当時、私はまだ駆け出しで著名な書道家に弟子入りし、書との向き合い方から書道家としてのマナーを学んでいるひょっこだった。 数ある弟子の中、末弟子であった私はすぐ上の兄弟子と共によく使いに走らされる事があった。 あの時は、中国で師匠の個展が開催される事となり弟子総出で展示の準備から師匠の世話まで駆け回っていた。 そんな中、重要な品を抱え師匠の元に向かっていると反日感情の強い現地のチンピラに絡まれた。 その時、手にしていたのは師匠がツテで手に入れた、“古墨(こぼく)”という中国の清時代に作られた最上級かつ歴史的に価値のある墨だった。 私達は忙しい師匠に変わりその品を受け取りに向かった帰りで、チンピラ達はそれをどこから嗅ぎ付けたのか店を出たときから着け狙い、人気のなくなったところで襲いかかって来たのだ。 男達は「日本人が中国の至宝を使う事などおこがましい返せ」と迫り、腕に抱えた包みを奪おうとして来た。 一緒にいた兄弟子が私と墨を守ろうとしてくれたが、荒くれ者の男達に敵うわけもなく、ほとんどリンチ状態で一方的に殴られ蹴られた。 助けてくれる者もなく、ついには一人の男が私の手の包みを掴み、抵抗する私の髪を掴んで引き倒すと容赦なく背中を踏みつけた。 下卑た笑みを浮かべる男達を涙で滲んだ目で見上げたその時、静かな声がその場の空気を引き裂いた。 「何をしている」 静かとはいっても、その声は穏やかというよりは引き絞った弓が引き放たれるのを待つ刹那の静かさだ。 私は声の方向を倒れたまま見つめた。 逆光を受け佇むその男が誰なのか私だけがわからなかった。 だが、男達はそれが誰なのか知っていたのか、見た事が無いくらいに顔を青ざめさせ震えながら後ずさった。 ざり、っとカンフーシューズが地面を擦る。 こちらに近づいて来た彼が、男達の前に立った時その長身と体躯の良さが際立つ。超人だ、とほとんど本能的にわかった。 目の前に立った彼の威圧感に圧された男達は、奪った荷物を放り投げ蜘蛛の子蹴散らすように逃げていく。 あっと思った時にはもう遅く、宙に舞った包みは無惨にも地面に叩き付けられた。 短い悲鳴を上げて痛む体を起こそうとしたが体がすぐに傾く。 「大丈夫か?」 大きな手の平に支えられ、もう一度地面に横たわることは避けられた。 震える体のせいで一瞬声がうまく出ず、こくこくと頷いて大丈夫だという事を彼に伝える。 彼はホッと小さく息を吐いてから、手を伸ばし男が捨てていった包みを拾い上げると私に差し出してくれた。 お礼を言う間もなくそれを受け取ると、急いで包みを開く。 あ、と漏れた声とともに涙が溢れ出して来た。美しい装飾が施された“古墨”は無惨にも割れてしまっていたのだ。 突然泣き出してしまった私に彼は動揺したようだが、包みの中身が何なのかわかったのか彼は黙ったまま泣きじゃくる私の背中を撫ぜてくれた。 「少しは落ち着いたか?」 しばらくしてから優しい声に促され、涙に濡れた顔を上げて小さく頷いた。 「はい…あの、助けて頂いてありがとうございます」 「いや。この国の者が酷い事をしてしまったようだ…怖かったろう」 体の震えはまだ収まっていない。問いかけには一つ頷いて答え、私は俯いた。 彼はポンポンと優しく背中を摩ると、僅かに聞こえたうめき声にそちらに顔を向けた。 「兄さん」といろいろなショックで忘れていた存在を思い出し、私は倒れ伏す兄弟子に彼に手を貸してもらいながら駆け寄った。 「う…」 「兄さん、兄さん」 呼びかけてみるものの、微かなうめき声を零すだけで兄弟子の意識がはっきりしそうにない。 彼は私の横に膝を付き、兄弟子の体を調べるとこちらに目を移した。 「君達の帰りが遅いと、心配する者がいるだろう。 送っていこう、君の兄は私が運ぼう。君は一人で歩けるな?」 「はい。兄さんをよろしくお願いします」 「うむ」 彼は軽々と兄弟子を背負うと、人一人抱えているとは思えない軽い足取りで進んでいく。 