「どうりで…。」

ローくんがベッドに座って、はぁ。と溜め息をついた。まだびっくりして体が硬直したままなのを感じながら私はローくんの足元のフローリングに座る。思った以上の気まずさに、ローくんが凄く遠くに感じられる。

時計を見ると二十時を少し過ぎたところだった。不採用の通知を開いたのは十九時前だったから、あれから一時間ほどしか経過していないのに、なんという状況の変化であろう。あんなに落ち込んだ不採用の結果も、今は何の影響も持たないただの紙切れでしかなかった。そのあと起きた出来事が私には事件過ぎたのだ。

「あの…ローくん、ひどいこと言ってごめんなさい」
「あ?…もういい」

くだらねェ。とローくんは本当にもう気にしてなさそうだったので、ほっとした。けれど。気持ちを知られて、こんなにだるそうな顔をされるなんて…悲しくなる。でも、彼の気持ちを想像するのは難しいことではない。この人が友人の従兄、しかも何年も前から世話を焼いて来た私からの好意に、戸惑ったり面倒に思うののは当然の事だ。絶対にこいつだけはありえない、と思う相手から好かれても迷惑でしかないだろう。

私の場合に置き換えてみれば、例えばルフィから告白されるようなものかも知れない…想像するだけでオエッとなるし、ローくんにとっては、ちょうどそれにあたるのかも知れない。もしそうだったら“二度と来ないで”と言い放ったこと以上に彼にストレスを与えてしまうことになる。

「ローくん…ごめんなさい」
「いいって」
「いや、そのことじゃなくて…その…、好きになっちゃって」

壁に目をやっていたローくんがベッドに座ってから初めて私を見た。鋭い目つき、意思のある眉毛、通った鼻筋。大好きだなぁと思った姿も、今は知らない人みたく怖く感じる。まるで、五年前、初めて会った時のように。

「別に謝ることはねェ」
「…でもローくん、もうここには来ないでしょ?」

ここに来なくなったら、それが一番辛いなと私は思った。ローくんを嫌な気持ちにさえてしまうことよりローくんが私を嫌うことより、ここに来なくなってしまう。永遠に二人きりになることがなくなってしまう。そう考えると背筋が凍るようだ。
二度と会えなくなるという事は恐らくないだろう。ルフィ絡みで少なくとも遠目にこの人を見る事くらいはできよう。でも、この部屋に眠りに来るローくんや、安心しきって膝に頭を乗せるローくんや、軽口をたたくローくん、アイスクリームを持って入って来るローくんには会えなくなる。そんなのは辛すぎる。とても、耐えられない。そんなのは大学を卒業できないことよりも就職できないことよりもローくんに最愛の彼女がいることよりもずっとずっと辛いことだ。

「そんな事言ってねェ…泣くな、泣き虫」
「…泣いてないけどねっ」
「いいから早くここ座れ」

泣いてはいないけれども、
青ざめて涙目にはなっている、多分。

ローくんがパンッと、自分の隣のシーツを叩いたので私は一瞬、呆然として立ち尽くしてしまった。隣に座れ、なんて想定外の命令だった。お説教とかなら、まだ分からなくもないけれど。血の気が引いた自分の頬に熱が灯るのを感じる。なんて忙しい顔なのだろう。
おずおずと近寄って、ベッドの端に少し離れて座る。自分の心の平穏のために、少し距離感は必要だ。会えなくなるのは死ぬほど嫌なくせにぴったりくっついて座る勇気はない。

「で、ナマエは俺にどうして欲しいんだ、言ってみろ」
「え?ど、どーしてって…」

ローくんにして欲しいこと。
髪を撫でたり、顔に触れたり、意味もなく見つめたり…あの露出の女の子に許していることを私にもさせて欲しい。
しかし、このあとお説教タイムが待っているかと思うと、あまりうかつな事は答えられない。けれど、少なくともローくんに変に気を回して、ここを避けるという選択肢は無くなったように思われた。私には今は、それだけで十分に感じられる。

嫌わないで、避けないで、今までどおりにしてて。でもきっと、数日したらもっと欲張りになっている。押し黙る私に呆れたような顔でローくんが言う。

「なんだ、何もねェのか」
「……」
「好きだったら色々あるだろ、付き合ってくれとかいっぺん抱いてくれとか、旅行につれて行けとか」
「………全部。」
「あ…?」
「全部、して。」

押し黙った後なので、なんだか変な具合に声が出る。
全部。付き合うとか、一緒に寝るとか、旅行とか。提案されたら全部して欲しくなった。もちろん、断られて叱られるのはわかっているけれど。

