今の世で言う中国が、洛陽に都を置き“後漢”と呼ばれていた時代──政治の混乱と天災飢饉が続き、世は乱れ、人の心は病み、荒んでいた。 その最中、まさに「信仰により救わん」と生まれた《太平道》──教祖である張角が信奉した新興宗教──が、後漢の支配に苦しむ農民達の心を捕らえ、その教義は急速に、そして深く拡がっていく。 しかし、祈るばかりで人が救われるはずもなく。 遂に張角は信徒を組織し、史実によれば184年に蜂起──世に言う《黄巾の乱》を起こした。 この大規模な反乱は鎮圧されたが、その後にも後漢の悪政は変わらず。 民衆や豪族達の不満は解消されないまま、各地に黄巾の残党が散らばり反乱は続き。 沢山の民と兵達が血を流し、いくつか皇帝の首が新しい国に捧げられたのち──その血に染まる大地に、魏国、蜀国、呉国が鼎立し、中国国内に3人の皇帝が同時に立つ。 世は、争覇を目指す戦いにより戦火に呑まれていった──三国時代の始まりだった。 そして、所変わってモンゴル平原──話が遡る事紀元後1世紀。 そこに住まう匈奴達──モンゴル高原に活躍した遊牧騎馬民族の民達──は後漢の武帝による大規模な討伐で衰え、冒頓単于により統一されていた部族は二つに分裂した。 抵抗を続け西走した《北匈奴》とその逆、親漢派として帰属した《南匈奴》──後に《南匈奴》は万里の長城内の中国北辺に移住、その後も後漢──そして魏国に統治された。 その《南匈奴》の中に、花(ホア)と言う一族がいた。 花一族は、他の騎馬民族とは一線を引く、戦に秀でた一族と名高い部族であった。 それは一族が、騎馬だけの技術だけではなく。その騎馬民族にしては特異な戦法をもっていたからに他ならない。 戦でのその伝説が、《南匈奴》を統治する魏国の皇帝の耳に届くとすぐさま、魏王は将軍を遣わした。 夏侯惇は曹操の命により、統治する《南匈奴》の花一族の領地へと数名の部下を連れ向かっていた。 騎馬民族の中でも武勇の優れる一族を魏軍の戦力に引き入れる為だった。 花一族は、魏国と歴代王朝が北法辺境防衛の為に造られてきた大城壁の内側に住まう《南匈奴》達で分け合った、小さな領地で牧羊しながら暮らしていた。 少ない牧草を求めて遊牧する事は最早ないだろうに、今もなお移動式の家・パオ──“パオ”は中国語であり、モンゴルではゲルと言う──に住んでいる彼等を、馬上の夏侯惇は花一族の領地の外から見つめていた。 漢民族ではない彼等とは、長きに渡る戦いの歴史がある。 夏侯惇は言い知れぬ思いを抱え、ほぼ睨むようにパオを見つめていた。 その時、ウォンと低い獣の声に夏侯惇の乗る馬の体が揺れた──夏侯惇達を出迎えたのは、花一族の人間でも羊でもなく、黒い狼だった。 「何故、このような場所に狼が……」 天敵とも言える狼の姿に逃げようと暴れる馬の手綱を引きながら夏侯惇の部下が刀を抜いた。 ぎらりと光る刀に、黒い狼はじっと探るように深碧の瞳がこちらを見ているのに気付いた夏侯惇は、凶暴な獣を切り捨てようと刀を振りかぶった部下を止めようと口を開きかけた。 「やめて!!」 甲高い子供の声が、夏侯惇よりも前に部下の刃を遮るように叫んだ。 羊が逃げないように領地を囲った柵を越えて現れた幼い子は、刃から狼を守るように立ち塞がった。 「我等の領地で、刀を抜くのは何者ですか」 歳のわりに凜とした言葉を放った幼な子に、夏侯惇は部下に刀を納めるように言ってから向き直った。 「俺は夏侯惇と申す、魏王の使いで参った。 花 愃(カン)殿にお会いしたい」 「魏王様の……!」 名乗りに顔色を変え叉手──左手の握りこぶしを右手で覆って胸の高さに上げる礼法──をした幼な子に、黒い狼が擦り寄る。 人に懐く事はないとされる狼が、不安げな幼な子を庇うように前に出る様子に、夏侯惇はこれも遊牧民族の技なのかと関心した。 「父は戦で、足を無くしました……無礼な事とは存じますが、夏侯惇将軍には御足労願いたく」 「なんと……足を。 構わぬ、俺は将軍である前に客人だ。案内を頼む」 はいと、頷いた幼な子は狼の頭をするりと撫ぜた。 「無名、私の代わりに羊達が逃げないように見張っていてね」 返事をするようにウォンと低く吠えた狼は、もう一度夏侯惇を振り返った後、柵を越え草を食う羊の群れの方に歩いていった。 「賢い獣だな……」 ぽつりと呟いた夏侯惇に答えず歩き出した幼な子に続き、夏侯惇達は花一族の領地へと踏み入れた。 夏候惇達は幼子の案内で領地内にある一番大きなパオの中へと通された。 戦時の幕舎のようなパオの中、テントを支える中央に立つ太い一本柱の向こうの薄暗がりにその男はいた。 