01

「土方さァん入りますよー」

 返事を待たずに襖が開かれる音がする。文机に向かっていた土方は手を止め、女の無作法に顔を険しくした。

「ビジネスマナー叩き込んでから出直してこい」
「やだな小っちゃいこと気にしちゃってさ。土方十四郎はそんなせせこましい男じゃない、そうだろう? 痛っ」

 ずかずかと入室し隣にしゃがんできた女の頭がペシンとはたかれる。いい音がした。女は己の頭を労るようになでながら、不服そうに土方を睨みつけた。

「ちょっと、そっちこそパワハラ講習受けたほうがいいんじゃないですか」
「上司をナメくさる部下を指導すんのも仕事のうちだ……例の件の報告書だろ。とっとと出してとっとと出てけ」
「はーい……っと言いたいところですけど、これは二番隊から預かった書類です」
「あ? ……んで手前で提出に来ねェんだ。お前も簡単にパシられてんじゃねェぞ、朋子」

 ピキリ、と端正な顔の隅に青筋が浮かぶ。朋子と呼ばれた女は、やれやれと言いたげに息を吐いた。

「土方さんが年がら年中ピキピキしてっから怖がってんスよ皆。今期の新人ちゃんたちも、未だに土方さんの前だとこわばってますからね」
「手前の小心を人のせいにするような愚かモンはウチにいらねェ」
「イヤ限度がありますって土方さんの場合はさァ。笑顔で接して差し上げてとは言いませんけど、もうちょい手心ってやつをさァ」
「この程度で折れるんなら、そいつァそこまでってことだろうが」
「厳し〜」
「テメーが甘すぎんだろ」
「そんなことありません〜まろやか寄りの微糖くらいです〜」

 グダグダとした応酬は、「テメーはとっとと報告書仕上げてこい」と土方の一言で切り上げられた。朋子は露骨に嫌な顔をするが、不意に何かを思い出して「あ、」と零した。

「声がけも兼ねて来たんだった。そろそろ始まりますよ」
「あ? 何がだよ」
「ホラ、新しく来てくれた女中の子の歓迎会」
「……あァ」

 途端、土方は思い出したように顔をしかめた。
 場合にもよるが、副長の土方は局長の近藤に意見を呈することはできても、最終決定権は近藤のほうにある。数多の隊士たちの希望を受け、新人のための歓迎会を取り決めたのは近藤だった。

「日中部屋案内したけど、ま〜いいこでしたよ素直だし明るいし礼儀正しいし。これからあの子が毎日隣の部屋にいるなんて最高だね」
「チッ、腑抜けた声出してんじゃねェよ」
「にしても、管理ガバなせいで履歴書の写真が皆の目に触れてから、もう大騒ぎでしたよね。あーやだやだこれだから男は若くてカワイイ女の子にばっか目がなくてさァ。ホント日本の男はロリコンだよね。これあたしが入ってきたとしたら絶対ここまで騒いでねーよ。目に浮かぶもんな」

 何かと悪い意味で世間を騒がせ、市民からの信頼も芳しくない真選組であるが、腐っても警察組織。本来ならば女中一人増えたところで、いちいち歓迎会など催している暇などない。
 が、元々何かにつけて騒ぎたい男共の集まりである。さらにその女中というのが──紆余曲折はあったものの──同じ敷地内に住み込みでの雇用が決まった、四六時中顔を合わせる可能性のある相手となれば話は別だった。その上、女人との縁が限りなく希薄な中で加入した、うら若く可憐な少女……と、これだけの条件が揃っていて、彼らが騒がない理由は何一つなかった。

