本気じゃないと知っていた

いまでも鮮明に思い出す。綺麗な髪の毛、白い肌、狂いのない純真無垢な大きな瞳。

手に持っていた煙草の煙がその綺麗に彩られた物体に掛からないよう、思わず、すっと手を手を引いたあの瞬間。

渡された小さな紙袋。

隣に越して来たと物騒なこの地域で堂々と自身の名を名乗った、その甘くて耳を貫くような声色。

それでも俺は──白≠黒≠ノ塗りつぶす天才だったようだ。

唯一無二の親友の天才≠ニも異なる。
俺は、真っ黒だ——。








頭が痛い。二日酔いだ。

何度も経験したことのある痛みに額を抑えながら体を起こす。初出勤日が週明けでよかった。もしも今日だったら、こんな痛みじゃまともに働けなかっただろう。

朝だとは思うがあの二日酔いの朝特有の頭痛とともに瞼の裏に感じる不快感がない。もしかしてまだ夜明け前かと思えばもったいなくも感じる。

二度寝しようにも気怠い体は水分を欲していていつも枕元に置いているペットボトルを探るも一向に手に触れない。

用意せずにそのまま寝てしまったのかといまだ目を閉じたままため息をついて、ベッドに腕を戻す。

そのときに触れた感触に、はじめて違和感を覚えた。

なんか、隣あったかい…?
家の、ベッドじゃ、ないような……?

そこでようやく目を開ける。

薄暗い室内は完全遮光のカーテンのせいで、外の光が入らないのか、時計はしっかり朝の七時を回っている。

まったく見覚えのない部屋に置かれた大きなベッド。そこで寝ていた自分と見慣れない男の姿に一気に血の気が引く。

二日酔いじゃない頭痛に顔がどんどん青くなるのを自分でも感じたくらいだ。

「……」

もしかして、もしかする…?初めてを見知らぬ人と夜を越しちゃった感じ……!?

頭がはっきりしてくると体の感覚もはっきりしてくる。あらぬところが痛むのはそういうことなのか。
足の間を伝うのはもしかして。

ベッドの隣に置いてあるゴミ箱を恐る恐る覗いてみる。……ない。


「……ねえな」

背後から声が聞こえてぎょっと振り返る。

こちらも寝起きらしい男が私の背後からゴミ箱を覗き、こめかみを指で押さえていた。

「あ、あの……、」
「……」
「…………………どなた、ですか」
「……覚えねえのか」
「ーーっ申し訳! ございませんンンっー!!!!」

咄嗟に土下座をかました私に男が驚いたように目を丸くした。

「いっ、たぁ……!」
「大人しくしてろ。だいたい謝るのは俺の方だ。……目覚めて覚えてねえ奴とこんな……」
「うっ……」
「俺も昨夜は久々に酔ってたんだよ。」

男はハアと浅く溜め息をついた。私はゆっくりと目を一度瞬かせる。

「普段ならこんなことはしねぇんだけどな……、加減も出来てなかったしゴムすらつけてなかった、みてえだ」

や、やっぱりーーー!!!?

