墨をたっぷりと含ませた筆の先を硯の上で整え、真っ白な舞台の上に持っていく。 深く吸い込み息を止め、筆を紙へと置いた。 黒々とした墨汁の線をすぅっと引き、とめて筆を離す。 筆が紙から離れたと同時に短く息を吸い込み、再び筆がつくタイミングで息を止める。 黒い線は徐々に文字を浮かび上がらせていく。 線をとめて、はねれば僅かに点々と墨汁が飛んだ。 和紙にじわじわと墨が染み込み、にじみが線の輪郭をぼやかす。 思い描く文字の形を紙へと反映するように一画一画、筆を進めていく。 そして最後の一画を書き上げ、静かに筆を置くと体の力を抜くように深く息を吐き出した。 僅かに額に滲んだ汗を手の甲で拭う。作品に落ちたりしなくて良かった。 不意にパチパチと後ろからかけられた拍手に振り返ると、戸を開けっ放しにした和室の縁側に腰掛けた長躯の男が小さく口の端を上げる。 「お見事」 短いながらも心のこもった賛辞の言葉に、驚きに微かに目を見開いたものの思わず笑顔が浮かぶ。 若葉色の鮮やかな民族衣装も、そよ風に靡く細い弁髪も、その姿すべてを目にするのはいつぶりだろうか。 「ありがとう──久しぶりね、ラーメンマン」 作務衣の上につけていた黒い前掛けを外して立ち上がり、書道部屋を出て縁側に男の傍に膝を着いた。 糸目をさらに細くして笑う男は、「あぁ、久しいな」と相変わらずの穏やかさで答える。 「いつ日本に?」 「昨日だ」 「あら、そうなの──あぁ、今お茶を淹れるわね」 気が利かなくてごめんなさい、と苦笑混じりに言って立ち、部屋の隅に置いていた座蒲団を彼に差し出してから奥へ向かう。 仕事部屋として借りているこの離れは、元々は茶室だったらしく茶釜がある部屋と先程までいた小さな和室のこじんまりとしたものだ。 屋根も少し低く、背の高い彼は座っていてもこの離れのサイズでは狭そうに見えてしまう。 「いや、こちらこそ、手土産もなく急に訪ねてすまなかったな、紫水」 後ろからかかる声に背を向けたまま応える。 「ううん、いいのよ。気にしないで。 あ、そうだ頂き物の羊羮があるの。お茶請けに頂きましょうか。 有名なお店のでね、美味しいのよ」 「ほう」 急須にお茶の葉を淹れてお湯を注ぎ蒸らしながら、茶箪笥から取り出した羊羮を切り分けていく。 「“一簣之功(いっきのこう)”──か、仕事の品かな?」 不意に先程書き上げたばかりの文字を読み上げたラーメンマンの問いかけに、紫水はえぇと頷いた。 「会社に飾るものを頼まれて」 「うむ……“仕事が完成する前の最後の努力”──いい言葉じゃないか」 「社長さんの座右の銘らしいわ、素敵な言葉よね」 お盆に湯呑みと菓子皿を乗せて縁側へと戻る。 湯呑みと羊羮を二つ乗せた皿を目の前に並べると、ラーメンマンはじっと見つめていた書から視線をこちらに戻した。 「仕事は変わらず順調なようだな」 「お陰様でね、ありがたいことよ」 縁側に片足を持ち上げて座るラーメンマンと向き合うように正座し、自分用の湯呑みを両手で包み込むように持つ。 「……貴方のおかげね」 「ん?」 熱いお茶が好きな彼が一口お茶を飲んでから、不思議そうに片目を見張ってこちらを見てくる彼に微笑む。 「“2000万パワーズ”として戦った際にあなた達が着けた肩当ての文字、私の書いたものを使ってくれたでしょ? あれからだもの、仕事が急に増えたの」 彼がバッファローマンと組んだタッグ“2000万パワーズ”は、二人揃いで着けた肩当てに『闘』と『猛』の字がそれぞれデザインされていた。 その二字は紫水が書いた字を元にしていたのだ。 アイドル超人が大会中、広告塔になったおかげか書道家として広く名を知られる事になり昔よりずっと活躍の場が広がった。 「お礼としてだったのに、ちゃんとお礼になったのか怪しいくらい……」 「十分なお礼だったさ、あんなに素晴らしい書を貰ったんだ。 バッファローマンも喜んでいただじゃないか」 一字ずつ書いたそれは額装して二人に渡していた。 漢字文化に馴染みのないヨーロッパ圏の彼は、大変な喜びようだったのは確かに覚えている。 「そう……?そうなら、いいんだけど。 でもあの時助けてくれたこと、とても感謝してるのよ。 あれじゃ、十分返せた気がしないわ」 困り顔に手を当て小さく溜め息を吐くと、ラーメンマンは君は律儀だなと言って喉を鳴らして笑った。 ラーメンマンとの出会いは数年ほど前、中国でのことだった。