「夏候将軍殿ですな」 匈奴でありながら訛りもない低く重い声に、応と答える。 「足を失い膝をついての礼もままならぬ故、将軍にはご無礼を」 椅子に座ったまま叉手をし深々と頭を下げた花愃に、夏侯惇は気にするなとだけ言った。 薄暗いパオに目が慣れて来ると、ようやく男の姿を見る事が出来た。 幼な子が言う通り、族長である花愃は右足の膝から下がなく、殆ど木の棒のような義足が取り付けられていた。 足を失い戦う事が出来なくなった戦士は見るからに筋力が衰えてしまっていたが、黒い瞳に宿る光りは鋭く夏侯惇達を見据えていた。 「それで……本日は匈奴である我等に、何用がおありでしょうか?」 「魏王曹操が、花一族の武勇を噂に聞き。 是非とも、魏軍に力を貸して貰いたいと言っておってな」 夏侯惇の言葉に花愃は対して驚いた様子はなく、静かに硬い表情のまま首を横へと振った。 「昔の噂でございます」 「何?」 「花一族の栄華は遠に過ぎ去り。 今は此処に、花一族は私と娘の花姫(ホアキ)がおるだけでございます」 確かに、と夏侯惇はパオをちらりと見渡して、入った時から感じていた人のなさの意味を理解した。 「他の一族は──死んだのか?」 「他の若い戦士達は、漢に下るのを拒み、花の名を捨て家族と共に北匈奴に加わりました。 私の妻と後妻は、どちらも漢軍に殺され。 私の息子は3人おりましたが、皆体が弱く最後の息子も冬に……」 淡々と語る花愃の瞳に、憎しみも悲しみも篭っておらず、只の報告として真実を夏侯惇へと告げられた。 「私もこのような体です……今や、従える子飼いの“狗”も二人のみ。 魏王様が望む武勲を上げる事は出来ないのです」 「そうか……」 夏侯惇は静かにそう呟きながら、どうするかとこれからを悩む。 実は、曹操からは拒む場合は切り捨てても良いと言われている──力のある一族をただ野放しにもして置けないからだ。 しかし、これは魏国への反発としての拒否ではなく、一族の衰退が理由なのである。 「そうか──…」 夏侯惇は誰に言うでもなく呟いた。 衰退した一族がこのまま滅びてくれれば良し、しかし、名を捨てたとはいえ北匈奴に加わった一族の血が途絶える事はない。 何かの拍子に反乱など起こされれば、北方からの脅威である匈奴に力を与える事になる、そうなれば噂の花一族の力は相当な不安要素へと変わるだろう。 だから──だから、こそ“人質”が必要なのだ。 夏侯惇は父の傍に座る花姫を見た。そう、その人質になるべき人間は一人しかいないのだ。 しかし、片足を失った父を支える幼い娘を貰い受けようと、夏侯惇はどうにも言い辛かった。 ならば二人を、魏国の宮中に招き入れるかとも考えたが、これは流石に夏侯惇の独断では決められない。 仕方がなく夏侯惇は、また来るとだけ言いパオを後にした。 夏侯惇がパオの外に出ると、身にまとう着物から顔の殆どを覆う巾まで真っ黒な人物が、夏侯惇達の馬の番をしていてくれたようで、馬を引き連れながら出て来た夏侯惇へと叉手した。 影のような姿と、読み取れない気配に、夏侯惇はこれが噂に聞く花一族の“狗”なのだろうと思った。 渡された鞁を握り、馬に跨がった夏侯惇を一歩離れた所から深碧の瞳が彼を見上げていた。 将軍様、と聞こえるか聞こえないかの声で夏侯惇へ呼びかけた。 「花愃様は、足を失われましたが戦事の采配は今まで一度も間違った事はないお人でございます」 「──そうか」 「差し出がましい願いとはわかっておりますれば、只……将軍様にはご理解戴きたく」 ご無礼をお許し下さいと、深々と頭を下げた“狗”に夏侯惇は緩く笑った。 「わかっている、俺もあの親子二人を宮中に招きたいと考えている。 花愃殿はよき主なのであろうな」 「有り難きお言葉……」 「努力はしょう、次に良い報せを持って来れるようにな」 夏侯惇はそう、パオの中にいる親子に聞こえるように高らかに言いながら、馬の踵を返した。 その後ろで諜者が深々と頭を下げていた。 魏国へと馬を走らせながら、夏侯惇は諜者の名前を聞くのを忘れていた事に気付いた。 何故だが、あの水深の深い水のような深緑の瞳が忘れられなかったのだ。 次回は聞いてみようと思いながら、曹操もあの諜者を気に入るだろうなと、妙な確信が夏侯惇にはあった。 それから一月も経たないうちに、花愃は軍師として娘と共に宮中に招かれる事となった──勿論、花一族の武勇を支えた二人の諜者と共に。 羊は他の匈奴に譲って来たと言っていたが、あの狼がどうなったのか、花姫は何も言わなかった。 夏侯惇は少しだけ、あの日、狼に触れようと思わなかった事を後悔した。