「とりあえず今からでも処理したほうがいいな。……一人で出来るか?」
「そ、そうですよね! や、やりますから!」

見知らぬ男にそんなことまでされてはたまらないと両手を突き出しぶんぶんと振る。

慌ててバスルームに駆け込もうとしたが、腰が痛くて思わず蹲る。

「安心しろい………運ぶだけだ。」
「うぇ!?」

人生初の俗に言うお姫様抱っこに思わず目の前の首筋に縋り着いた。
想像していたよりも安定感があって、思わず目の前の胸板をまじまじと見つめてしまう。

「……筋肉すっごい」
「……お前はもう少し危機感を持った方がいいぜ」
「あっ。すみません……!」
「……いや、いいけどよ」

バスルームに下ろしただけで何もせずに踵を返した男にきょとんとして、こともあろうにイイやつじゃないかなんて思ってしまう私は死んだほうがよさそうだ。

とりあえず出されたものをなんとかしなければと私は躊躇いながらもそこに指を伸ばした。

情けない……
ほんと私、なにしてんだろ。


色々な意味で疲れ果てて部屋に戻れば、男がまだ居てぎょっとした。

普通こんな場合っていなくなってるもんじゃないの!?と軽く混乱状態の私に息を吐いて、スーツに着替えた男がタオルを被せてきた。

「わっ、」
「髪がまだ濡れてるぜ。風邪をひいたらどうすんだよ、拭けよ」
「す、すいません……。……あの、」
「三井だ。」
「ああ、三井さん……」

しれっと自己紹介されて面を食らってしまう。私も名を名乗ろうとしたけれど先に彼から口を開いた。

「……言いづれえだろうけど、昨日は、その…周期的には、」

感心していたのも束の間、そんな無遠慮なことを淡々と質問されて一瞬ぽかんと口を開けてしまった。

「……!だ、大丈夫なはずです!たぶん!」
「……そうか。もし問題があったら連絡しろよ。まあ……問題がなかった場合でもしてくれると助かる。」
「えっ、あ! わ、わざわざすみません……!」

三井≠ニ名乗った男は連絡先を書いた紙を渡してきて私は驚いた。普通はヤり逃げするだろうに、随分と律儀な男だ。

私も慌てて自分の番号を書いて手渡すと、彼はそれを手帳の中にしまった。

「…そろそろ出れるか?家まで送っていく」
「……えっ!?いや、そこまでご迷惑をおかけするわけには……!」
「動けんのか?」
「うっ、」

正直、初めてではないのに経験したことのない痛みに立っているのもつらいのが現状だ。

私は諦めて彼のご厚意に甘えることにした。








わざわざ玄関まで送ってくれた三井さんはこれから仕事に向かうらしい。

忙しい中、本当に申し訳ないと思いつつ、なんとか寝室まで歩きベッドに倒れ込んだ。

周りがどんどん結婚していく報告と、ずっと叶わない相手に恋心を抱いている自分にうんざりしていて飲み過ぎた昨日のことがずいぶん前のことのように感じる。

いっそすべてが夢だったらと思うが、腰の痛みがそれを許してくれない。

「好きなひと以外のメンズと、しちゃった……」

こういうのは好きな人とだけ、と漠然と考えていたが知らぬ間にそれを失っていた。

「そういえば、キスも、したのかなぁ、」

肉体的にも、精神的にも、なんだか疲れた。押し寄せてくる眠気に抗わず、私はゆっくりと目を閉じた。








——ピンポーンピンポーン。

チャイムの音が聞こえて目が覚めた。今何時だろうと思って携帯を確認すれば……

「20時!? てか何この着信!!!」

なぜ気づかなかったと思ったらサイレントモードになっている。そういえば寝るからついうっかり通知はオフにしてた!

着信を確認しようとすれば、またチャイムがなって慌てて飛び起きた。

「はーい! いま出まーす!」

着替える間も惜しい、とりあえずズボンだけはとベッド脇に放っておいた部屋着のズボンを履いてよれよれの部屋着シャツのまま玄関のドアノブに飛びついた。

「お待たせしまし、」
「名前っ!」
「あれ、茜」

彼女の名前は、水沢茜みずさわあかね。前の職場で知り合った今では飲み友達というか、まあ友人だ。

弟がイチローくんという名前で、元富ヶ丘中のバスケ部主将だったということしか覚えていないけれど、一度だけ茜と一緒にお酒を交わしたことがある。

「よかった、無事で……!なんで電話に出なかったのよ!」
「ご、ごめん!ちょっと二日酔いが酷くて寝てて…!てか、いまさっき起きたの」
「昨日、私が先に帰っちゃったからよね」
「いやいや、そんなことは……」
「残ってた友人に聞いたらあなたを置いて出てきたって言うし、肝心の本人は連絡取れないし……」
「……すみません」
「なにかあったんじゃないかと……。あ!あとこれ、玄関のドアノブにかかってたわよ」
「え?……なにこれ」

茜が差し出した紙袋を覗く。スポーツドリンクと丁寧に包装された箱。中にはメモ用紙を折りたたんだ紙も入っていて首を傾げながらそれを開く。

【無理はするなよ】

なんとなく見覚えのある筆跡だが名前のないそれにやはり首を傾げたまま包装された箱を取り出す。

「!! こ、これ……!」
「え?なに?」
「ま、まぼろしの……!一般庶民には手が出せないという、伝説のお菓子……!!!」
「あら、ジゴバじゃないの!」
「はわわ……!ほ、ほんもの?中身だけちがうとか、そんなオチじゃないよね……!?」

