手繰り寄せた


※現パロ


『遅ェ』

 通話ボタンを押して耳に当てる。同時に艶のある、そして普段よりさらに低い声が、機械越しに鼓膜に触れた。
 開口一番、愛想が無いのはいつものこと。
 かるたはさして気にした様子も見せることなく、歩くスピードだけはわずかばかり速めた。ヒールを鳴らし、人波を迷いなく突き進む。

「ごめんなさいって。さっきも遅れるって送ったでしょう」
『さっさと来い』
「もうすぐそっち着きますから。もうちょっと待っててくださいね、先生」

 かるたの声色は至極淡々としている。しかし通話相手のほうは、一瞬開いた間と微かに届いた舌打ちから、その眉間には皺が刻まれていることが容易に推測できた。

『外で先生(それ)はやめろっつってんだろ』
「はぁい、ローくん」
『……それもやめろ』
「そろそろ着くから切りますよ、ローくん」
『おい、』

 聞く気はないと念押しするように再度呼び、かるたは問答無用と言わんばかりに通話を切る。それからスマホを鞄の中に滑り込ませたところで──突如、背後から肩を強い力で掴まれた。

「アンタ、今────」

 その手は見ずとも、かなり大きいものであると服越しに伝わった。反射的に止めた足が地面を叩いて、大きくヒールが鳴る。耳に入り込んだのは、低く重厚感のある、それでいて焦りを滲ませたような声。
 振り返ると、頭からすっぽりと影で覆われているのがわかった。かるたを見下ろしていたその金髪は随分と高い位置にあり、太陽の光と溶け合って一層煌めきを纏いながら、まるで戸惑うように美しく揺れていた。







「お待たせ、ローくん」
「遅ェ」
「だからごめんなさいってば」

 焙煎された豆を挽いた芳ばしい香り。曲名の分からないゆったりとしたジャズピアノ。店舗の小ささも相まって客は少なく、落ち着いた空間だった。
 すらりとした脚をもて余すように組んだ男の向かいに、かるたはショルダーバッグを下ろしつつ腰を落ち着ける。

「お前のことだ、どうせ旨そうな飯屋にでも気をとられたんだろう」
「惜しい。個人店の素敵なパン屋さんを見つけてしまって」
「ほォ、あろうことかおれよりパンを優先したか」

 長い腕は、大して前のめりになることもなくかるたの頬に届いた。無遠慮に伸ばされれば「いたたたた」と軽い悲鳴が上がる。

「ローくん、親しき中にも礼儀ありでしょう」
「パンにかまけて他人を待たせたお前が礼儀を語るな」
「ごもっとも。でも、おかげでさっきローくんの知り合いに会いましたよ」
「あ?」
「ローくんは多分覚えてないだろうって言ってたんで、小さい頃に会ったんでしょうね。随分とローくんのこと心配してましたよ」
「……へぇ」

 ローは細い眉を曲げて、どこかに視線をやる。しかしその表情は煮え切らないように見える。

「思い当たる節がないですか」
「まぁな」
「あんな大男のドジっ子さん、逆に忘れたくても忘れられなさそうですけどねぇ、なんて」

 ガチャン!

 カップを持った腕から力が抜けたようで、ソーサーに叩きつけられた拍子に中のコーヒーが飛び散った。冗談交じりといった具合に小さく笑みを浮かべていたかるたは、ぴたりと動きを止めてその目を丸くさせる。

「ろ、」

 かるたはカップから視線を上げて、口をつぐんだ。というよりは、言葉がそこでぷつんと途切れた。
 目つきの悪い双眸が、これでもかと大きく見開かれて、じいっとこちらを見ている。日頃から目の下にこさえている隈が、なんだか余計に酷く見えた。少しだけ開いた色素の薄い唇は、何かを紡ぎたいように、けれどそうすることもできずに小さく震えている。
 ローはどんな時も冷静で、思考を止めなかった。例えば、一刻を争う急患に対応する時も。例えば、たまたま居合わせた店で騒ぎが起きた時も。かるたはこんなふうに、時が止まったように固まる彼を、この人生で、見たことがなかった。

