花愃(ホアカン)と言う男は、父の3番目の妻の子で一族の戒律から言えば、族長に1番遠い息子だった。 彼は他の息子達と違い、それに関して悲観的ではなかった。 遊牧民族の自由な気質を1番に引き継いでいた花愃は、族長と言う縛りがない事こそが幸せだと思っていたからだ。 しかし、花愃の息子達と同じく、彼の兄弟も皆体が弱かった──それはより強固な隊を作る為に一族同士で血を交わらせ過ぎた為だろう。 花愃が13の頃、彼の上の兄弟は皆、病で死んだ。 長男や他の兄弟よりも進んで戦に赴き、機転の聞く頭がある花愃が、族長に決まった事に反対する者は誰もいなかった。 15で族長を継いだ花愃はその時初めて、一族に付き従う一族・狗(ゴウ)の者達と顔を合わせた。 それまで族長の息子でありながら、話しか聞いた事がなかった狗達との出会いは花愃には嬉しい事だった。 まさに族長のみの命令しか聞かない直属の精鋭部隊、花愃は当時の長・狗鬼を兄のように慕い共に戦って来た──自分が利き足を失い、狗鬼が負傷した自分を庇って死ぬ迄は。 花愃は、悲しい過去を思い出し重苦しい溜息を一つ吐いた。 どうしてこんな過去を彼が思い出してしまっているのかと言えば、彼の主君・曹操から命じられた事が原因であった。 “狗”は諜者であり一族の影、花一族の族長以外にはまず姿を見せない──そんな彼等を、自分にも合わせろと命じて来たのだ。 事の発端は、上司にあたる司馬懿に曹操へと書簡を渡しに行くよう命じられた花愃が、曹操の部屋で夏侯惇と出会った事だ。 彼の好意で娘と長年仕えてくれている“狗”ごと宮中に招いて貰った花愃には、夏侯惇には大変恩義を感じていた。 その夏侯惇とは、彼が族の討伐の任を受け進軍していた為、こちらに来てから一月ほど経つが、まともに顔を合わせるのは初めてだ。 その為、花愃は改めて夏侯惇と彼の提案を受け入れてくれた曹操へと礼を述べた。 「今回は、元譲の目が確かだったという事だな」 快活にしかし深みのある声で笑う曹操は、花愃が今まで見て来たどの王よりも覇者としの空気を纏っていて、会った瞬間からこの人に尽くし力を振るおうと思ったのだ。 「流石、戦場を駆けていただけあって良い策を出してくる男よ。 あの司馬懿が褒めるほどだからな」 「それは誠でございますか?」 あの偏屈な上司が褒めたとは信じられずに、目を見開いた花愃に曹操は笑った。 「しかし、まだまだ騎馬民族の血が抜けんのか荒々しいと嘆いてもいたがな」 俺に言わせて見れば、司馬懿の策は大人しくて女々しいと言う曹操に、花愃は苦笑するしかなかった。 「いや……俺が愃の軍師としての力を見抜いたわけではない」 「どういう事だ、元譲よ」 謙遜にしてはおかしい夏侯惇の物言いに、曹操だけでなく花愃も首を傾げた。 「愃には、軍師としての才があると、俺に教えたのはお前の“狗”とやらだ」 「!そうですか、私の諜者が……貴方の前に姿を現しましたか」 花愃以外には姿を見せるのは次期族長である娘の花姫だけの“狗”が、夏侯惇の前に姿を見せたのは驚きだか、そこまで自分達親子の為に尽くしてくれる諜者には感謝の念がまた一段と詰み上がった。 「あの諜者は、愃と花姫が大事だったのだろうな。 無礼を承知で……奴は、俺に切り捨てられる覚悟さえあったのだろう」 「えぇ、本当によい部下……いやもはや家族と言ってもよい二人です」 花愃の感極まったような声に夏侯惇は満足そうに頷いた。 しかし、それに不満の声をあげたのは曹操だった。 「儂は、その“狗”とやらに一度も会った事がないぞ」 不機嫌そうな主君の表情と声に、花愃は困ったように苦笑した。 