第二話
忘れられない初恋
名前が名前の家に遊びに来たのはそれから一週間後の朝の事だった。
「おはよ!名前まだ寝てない?」
玄関のチャイムも鳴らさずに名前が名前の家に勝手に入って来るのは小学校の頃から変わっていない。
「あら名前ちゃん、お邪魔しますって言わなきゃダメよ〜」
「あ、そうだ。すでにお邪魔してま〜す!」
いつものように階段をリズミカルに上って来る名前の足音が名前の耳には聞こえていた。しかしバス停を見る朝の時間だけはたとえ名前だろうが邪魔されたくない。
いや正確にはバス停に来る彼を見送るまでは…そう思っていた瞬間、ノックも無く扉が開いた。
「きゃっ!」
名前は慌てて窓から離れた。
「なに慌ててるのよー」と名前がニヤニヤと名前の顔を覗き込むと名前は耳まで真っ赤になった。
「ん?どうしちゃったの?名前ちゃん?」
「いや…」
名前の目が壁掛け時計に向いている事を名前は見逃さなかった。
「何?時間なんか気にしてどうしたの?親友の私に言えないわけなんかあるはずもないよね〜?」
動揺しながらも今度は名前の目が窓の外を追っている事も名前は見逃さない。そして一緒に窓の外を見てみた。
「誰を見てたの?」
「ん、まだみたい…」
そう言って小さく微笑んでいる名前。それは名前が今までの長い付き合いの中で初めて見た彼女の表情だった。
「…誰か好きな人出来たんだ!?」
冗談半分で名前が言った言葉にまた赤面して名前はコクンと頷いた。
「うっそー!えー!マジで!!」
名前は慌てて名前の口元を手で覆った。
そして声を潜めて彼女に忠告する。
「名前、親に言ったら絶交だからね」
名前が目を見開きながら二度頷いたので名前は彼女の口元から手を離した。そして二人は再び窓の外に目を向ける。
「で、来た?」
「まだ…きっと今日も8時10分のバスに乗るんだと思う」
7時45分のバスが到着した。
乗り込む人の中に彼の姿はない。ドアが閉まって発車した直後に細い坂道から大きなスポーツバッグを背負って大急ぎで走って来る高校生の姿が名前と名前の目に映った。タッチの差でバスが発車してしまった事がよほど悔しかったのかバス停に八つ当たりして背負っていたバッグをガンガンとバス停の標識版にぶつけている。
「バッカだね〜あいつ!」
名前が腹を抱えて笑いながら真横を見ると名前がうっとりとした顔で彼を見ていた。
「…… ゲッ!まさか、あのバカ男!?」
どうやら名前の声は耳に届いていないらしい。
そして小さく指を差して、か細い声で名前が言った。
「あの人…なの」
名前は窓に顔を擦り付けるようにしてもう一度下を見た。
「アレうちの高校だよ、ここらへんで学ラン着てんのは湘北ぐらい」
「えっ!そうなの?何て名前?何年生?彼女いる?」
名前が矢継ぎ早に興奮しながら名前に問いただす。
「知らないよ、ひと学年に10クラスもあるのに。まず何より私のタイプじゃない」
「よかった」
「なんないよ、あんなの」
「あんなのって…でも彼、カッコよくて可愛くて…でね?シャイなんだよ?」
「何で窓から見てるだけで分かるのよ、怖すぎ」
「だってもう三ヵ月近く見てるとだいたいどんな人か分かるもん」
「え!じゃあバスに乗り遅れたら毎朝あーやって八つ当たりしてんの!?」
「たまにね…あ、ところで名前は学校いいの?」
「うーわっ!ヤバイ!!」
名前は自身の腕時計で時刻を確認すると鞄を持って転がるように一階に下りて行き玄関から大声で二階にいる名前に向かって叫んだ。
「彼のこと調べてみるよ!同じバスに乗ってくしさ!また夜来るから!!」
そのあと玄関のドアが思いっきり閉まる音が聞こえた。しかし名前は分かっていた。焦らなくても次のバスは20分以上経たないと来ない事を。