「もうちょいさァちゃんと体制整えたほうが良くないですか? 事務方が少なすぎるんですよ。人事ガバガバだといつの間にかあいつもノックこいつもノックの黒の組織になりますよ。あ、真選組は元よりブラックか」
「やめろ。シャレになんねェんだよ」
「そんじゃもっとやさしめシフトにしてくださいよォ。あたしらはね、仕事のために生きてんじゃないの。生きるために仕事してんの。それなのに朝っから晩まで労働労働時間外勤務の残業三昧……」
「残業手当つけてんだからいいだろ」
「カス! 知らないんですか土方さん。労働で金を稼がなければ己を護れない、労働したままでは己を抱き締められない」
「しらねーよ何の話だよセルフハグでもなんでも勝手にしてろよ」
「で、募集まだ続けるんですか? 打ち止め?」
「厨房からの希望としちゃ、あと一人二人ほど欲しいそうだが……応募数も芳しくねェし、掲示期間もそろそろ終わる」
「あァあの大通りの掲示板の……屯所に貼ってるやつだけじゃ効果なさそうですしねェ」

 常日頃恐れられ、遠巻きにされている故か、屯所周りは人通りが少なかった。市井の人々を安心させるための警察がこんなことでいいのかと思わなくもないが、下手にイメージアップを目指して失敗したことが一度ではないことからも、あまり迂闊なことはできなかった。
 脇に積まれた書類の途中に、見覚えあるチラシが飛び出していた。ジェンガのように器用に引き抜くと、そこにはでかでかと踊る「女中大募集」の行書体。縦横比がずらされ縦伸びしている。その下には細かな文字がつらつらと並ぶが、フォントも色も変化なく装飾もなく、あまりにも淡々とした簡易な募集ポスターは、明らかに厳しそうな仕事という圧を与えていた。唯一「僕たちと一緒に働こう!」とフキダシを生やされた安っぽいスマイルマークが、逆に不気味な笑みに見えてくる。しかも、フキダシの尻尾部分がスマイルの右目に突き刺さっていた。

「正直、このチラシ自体も原因じゃないですか? 愛想なさ過ぎ。つっけんどん。文字ばっかだし白黒だし」
「あ? ニコちゃんマークも添えてんだろうが。親しみやすさ抜群だろ」
「えっ嘘!? 今土方さんニコちゃんマークって言いました!? やば爆萌え過ぎるんですけど」
「お前もう黙れ」

 バチバチに真面目でクールでプライド高い男の口から出るカワイイ単語の破壊力よ……とブツブツぼやく朋子。だが実際、このチラシを鬼の副長とも恐れられる彼が一生懸命カチカチポチポチいじって作り上げたと思うと、可愛く見えてならなかった。

(しっかしこれ、通常業務の他に作業したんだよなァ)

 他の粗忽な人間どもには任せられないと、人事関係も請け負っている土方だったが、そうでなくとも彼は常に多忙だった。誰より残業してんのがこの人なんだよなァ……と朋子は土方の横顔を見つめる。切れ長の目元は重く、疲れが溜まっているように見えた。

「ホラ、早く行きましょうよ。たまには息抜きも大事ですよ」
「チッ……言っておくが、テメーは未提出の報告書持ち込みだからな」
「えっそれは勘弁……え、嘘ガチで? えっホラ新入生歓迎会にレポート進めてる先輩いたら激萎えじゃないですか?」
「萎えさせとけ」

 慈悲はなかった。







「誠心誠意努めて参りますので、どうぞよろしくお願い致します」

 三つ指をつき粛々とお辞儀をする少女──羽月。真選組の新たな女中としてやってきたのは、良家の娘のような気品さを持った若い女だった。見たところ、最年少幹部の沖田総悟より下の年頃だろうか。さらりと指通りの良さそうな髪に、はっきりとした目元、色白な肌。動きも表情もしとやかで、暴力などとは如何にも無縁そうだ。世間にチンピラ警察24時などと揶揄されているこの真選組に、これから勤めることになるのはどこか信じがたくさえあった。

 ともあれ、晴れて一つ屋根の下で生活を共にすることとなった彼女のため──という名目で、現在隊士たちは歓迎会という名の宴会を開いていた。テーブルいっぱいに数々の料理。部屋いっぱいに広がる、食欲をくすぐる匂い。ずらりと並んだ酒瓶。
 その中で羽月は、大広間を埋め尽くす男達にあっという間に呑み込まれた。鬼の副長の目がある以上、彼らは今のところ節度を持って接しているが、朋子は何かあれば、唯一の同性仲間としてすぐにその輪に割り込む所存であった。

