01
茹だるほど暑い夏の日だ。毎年やってくる大した思い出も残らない夏、の筈だった。――あの日、彼と出会うまでは。
「もしもし、祖父ちゃん? うん、今駅着いたところ。15分のバスに乗るから。お前だけかって、俺一人だけど。は? 彼女? いたらこっち来る暇もないって」
大学の長い長い夏休み。暇を持て余して家で堕落した生活を送っていた俺を見かねた母親にそんなに暇なら祖父母の家に手伝いに行きなさいと半ば追い出される形で父方の祖父母の家に行くことになった。新幹線とバスを乗り継いで行く祖父母の家は山と田んぼに囲まれたまさしく誰しもが思い浮かべるような日本の田舎だ。田舎の例にもれず、祖父母の住む地域も過疎化が進み、親戚の中でも若い世代は都会近くに引っ越してしまいこうして俺の方にまで声がかかったという訳だった。小さい頃であれば、家族旅行がてら一週間ほど遊びに行ったものだが、高校受験が近くなって以降遊びに行くことはなくなってしまった。手伝いに行けと言われた時は面倒だなと思ったものの、日々を無為に過ごすよりはいいかと考え直して祖父母に連絡するとそれはもう大喜びと言った様子で、何だか面映ゆい気持ちになった。
これからバスに乗る旨を祖父に電話した後、駅舎を出て地元行きのバス停に向かう。大きな荷物を抱えた家族連れや若者たちが目について、自分もその一人の筈なのに夏休みだなあなどと他人事のような感想を抱いた。新幹線が発着するこの基幹駅から祖父母の家まではローカル線を乗り継いで行くことも出来るが、手っ取り早いのは高速バスを利用することだ。乗り場近くの券売機で乗車券を購入して乗車待ちの列に並ぶ。じりじりと皮膚を灼く日差しを避けて日陰に入り飲み物を探したところで新幹線の車内で飲み切ってしまったことを思い出して肩を落とした。腕時計を見るとバスが来るまであと五分程で、少しくらい我慢するかと溜め息を吐く。するとその溜め息を吹き飛ばすように涼やかな風が通り抜けて行って、それだけでここに来た甲斐があったと思った。都会の夏は暑すぎる。最早暴力と言っても差し支えないそれを思い出しかけて、慌てて振り払う。そうこうしているうちにバスが乗り場に到着し、それに乗り込んだのだった。
迎えに来てくれた祖父の軽トラックに乗り、祖父母の家へと向かう。久し振りに会った祖父は記憶と変わらず快活な笑顔を浮かべ、歓迎と労いの言葉を掛けてくれた。車内でお互いの近況を話して
いるとあっという間に家に到着する。玄関を開けると祖母が人の好さそうな笑みを浮かべて迎えてくれた。自室にと宛がわれた和室に荷物を下ろして居間に戻ると祖父から鍵を渡される。出掛ける時は適当に鍵かけてくれと言われ、頷いて鍵を受け取った。
祖父母の二人はこれから少し離れたスーパーまで夕飯の買い出しに行くらしい。留守番しててもいいしその辺歩いてきてもいいし、と言うので折角だから辺りをぐるっと回ってみることにした。17時には帰って来いよという祖父の言葉に俺はもう大学生だよと返すとそうだった忘れてたと笑い声が上がる。ダッシュボードの上にあった麦わら帽子を熱中症に気を付けろよと手渡され、それを振ってスーパーに向かう軽トラを見送った。
帽子を被り、さてどこから行こうかと辺りを見渡す。家の左手は大体田んぼと畑が続いており、アスファルトの上には陽炎が揺らめいていた。反対側も田んぼと畑だが途中で山の陰に入るようだ。いくら都会よりましだとは言え、炎天下の中日向を歩くのは気が引ける。行くなら山の方だな、と歩き出した。畑仕事は涼しい朝方や夕方にするためか畑や田んぼには誰もいなかった。車社会の田舎では歩いている人もおらず、誰ともすれ違わない。ただ、時折自転車に乗った小中学生が元気に声を上げているのを見て、やはり夏休みだなと思った。途中で自販機を見つけ、冷えたスポーツドリンクを飲みながら先へと進んでいく。小さい頃の記憶によれば、山の方に小さい神社があったはずだ。虫取りや鬼ごっこをして遊んだ思い出がある。今もあるといいけど、と思いながら足を動かした。道に沿ってしばらく進むと苔むした石段と小さな鳥居が見えてくる。変わらない思い出の場所に童心が蘇るようだった。不揃いな段差に足を取られないよう注意しながら階段を上がっていく。日差しは鬱蒼とした木々に遮られ風が吹くと涼しく、歩いて火照った身体には気持ちよく感じられた。一番上まで上がりきって少し上がった息を整えると拝殿の前に人が立っているのが見えて息が止まる。驚いているのは相手も同じようで目を見開いて振り返った姿勢のまま固まっていた。声を上げたのは俺が先だった。
「えっと……こんにちは」
「……こんにちは」
ひとまず返事が返ってきたことに安堵する。それは相手も同じだったようで、固まっていた身体を動かしてこちらに向き直った。拝殿の方まで歩いていってまた口を開く。