「そのうち全部して。」

全部して欲しいし、私だけを見てて。
嫌なら諦めるけど、言ってみるだけは許されるなら。

「いい性格してやがる」

ローくんが微かに笑う。その瞳に宿る光が呆れによるものなのか、好奇心によるものなのか私にはわからないけれど。

「けどなァ、俺には今すぐにナマエを女として見る事は出来ねぇ」
「…うん、」
「妹までとは言わねェが、まぁ…親戚くらいには思ってる」
「……うん」

ぽろりと落ちた涙は、悲しみによるものと言うよりも、抑えて抑えていた感情が蓋から漏れ出てしまって感極まったためによる、生理現象のようなものだった。ローくんが私のことをひとりの女として見ていないことくらい百も承知なことなので、それほどショックではない。そのくらいのことは想定内だ。それでもいい。付き合うなんて、夢の中の話なことくらい私だってわかる。もう大人なんだから。それでもいいから、傍にいて欲しい。他に女の子がいてもいいから。

「それでもいいって言うんなら、いいけどな」

ローくんが足を組んで、その膝に手を置く。
涙を拭いながら私がきょとんとしていると彼はその膝に置いた手を、私の髪にやった。彼の長くてしなやかな指が私の髪をすくう。

「わかった」
「なにが…?」」
「全部、やってやるよ。」
「……」

「ナマエの望むこと、全部」そうローくんは言った。
素早くローくんの上半身が動いて、私の顔の前にローくんの顔が現れる。驚く事も忘れて、ぼうっとしている唇に彼の唇が音を立てて、ちゅっと触れた。

「……え、……!?」

互いの顔に互いの影が伸びるほどの近い距離で彼の口角があがったのが見えて、目はぎらぎらしていてその顔が、もう一度近づいた。今度は唇が触れず彼の舌がぺろりと私の唇の真ん中を舐めて離れて行った。まるで味見でもしたみたいに。

「………ぇぇぇえええええ!?」

こ、腰が抜けそうなんですけど!!
驚愕して体に血液がドクドクと大わらわで巡りはじめる。心臓がばくばくしている。顔が熱いし、ローくんは真面目な顔をしているし。
え、いま、キスされた………の?
え、どうして……。

「ナマエ」
「え、!…なに?」
「お前…男とこんな事もしたことねぇのか?」
「ないです。」

今なら、なんでも自供してしまいそうな精神状態なので馬鹿正直に答えてしまう。

「めんどくせェ女だ、お前は…」
「はい…」
「手間がかかるし、世話は焼けるし…おまけに生娘」
「生娘言うな!」
「じゃあ処女。」
「最っ低!!…だってしょうがないじゃん!相手いないんだから」
「だってしょうがないじゃんじゃねェ」
「……っ」
「はァ…、ナマエ。お前に女を感じるのはいつになるだろうな。今は犬にでもキスしてる気分だ」

真っ赤な顔のまま、じっとしている私にローくんがふと笑う。

「ナマエ」
「ん?」
「幸せか?」
「……ん。」
「ならよかった。」

顔を離したローくんが優しそうに笑ったので、あ、と思った。胸がちくりとした。五年前の事を思い出したからだ。ルフィと居たらローくんが現れた。目つきが悪くて冷たくて強引で俺様で。私の理想からは遥か遠くかけ離れているその姿に心の底から警戒した私。だけど、私笑ったら優しく微笑み返したあのローくんと今キスして私をみているローくんが同じだったから。同じ顔で微笑んでいる。

「じゃあ寝るか」
「え、寝る?あ、じゃあ私…」

そう言えば、不採用とかでゴタゴタしていたけれど、元をただせば彼は家に寝に来たのだった。ふと我に返ってベッドから下りようとした私の手をあの大きな手が掴む。

「一緒に寝るぞ、そうして欲しいんだろ」
「え…でも私まだ眠くない……」
「アホか…ハァ、頭が痛くなる…いい、そこで待ってろ電気を消す」

ベッドから起き上がった彼が、いつもそうするように豆電球だけを残して照明を落とす。たちまちあたりがセピア色に包まれる。ローくんの肌はより白く髪や瞳はより黒く茶色っぽい照明に包まれた彼が振り返ってベッドに座る私を見た。

「ほら、そこに寝ろ」
「え。あ、う…うん」
「バカ、大の字になるな俺も入れろ…狭いベッドだな、本当に」
「ギャァア…!!なんでパンツしか履いてないの!?」
「そりゃあ彼女と寝るのに遠慮はいらねェだろ、俺は基本パンツ一丁で寝る派なんだ」
「ヒィイ…ち、近寄んないで!!」
「ハァ…もう黙ってろ」

異様なほど素早く衣類を脱ぎ去ってローくんがほぼ裸でベッドに入ってくる。壁にくっついて、なるべく体が接触しないように出来る限る縮こまっている私をうしろから「もっとこっち来い」と腕が伸びてくる。彼の手が私の首に触れ肩を抱き髪を撫でた。

