第一話
太陽に嫌われた少女




 私から昼を奪って夜空の月からその姿を削って
 でも太陽はちゃんと照らしてくれているんだ
 たったひとつの本当に大切な光と巡り会うために

 最後の道しるべを。




Song of the Sun





 湘南の潮風が優しく窓の外の樹木を揺らしている。
朝日が枝の隙間から零れ落ちてキラキラと反射している。
名字名前は紫外線を遮断する特殊なフィルムが貼られた窓の中から外の風景を眺めていた。物心がついた頃から一度たりとも陽が昇っている時間に窓を開け放った事はない。日差しが降り注ぐこの締め切られた外にはどんな世界が広がっているのだろう。

 7月7日、午前7時45分。
名前は扇風機のスイッチを入れた。
部屋に微弱な機械音が鳴り響き微かな冷風を出し始める。名前は窓際に立て掛けられたギブソンのギターを退かして窓の外を見た。

「まだ来てないよね」

 名前の家は海の見える高台にあった。
カーブを曲がり切ったところにポツンと置いてある青いベンチと錆付いたバス停は名前の部屋の窓から斜め下に見える。少し先に見える湘南の青い海も大好きな町並みも今の名前の視界には入らない。満員の乗客を乗せたバスがカーブを曲がって来たが、まだ…姿が見えない。
 バス停に並ぶ学生達が次々とバスの中に吸い込まれて行く。そこに並んでいた全員を乗せるとバスは猛スピードで走り去って行った。

「今日は8時10分のバスなのかなぁ」

 名前の視線は見慣れた街並みに向いた。
暫くの間そのまま窓の外を眺めていたとき視界に待ちわびていた人物の姿が急に飛び込んできて名前は思わず「あっ!」と声を上げた。

 午前8時3分。
横の細い道から一人の男子高校生が現れた。
待ちわびた姿が急に現れた事で何故か恥ずかしくなり名前は窓の下にしゃがんで隠れた。そして窓枠の下のところから覗き込むようにしてその高校生の姿を目で追った。遠くの道からこちらが見えるはずもないのに。

 名前はなんていうんだろう。
 歳はいくつなんだろう。

毎朝、彼の姿が見えると名前の心臓が高鳴る。
彼が歩くと同時に右肩に掛けているスポーツバッグが名前の鼓動に合わせるようにリズムを刻んで揺れている。彼はバス停で立ち止まるとバス停に貼られた時刻表を覗き込んだ。

「大丈夫、まだ次のバスまで7分あるから」

聞こえるはずもないのに彼の視線が一瞬こちらを見たような気がしたので名前はまた咄嗟にしゃがみ込んで膝を抱えて丸くなる。今度は慎重に窓の下からそっと顔を半分覗かせてバス停を見てみると、どうやら彼は夏のギラギラと眩しい太陽を見上げただけのようだった。

 午前8時10分。
「神奈川県立湘北高校行き」のバスが停まる。
彼が乗り込む姿を確認して名前は窓から離れた。
カーテンを閉め、ゆっくりとパジャマに着替えながら彼の姿を初めて見た日の事を思い出していた。





 あれは、ちょうど二年前の今頃…
夜の7時にセットした目覚まし時計に起こされて、いつものようにカーテンを開けてみるとバス停の横のベンチに一人の男の子が座っていた。  左足がギプスで固定されていて両脇には松葉杖。うなだれながら、その左膝をずっとさすっている。その様子から何か事情があって怪我をしたことだけは見てとれた。

名前がパジャマから洋服に着替えた後もリビングで食事を終え部屋に戻って来た後も、ずっと彼はベンチに座ったままだった。
そう、あの日は忘れもしない満月だった。
夕陽が落ちて満月が昇った時、彼がやっと顔を上げた。名前はその顔を見た瞬間なぜだかドキンとした。
 彼は大きく深呼吸するとゆっくりと立ち上がりバス停の横脇にある細い坂道を下りて行った。名前はその後ろ姿が見えなくなるまで目で追った。

次の日、同じ時間にカーテンを開きバス停をずっと見ていたのだが彼の姿はなかった。
また、その次の日も、そのまた次の日も…けれど彼の姿はない。そのうちに名前は、そんな出来事など忘れてしまっていた。
 彼の姿を再び見たのは今年の春のこと。
バス停の左隣にある大きな桜の木から花びらが完全に散った頃、曲作りに精魂を込めすぎてかなり疲れていた名前は早めに寝ようと窓際へ向かいカーテンに手を掛けた。