「“狗”は、族長以外の一族の者にも姿を曝さない影故……」 花愃はそんな狗達に、これ以上興味を持たせないようにと話を終わらせようとしたが、曹操に引く気はないらしい。 「それは儂が決める事だ。 主が軍師直属の諜者に興味を持って何が悪いのだ」 「孟徳、お前……只単に俺だけが会ったというのが気に食わんだけだろう……」 「その通り!!」 呆れた様子の夏侯惇に、殆ど怒ったように声を上げる曹操をどうやっても引かせるのはもはや無理だろう。 花愃は困ったと小さく零して天井を見上げた。 「──と言う事なんだが、どうするお前達」 そう天井に向かって話し出した花愃に、曹操と夏侯惇は驚いた顔で振り返った。 「何!?こんなに傍におったのか!」 「え、えぇ……私の声が届く所には必ず。 あの……気付いてはおられなかったのですか?」 狗達が命じられた事がない限り自分の声の届かぬ場所にいる事はまずない。 それに今日は花姫も習い事で護衛につく必要もなく、二人はこの部屋をそっと伺っていたのだ。 てっきり気付いていてこの話を振られたのだとばかり思っていた花愃の言葉に、二人は未だ気配がつかめていないのかキョロキョロと辺りを見回してる。 ぽそぽそと自分に囁かれた声に、花愃はあぁと頷いた。 「私のは慣れだと、言われてしまいました。 私の“狗”が曹操様達の命を狙う事はないですが、ご不安であれば気付くように気配を残すと二人は言っております」 「まさか……この儂と元譲も気付かぬ程とは、ますます気になるな!」 「あの時も、確かに気配の薄い奴だったが、本気で消せばこのようになるのか」 嬉々としだす曹操の横で、腕を組んだ夏侯惇が関心したような口ぶりで天井を見上げていたが、花愃には二人の気配が自分の背後の方に移動したのに気付いていたが黙っていた。 「そうかそうか、司馬懿の奴が言っておった愃の独り言とは、これの事だな」 曹操の言葉に確かに、こうやって“狗”達と会話してたなと思い返してみて、彼らの存在を気付いていると思っての行動だったのだが、それが違うとなれば確かに怪しい行動だったと思う。 「何より、お前達それに気付いていて私に黙っていたな」 ふて腐れたような花愃の声に、再び彼に聞こえる声で一つが愉快そうに、一つが申し訳なさそうに囁きかける。 「全く……」 「それで花愃よ、儂は会えぬのか会えるのか?」 「はぁ……それが」 囁く声が否定を告げてくるので花愃は何とも言えず困ったように呻く。 主君である曹操の望みならば叶えたい気持ちもあるが、長年尽くしてくれている狗達の嫌がるのを無理矢理というのも気が引ける。 困り切った花愃に助け船をやったのは、曹操の我が儘に呆れたように苦笑する夏侯惇だった。 「諜者は影だ、お前の部屋みたいにきらびやかな場所では嫌がるだろうさ」 「ならば、夜に兵舎の影でと言っても出て来てくれるような相手でもあるまい」 むっつりとした不機嫌そうな表情で腕組みをする曹操に、夏侯惇は確かにそうだろうがと言葉を濁す。 「儂はな……別にお前らが命を狙うような奴だと思って顔を知りたいわけではない。 儂の軍師が、昔戦場で築いて来たものを見て来ただろうお前達にも、我が覇道を進む手助けを頼みたいのだ──もちろん花愃の命しか聞かぬのも、よくわかっているつもりだ」 「曹操様……」 姿を見せない狗達に語りかけながら最後は苦笑に変わった曹操に、本当に器の大きい男だと花愃は感激した。 そして、その耳元で囁かれた言葉にも花愃は嬉しそうに頷いた。 花一族の影としてのみ生きる狗達も、そろそろ彼のもとで日の当たる場所に出てもいいのではないだろうか、花愃は長き戦いを思い出しそう考えていた。 「曹操様」 「何だ?」 