「Jr.に怒られた……」 布団を置いて居間に戻ると、座布団の上に正座したブロッケンマンが重苦しい声色でそう言った。 「……でしょうねぇ」 電話口から響いたJr.の怒声を思えば「そりゃそうだろう」っという感じだ。 ブロッケンマンは神妙な顔のまま、春乃に正面に座るように促す。 春乃が促されるまま正座すると、ブロッケンマンはゆっくりと重い口を開いた。 「明日、ドイツに発つ事になった」 「……そうですか」 何となく予想はしていた、だから間が空きつつもなんとか言葉を口に出来た。 「春乃も、一緒にドイツに行かないか?」 「──え」 「チケットの心配は入らない。パスポートはまだ大丈夫なんだろう? Jr.も、君に会いたいと言っていた」 「Jr.が……」 Jr.──最後にあったのは何ヵ月前になるのだろうか。 日本に逃げ帰ったような者と会いたいと言ってくれる、優しい子なのは変わらないようだ。 一緒に行きたい、彼と離れがたい気持ちは確かにあったが、春乃は緩く首を横に振った。 「Jr.には会いたいけれど、一緒に行けません」 「──何故?」 眉間に皺を寄せ怪訝そうな顔をするブロッケンマンに、思わず苦笑を浮かべる。 「さっき聞いたでしょう、祖父が今入院してるんです。 ただの夏バテですが、今離れるには離れるには心配ですから」 「──そう、か……」 何とも言えない表情で、そう呟くとブロッケンマンは僅かに俯いてしまった。 たった数日の“里帰り”──それを一日しか傍に入れないことを彼も残念に思ってくれているのだろうか。 春乃は(ごめんなさい)と心中で呟いた。 祖父の事も確かに断る理由の一つだったが本当はそれだけじゃない。 (今の弱い私では、二度目の別れには耐えられませんよ……) 目の前で息絶えた映像が不意にフラッシュバックする──あの時の絶望と喪失感をもう一度味わうなんて無理だ。 「春乃?」 呼ばれた名前にはっと顔を上げる、心配そうな表情のブロッケンマンに取り繕うように笑顔を見せた。 「すみません。 今日はご馳走にしますから、沢山食べて行って下さいね」 すぐに支度に掛かりますからと、立ち上がり足早に台所へ向かう。 揺らぐ気持ちを押さえ込む事に精一杯で、春乃は自分の背に向けられるブロッケンマンの視線に気付く事はなかった。 簡素な素麺という当初の予定を大幅に変更して、夕食はブロッケンマンが以前好ましいと言っていた和食の品でテーブルを埋めた。 共にいる間に覚えた箸の使い方は相変わらず上手で、ひじき煮に入った豆を箸でつまんで「どうだ」と言わんばかりのブロッケンマンに、春乃は思わず吹き出した。 様々な話をしながらの夕食はあっと言う間に終わり、春乃が片付けをしている間ブロッケンマンは縁側に座り庭を眺めていた。 蚊に刺されるといけないと思い、蚊取り線香を乗せた器を傍に置くと、煙を不思議そうに嗅いだ顔が何とも言えない表情に歪む。 日本の夏の風物詩のこの独特な香りはお気に召さないようだ。 「あの鉢の植物──あれはアサガオ、か?」 不意に庭を見詰めながら呟いた言葉に、台所に戻ろうとしていた足を止め振り返る。 「えぇ、祖父が毎年育てているんです」 「花はもう終わったのか?」 「いいえ、朝顔は涼しい朝にだけ花を開かせるんですよ」 蔦を伸ばし葉を繁らした中に、小さな花の蕾がいくつか覗いている。 祖父が手間をかけているだけあって毎朝、青や紫の花を綺麗に開かせた。 「そうなのか──なら、咲いた花を見てから行けるだろうか」 「……ブロッケンマンは、朝顔を何処で見たんですか?」 ぽつりと溢された言葉に、つきりと針が刺さるような胸の痛みを誤魔化すよう話の矛先を変える。 「君と初めて出会った夏に、日本で一度だけ咲いたアサガオを見たんだ」 あの花は美しいな、と呟く横顔を見つめていると、「春乃」と静かに名を呼ばれた。 「アサガオの花言葉を知っているか?」 薄い青の瞳だけでこちらを見たブロッケンマンに、困ったように笑って肩を竦める。 「その手の話題にはどうにも疎くて」 「そうか……そのうち調べて見てくれないか」 「──はい、そうします」 教えてはくれないのか、と少しばかり不思議に思いながらも再びアサガオの鉢の方に戻された瞳に、会話の終わりを感じ春乃は歩き出した。 「今贈るのに、ぴったりな花だな」 背中に向けられた言葉の真意がわからず困惑しながら、再び足を止め振り返った。 「ブロッケンマン……?」 縁側を向くブロッケンマンは呼ぶ声に振り返りはしなかった。 アサガオの花言葉が、一体何を意味するというのだろうか。 (それは今度こそ永遠の?)