて──それがたまらなく切なくて、だからこそどうしようもなく、愛おしかった。

「……止まらなくていいです。今夜だけは——」

 そしてその夜、私たちは雨の帰り道で交わしたあの最初のキスを何度も、何度も思い出すように重ねた。まるで、世界でたったひとつの傘の下、ふたりで雨を分け合ったあの帰り道の続きを胸の奥で、永遠になぞるようにして——。





 

君のための傘になれたなら


(雨、降るたびに思い出しそうですねー)
(え、なにを?)
(名前さんのくちびる)
(っ、……も、もう……!」)

※image song『 umbrella/Mrs. GREEN APPLE 』


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