「──この二人が我が一族に仕えし“狗”達」 まるで花愃の足元の影が膨れ上がるように、二つの黒い人影が花愃の後ろに平伏していた。 「“狗”達にございます」 平伏したままの二人に驚いた顔をした曹操は一瞬のうちに力強い笑みを見せた。 「お前達が、花愃のみに付き従う“狗”か」 「狗鬼でございます」 「狗幽(ゴウユウ)でございます」 夏侯惇は平伏したままで顔が見えないものの、先に名を答えた“狗鬼”があの時の者だと声のみで判断した。 「顔を上げよ」 ゆっくりと顔を上げた二人は、あの時の狗鬼と同じく目だけを覗かせた真っ黒な巾で顔を覆っていた。 「先程も言った通り──お前達にも儂の覇道に付き合ってもらう。 何、儂の命令を聞けと言うわけではない。 花愃は儂の為によく働いてくれる男だ、その男の為に動くお前達が儂にとっても悪い事になるはずがないのだ。 だから今まで通り、花愃に尽くしてくれ」 二人は再び深々と曹操に向かって頭を下げた。 「元譲も言っていたが、良い部下を持ったな。花愃」 「有り難きお言葉でございます、曹操様」 まるで自分が褒められたかのように笑う花愃に、元譲は本当に幸せそうな主従関係だなと思った。 「なぁ、お前達。 私の為だけに生きるお前達には感謝している。 戦場に立てぬ私に未だ付き従ってくれるお前達に、もう一つだけ願いたい。 私とともに、曹操様に尽くしてはくれんか?」 「花愃様がお望みならば」 「我らは魏王様に尽くしましょう」 一にもニにも、狗達には花愃が主なのだろう事をその言葉の端々から感じとって、曹操は愉快そうに笑う。 ふと、狗幽が何かに気付いたように後ろを振り返った。 「どうした?あぁ……花姫が呼んでいるのか、行ってもよい」 花愃が一つ頷くと狗幽達は曹操と夏侯惇にもう一度平伏してから、また影のように姿を消した。 「母を早くに無くしてからは、娘は私以上に狗達に懐いております」 「そうか」 すぐに気配がないと泣きながら探し回ってしまう娘の泣き声を、鋭い聴覚を持ってして気付いたのだろう。 「そろそろ戻らねば、仲達殿にまた怒鳴られてしまいますので。 これにて失礼いたします」 「最後に一つだけよいか、花愃よ」 「なんでございましょう」 「次の北匈奴の討伐──お主の花一族の戦い方を、見せてみよ」 それはおそらく断る事が許されない命令だった。 花愃は曹操のその命に叉手をして、それに返答した。 「さすれば、この花愃。今生最後の兵士として戦場に立ち」 足を失い筋力はだいぶ落ちている自分が馬に乗れるのは後はもはやないだろう。 ならば、その最後に花一族としての戦いをこの主に見せようと、花愃は決めた。 「北匈奴にまた再び見せて参りましょうぞ。 花一族の騎馬戦法《狗吠(クハイ)》を──」 「おい、愃!」 花愃が曹操の部屋を出てすぐ、後ろから追って来た夏侯惇に呼び止められて振り返った。 「どう致しました、夏侯将軍」 「いや、先程の話は誠なのか? その……兵士として戦場に立つ気でいると言うのは……」 「誠にございますよ」 微かに言い渋る夏侯惇の本意に気付き、花愃はゆるりと笑った。 「夏侯将軍が言いたい事はわかっております。 私の足の事でございましょう」 「……あぁ、利き足の膝から下がないお前が、馬に乗って戦場を駆けるなど、無茶ではないのか?」 「我ら遊牧騎馬民族を、嘗めないで戴きたい。 馬を自らの手足のように扱う我らの馬術は、漢民族のそれに例え隻足であっても劣りはしませぬ」 それは花一族としてと言うよりも、長きに渡りモンゴル高原を馬と共に生きた遊牧民族としての誇りだった。 「はぁ……わかったわかった、もはや止めはせん。 