「羽月ちゃァんほらほらこれ食べなって! あとこれも、それもあれもあっちも全部美味しいからな〜!」
「ありがとうございます」
「ほっそいのにいい食べっぷりだな〜羽月ちゃん! 年、いくつだったっけェ!」
「えっと、十七です」
「っかー! 若ェのに出稼ぎかァ!? 大変だねェ俺らでよけりゃいつでも話聞くぜ! あ、酌頼まァ!」
「は、はい」

 隊士たちはものの見事にデレッデレのぐでっぐで。いつの間にやら、羽月をもてなす場の空気はまるっきり消え失せていた。見ろ、彼女明らかに困ってるじゃないか。齢十七の少女を半裸混じりの酔っ払いで囲んだりして、そろそろ通報されるんじゃ……あっ警察あたしたちじゃん。朋子は内心反吐を吐いた。
 羽月は出来上がった男達に辛うじて返事をしつつ、なるべく眼前の料理だけに焦点を合わせるようにしている。その所作は美しく上品であるが、一心不乱に揚げ物をモリモリ、野菜をパクパク、米をモリモリ……あれっ、これただ食べることが好きなだけじゃね? コマーシャルのように幸せそうに頬張る羽月に、朋子の胸中から心配の念が少し削がれた。

「とはいえ、やっぱ半裸のオッさんたちで若い子を取り囲むなんて完全にアウトですよ。つーわけでそろそろ割り込みに──グエッ!」
「テメーにそんな暇あんのか朋子。今日締めだぞ、それ」
「あ〜朋子隊士なーんも聞こえなーいだだだだ!」
「じゃあ油売ってる暇なんざお前にねーだろ」
「副長様の仰る通りですはい!」

 容赦なく捻られじんじんと痛みを訴える耳を労わりながら、朋子は隣に座る土方を睨み付けた。まったく、女性の繊細な耳に何てことを。そんな恨みがましい視線も土方は意に介さず、男どもの中心で飯を食らい続ける羽月を訝し気に見つめていた。その目には、明らかに歓迎の色が見えない。それもそのはず、彼女の採用に関して最後まで反対していたのは彼だった。

「やっぱり土方さんでも羽月ちゃん気になります? かんわいいですしね〜」
「あァ」
「……土方さん、録画してたプリキュアDVDに落としたんですけど貸しましょうか?」
「あァ……あ? おっ……借りるわきゃねーだろ! いらねーよ!」
「遠慮しなくていいですよ今度枕元に置いておきますから」
「聞けやァァァ! ちっげーよ俺が言いてェのはあんなガキなんざに女中が務まんのかって話だ!」

 びしっと力強く羽月を指さした土方。本人は料理に夢中で気付いていないが、周囲の隊士たちは失礼なお人だな、と羽月を擁護するように冷たい視線を土方に向けた。

「いや童顔っぽくても十七でしょ? まあまあそれなりにいい年頃じゃないですか。土方さんどうせ、気になってんのはそこじゃないんでしょ」

 朋子の問いかけに土方は答えなかった。彼は相変わらず自分の頭の中だけで思考を回し、他には漏らさない。だから余計に仕事も疲れも増えるんですよ、と指摘しても直ることはないと分かっているため、彼女は諦めるほかなくなる。
 朋子は一番隊に所属しており、沖田の部下に当たるが、こうして土方と共にいることが多い。それは真選組結成前からの仲であることも影響しているが、そのため彼女は土方十四郎という男についてよく理解していた。無論、その逆もまた然りである。

