対戦相手は呆気なくリングの上に横たわった。 興奮しきった歓声に包まれる会場の中央でブロッケンマンは動かぬ相手に一瞥をくれると、肩にかけた軍服の裾を翻しリングに背を向けた。 母国・ドイツでの試合を終え歓声と駆け寄ってくる記者の声を背に、休む暇もなく空港へ向かう車へと乗り込む。 向かう先は遠征先の日本。とある試合のために遠い島国までの長旅だ。 自家用機を飛ばしたとしてもかかる長い移動時間にブロッケンマンは憂鬱とした気持ちで溜息を吐く。 そのブロッケンマンの目前に隣の座席に座る秘書官が一枚の書類を差し出してきた。 それをすぐには受け取らず、差し出された書類から部下に視線をやる。 『──なんだ?』 『先程、日本から電報が』 『……』 受け取った書類には堅苦しい言葉遣いのまどろっこしい文面が綴られていて、ブロッケンマンは米噛みに指をあて顔を顰た。 『それで?』 最後まで目を通すのが面倒になり内容を説明するように促すと、秘書は僅かに言い辛そうに口を開いた。 『ブロッケン様に日本での活動中、SPをつけたいそうです』 『SP──超人か?』 超人である自分にSP──護衛を付ける事への違和感に目を細める。 『いえ、恐らく違うかと……』 日本にブロッケンマンの護衛が出来るほどの超人がいるはずもないと、部下は最後にそう付け加えた。 ゆっくりとした動きで受け取った書類の文面をしばらく無言で睨んだ後、ブロッケンマンはふっと小さく笑った。 『なるほどな』 その呟きとともに突き返された書類をファイルに戻しながら、秘書はブロッケンマンの言葉に首を傾げた。 ブロッケンマンは喉の奥で低く笑う。 『彼らは残虐超人である私が自国民を傷つけたりしないか不安なんだろう』 『そんな、ブロッケン様は……』 『一般人の認識などそんなものだ』 言葉に詰まる部下にそう呟いて、軍帽を少し目深に被るとブロッケンマンは背もたれに深く寄り掛かった。 『少し眠る。空港に着いたら起こしてくれ』 『畏まりました』 その言葉とともに車内は静けさに包まれる。 深く息を吐いたの後、軍帽の下、ブロッケンマンは静かに瞼を閉じた。 一体、自分を警護する者とはどんな者なのだろうか。 その日、警護第4係は猫の手も借りたいほどの忙しさだった。 明日に控えた警護対象来日に慌ただしく準備に走り回る同僚を横目に、部屋に設置されているコーヒーメーカーのスイッチを入れながら春乃は欠伸を噛み殺した。 「あ、春乃!俺にも、俺にも珈琲くれ!」 珈琲の香ばしい匂いに誘われたのか書類で埋もれたデスクから顔をあげた男に、春乃は頷いて彼専用の白い可愛いウサギちゃんが描かれたマグカップを棚から取り出した。 煎れたての珈琲の入ったマグカップをデスクの空いたスペースに置くと、男は「サンキュー」と力無く笑った。 「武田先輩、明日どんな人が来るんです?」 春乃は先輩である武田の斜め後ろの自分の席に座りながらそう尋ねると、背伸びをしてから振り返った武田が首を傾げた。 「ん?あぁ、お前メンバーに入ってないのか」 「警護対象、確かドイツ人でしたよね? 意志疎通が出来ないのが選ばれるはずないでしょう」 そう答えると武田はなるほどと頷きながらズレた黒縁眼鏡を直しながら声をたてて笑った。 春乃が4係に来たのはつい二ヶ月前の事。 他のメンバー程、外国語に堪能でない春乃は、新人ということで上司から語学勉強期間だけ大掛かりな要人警護だけはメンバーから外してもらっている。 「お前、英語も怪しいもんなぁ。勉強はしとけよ? 明日来んのは、ドイツの残虐超人のブロッケンマンだ」 驚いたか!と満面の笑みで言う武田に、春乃ははぁと曖昧な返事を返した。 「春乃、お前相変わらず反応鈍いなぁ……」 「まぁ、眠気のほうが勝ってるんで……。 残虐──そんな方でも警護対象になるんですか?」 「今回のは監視みたいなもんだろうなぁ」 「監視…ですか」 幾分声を潜めて言った武田の言葉をオウム返しに呟くと、武田は曖昧に頷いた。 「うん、いや、まぁ……警護なんだけどな」 そう言って武田は困った顔で頭の後ろを乱雑に掻く。 「超人だと何かあると結構大事だからな……いや、有り得ないとは思うんだが、うん」 最後の方は独り言のように呟く武田をぼんやりと見つめながら、春乃は口の中で《ブロッケンマン》と言う名を転がした。 超人達の試合など見に行った事はないが、ニュースでその名を聞いた事は多々ある──返り血に笑う軍服の男。 (何故、彼を人間が護衛するのだろうか) 記憶の中に微かにある戦歴を思い出してみても、あまり護衛の必要性は見出だせない春乃は首を傾げながら珈琲を啜った。 「ちょっ、大変ー!」 息を切らし駆け込んできた同僚に、部屋にいた全員の視線が集まった。