「……彼とは、この店を出て左を真っ直ぐのところで、すれ違いました」

 それが何を言おうとしているのか、ローにはすぐにわかった。けれど彼は動かない。かるたは二、三度の瞬きを重ねて、そっと呼びかける。

「ローくん」
「……」
「必ずしも、結び付いてから動く必要はないんだよ、ローくん」

 横たわっていた砂時計が起こされ、再び時を動かす。

「埋め合わせは、また今度にでも」
「……」

 その目にもはやかるたは映っていないが、辛うじて彼女の声は耳に届いたようだった。ローは何かに導かれるように立ち上がると、長い足をなんとか縺れさせないようにして、勢いよく駆け出す。扉から溢れた陽の光がピアスの金色に重なり、目の醒めるような鮮烈な輝きを放っていた。









『今、ローって、言ったか?』
『え……?』
『そ、それって、トラ』

 彼の言葉は潰えた。一歩踏み出した足首がぐきりと横に折れ、男は派手な音を立てて地面に転倒した。長身のローよりさらに長いであろう手足が宙で泳ぎ、その光景は周囲の視線を痛いほどに集めた。

『……大丈夫ですか?』
『……っ!! ……あ、ああ……悪い』

 かるたが差し出した手を素直に借りた彼は、膝を折り曲げて体を起こす。彼はそこまでで彼女の手を放し、自力で立ち上がった。やはり二メートルは優に超えているだろ。彼はこちらの警戒を解くようにだろうか、身を小さく屈めて、大事な内緒話をするように、そっと言葉を落とす。

『それで……そのローってのは……トラファルガー・ローか?』
『……彼のお知り合いで?』
『……ああ、"昔"な。いや、でもきっとアイツは覚えてないだろうな』

 あの人が子どもの頃に会ったということだろうか。かるたはそう見当をつけるが、目の前の男がローにとってどんな存在であったか推し量れないうちは、下手に情報を出すことも憚られた。

『……ローは今、元気か?』
『? はい』
『ちゃんと飯を食ってるか? 病気にはなってないか?』
『至って健康ですよ。たまに忙しくて抜こうとするから、そのたび声をかけてますけど……だいたいよく食べてます』

 かるたの返事に彼は眉根を歪めた。何かに堪えるように固く口を閉ざし、返事がないものだから、かるたもそのまま閉口する。幾人もの通行人が彼らの傍らを通り過ぎ、男の腕時計は時を刻み続ける。
 男はそっと俯いて、二、三度空気を吐き出すと、再び顔を上げた。

『ローは、今、独りになってないか?』

 一文字一文字を、繊細に紡いだような。指先でそっと核心に触れるような。風が吹けばたやすく揺れてしまいそうな。そんな声色だと、かるたは感じていた。男は、泣き出しそうに震える唇をもう一度閉じて、そして。

『いや……今のは愚問だったな。アンタみたいな人がいてくれてんだから』
『……ええ。たくさんの人に囲まれてますよ、あの人は。とても、愛されています』
『そうか』

 細い目元をやわらかく曲げる男。その表情の、なんとやさしいことか。人間とは、これほどまでに慈しみを滲ませることができるのかと、そう思わせるほどに、それは溢れんばかりの愛情に満ちた顔だった。
 髪と同じ金の睫毛が光を反射する。小さく鼻をすする音が聞こえた気がした。

『おれが言える立場じゃないんだが……これからも、あいつのそばにいてやってくれないか』
『それは、もちろんですけど』
『ありがとう』

 深い笑みを残すと、それを最後に彼はくるりと踵を返した。数歩進んだところで突然現れた野良猫に足を取られかけ、なんとか踏み留まったものの置き直した足の下には何かのチラシが落ちており、それを強く踏みつけた彼は再び盛大に転倒した。かるたはその一部始終を、ただ黙って見届けていた。









 かるたはローの飲み残したブラックコーヒーを自分のほうに引き寄せ、ミルクを注いだ。真っ黒な水面に、穏やかでやさしい白がゆるゆると混ざっていく。マドラーで静かに攪拌して、取っ手に白い指を絡めた。そっと持ち上げ一口。ゆっくりとカップを下ろすと、その口元は凪いだ海のような、穏やかでやさしい弧を描いていた。

「そうだよ。それはきっと、忘れちゃ駄目な記憶ですよ────船長」




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