「ま、人は見かけによらないですよ。ホラあたしのように知的な切れ者キャラと見せかけて親しみやすい元気タイプってこともあるじゃん」
「お前の見かけのど〜こが知的な切れ者だ。……ったく、近藤さんの人好しもここまで来ると病気だな」
「え〜、別に近藤さんだって『こんな若い子を追い返すわけにはいかねェ!』みたいな激アツ修造ハートで入れたわけじゃないでしょ。技能だってテストしたわけだし」
「釈然としねェのは住み込み希望ってところだ。他の女中は全員通いだ、つーか元々そう決まってんだよ。アイツは異例中の異例だ」
「まあまあ、単にお金がないのかもしれないし、アパート暮らしで一人だとお化けが怖くて眠れないのかもしれないじゃないですか」
「俺にゃそんな繊細な奴には見えねェがな」
「な〜にがそんなに不満なんですか。若い可能性に嫉妬?」
「だとコラ」
「ちなみにそのマヨの餌食になってる煮物、あの子が作ったらしいですよ」

 朋子が視線で差した料理に、土方は細い目を丸くした。とぐろを巻いたマヨネーズで埋もれてはいるが、彩りはよく味つけも文句なし。これ一つで、彼女の調理に関する本領が見て取れた。しかも──

「……手前ェの歓迎会だっつーに、働いてんのか。勤務開始日は明日からのはずだぞ」
「本人の申し出らしいですよ。まあ大方、人手不足の中歓迎会の準備まで投げられた食堂のおばちゃんたちを見てられなかったんでしょうけど……そりゃ羽月ちゃんも準備参加しますよ。自分の歓迎会だからこそ」
「だからこんな催しなんざやる必要ねェっつったんだ俺は……」
「いやー、それにしてもあんなに別嬪で上品で俗世を知らないお嬢様っぽいのに仕事熱心! しかも料理上手いし! 優良物件だわ〜土方さんは何をそんなに不満たらたらなんですか一人だけ。え何、やっぱり若すぎる? 熟女がいいって?」
「誰もンなこと言ってねェェ! それよりテメー手止まってんぞ! 今日中に終わんだろーな!」
「ウッス、進捗2割ッス!」
「ふざけんなァァ! 終わるまで今夜は寝れると思うなよ朋子!」
「えっそれは『今夜は寝かせねェぜハニー……』的ニュアンス? や〜ん土方さんやーらし〜」
「テメなめてんのかブッ殺すぞ!!」

 とうとう堪忍袋の緒を切らしてガタガタと立ち上がる土方に、朋子は「おっいっちょやります? デスクワークよか歓迎ですよ」と楽しそうに両の拳を握り固める。そんな騒々しい彼女たちに、己で揚げたエビフライを咀嚼していた羽月は、小さく笑みを溢した。

「ここは、とても賑やかですね」
「あァ、まー馬鹿共の集まりだけどな! あの二人や沖田隊長、局長は武州で道場やってた頃から一緒だったらしいぜ」
「羽月ちゃんも遠慮せずにあのくらい弾けたっていいんだぜ!」
「フフ、ありがとうございます」

 口元に手を当て、上品かつ年相応に笑う羽月。しかし、ふいに近付いてきた足音に、す、と表情を落ち着いたものにした。

「……えっと、沖田さん?」

 感情の見えない瞳で羽月を見下ろす男──一番隊隊長、沖田総悟だ。彼が何も語らないせいで、羽月もそれ以上口を動かせない。沈黙が伝播していき、周囲が極端に静まり返る。酔いも覚めるような緊張感、居心地の悪さ。異質な空気がその場を漂った。

「羽月」
「はい」

 ようやく口を開いた沖田に、周りの隊士たちは思わず肩を震わせたが、名を呼ばれた本人は不意を突かれることなく清らかに返事をする。

「お前、ちょっとついてこい」
「……? はい」

 羽月はその場で理由を問うこともなく、箸を置いて従順に立ち上がる。それを確認した沖田は彼女に背を向けると、襖を開いて部屋を出ていく。羽月も黙ってそれに続き、振り返って室内の隊士たちに丁寧にお辞儀をしてから襖を閉めた。ぱたり、軽い余韻だけが宙に浮く。
 隊士たちは、俺らは一体何を見せられたのだと顔を見合わせた。羽月が沖田のぶっきらぼうな物言いに黙って従うのは、彼女が控えめであるからか、それとも何か別の理由があるのか。まだ出会って半日も経ってない今、それを知るのは当人たちのみである。