しかし、匈奴討伐には俺と張遼が向かう、何か手助けが出来る事があるなら何でも言ってくれ」 「ありがとうございます」 花愃の信念を折るわけにはいかないと早々に理解したのだろう夏侯惇の言葉に、花愃は深く礼を返した。 「軍師としての腕も見せ所でしょう。 早々に采配を決め、北匈奴達に今一度《狗吠》の恐ろしさを思い出させてやります」 力強く笑う花愃はもはや軍師としての顔より、荒々しく大地を駆けて来ていた“武将”の顔だった。 惜しいな、と夏侯惇は思う。 片目を失った自分と違い、足を失った花愃は馬から降りれば兵士としては戦えないのだ。 騎馬戦法での戦いならまだしも、歩兵として戦えない花愃は武将にはなれない。 夏侯惇は花愃と共に武将として戦い戦いたかったと常々思っていた、今回は良い機会だったのかも知れない。 「お前と戦場に立つのは最初で最後かもしれんが、楽しみにしているぞ」 「はははっ、曹操様だけでなく夏侯将軍にまで期待されていては、緊張で堅い動きになってしまったら申し訳ない」 「そこまで豪胆な男が、戦場に立てば嬉々として武勲を上げように」 二人で声を上げ笑っていると、花愃の後ろから彼の上官である司馬懿が相変わらず不機嫌そうな顔でこちらに歩いて来た。 扇で口元を隠しながらも、不機嫌そうにこちらを睨む視線に夏侯惇と花愃は顔を見合わせて苦笑を浮かべる。 「随分帰りが遅いと思えば仲良く雑談か。 この忙しい時に何を考えている花愃」 「あぁ、仲達殿。今し方曹操様より、次の匈奴討伐の指揮をとれと命ぜられまして。 共に向かう夏侯将軍とは、その話をしておりました」 「何?」 神経質そうに片眉を跳ね上げた司馬懿は花愃から、夏侯惇に視線を移し本当かとその鋭い視線だけで尋ねてくる。 それに夏侯惇は頷いた。 「あぁ、孟徳がな花一族の騎馬戦法──《狗吠》と言ったか、それを見せてみよと愃に命じたのだ」 「ほぅ……あの《狗吠》ですか」 「知っているのか?」 流石だなと軍師を褒める夏侯惇の言葉に、司馬懿はようやく視線の鋭さを僅かばかり緩めた。 「後漢の武帝による匈奴討伐の資料に名前のみは──“《狗吠》に騎馬隊を使う事勿れ”とだけ、書かれているのだ。 陣形も戦法も書かれていない。 そうか……それを実戦に使うか」 ゆるりと細められた切れ長の瞳に、嫌な予感がして口の端が思わずひきつる。 「まさか、仲達殿。戦場に来るなど……」 「言わぬと思ったか、馬鹿めが!」 見た事のない戦法が大層気になるのは軍師としての性だとはわかるが、この忙しい時に匈奴討伐の視察に出ようと考えている司馬懿に、どちらが馬鹿だと花愃は頭を抱えた。 「この様子では、孟徳まで着いてくると言い出しそうだな……」 「そのつもりだが?」 「!!」 ぎょっとした顔で振り返った夏侯惇の後ろに立っていた曹操がにやりと笑っていた。 「これは大変な戦になりそうだな、狗鬼よ」 溜め息まじりの花愃の言葉に彼だけに聞こえる音域で、慰める優しげな声が囁く。 「あぁ……またお前達のその牙が必要だ」 「花愃!またそう、お前は何にぶつぶつと話し掛けておるのだ!」 「あぁ、これは……」 司馬懿の前には現れる気は全くないのか、気配がざっと離れた事に花愃は苦笑した。 「見えぬ者と話しておりました」 遠回しに自分の“狗”の存在を仄めかせば、しかし司馬懿はまた別の意味に捉えてしまったのかサッと顔色を変えた。 「み、見えぬ者だと、馬鹿馬鹿しい……っ。 花愃!職務に戻るぞ、《狗吠》を見るためには片付ける竹簡が沢山あるのだからな!」 目に見えて狼狽した司馬懿が足音荒く去っていく様を唖然と見送りながら振り返ると、花愃と同じく呆気に取られた顔をしている夏侯惇の後ろで曹操が声を上げて笑っていた。 我らが軍師は、そう言った話はお嫌いらしい。