一瞬の、出来事だった。
駆け寄ろうとしたときさらに大きな音がした。体に走った痛みはなんだったんだと思って、見た先、信じられない光景が広がっていた。
彼女を跳ね飛ばした中型トラックがハンドルと切ったと同時に横転して桜の木に突っ込んでいた。それは紛れもない、あの、彼女が宿る桜の木だった。すぐに自分の体を触り、名前を呼んだ。
「中に居ないっ? 名前!?」
名前ちゃんには通行人が駆け寄って来ていて、救護されている。
「名前!? 名前!!」
(よ……へい……)
目に飛び込んで来たのは、目のまえで横たわる、傷だらけの名前の姿だった。
抱き締めてやりたいけど、感触がない。なにも出来ない。
「しっかりしろよ!」
そう言うけど彼女は動けないままで俺は名前を呼ぶことしか出来ない。
(もう、駄目かも……ね……。桜、が……)
視線の先には、見るも無惨な桜の姿があった。目の前の名前と、同じように——。
「名前! 名前!」
名前を何度も呼んでいるうちに、目の前が涙で曇りはじめていた。
『……洋平、泣いて、くれるの? 私のために……』
「だ……って、名前……っ」
彼女は傷ついたその手を伸ばして、笑って言った。
『洋平って、泣き虫だったんだね……』
「そんなのどーでもいいよ、死ぬなよ?大丈夫。桜、まだ根っこは残ってる……大丈夫だ」
そう言った俺に、彼女は小さく首を振った。
『もう無理だよ、こんなことになるなんて……ね』
「まだ行きたいところあるんだろ?」
『よう……へい……』
「したいこともあるだろ?名前、ねえ、そうなんだよな?」
必死で訴える俺に彼女は小さく笑うばかりで。君のこんな笑顔なんて、見たくない。いつもみたいに高飛車で我が儘で、気位の高い名前でいてくれよ。
『洋平……お願いが、あるの」
「なにっ?」
『洋平の、中に……入ってもいい?』
「ああ、いいけど……」
言い終わる前に彼女は俺の中に入ってきて、話をしはじめた。
(いままで、たくさんの我が儘を聞いてくれて、ありがとう……それと、ゴメンネ。)
「……」
(ずっと言いたくて、言えなかった。ありがとうって言葉と……ごめんなさい、を——)
「そんなこといいよ、ありがとうもごめんなさいも、いらねーよ!」
(……)
「名前、そんなのいいから……頼む、死ぬなよ」
こんなことになって、彼女の心が流れ込んでくるような感覚になっていた。彼女のいまの心の切なさが、痛いほどにわかる。
(洋平と、おなじに、なりたかった……)
「名前……?」
(人間になって……洋平、に……)
「俺に……なに? 名前、俺になんだよ?」
彼女の気配が薄くなる。背筋を冷たい間隔が走る。それは彼女の——��死�≠�意味することだと、瞬時にわかった。わかってしまった。
「名前……っ!」
(洋平に言いたかったの……ありがとうと……ごめんなさい、と……)
「名前……!!!」
(あなたが大好き……って、恋してた、洋平に……)
名前の気配が……消え、た——。
俺の中から周りから、どこにも感じない。彼女が、見えない。名前を叫んだ声に、もう反応はなかった。
遠くから救急車のサイレンの音だけが俺の耳に非現実的のような感覚で届いていたけれど、俺は、そこに座り込んでいた。
名前ちゃんが救急車で運ばれて警察が現場検証に来ていた。
「名前——俺も、名前のことが……好きになってたよ」
折れた桜の木を遠くに見ながら、そうつぶやいた。無くしてわかった。俺の気持ちは、もうどこにも行けなかった。もうあの桜に、名前は居ない。
あの桜は美しい花を咲かせることもない。また俺の頬を涙が流れた。美しい桜の精はもう戻らないんだ。
三日後。事故現場を通ると、折れた桜は早速業者によって作業が行われて、引き抜かれていた。そこにはもうなにもなくて、俺はその土にそっと触れてみる。なんだか、名前に会えそうな気がして——。
短い、本当に短い間でも、俺たちは一緒にいた。
そうだよな、名前。
無くして気付いた気持ちは未だ悲しみを残して俺はその場を後にした。