「今更だけど、ここ登るのやだなー」 薄気味悪い濃い靄に包まれた山道を見上げ小さくぼやくと、タマさんがぶにゃーとあまり可愛くない鳴き声をあげた。 先程から熱を帯びた痛みを訴える首筋を少し撫ぜて、意気込みを入れ直してから「行こう」とタマさんに行って足を踏み出した。 湿って滑りそうな長い石階段を一段ずつ慎重に登りながら、靄で視界のきかない森を見渡す。 苔と古い木々が茂るなかに、ぽつぽつと岩がゴロゴロとある。 「あ、石碑みたいのもあるんだ……」 自然の荒々しい岩の中に、丸く削られしめなわをまかれた石碑のようなものも見られた。 これが話に聞いていた、妖怪を鎮める為のものなのだろう。 長い階段に少し息をきらせながら、靄で先の見えない階段を見上げる。 何故だか感じた不思議な感覚に、目をしばたきながら足を止めた。 それに気付いた五段先を歩くタマさんが振り返った。 どうかしたのかと、聞くようなタマさんの声に小さく独り言のように呟いた。 「来た事ないのに……知ってる」 湿った空気、深い森の匂い──なんとなく振り返った先はもう白く見えない。 刹那、その靄の中から袴姿の女性が刀を抱えて現れた。 輪郭がぼんやりと光って見える幽霊のようなその女性に、白昼夢でも見ているようで、ただ声もなくその女性を見つめる。 自分の脇を通り階段を登っていく女性の幻。 頬を伝う冷や汗を拭いながら、我が目を疑って女性の幻を見上げ凝視する。 足元でタマさんが心配そうな声をあげた。 女性は、自分と瓜二つだったのだ。 そして、袴の背中の家紋──あれは。 「初代・無名………」 呟いた声に、タマさんの鳴き声が止まった。 「私は──貴女なの?」 奴良君のおじいさんの言葉が酷く現実味をおびてきていた。 ゆっくりと振り返った女性は、自分と同じ顔で悲しげに笑った。 「 」 ゆっくりと動いた唇、しかし、それは音になる事はなかった。 彼女はまたゆっくりと階段を登って、靄の中へと消えていく。 「待っ──! あ、タマさん?!」 初代を追うように走り出したタマさんを止めようと手を伸ばしたが、身軽に階段を飛び越えるタマさんの白いしっぽは指に掠る事もなく。 靄の中に初代の幻と、タマさんは消えていってしまった。 「お──置いてかれた………」 靄の中に消えた白い姿に、これから自分はどうすればいいんだとか、例の妖怪と会ったときに見えない自分の代わりに通訳がいないと、とかぐるぐると回る混乱に「タマさ〜ん」と情けない声で彼女の名を呼ぶしかなかった。 「タマさんの薄情者……」 悪態は酷く弱々しいものだった。 自分の不安と連動するようにずきりと痛んだ首を押さえる。 ざり、ざりりと、石階段を降りてくる足音が聞こえ慌てて俯いた顔を上げた。 先程の初代の幻は足音などなかったし、四足歩行のタマさんはそんな重々しい足音が出るはずがない。 誰だ、妖怪か、人かと靄の奥で揺れる人影に目をこらす。 首のあざがざわめくような感じがした。 「……女人が、このような場所に何用か」 靄の中から現れた着物姿の男は、こちらの姿を見咎めると微かに目を見開いた後、そう低く尋ねて来た。 長い黒髪に顔の半分が隠れて表情が読みにくい男に、えぇっと…と言葉を少し濁した。 「タ……猫が、逃げてしまって……」 「……猫?」 「見ておられませんか?」 猫という単語に微かに顔をしかめつつ、男は緩く首を横に振った。 猫嫌いなのかと考えつつ、自分が見て声の聞く事が出来る男は妖怪ではないようだと少しだけ安心した。 しかし、首を絞められるような息苦しさに件の妖怪が側にいるのかもしれないと思い、巻き込まない為にも男から離れるべきかと苦く口元を歪める。 「この靄では……何か目印になるようなものは?」 「色が白で、見つけにくいかと。 あ、鈴をつけてますから、音を頼りに探してみます」 そう言って男の脇を擦り抜けて、この場を急ぎ足で離れようとしたが、ぐらりと視界が揺らいだ感じがして膝の力が抜けた。 あっと思う間に、カクリと体のバランスを崩し、傾いた体が石階段にぶつかると思い身を竦めるが、思いとは反対にぶつかる前に逞しい腕に受け止められた。 ぐらぐらと揺らぐ視界の中、見上げた先に男の顔があった。 「顔色が、悪い」 微かに顔を顰て呟かれた言葉に、苦く笑いながら「大丈夫です」と言って男の腕の中から出ようとつっぱった手に力はなくまるで説得力がない。 「この近くに、古い社がある……そこで少し休むと良い」 そう低く囁くように言って男は力無い体を抱き上げてゆっくりと階段を登り始めた。 男の行動に少し混乱しつつ、すぐ側にある男の顔を見上げる。 「ご迷惑をおかけします………あ、あの、名前を伺っても……?」 男は髪の房の隙間から前を向いていた目をちらりとこちらに向けてから、少しの間の後「梅若」と答えた。 「梅若さん」 小さく呟いた名前に、男の表情に微かな陰りを見た気もしたが、それはあまりに一瞬のことで見間違えかと思い直した。