桜の精の彼女が消えて一週間、いや二週間たってもアイツは、帰ってこなかった。
何度か木の根元まで行ってみたが声はしなかった。なによりも彼女の気配を感じなかったので、もうこの木には居ないのだろうと諦めはじめていた。
名前ちゃんとは結局あのあと少ししてから付き合うことになり、引っ越す予定だった彼女と相談して俺の部屋で一緒に暮らしはじめた。
よく働くし、気の利いた素敵な子だ。なによりも、俺自身が彼女を受け入れてるってことなんだろうな。
けど——あの子が気掛かりだ。そんな日々を過ごしていて彼女が居なくなってからすでに一ヶ月が経とうとしていた。
「洋平くん……」
「ん? どうした?」
「この、桜の木……」
「……」
気が付いたら彼女と買い物の帰りにあの公園を歩いていることに気が付いた。そこでつぶやき立ち止まる名前ちゃんの姿に俺も足を止めてあの木を見上げた。
「もう、駄目かな……」
目に映った彼女が宿っていた桜の木はこの桜並木の中で一番元気がなく、枝は腐り、地面に落ちていた。根本から弱っているのが肉眼でも見て取れた。
「この中で一番綺麗って有名だったのにね……」
「……そうだな」
「来年の花見は……出来ないかもね」
「仕方ないよ、植物はいつか枯れるんだし」
「でも……いちばん綺麗な桜の木だったのに」
「ハハ、名前ちゃんは優しいんだな」
そんな会話をしながら先を歩いて行った彼女の背中から視線を戻して、俺はずっと桜の木を見ていた。
「……洋平くん?」
立ち止まったままの俺に気付いて俺の名前を呼ぶとまた俺の傍まで歩いてきた彼女が言った。
「洋平くん、この桜の木好きだったもんね」
その言葉に何故だか泣きたくなった。「行こう?」と優しく微笑む彼女が俺の手を握り歩き出す。それに引かれて、俺もまた歩幅を合わせて歩き出した。
それからまた数日が経った。今日は休みで、珍しくひとり、家でくつろいでいた。ふと窓から風が入ってきて、窓なんか開けてたっけ?と思って振り返ると、消えたはずの彼女が——窓際に、腰を掛けていた。
「名前……!?」
『久しぶり、洋平』
そう言って俺の名を呼んだ彼女は、駆け寄った俺を穏やかな顔で見上げた。
「久しぶりって、もう何日経ったと思って……」
『大丈夫、もう桜の木も元気だよ』
俺の言葉を遮るように、彼女はそうつぶやいた。
『——今日は、』
動揺と安心と、よく分からない感情で困惑して口を噤む俺の目を真っ直ぐ見て、彼女が言った。
『さよならを、言いに来たの。』
「えっ……?」
感触も感覚も感じたことがなかったのに彼女の髪の毛が風になびいて俺のもとまで届いたとき柔らかい、って。彼女の匂いが、鼻をかすめた気がした。
『わたしは洋平とは違うの、やっぱり、一緒にはいられない』
「……」
『幸せに、なってね。』
楽しかった——そう言い残して、窓から彼女の姿が消えた。俺はなにも返すことが出来ずに彼女の座っていた窓際をただただ呆然と見つめていた。
*
翌日、名前ちゃんと公園を歩いていた。
彼女はすこし先を歩いて、気持ちよさそうに、風に当たりながら鼻歌交じりで。
「はは、ご機嫌だなー」
「うん、洋平くんとデートだからねっ!」
ちょうど、あの桜の木の前を差し掛かったとき隣を歩いていた彼女が立ち止まって、その桜の木を見上げながら言ったんだ。
「洋平くん」
「ん?」
俺も桜の木をぼうっと見上げる彼女の隣に立って、顔を上げた。
「桜の、妖精が見える……」
「——えっ?」
驚いた。まさか、え? 俺、話したことないよな?真横に立つ彼女を見やると彼女はなおも木を見上げていて——
「ほら、あそこ」
そう言って、木の枝を指さしたんだ。
「笑ってるよ」
その言葉に俺もまた目線を上に向けると桜の精——名前が、腰を下ろして笑っていた。
「名前ちゃん」
「ん?」
「……帰ろう」
そう言って彼女に微笑んだ俺は、左手をそっと差し出す。彼女もその手を握り返してくれて俺たちは歩き出した。
——ありがとう、名前。
(洋平、名前さんを泣かせちゃ駄目だよ!)
そんな聞き慣れた声が脳裏から聞こえた気がした。最後に中に入ったのか、なんてクスクス笑っていた、そのときだった。すこし強い風が吹いて彼女の巻いていたスカーフが後方に飛ばされ桜の木の下へ落ちた。
「あっ……」
振り返った彼女はスカーフを追い、桜の木の元まで取りに走った。彼女の姿を目で追っていると耳に響く大きな音——。
——キキーーーィ!!!!——
それは、大きなブレーキ音だった。向こう側の道路から公園内に侵入してきたその車体はえらくスピードも出ていた。同時に聞こえた悲鳴と、目の前で彼女の跳ね飛ばされる姿がスローモーションみたいに視界に入ってきて、そうして、次の瞬間、何故か躰に痛みが走った。
一瞬の、出来事だった。