一人の老人が公園のベンチに腰掛け、誰かを待っているようだった。 子供達が遊ぶ声が微かに聞こえる昼近くの穏やかな空気に似合わない三つ揃えのスーツに春物のコートを身に着けた老人は、目深く被ったソフト帽のせいでその顔は伺い知れない。 不意に遊んでいた子供の一人が車の止まる音に振り返った。 公園の入り口前に停車した黒い車は、スモークガラスのせいで中は伺えない。 この辺りでは見ない車にあやしいと子供心に思っていると、ベンチから立ち上がった老人が車に向かって歩いて行く。 杖を手に歩いてく老人の後ろ姿は車の後部に乗り込んだ。 ぼんやりとそれを見つけていた子供は一緒に遊んでいた友達の声にその非日常から視線を外す。 呼ぶ声に答えて走り出した子供が一度だけ後ろを振り返った時には、もう車はどこかに走り去った後だった。 「お待たせしてしまって、申し訳ありませんでした」 運転席からの声に、後部座席に乗り込んだ老人は「構わん」と端的に答える。 ソフト帽を外し組んだ膝の上に乗せると、老人は運転席に座るに相手の横顔を見据えた。 「それで? 状況はどうなっている?」 車を走り出させながら、固い表情のまま口を開く。 「今のところ大きな進展はありません。 先程、富士の麓で《アレキサンドリア超人図書館》を発見したという連絡はありましたが、情報を得るにはまだ時間がかかるでしょう」 「そうか」 溜め息混じりにそう呟くと老人は背もたれに深く寄りかった。 「《アレキサンドリア超人図書館》が日本に現存していた事はご存知だったんですか?」 「現存している、とまでは知らなかった。 だが、戦前《超人図書館》を実際に軍の指揮の元調査を行ったという話は、若い時分耳にしたことがあったな」 「つまり、その時は見つからなかった、と?」 さて、と呟いて老人は曖昧に笑った。 誤魔化したことにも気づいているだろうが、それ追求するような言葉が続くことはなかった。 それに現時点ではお互いの論点はそこにはない。 「しかし、まさか君が、“あの事件”まで把握しているとは」 バッグミラー越しに黒い瞳がちらりと老人を見たが、すぐに前方へと戻される。 「あの当時、私はまだ交番勤務でしたので」 端的に返って来た答えに、頭の中で時期を照らし合わせて老人は納得したように頷いた。 「……なるほど、勤務地の近くにあったわけか」 「はい、その一つを自分が発見したこともありました。 そういうことがありましたので、プランに配属され《アントヒル》の資料室の利用許可が出てから、秘密資料をこっそり拝見し、詳細は把握しておりました」 老人は若干呆れを滲ませながらも「なるほど」と呟く。 「君は昔から、暗躍はお得意だったわけか」 「はい、申し訳ありません」 「その謝罪は無意味だ。何より、それが今役立とうとしている」 そう言って老人はスモークガラス越しに曇って見える景色に視線を移す。 「君の望んだ人物は、非公式の面会ならば認めるそうだ」 「流石に公式は無理でしたか」 「超人委員会の名前を使えば別だろうが……あちらも体面がある」 運転席の人物は僅かに喉を震わせて笑った。 「その点は配慮していませんでした」 思わず顔を顰めて「戯れ言を」と呻く。 老人の呆れた声に低く笑いを零してから、「それより」と話を変えた。 何かね?と静かに老人は返す。 「先方への取り次ぎ感謝しております、遊佐警視監」 老人はその言葉に口の端を釣り上げた。 「“元”をつけたまえ、私は既に退官した身だ」 失礼しました、と答える相手の声には若干苦笑が混じっている。 今年の4月、STプランが世間に明らかになる事も無いまま遊佐と藤堂は定年退職していた。 藤堂は対策課の後進育成のためしばらくは指導員として身を置くことにしていたが、遊佐は天下り機関にも所属せず警察関係から身を引いている──それには様々な思惑が関わっていたが、今は語る時ではない──遊佐は相変わらずの鋭い視線をバックミラー越しに見える相手の顔を向けて遊佐は口を開いた。 「あくまで私がやったのは顔つなぎだけだ。 当事者でない私では知らない事も多いのでね、話は君がつけたまえ」 「えぇ、そこまでして頂ければ十分です」 「高瀬」 呼ばれた名に一瞬の間があってから、相手は「はい」と答える。 「君が考えているとことはおおよそ察しがつく。 だがな、一つだけ忠告しておこう」 運転席の彼女の表情までは流石に伺い知れない。 遊佐は突き付けるようにその言葉を口にした。 「どのような手段をとろうとも、この件が危険なことには変わりないぞ」 赤信号に捕まった車が慎重に止まった。 カチカチと軽い音をたててウインカーが鳴っている。 「はい、心得ております」 バックミラー越しにこちらを見た黒い瞳に、遊佐は僅かに目を細めた。 「それなら良いがな……。 もう少し行った所で私を降ろしてくれ」 「いえ、ご自宅までお送りします」 「構わんよ、それにこの近くに用事があるんだ」 不思議そうに瞬いた瞳に、遊佐はゆるりと笑って見せた。 「行きつけの店があるんだ。なに、退職後に見つけた趣味のひとつでね。 これからの事に私は必要ないだろう、君一人で片付けたまえ」 かしこまりました、そう応えた声の柔らかさは見えない表情をも想像させた。 遊佐は膝に置いていたソフト帽を被り直した。