「まさか先客がいるとは思ってなくて……」
「驚かせてしまって済まない」
「いや、俺が勝手に驚いただけなので!」
慌てる俺の様子が余程おかしかったのか、その人はくつくつと笑い声を上げた。見たところ俺と同じくらいか少し
年上といったところだろう。こんなところで同年代の人を見かけるとは思いもよらなかった。笑いが収まったあたりで自己紹介をする。
「俺、朽木響河です。祖父母の家に夏休みだから遊びに来てて」
「ああ、なるほど。私も実家がこの山の反対側にあってな」
「その辺りって確か向って名字多いとこですよね」
「よく知っているな。私の名字も向だ。私は……、いや向と呼んでくれ。あまり名乗りたくないのでな」
続いて自己紹介しようとしたその人、向は申し訳なさそうに目を伏せかぶりを振った。なんとなくその理由に察しがつく。身近な友人の一人も奇異な名前ゆえに同じように名字で呼ばれることを望んでいたからだ。
「あー……もしかしてキラキラネームってやつですか? 俺の知り合いにもいて苦労してます」
「まぁ……そんなところだ。それと敬語じゃなくていい。そこまで歳は変わらないだろう?」
「確かに。……敬語使うの得意じゃないから助かる」
「だろうな」
「だろうな、ってどういう意味だよ!?」
またくつくつと笑われ、からかわれたのだと知る。普段であれば揶揄した相手に苛立ち、悪印象を抱くものだが、初対面にも関わらずそんな悪い印象を与えないのは何処か泰然とした向の雰囲気によるものだろうか。我ながら子供っぽいと分かりつつも唇を尖らせ、そっぽを向くことしか出来なかった。
「ところで、私は何と呼べばいい? 朽木? 響河?」
「……響河でいい。折角だから仲良くなれると嬉しい」
そう言って手を差し出すと笑みを浮かべた向が握り返してくれる。まるで冷水に手を浸した後のような冷たさに一瞬身じろぐが、俺の体温と混ざり合ってそれもすぐ温くなった。
「随分手冷たいんだな」
よく言われる、と肩を竦めた向が拝殿の脇辺りを指差す。
「あの辺りに冷たい湧水があってな。それにこの場所自体も涼しいから涼むにはうってつけという訳だ」
なるほど、と頷いて腕時計を見やると16時を回ったところだった。名残惜しいがあまり遅くなっても祖父母が心配するだろう。向に別れの挨拶をして、拝殿に背を向けた。階段を降りようとしたところで後ろを振り返ると、気が付いた向が手を振る。
「――なあ、ここに来たら明日も会える?」
声を張り上げてそう尋ねると向はこくりと頷いて口を開いた。
「日中は大体ここにいるが」
「ん、分かった。じゃあ……またな」
「また明日」
手を振り返して今度こそ階段を下りていく。山から出ると先程までの涼しさは何処へやら、熱気が身体に纏わりついて汗が噴き出た。日が傾きつつあると言えど昼間の熱は依然残っている。明日はタオル持ってきた方がいいなと考えながら帰路に就いた。
家に着くと祖父母はもう帰宅しているようで、窓から明かりが漏れている。ただいま、と玄関を開けると居間で新聞を読んでいた祖父はごく自然におかえりと出迎えてくれた。神社の辺りまで行ってきたと話しながら、そう言えば母に到着したと連絡しそびれていたのを思い出す。客間に置いた荷物からスマートフォンを取り出すと案の定母からいくつか心配するメッセージが入っていた。それに無事到着していることとこちらは涼しくて過ごしやすいと言った返信をして、祖母が慌ただしく働く台所に向かう。何か手伝うことはあるか、と聞くと座ってていいのよと笑顔で返されてしまった。手伝いに来たのに上げ膳据え膳じゃ母さんに怒られるよと肩を竦めるとじゃあお祖父さんの相手してあげて、とよく冷えた缶ビールを手渡される。明日からびしばし仕事して貰うから今日は特別、と祖母は悪戯っぽく笑った。そういうことなら、とグラスとつまみも持って居間に戻る。孫とビールが飲める日が来るなんてなあ、と感慨深そうな祖父のグラスにビールを注いで乾杯した。
夕飯を食べた後、明日は5時に起こすからというのを聞いて早めに風呂に入り、就寝してしまうことにした。開け放した縁側から聞こえる虫の声を聞きながら、扇風機だけで夜を越せる気温の違いに感心しきりだった。大学の友人たちのグループメッセージに目を通しつつ、向の連絡先を聞きそびれていることに今更ながら気が付いた。長旅の疲れか、早くも睡魔が近付いて目蓋が降りそうになる。明日会った時に聞こうと決めてそのまま意識を手放したのだった。
夏なので田舎に遊びに行くパラレルのお話です
4話くらいの短めシリーズ予定が書きたい話が増えて全10話+おまけ2話くらいになりそうな感じです
向こと村正の名字は無鉤条誅のムコウから