「寝るぞ、」
「……」
「ナマエ……」

ぷっ、くくく、と噴き出す声と振動が薄手の掛け布団を伝わって感じられる。ローくんが笑っているのだ。たぶん、私が震えているから。

「ほんとに可愛い奴だなお前は、取って喰われると思ってんのか?」
「…そういうわけじゃないけど」
「まァそのうち慣れる、こっちを向け」

震えながら、そっと寝返りを打って壁側からローくん側に体を向ける。私の頭の下に腕を通して、もう片方の腕で私の肩を抱いた彼の微笑を浮かべた顔が目の前にあって、目がちかちかした。睫毛が長くて、鼻筋、くちびるが整っているから。目が怖いから。なぜか笑っているから。ドキドキしながら、もう一方では、どこか冷静な私がいる。

さっきローくんは“犬にでもキスしている気分”と言ったけれど、今もそうなのだろうと私は思った。震えて、ドキドキして、怖がりつつ期待している私…なんて馬鹿なのだろう。
飼い犬だから優しくする。頭を撫でてキスして、悪い事をしたらその手を引いてやる。大人しくしていたらご褒美をやる…。私はずっとそうだったのだ、と思った。ローくんにとって私は、犬と同じであるに違いない。弱って癇癪を起しているから、こうして宥めてくれているのだ。それにあの女の子。あの女の子みたいに扱ってもらうには、どうすればいいのだろう。

「…このあいだ一緒にいた子、彼女なの?」
「?」
「私を見掛けたって言ったでしょ、あのとき一緒にいた女の子だれなの?」
「覚えてねェ、いたか、そんな女」
「あの露出してた女の子だよ」
「さァ、道でも聞かれたのかもな」
「わざわざ?ローくんに?オーラの塊に?目つき悪いのに?」
「それ褒めてんのか、けなしてんのか」
「……」
「…ナマエが心配するような相手じゃねェ」

もうそれ以上言うな、と言わんばかりに唇を塞がれる。ん、と驚いて唇を引っ込める私に、執拗な唇が口元を奪いに来る。頭を抑えられているため、逃れる事が出来なくて舌が侵入してきたとき、「んー!!」と声を出して抗議したけれどそれが留まることはなかった。口の中をつるっとした舌が滑って、器用に私の舌に絡まって来る。もがいて顔を離すと舌から逃れることはできたが唇は触れたままだった。キスしたままそっと目を開けると、目を開けたままのローくんと目が合う。何か考えているみたいな、そういう遠い目をしていた。

「あ、」

と、ローくんが言う。

「その気になった」
「ん?」
「ナマエ、ナマエちゃん?」
「……え!?」

甘えたような腕が私の腰に回され彼の唇が私の耳や首筋に触れる。横向きになっていた体を仰向けにして彼は私の腰の上に跨って来た。

「え、ちょ、ちょっとなに!?」
「シぃー、大人しくしてたら痛くねェ」
「はいっ!?」
「静かに天井のシミでも数えとけ」
「え……っ??」

て、天井にシミなんてないけど…と思いつつ、馬鹿正直に天井を眺めていると彼の唇が鎖骨に触れ手がスウェットのズボンを下着ごと脱がしにかかったので私は声にならない悲鳴をあげた。

「やだ!やめてやめて!タンマタンマ!」
「元気だな、さすがに活きが違う」
「やーーーーだーーーーーぁぁあああ!」
「観念しろ」
「…うぅぅぅぅッ。」


―


乱れたシーツ、床に落ちた枕、脱ぎ散らかした衣類。
放心しながら部屋の様子を眺めている私にローくんが「ほら、いい娘が。パンツを履け」とベッドを下りて取っ払われた下着とズボンを返却して来た。私はもぞもぞとそれを身に着ける。ベッドから出るとローくんが冷蔵庫から水をくんで持ってきてくれた。別に欲しくなかったけれど一口飲むと思ったよりも水分を消費していたらしくゴクゴクと飲むことが出来た。

二人でベッドの端に腰をかけて、なんとなく気まずい雰囲気を感じながらしばらく黙り込む。自身の下着だけ履いたローくんの横顔をそっと見ると、気だるげに前を見ていた彼が口を開いた。

「アイス、」
「え?あ…忘れてた、ごめん」
「もう溶けてるだろうな」
「冷凍庫に入らなくって…すぐ食べなくちゃいけなかったのに」

テーブルに置かれた箱に手を伸ばして容器に触れると、もう溶けてしまっていて私はがっかりした。残された冷気がひんやりして火照った手に心地いい。

「冷凍庫がいっぱい?」
「ローくんが補充してくれるからアイスでいっぱいなの」
「そうか、じゃあソレ凍らして前のは今食えばいい」
「あ、そっか。うん、そうする。ローくんも食べるでしょ?」