震える手で丁寧に包装紙を剥がし、箱を取り出す。箱にもあのZIGOBA≠フロゴ。

ジゴバといえば世界的に有名なスイスの超高級製菓会社。百貨店に商品がごく稀に並ぶこともあるが、試食は一切なし。

基本的にはジゴバ専門の菓子店でしか手に入らないが、人気商品は一年以上予約待ち。チョコレート一粒ですら数万の値段がつくものもあるんだとか。

世界のセレブ御用達のお菓子、それがジゴバだ。茜を連れて部屋の中に戻り、震える手で箱を開ける。

「こ、こ、こここれ!これ!!!」
「……本物?はじめてみたわ」
「ジゴバの売れ筋ナンバーワンのチョコレートの詰め合わせ!」

個包装されたそれを正面から見てもひっくり返しても目に入るZIGOBAのロゴ。信じられなくて思わず頬を抓る。

「痛い! 現実!」
「こんな高級なものがあなたの玄関のドアノブに無造作に引っ掛けられてるとはね……。この箱ひとつで何万円するのかしら……?」

頭を捻る茜に私はもう一度メモ用紙を取りだして寝室に駆け込んだ。そして三井さんから手渡された連絡先の書かれた紙と見比べる。……うん、同じだ。

慌てて携帯を取りだし、そして着信履歴の画面を開いたままだったと軽く目を通す。ほぼほぼ相手は茜だったが一件だけ。未登録の相手からの着信に確信を持って画面をタップした。

『……もしもし、……三井だ』

向こうも確信を持ったのか、一応名をなのってくれたのを聞き入れて私は声をあげた。

「やっぱり! あの、いま玄関先に!」
『あぁ、一度電話を鳴らしたけど出なかったからな。寝てると思ってそのまま置いてきた。体は大丈夫か?』
「あ、大丈夫ですお気遣いいただき……、ってちがう!あれ!あのお菓子!じ、じじじ、ジゴバの……!」

落ち着いたり興奮したりを繰り返す私がおもしろかったのか、電話の向こうから微かにフッと笑ったらしい息遣いを感じる。

『食べるもんがあるかと気になってよ。今日一日はつらいだろ。好みが分かんなくて適当に入れておいた』
「てきとう!? ジゴバがてきとう!?こんな高価なものそんなポロッといただくわけには……!」
『……ツテがあんだよ。元手はかかってねえ』
「え、それなら……、いやいやいや!そういう問題じゃ、」
『なんだ、チョコは嫌いだったか?』
「大好きですけどっ!?」
『なら問題ねえだろ。とにかく今日は大人しく休んでろ。じゃ、俺は仕事に戻るぜ』
「え、あ、す、すみません!お仕事中に……!遅くまでお疲れ様です……!」
『……、あァ』

プツリと切れた電話の画面を呆然と見つめる。電話が終わったと判断した茜が顔だけ覗かせてきた。

「………あなた宛のジゴバで間違いなかったようね」
「……あかねぇ…。……ほんとに食べていいと思う?これ……」
「相手も分かったならいいんじゃないの?あなたもよくジゴバのお菓子が食べたいって言ってたじゃないの、これが最初で最後の機会かもしれないしね」
「そ、そうだよね!うん、最後かもしれないもんね…!いや確実に最後だし…!ありがたくいただきます……!」

リビングに戻ってきてジゴバの箱を拝む私のよれよれのシャツからうっかりのぞいてしまった胸元に赤い跡がついているのが目に飛び込んできてしまい、茜は目を剥いた。

幸い私はジゴバに夢中でそんな茜の様子に気づくことはなかったので、茜が昨夜の出来事を容易に想像出来てしまって内心で痛む頭を抱えていることなど私が知る由もない。

「あ、茜も一個だけあげようか?一個だけだよ」
「あ……、ええ、ありがとう」
「ふふ、茜にはいつもお世話になってるからね!あ、他の人には内緒だからね!」

心配しないで。と、茜は情けなく微笑んだ。

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