しばらくすると息を切らせた名前が姿を現した。そして素早く桜の木の後ろに隠れながらバス停の時刻表を見て突っ立っている彼を観察している。どう見ても不審者だ。
「頑張って名前…!」
窓から祈るように手を合わせてエールを送る名前の目に新たな二つの影が映り込んだ。名前の後ろから猛ダッシュで走って来た二人の学生。赤頭と茶髪。
身長差のある二人がスピードを落とさないままバス停の時刻表を眺めている彼に思い切り突っ込んだ。
彼はそのまま吹っ飛んだあと二人に向かってギャーギャーと騒ぎ始める。その光景に圧倒されたのか名前はポカンと口を開けて立ち尽くしていた。ほどなくしてバスが到着し全員が無事に乗り込みそのままバスは発車した。
『神奈川県立湘北高校』
至って普通の共学校。つい先週、創立40周年記念式典が行われたばかりだ。
午前8時10分に発車したバスは8時27分に校門前に着いた。校門が閉まるのは8時30分。
名前は学校に着いたら彼の後を着けて学年とクラスを確認しようと思っていたが、そんな時間は全くなさそうだ。
「休み時間に探してみるか…」
そんな独り言をぼやきながら名前は1年7組の自分の教室に入った。
結局その日はお目当ての彼を見つける事が出来ず最後のチャイムが鳴った。帰り道に今朝のバス停での一幕をぼんやりと思い出しながら家路を帰る名前。彼の友達らしき二人組の人物像がふと頭をよぎった。
「…あ! アイツ桜木花道だ!!!」
その大声に近くを歩いていた通行人がチラチラとこちらを見る。咄嗟に名前は自身の口を両手で覆い小さな声で「すみません」と漏らしてまた歩き出した。
思い出したよ、あれは学年…いや湘北全校生徒の中でも有名な桜木花道だ。桜木花道と彼は知り合いなのだろうか。…はて?そう言えば桜木花道って何かの部活をやっていなかったっけ…?なんだったっけな。
優等生とは程遠い名前は学校をさぼる事も多く、校内の情報には少々疎かった。あれこれ自問自答しながら自宅に着いた名前は名前と会うまでの時間、眠りにつくことにした。
―
「名前、彼見つけれなかった」
駅の西口広場は午後11時を過ぎても、まだかなり賑わっている。名前は名前の目の前に体育座りをしてゆらゆらと体を揺らしながら呟いた。
「学校に着いてから血まなこで探したんだけどさ〜」
「そっか、ありがとね」
「また明日にでも挑戦して」
名前がそう言い掛けて名前の方を見ると彼女はギターのピックを持ったまま指がピタリと止まっていて同時に音合わせで響いていたギターの音も止んだ。
「彼だ、 ……」
「えっ!?」
特殊フィルムの窓越しではなく本物の…学生服を着たリアルな彼の姿だ。その彼は西口広場の街路樹の奥の道を歩いて行く。彼だ、窓越しに見ていた彼が歩いている。
銀行が並ぶ道を、牛丼屋さんの横を…ケーキ屋さんを通り過ぎコンビニの角を…いや、曲がっちゃ嫌!
あ、消えちゃうよ、視界から…
ダメ!消えないで!!もう限界…!
「ちょっと名前、どこ行くの!?」
そう思った途端に名前は両手に抱えていたギブソンのギターを名前に押し付けて立ち上がり全力疾走で走った。名前は名前の視線の先を追って状況を瞬時に理解し、黙ってギターを受け取った。
名前は日頃、全くと言っていいほど運動をしていない。筋肉らしい物もほとんど付いていないので全力疾走をしてもそれほどの速度は出ないのだが名前は力の限り走った。
けれど、転んでもいい、どうなってもいい…今、走って追いつかなかったら意味がない
銀行が並ぶ道を。牛丼屋の横を、ケーキ屋さんの前を全力疾走で走った。ほんの数分前にそこを彼が歩いていたと思っただけで、息を吸ったり吐いたりしていたと思うだけでクラクラする。
あの満月の夜から二年以上、ずっと会いたいと思っていた彼が、すぐ近くにいる。あとはコンビニの前を曲がって…
……、 いたーーーーッ!!
