庭の、鹿威しが鳴った。 瞼をゆっくりと開ければ、少し眠っていたらしく見渡した部屋は少し薄暗い。 射した影は随分と長くなっていた。 上体を起こせば居眠る前まで読んでいた本が床に落ちて、慌てて拾い上げたが読み掛けの頁に折れ目がついてしまった。 それを気落ちしつつ指先で直して、側に置いてあった文机に閉じて置く。 むくりと起き上がって、随分と伸びた前髪をかき上げた。 夢を見ていた気がしたが、内容は殆ど覚えておらず霞む思考に溜め息を吐いた。 畳についていた手に擦り寄って来た柔らかいものに視線を落とせば白い猫がいて、視線に気付いた猫が顔をあげ甘えた声をあげた。 それにふっと口許を緩めて顎の下を掻いてやると、ゴロゴロと喉を鳴らして膝の上に上がり擦り寄ってきた。 可愛い。 「ななし、ななし──ちょっと来てくれんかね」 奥の部屋から自分を呼ぶ声に顔をあげる。 「はい」と答え、膝の上の白い猫に謝りつつ退かせば微かに不満の声があがった。 腰をあげ、長い廊下にでる。 「今行きます、師匠」 「おぉ、早めにの」 返ってくる穏やかな声に、「はい」と小さく答えななしは屋敷の奥、師匠のいる部屋へ足を進める。 部屋の上座に胡座をかいて白髪混じりのハゲ頭を撫ぜながら、文に目を通していてた翁は障子が開く微かな音に顔をあげた。 師匠であるこの翁は、とある世界では有名な鍛冶師である。 「そこにお座り、ななし」 進められた先にはご丁寧にも座布団が一枚置いてあり、そこに正座で座ると翁は目の前に自分が手にしていた文を差し出した。 「こちらは……?」 「花開院からだ、孫のゆらの《護り刀》の力が弱まってるらしいな。 先日、妖怪に襲われたようだの」 「ゆらちゃんが……」 置かれた文を拾いあげさっと目を通せば、花開院秀元の孫娘であるゆらが花開院家の頭首を継ぐための試験として向かった浮世絵町で妖怪に襲われたという旨が綴られていた。 「随分と、早いですね」 「仕事が仕事じゃ」 「それはそうだけど…」 《護り刀》は本来、お守りなどと一緒で年に一回交換しなければならない。 しかし、陰陽師である花開院は一般人と比べ陰の力とぶつかる事が多い。 そのためか一年にも満たないうちにその力を失う事が度々あるのだ。 読み終わった文を置き顔をあげれば、愉快そうに目を細めて笑う翁。 「ななし、お前がまた鍛えてあげなさい。 ついでに旅行がてら届けにいってきたらどうじゃ」 「この──浮世絵町に、ですか?」 「この数カ月、まともに家から出てなかったからの。 まだ涼しいこの時期なら、問題ないじゃろう?」 そう微笑みながら諭すよう言われて触れたのは包帯が巻かれた細い首。 「ゆらも、お前と会いたがっているんじゃないか?」 にやにやと悪戯っぽく笑う翁に苦く口許を歪める。 「えぇ……では、さっそく始めますかね」 立ち上がって向けた背中に、翁は穏やかな笑みを浮かべる。 「お前は初代と同じ名をもつ子じゃ、躊躇わず鋼と向き合いなさい」 「──はい、師匠」 陽射し射す廊下に立ち、見上げた空は梅雨が明け、青さを増していた。