「……なァ、まさか羽月ちゃんって……沖田隊長のコレ?」
「アッハッハまっさか小指へし折るぞ真選組の新たなアイドルがあんなドS馬鹿と付き合ってるわけねーだろ!」
「お前それ隊長に聞かれたらブッ殺されんぞ」







「あの……何のご用でしょうか? 他の方に聞かれてはいけないことですか?」

 隊士たちの賑わいから遠退いた部屋の外。そこで沖田はやっと足を止めた。羽月が彼の背中に声をかけると、沖田は顔だけ振り返る。その表情は努めて冷たく、羽月はますます疑問を募らせる。

「一応言っとくが、住み込みで働きてェなんてお前の無茶が通るよう『手を貸してやった』のは、厚意なんかじゃねェからな。自惚れんじゃねェや」

 唯一の女隊士である朋子を除けば、真選組は完全な男所帯である。女性用に整備された部分も少なく、女性ならではの悩みや希望も吸い上げられず黙殺されていく。荒々しく気遣いにも欠ける、剣しか脳のない男どもの巣窟に、羽月は住み込みでの雇用を希望した。
 メリットといえば、通勤の楽さと家賃が多少浮くことだけ。どう考えても、羽月が受けるものはデメリットのほうが大きいように思われた。その上、女性用の離れがあるわけでもなく、屯所内の風紀が乱れることも避けたいと、土方は頑として首を縦に振らなかったのだが、同じように羽月も頑なに住み込みでなければ困ると粘り続けた。──沖田はその土方を頷かせるために、口八丁で食堂勤務のおばちゃんたちや近藤を味方につけ、丸め込んだのだ。

「……? えっと? では……何故、沖田さんは私を手助けしてくださったんですか?」

 羽月は心から沖田に感謝していた。出会ったばかりにもかかわらず、なんて親切な人なのだと思っていた。だから突然突き放された理由が皆目検討もつかなかった。
 羽月のきょとんとした顔が気に食わなかったのか、沖田は羽月の顔へおもむろに手を伸ばすと、彼女の左頬を躊躇なく掴んだ。

「いっ……!? ……なにふるんれふか!」
「テメーはマジで本っ当に真正の馬鹿だねィ。ちったァその残念な頭磨いとけ、まな板チビ」
「ま、な……いた?」

 突然提示されたその単語に疑問符を浮かべる羽月だったが、幸か不幸か、彼女は何度か反芻したのちに、それに込められた意味に気付いてしまった。

「な……、な……んっ……!」

 羽月の顔がみるみる朱に染まっていく。理由は知らないが、自分の採用について口添えをしてくれた沖田に対する感謝など、羽月の中にはもう一片たりとも残っていなかった。一方的に言いたいことだけを吐き出して、その場を去ろうとした沖田の後ろ襟首をふん掴むと、羽月は腹の底から怒号を吐き出して怒りを炸裂させた。

「何なんですか貴方はァ!」
「うごォ!!」

 あまりにも彼らしからぬうめき声を上げ、沖田は襖に頭から突っ込んだ。その勢いで襖は敷居から外れ、彼らは合体したまま宴会の場へと逆戻り。辛うじて誰も下敷きにはならなかったが、周囲の隊士たちはあまりの衝撃的なその光景に、眼球が零れ落ちそうなほどに目を見開く。あの実力者の沖田に、一体、何が。それは襖があったはずのその場所に立つ羽月を見れば、嫌でも察してしまうことであった。
 沖田into襖はよろよろと畳に手をつき、それから頭部を無理やり外す。普段は丸いシルエットを作っているサラサラの髪の毛が酷い有様だった。──羽月の行動は、完全に沖田の計算外、予想し得る範囲の外側にあった。勿論怒らせたのは自分であるのだが、随分と大人しく礼儀正しいその様子に、沖田は羽月から怒るという動作を勝手に切り離していたのだ。
 穴の空いた襖が床に打ち捨てられる。盛り上がっていた大広間は、水を打ったように静まり返っていた。