「あぁ…、俺は……」と、断りそうな雰囲気だったので、有無を言わせず私が早口で言う。

「ふたつ食べなきゃなんないから食べてよね」
「…ああ。」

ちょっと弱ったような声に私は気づかれないように笑って冷凍庫からバニラとストロベリーのアイスクリームを二つ持ってくる。

「どっち食べる?」
「バニラ。アイスって言ったらな。」
「はい。」

彼の隣に座って、ひとくち口に入れる。ストロベリーの甘酸っぱい香りと舌でとろけるふんわり感に嬉しくなる。

「ふぅん、久々に食うと旨いな」
「ね!おいしい。ストロベリーもひと口どーぞ」
「……」

ローくんは私のストロベリーを一口食べて、しみじみした感じで「やっぱりバニラだな」と言って自分のアイスクリームを食べ始めた。

「ナマエ、お前な、就活べつに無理しなくていいんだぞ」
「え?…なに、急に」

就活のことなんてすっかり忘れていたから面食らって彼の横顔を見つめる。彼は一口バニラを食べて、それから私の顔を見た。少し歪んだ笑みを浮かべる彼の顔は何だかいつもより、ずっと近くて特別なものに感じられる。それに、とっても恥ずかしい。

「大学院行くなり何なりで色々と選択肢はあるだろ、落ち込んでねェでよく考えてみろ」
「え…あ、うん」

もうすでに全く落ち込んでいなかっただけに逆になんだか私はちょっと傷ついた。私のことを抱いてくれたのも、付き合うと言ってくれたのも私が第一志望に落ちて落ち込んでいたからなのだろうか。全て慰めによるものだったら、それこそ泣いてしまいそうな事態だ。

「就活なんかどうでもいいだろ」
「え?」
「この際、俺のとこに永久就職って手もあるしな」
「…うん………はっ!!?」
「さすがにまだ早いか、」

けれど私を慰めようとしてくれているローくんの愛情が私が考えていたよりも、ずっと私に注がれていることを知る事が出来た気がした。いつも“就活頑張れよ”と言っていたくせにちょっと落ち込んでみたら“就活しなくていい”だなんて。本当に、なんていうか…可愛がってくれているんだなあって。家族みたいに。

「でも私、もうちょっと頑張ってみるよ」
「そうか、偉いなナマエは。頑張り屋だな」
「ローくんがいたら頑張れそうな気がするし」
「俺に出来る事なら何でもしてやる。ナマエは何も考えなくていい、自分のことだけ考えてればいい」
「うん、ありがとう」

ローくんが優しい顔で頭を撫でてくれた。

「あ、」
「ん?」
「それより麦わら屋、お前に手出したって言ったらどんな顔するか…」
「え!?ちょ、変な事言わなくていいよ!」
「殴りかかってこられそうだ」
「なんでそんなに邪悪に笑ってるのさ、暴力振るうわけないでしょ」
「変わりにシャチに怒られそうだな、あいつお前の兄貴ヅラしてるし」
「ふふ、そうだね。…ねぇ?」
「あ?」
「私のこと、好き?女の人として見てくれる?」

俯きながら私はピンクのアイスクリームに混じる赤い果肉を見つめて言う。

「家族としても見てるし、自分の女として見てもいる」

バニラのアイスクリーム。
半分ほど減ったそれを、「もういい」と私に押し付けてローくんが言う。

「そうなの?」
「それって最強だろ」
「うん、たしかに」
「よかったな、ナマエ。まァ…そのうち実感する時がくるだろ」
「…ありがと」

最強。
たしかに、
最強だなあと思って頬が緩んでくる。

もし本当だったら、これ以上望むことは出来ないし、そんなにすごい愛情を実感したら溶けてしまいそうだなぁと。にやけてしまうほどに。

「しかしアイスってそんなに食えねェな、もう飽きた」
「そ?おいしいよ?」
「なんだ、好きなのか?もう飽き飽きしてたかと思った、冷凍庫いっぱいに詰め込んでるくらいだからな」
「うん、これからもお土産はアイスクリームがいいな」
「そうか、じゃあそうする」

ローくんの唇が私の瞳の下に触れる。
アイスクリームを食べていた唇がひんやりしていて興奮して熱のこもった肌にとても気持ちいい。

「でも味は色んなのにして」
「…わかった」

日替わりにしてやる、と微笑むローくんを見ていたら確かに溶けてしまいそうだなぁと言うほどの愛情を感じることが出来た。





—————

(あの例の女だけど)
(うん?)
(アレ、麦わら屋の女だ。)
(えっ……!?)

[ PREV | NEXT ]
戻る/TOP
VERTEX