北海の真ん中にある孤島──そこに難攻不落の要塞監獄がある。 魔法界の刑務所・アズカバン。 アズカバンの囚人たちは、看守の任を担う“吸魂鬼”が囚人の生きる喜びや幸福を吸い取るため、暗い房に座り込んで独り言を呟くだけの生きる屍と化す。 まともな人間であれば、数日も立たずして正気を失うような場所、それがアズカバンだ。 監獄の周囲は獄中死した囚人の墓地が不気味に広がっており、それがさらに陰欝さを深めた。 そこで、男が一人、未だ正気を保ったまま復讐心を隠し持っていた。 シリウス・ブラック──親友を裏切り、13人も殺したと“される”最も凶悪な犯罪者だ。 (退屈だ……) 言葉にするでもなく呟いてシリウスは、曇りっぱなしの灰色の空を見上げた。 ぶつぶつと隣の房からひっきりなしに聞こえてくる不愉快な譫言も、昼も夜も吸魂鬼が独房の前を漂うのも、この12年の間で慣れた。 ブラックが他と違い、正気を失わなかったのは、彼を占める気持ちが吸魂鬼には吸い取れなかったからだ。 冤罪。自分が無実であること、真に親友を裏切った者をこの手で──その思いだけが、彼が何者であるか意識させ、正気を保たせた。 (ジェームズたちとやった、悪戯が懐かしい……) 昔の在りし日々を思い出しかけて、シリウスはやめた。 これはシリウスにとって数少ない幸福な気持ちだ、吸魂鬼に取られる前に、シリウスは必死に押し殺した。 カツリ、カツリと革靴が床を打つ足音が聞こえて来たので、シリウスは顔をあげた。 この足音には覚えがあった。 魔法省大臣・コーネリウス・ファッジだ──おそらく視察に来たのだろう。 「遠路遥々、お疲れ様ですね……大臣」 久しぶりに出した声は酷く掠れていたが、他の耳にもちゃんと届いたようだ。 独房を通り過ぎる時に話かけるとファッジは驚いてこちらを振り返った。 その表情におおかた、自分が未だ正常でショックをうけたのだろう。 ブラックはニヒルに笑った。 「その新聞。読み終わったならくれないか、大臣」 ファッジの手に丸められて握られている新聞を指して言うと、ファッジは曖昧に頷いた。 「構わないが。何をする気だ、ブラック?」 何の心配をしているのか、新聞で脱獄でも出来るわけでもないのに。 ブラックはだだ退屈しのぎがほしかった。 「その新聞についてる、クロスワードパズルがやりたいんですよ。 懐かしくてね……」 「そ、そうか」 鉄格子の隙間から差し出された新聞を受け取り軽く礼を言うと、それにまた驚きながらもファッジは先ほどよりも早足で歩き出した。 日付を確認すると今朝の新聞だ──自分の頭の中のカレンダーが狂ってなければの話だが──ブラックは「あぁ」と小さく呟いた。 ジェームズの息子──ハリーの誕生日がもうすぐだと思い出す。 (名付け親なのに、こんな状態では何も出来ないな……) 他の友人達はどうなのだろう、ブラックは膝についた肘から伸びるがりがりの手に顎を乗せ、ページをめくりながら考えた。 ムーニーは、あいつの性格と体質だ、ハリーとは距離をとっているかもしれない。 ピルは──そうだ、前に来た時にハグリッドが言っていた。 彼女は今、ホグワーツにいるらしい。 (もう一度二人に会いたいな……) ブラックは『魔法省官僚グランプリ大当り』の記事で手を止めた。 魔法省・マグル製品不正使用取締局長、アーサー・ウィーズリーがそれを当てたという記事だった。 動く写真には、金貨を使って行った旅行先での家族が写っている。 ブラックはそこに釘づけになった。 真ん中にのっぽで手足を持て余し気味の少年がうつっている。 ホグワーツの生徒らしい、歳はハリーと同じくらいだ。 その肩に乗っている生物に、ブラックは体を震わせた。 間違いない、間違いない! 自分が見間違えるはずなどないのだ。 「あいつはホグワーツにいる!」 ブラックはそう呻くように言って、新聞をシワになるほど握りしめた。 ・・・ 広がる花畑、振り返れば見知らぬ大きな屋敷──自分は夢を見ているらしい。 夢心地の中、スネイプはそう冷静に判断していた。 