それを呆然と見送って、私は慌てて彼の背中を追いかけた。 道を歩く彼はやはり有名人らしく、道行く人の目を集めたが背負う傷だらけの男と隣を歩く同じくぼろぼろの女の存在のせいか声を欠けてくる者は誰一人いなかった。 師匠達が待つ会場への道を教えつつ歩いていると、自分と兄弟子の名を呼び声が聞こえて目を見開いた。 血相を抱えて駆けて来たのは、師匠とその一番弟子だった。 「し、師匠」 見慣れた顔に安堵と哀しみがまた溢れて来て涙が再び溢れた。 僅かによろめいた体を一番弟子の男が肩を掴んで支えてくれる。 「どうしたんだ、紫水?!こいつも一体…! あんまり遅いから皆で探しに行こうと…」 泣きじゃくる私の顔を心配そうに覗き込んで尋ねて来るが嗚咽を零すばかりの私では話にならず、視線を兄弟子を運んで来てくれた彼へと視線を移した。 「人気の無い道に連れ込まれて暴漢に襲われていました。その荷物が狙いだったようです」 「それを貴方が助けてくだすったんですね、闘将・ラーメンマン」 師匠の分厚い眼鏡の奥の瞳はその時、僅かに涙に濡れていたらしい。 「私の弟子達を助けて頂き、ほんにありがとうございました」 深く頭を下げた師匠に習って一番弟子も深々と頭を下げた。 私も泣きながら助けてくれた彼に頭を下げると、彼はすこし困ったように糸目の眦を下げる。 「…私が来た時にはもう、彼女達はこんな状態で…助けれたとは言いがたいでしょう。 それから、差し出がましい話ですが」 「なんでしょうか?」 「彼女達は抵抗の末それを奪われ、そうなってしまったのも男達がやったことです。 出来れば、彼女達を責めないでいただきたい」 そう言い残し彼ラーメンマンは、他にも来ていた弟子に背負っていた兄弟子を託すと一礼を残し去っていってしまった。 あまりにも呆気ない別れであった。 彼の助言もあってか、心配の勝っていた師匠達からお叱りは一つも無かった。 むしろ逆に二人だけで行かせた事を謝られ、兄弟子と二人で大層動揺してしまったくらいだ。 その後、展示会が終わるまで中国に滞在したが彼とどこかですれ違う事もなく、私は帰国の途についた。 再会は超人オリンピックの時。TVでの選手紹介の顔ぶれの中に彼の顔があり、慌ててチケット入手に奔走した。 当時、件の兄弟子は既に独立しており彼のツテでチケットを入手し、私はオリンピックを観戦する事が出来た。 兄弟子は仕事の都合も有り、私だけあの時の感謝も伝えようと大きな花束を手に花道の傍で彼が姿を現すのを待った。 そして遂に花束を渡した時、それを受け取った彼は私の顔を見て驚いたように目を見開いた。 「ー…まさか、覚えていてくれるとは思っていなかったの」 「ん?」 ぽつりと呟いた言葉にラーメンマンは不思議そうに声を上げた。 「日本で再会した時、忘れられてても仕方が無いと思っていたのよ。 でもあの時、貴方はきちんと覚えていてくれて……嬉しかった」 両の掌で包み込んだ湯のみを見下ろし、あの時の感情を思い起こして口元を緩める。 黙ったままのラーメンマンを見上げ紫水ははにかんだ。 「それに師匠が呼んだたった一回きりの私の名前まで覚えてくれて」 穏やかな風が二人の間を通り抜け、紫水は僅かに乱れた髪をそっと耳にかけた。 「それは……その、だな…」 ぽつりと呟かれた珍しく歯切れの悪い言葉に紫水は目を瞬いた。 「ラーメンマン?」 「……紫水、それはだな」 気のせいだろうか、色の白い面長の顔が赤く染まって見えるのは。 「あの時、君の泣き顔が綺麗で……その、」 歯切れが悪い所為でゆっくりと噛み砕くように話された言葉の意味にじわじわと顔が熱を持って来る。 「一目惚れなんだ」 トドメの一言に、真っ赤に赤面した二人は黙ったまま顔を見合わせていた。 そのおかしな状況を指摘するものはこの場には誰もいない。 チュンチュン、と庭の木に作っていた小さなえさ場で小鳥達が笑うようにさえずっていた。 END