緩やかな坂道の先の短いトンネルを抜け出て、気怠そうに歩いている彼の姿が見えた。名前は走り続けていたので息が出来ないほど苦しかったが今走らなければ一生後悔する、そう思ってそのまま走り続けた。どんどん彼の背中が近づいてくる。
やった…!遮断器がおりてる!
その遮断器…もう少しそのままでいて…!
あと少し!あと、少し…!!
トンネルを抜けた先、線路の前では遮断器がおりていた事で立ち止まったままの彼の姿。間もなくして遮断器が上へあがり切ると彼はまた足を前に踏み出した。
― ダンッ!!! ―
「うぉ…っ!」
ようやく彼の元へ辿り着いた名前は思わず思い切り彼を背中から押し倒してしまう。そのまま彼は前のめりになって転んだ。
「イってぇ…!」
肘や腕をさすりながら自分の身に何が起こったのか分からない様子で辺りを見回してその場に尻餅をついて座っている。
「ハァ、ハァハァ…… 名字名前ですっ」
「は?」
「ハァ、ハァ…、 名字名前です!」
「あぁ?」
「名字名前ですっ!!」
「な、なにが!?」
「16歳です、両親と暮らしています、趣味は音楽です、」
名前は中腰になったまま彼の方へグイグイと歩み寄り語り続ける。彼は口をあんぐりと開けて地面に尻餅をついたまま後退りをしていた。
「性格はちょっと短気です、彼氏はいません!」
「はぁ!?」
「いつも見てました、ずっとずっと見てました、彼氏はいません!」
「…や、あ…、 ちょっと待っ」
「彼氏は一人もいません!」
「いや…だから! ちょっと待っ…!」
混乱しながらも彼は待て、と言わんばかりに両方の手のひらを名前の目の前に差し出して動揺と抵抗を見せる。
「好きな動物はライオンで、好きなバナナは食べ物で、」
「お、おい…」
「好きなミュージシャンはたくさんいすぎて」
「名前!!」
その時名前の背後から猛スピードで走って来るもう一つの影。その影の主が名前の元まで辿り着くとグイッと名前の左手を引いた。
「ハハハハハ、ごめんあそばせ?」
線路に尻餅を着いたままの彼に満面の笑顔で謝罪し、名前の手を引き来た道を早歩きで戻って行った。
「なんなんだよ…」
三井は今、何が起こったのか全く理解出来ずにいた。
車に後ろから撥ね飛ばされたぐらいの衝撃はあったが車も自転車もない。小柄な女子はいたが…あの子は怪我をしなかったんだろうか。もしかしたら頭でも打って変な事を口走っていたのかも知れない。
「名字名前」って何だよ。
そんな事を思いながら二人の走って行く姿を線路のど真ん中に座ったままで呆然と眺めていた。
彼の姿が後方に見えなくなっても名前は名前の手を引いたまま歩みを止める気配はない。
「なに!?」
「何じゃなくて」
「邪魔しないでよ!!」
名前は名前に掴まれていた左手を思い切り振り払った。
「邪魔!?私は今あなたをピンチから救ったのよ?」
「えっ?」
「えっ?じゃないっつーの、あなたは今まさに振られる瞬間だったの!」
その言葉に思いのまま全力疾走で彼を追い一方的に言葉を浴びせた自分の行動を思い返し、ようやく状況を把握できた名前は途端に赤面し俯いた。
「もう…好きなバナナって何?全然プロフィールになってないから!」と名前はケタケタと笑いながら名前の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でまわした。
「…うるさいなあ」
名前は弄ばれた髪の毛を直すこともせずにトボトボと歩き出す。
「ねえ、男の子と話すのって小学生以来じゃない?」
名前はすぐに駆け寄り名前に尋ねると名前はコクンと頷いて俯いたまま歩いて行く。名前は立ち止まり名前の背中を見つめた後、彼女の背中に向かって叫んだ。
「もーう!しょうがないな!」
「……」
「親友の私が責任もって全力で調べてきます!」
両手を腰に当ててそう公言した名前に名前は満面の笑顔を返した。
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