「あ。」

まさしく、あの彼だった。
左足のギプスはなくなっていて髪も短くなった。あの彼だと思った理由はあの日と同じ色のスポーツバッグが右肩に掛けられていたから。
バス停からやや離れた場所で友達だろうか、二人組の男の子とふざけ合っている。間もなくして「神奈川県立湘北高校行き」のバスが坂道からやって来た時彼らは慌てて列の最後尾につき三人一緒にバスに飛び乗った。

名前は壁掛け時計を即座に見た。
時刻は7時45分を指していた。
それからというもの、この時間に窓の外を見るのが名前の日課となった。

 午後7時。
名前は鳴り響く目覚まし時計を寝ぼけまなこで止めた。窓を開けると特殊フィルム無しでも肌に感じる風が心地よくて「んー!」と両手を天井に向ける。
例のバス停を一応確認する。が、人影は居ない。
リビングに下りていくと母親が晩御飯の支度をしているところだった。

「起きて来た、母さん名前起きて来たぞ」

足の爪を切っていた父親の声が名前にも届いた。そんな名前の右手にはギターケースが持たれている。ギターケースを床に置くと電話機横に置いてあった日焼け止めクリームを手に取り念入りに顔面に塗りたくった。

「今夜も行くの?」

テーブルに晩ご飯のおかずを置きながら母親が名前に問い掛ける。ちらりと母親に目を向けた名前が「うん」と答えた。

「毎晩毎晩、客なんて集まるのか?」
「んー」
「集まらないなら意味ないだろ」
「別にいいもん、それでも」

父親とのこんなやり取りも今では毎晩定番になった会話だ。

「だったら仕方ないな、俺らが見に行ってやるか!」
「来たら殺すよ?」

ソファーから立ち上がって食卓に着こうとする父親に殺気を放つと「はい…」と縮こまる父親の背中。これも毎晩お決まり。

「ちゃんと明け方前には戻るんだぞ」
「そうよ、名前?それだけは守ってね」

毎日同じ言葉を繰り返す両親に少しげんなりしながら名前も食卓に着いた。

「今日の日の出は何時?」
「4時32分。」

母親も食卓に着くと昨日や一昨日と同じ質問をまたして来たので名前は壁に貼ってある『日の出・日の入りカレンダー』を見ながら答えた。

「それじゃ4時には必ず戻るのよ?」
「はーい」
「いつもの場所以外行っちゃダメよ?」
「わかってるって」

カレンダーから目線を二人に移すと二人揃って心配そうな顔をしていたので名前は慌てて作り笑顔を向けた。

「感謝してま〜す、理解ある両親のもとに生まれて。だから心配しないで、ちゃんと約束は守るしさ」
「おぅ、そうだよな」

 名前が昼夜逆転した生活を始めて四年。
その理由は名前がXPだからだ。
 XPとは色素性乾皮症という遺伝子の異常から起こる先天性の病のことだ。決定的な治療法はまだ無く進行を遅らせるには紫外線を避けて生活するしかない。
名前が不用意に日焼けをすれば、それが完治せずに皮膚癌へと進行してしまう可能性が高い。その確率は通常の二千倍。
名前の両親がそんな娘を育てるために専門医が近くに居るこの街に引っ越したのは14年前。

唯一受け入れ態勢を取ってくれた小学校があった。
しかし中学では名前の生活に合った環境を支援してくれる場所は無く特別支援学校に進学することが決まり小学校時代の友達と離れる事を知った名前は小学校六年生の途中で登校拒否になってしまった。連日のように担任や同級生が家を訪ねてくれたが名前は部屋に閉じこもったまま誰とも会おうとはしなかった。結局、名前は卒業式にも行くことはなかった。

 晩御飯を食べ終わると名前はお気に入りのTシャツとシンプルなスキニーのデニムに着替えた。
「いってきます」と言って玄関の扉を開けた。いつもの道を歩きながら昨日出来上がった曲を口ずさんでみる。丁度あの彼が毎朝居るバス停の前、ふと立ち止まりベンチを見降ろしたあとに名前は走り出した。昨日できた曲はなかなかの出来だろうと自画自賛しながら。