「ってェな……何しやがんでェゴリラ女」
「ゴッ……!? 貴方にはデリカシーというものが無いんですか!? 言うに事を欠いて、ま、まな板だのゴリラだの……!」
「なんでェ、文句無しの比喩だろーが」
「言って良いことと悪いことがあります! それにですねェ着物は体格が隠れるものでしょう! この辺りで流行ってる洋装とは違うんですから!」
「ちょっ、ちょ二人ともこの数分で何があったの!? 一旦落ち着こ! はいホラ吸って〜吐いてェ〜」
「うるせェアホは黙ってろ」
「すみません貴女は黙っていてください」
「当たり強!!」

 誰も動けない中、見かねた朋子が土方を振り切って仲裁に入ったが、沖田と羽月に一蹴された。もはや視線すら寄越してもらえない。二人は至近距離で火花を散らし合い、強い語調で言い争いを続ける。

「だいたい貴方、わざわざ私を傷付けるような暴言ばかり吐いて。一体何なんですか? 何のおつもりで?」
「暴言? 全部事実だろーが」
「ほら、言ったそばから。そんなに私のことが嫌いならば構わないで下さいな。私は私を嫌いな方に割く時間など持ち合わせておりませんので」
「ハッ、よく言うぜ。自分から俺のこと投げ飛ばしといて構ってちゃんか?」
「アレは条件反射です。十割方貴方のせいだとお気づきではないのですか?」
「まるまる全部他人のせいにするなんざガキの証拠だねィ」
「ガキにガキだなんて言われる筋合い毛頭ありません」
「オメーのがガキだろ。酒の味わい方も知らねェお子ちゃまが」
「おじいさまから未成年は飲んではいけないと教わっているだけです。お酒ひとつで大人ぶるだなんて、それこそお子様の証拠ですね」
「あ?」
「は?」

 一触即発。しばしの静寂ののちに、手を出したのは沖田のほうだった。
 ──パァン!!
 顔の脇で放たれた猫騙しに、思わず肩をはねさせて怯む羽月。一瞬何が起きたか分からないように目を瞬かせていたが、視界の端を飛ぶ小虫がちらついて我に返る。

「ワリ。蚊がいたから」
「……! ……っ!!」

 ──パァン!!

「すみません、貴方の仕留めそこねた蚊がそちらにいたものですから」

 眼前で打たれ返された猫騙しに、沖田は思わず目をつむる。そのすぐ傍らをふわりと蚊がすり抜けていく。寸刻空けて、二人は蚊を追うように、その先にいる相手を互いに気にせず手足を繰り出し始めた。

「何ちょっと何!? あの二人何してんの!?」
「待て待て待て待て!! ウワ巻き込まれっぞ逃げろ!!」
「いやいや! いいぞもっとやれ!! ガハハハ!!」

 飛んできた拳を避け、回し蹴りを決め、腕で堅くガードされ、手刀を放ち、近くの酒瓶で止め、投げ、蹴り、殴り、いなし、飛びつき、掴み──もはや蚊にかこつけられるレベルを超過した争いは周囲に飛び火し、伝播し、喧嘩っ早い男どもを巻き込んで拡大していく。

「うお危ねェ!! なんかぶっ飛んできた!」
「痛ってェ! テメー避けんなや俺に当たったろーが!」
「あ!? んなとこにいるテメーが悪いんだろうが!」
「あァん!?」
「おい誰だ足踏んだ奴ァ!」
「ああっ! 俺の酒がァ!! 許さねーぞ!!」

 混沌うずめく品の無い光景をただ一人、土方は部屋の脇に座したまま死んだ瞳で静観していた。その彼の隣に、しれっと難を逃れた朋子がヘラヘラとやってくる。

「いやァ〜堪え性ないばかりにこんなめちゃくちゃになっちゃってねェ、心身ともに全員鍛え直しですよこれは」
「……テメーもな」

 半分以上残ってる朋子の仕事に目を落とし、胃痛の種が増えたとでも言いたげに吐かれた土方のため息は、喧騒に紛れて消えていった。