「そう言えば──うちの家、よく場所がわかりましたね?」 ブロッケンマンに後ろから抱えられる格好で──ドイツの屋敷にいた頃だったら、全力で抵抗していただろう──縁側から祖父が手入れをする庭を眺めながらふと思った疑問を口にする。 「……お前が教えてくれたんじゃないか」 頭上から呆れたような声が落ちて来て、顔を上げれば予想通りな顔に苦笑を溢す。 ブロッケンマンはスラックスのポケットを漁ると、小さな紙を取り出し春乃に差し出した。 それを受け取り見れば、確かに自分の字でここの住所が書かれていた。 「Jr.がお前に手紙を書きたいとせがんだ時、手帳を割いて書いてくれただろう」 「あー…そういえば」 でもそれは、Jr.だって幼い頃。もう随分と昔の話になる。 「──これをずっと、持っていたんですか」 浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、ブロッケンマンはばつが悪そうな顔で目を反らした。 「答えづらい事を聞くな……」 「すみません」 悪いと思ってないだろう、と拗ねたように言って彼は笑ったままの春乃の頬っぺたをつねった。 「春乃」 つねった頬を優しく撫ぜながら、ブロッケンマンは目を細めた。 「再会してからお前は随分と、素直だな?」 囁くように落とされる言葉に、春乃は困ったように苦く笑う。 「ただ単に気にする人目がないので、気儘に振る舞ってるだけですよ」 肩書きは既にドイツに捨ててきた春乃にとっては、“主従”を意識して来た昔よりは随分、身軽になった。 「……ドイツは、居づらかったか?」 ブロッケンマンの静かな問いに春乃は首を横に振る。 「いいえ、貴方も含め屋敷の方はみんないい人でした。 人目を嫌に気にしてしまったのは、職柄と私の弱さ故です」 屋敷の者で、春乃を負の感情で見てくる人間は何処にもいなかった──それでも何かに怯えていたのは、言葉通り春乃が弱かったに他ならない。 強くいられる事も、甘える事も出来なかった春乃は、あそこからただ逃げるしかなかったのだ。 「それに……後悔したんです」 「後悔?」 「立場や建て前を気にして、本心を隠し続けた事を。 私はあれから何度も後悔しました」 「──……」 見開かれた青い目に、困ったように笑い返す。 (恨み言、みたいだったかな) どうにもこの話題はいけない。 ブロッケンマンが何か言う前に、春乃は話を変えるように「あ、そう言えば」と呟いた。 「戻って来てから、Jr.には会いに行ったんですか?」 超人のお盆の期間が世間一般と同じかは知らないが、たった数日の還りなのは同じだろう。 「戻って直ぐに此処に来たからな……流石に電話の一本は入れておくか」 「ちょ、連絡くらい入れてあげて下さい!」 あっけらかんとした様子のブロッケンマンに、何やってんだと思わず春乃は寄り掛かっていた体を離した。 「春乃……」 何やら恨みがましく見てくるブロッケンマンを不思議に思いつつ、春乃は居間の奥を指差した。 「?」 「Jr.に電話して下さい」 「……今か?」 「今すぐです」 きっぱりと答えれば、ブロッケンマンは深い溜め息を吐き出して「わかった」と呟いた。 立ち上がれるように春乃が退くと、ブロッケンマンはさらりと春乃の首筋を撫ぜた。 その仕種に顔を上げると、上から覗き込む青い目と至近距離で目があう。 「今日くらいは二人で居たいのだが、いいか?」 甘く囁かれた言葉がわからないほど春乃は初じゃない。 「──急なんですから、客用の布団が湿気っぽくても知りませんよ」 「春乃と同じ布団でも私は構わないが?」 「エロおやじ……」 子供じみた悪態をくすくすと笑いながら、春乃の目元にキスをすると、ブロッケンマンは立ち上がり電話の方に向かって歩いて行く。 唇が触れた目元を押さえて赤面しながら、くそうと意味もなく唸った。 「……」 電話をかける後ろ姿を見詰めながら、春乃は熱を持つ胸に手を当てた。 還って来て直ぐの一日を、自分のために使ってくれた事を喜ぶ心──こんなに温かく、幸せに包まれるのはいつぶりだろうか。 だからこそ、少しだけ怖くなった。 (また、彼が行ってしまったら……私はどうにかなってしまいそうだ) 縁側と電話までの物理的な距離がある背中に、思わずすがり付いてしまいそうな衝動を誤魔化すように、春乃は拳を握って立ち上がった。 (一応、客用のお布団だしておこう……) 後ろから聞こえる彼の声を背に、春乃は歩き出す。 その少しの後、受話器越しなのにかなりの音量で響いた怒声に、思わず振り返る事になるのだが……。 (笑顔でいてほしいんだ)