 名前が路上ライブを始めて半年。
ほぼ連日のよう来ているこの場所は地元の駅の西口だった。「その場所だけ」というのが両親との約束だった。
・東口よりも治安がいいこと。
・交番が目の前にあること。
名前の夜遊びの件は交番のお巡りさんに両親が了承を得ている。以前ライブ途中で若い警察官に補導されかけた時に別の警官が割って経緯を説明してくれて「ご両親から事情は伺っています」と言われた事があった。
両親は過保護すぎるくらいに過保護だけれど毎夜午前3時頃まで外出許可を出してくれている事には本当に感謝している。

 このギブソンギターは小学校の卒業式の日に父親が買ってくれた物だった。不貞腐れてベッドで寝ていた名前に黒いギターケースと卒業証書の筒を渡した父親を何だかんだ今でも尊敬している。

 駅の西口の広場に着くとすでに名前が膨れっ面で待っていた。
名前は中学になっても名前のところへ通い続けてくれた親友。ある日名前がリビングに下りると名前が椅子に座り「おっす!会いたかったぜ相棒!」と抱き着いてきた。
あれから四年、名前は高校生になった。
今も頻繁に会いに来る彼女の存在は名前の心の支えになっている。

「遅いじゃん名前」
「ごめんごめん」
「虫には刺される、アホそうな男には声かけられるし…」
「今度ファミレス奢るから許して!」
「絶対だからね!期末試験を来週に控えてまで親友のライブに来たんだから」
「わかってるってば」

口ではこんな乱暴な言い回しの彼女。けれど名前は言葉とは裏腹に嬉しそうな名前の笑顔を見て不意に笑みが零れる。

「ねぇねぇ、今日も名前の歌を楽しみにしている人達がウロウロしている感じだよ!」

コクン、と照れ臭そうに頷いた名前がいつものようにギターケースの上にキャンドルを灯して準備をし始めると、それまでバラバラに突っ立っていた人達が吸い寄せられるように集まって来た。名前は大きく息を吸い込み二回深呼吸してからギターを弾き始めた。


 その日のライブの帰り道であのバス停を横切る手前、名前は立ち止まってぼんやりと青いベンチを眺めたあとそのベンチに腰を掛けてみる。ベンチの淵に手を滑らせからそっと体ごと横になってみた。

海が見える。
右頬に感じるひんやりとしたベンチの温度に名前は静かに目を閉じた。しばらくして瞳を開いて勢いよく立ち上がり、錆びたバス停の標識版を少し左側へと移動させた。

「…これでよしっ!」

その時名前の腕時計が『ピピピピ…』と鳴った。
時刻は4時を指していた。





 ― ピピピピピ… ―

「…うっせェ、」

三井は乱暴に枕元の目覚まし時計を止めると重い体を起こしてカーテンの奥から漏れる明かりに目を細め大きな欠伸をした。

 ― ガチャン… ―

両親を起こさぬようそっと玄関を出て門を閉める。
上はTシャツ、下は『SHOHOKU』と文字がプリントされたジャージ。首にはスポーツタオルを掛けて軽い足取りで三井は走り出した。





 名前は自宅に着いてから遮光カーテンを閉めて部屋を薄暗くしベッドに潜り込んでみたがなかなか寝付けない。徐にベッドを降りた名前は窓際に移動してカーテンを開けてみた。その特殊フィルム越しの先には制服では無く何ともラフな格好をしてバス停の自販機前に現れた例の彼の姿。

「…何か部活でもやってるのかな」

予期せぬ彼の出現に名前はじっと窓の外を見つめていた。彼はドリンクを買うとベンチに腰を掛けた。物凄い勢いで500mlのペットボトルを飲み干し「ぷはー!」と言ったであろう彼の声がこちらにまで聞こえてきそうなそのジェスチャーに名前はぷっと笑みが零れた。
不意に彼が首を傾げながらバス停の標識版の位置を確認し、以前置かれていた標識版の位置と何度も交互に見やって首を左右に動かしている。

 …そうそう、私がバス停を動かしたんだよ。いつも彼が腰かける位置だとバス停に重なって顔が見えなくなる時があるの、だから。
「あれ?」と言わんばかりにバス停を眺めてクエスチョンを浮かべる彼の姿を名前はずっと高台から眺めていた。






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