見渡す限りの花畑にぼんやりと立つ自分は、さぞ滑稽だろうと自嘲気味に思う。 『あの、ね』 突然、背後からかけられた幼声に振り返れば、黒髪に碧眼の幼女が立っていた。 幼いながらその顔立ちは、スネイプにとってよく見知ったものだ。 (マリー?) 『お父様が言ってたの』 こちらの声は聞こえていないし見えていないようだ。 なら、誰に語りかけているのかと考えて視線を落とせば。 自分の足元に、彼女と同い年くらいの幼女が立っていた。 こちらも見覚えがある──マリーの姉、ナディアだ。 『双子は魂を分け合って生まれるんだって……。 だから、私達──』 マリーは笑っていた。これまで見て来た笑顔とは違う。 子供らしい、瑞々しい生に満ちた笑顔だった。 『だから? だから、マリーが私の分の力まで持って生まれてきたの?』 『ナディア! 違うの、そうじゃない──』 姉の辛辣な言葉に、幼いマリーは泣き出しそうだ。 『双子だからわけあってるなら、私達は半人前じゃない』 『ナディア…ナディア……』 『うるさい!』 譫言のように姉の名前を呼ぶマリーの髪を、幼い手が乱暴に掴む。 泣き出した幼子に、小さな手が容赦なく振り下ろされた。 『お前なんかいらない! お前が奪った私の魂を返せ!』 小さな体を丸めて震えるマリーを、何度も蹴るナディアの表情は丸で深いシワを刻み酷く歪んでいた。 あまりの光景に止めようと伸ばした手が空を切る。 『許さない赦さない、いつか、いつか』 ゆっくりと根を這っていく呪いの詞。 『あんたなんか、苦しめばいい!』 幼女は狂った様な笑みを浮かべた。 しゃくりをあげるマリーが呟く。 『ごめんなさい──返すから、ちゃんと返すから』 顔をあげたマリーは幼さを残していない。 稲妻型の傷が走る右目をあらわに虚空を見上げて、マリーは笑った。 『その時は──笑ってくれますか「セブルス!」』 「!」 はっと目を開けると、マリーの心配そうな両目がこちらを見下ろしていた。 「大丈夫か……? 酷くうなされていたけど」 「あ、あぁ………」 滲んだ冷や汗で額にはり付いた髪をすくマリーの小さな手に頬を擦り寄せる。 スネイプは先ほどまでのあまりにリアルな夢を掻き消すよう、温もりを求めるように縋った。 腕を伸ばし先程夢の中でぶたれていたマリーの頬を優しく労るように撫ぜた。 当たり前だがその頬に傷も腫れた跡もない。 「まだ、起きるには早いよ……二度寝しよう、セブルス」 細い手を伸ばして頭を胸に抱き寄せるマリーの腰に腕を回しながら、緩く首を横に振る。 「目が冴えた……」 低い体温に包み込まれながら、先程の夢の冷たさを未だ振り払えずうすら寒さがへばり付く。 マリーの胸元に押し付けた額と高い鼻先でゆっくりとした鼓動を感じながら、スネイプは先程の幼いマリーの言葉を思い出していた。 『双子』『分け合った魂』『返す』、そして、 『その時は──笑ってくれますか』 その言葉の最後、現の言葉と被った気がしてならない。 妄想だと自分に言い聞かせながらも、なんとなくひっかかる不安がある。 「セブ?」 思わず込めてしまった腕の力に、マリーは不思議そうな声をあげていた。 「……なんでもない」 「変なセブルス」 くつくつと笑うマリーの体が小さく震える。 「今、何時だ──?」 「日付を越えたばかりだ、って、あぁ……」 時計を見上げたマリーの声に僅かばかり喜色が混じる。 少し顔をあげて、どうした?と尋ねれば、君にはあまり楽しくない話だよと小さく笑った。 「今日は、ハリーの13歳の誕生日だよ」 「──そうか」 それだけ呟いてまた顔を埋めると、マリーはやっぱりと笑った。 「プレゼントは後にして、カードだけは先に贈ったんだ」 「相変わらず、まめだな」 「ハリーは、息子みたいなものだしな……。 ──嫌な話かな? 初恋の相手の息子、しかもジェームズの息子の話をするのは」 ふと不安そうに聞いて来たマリーに、スネイプはフンと鼻を鳴らした。 「どうせ眠れないしな、昔話も悪くないだろう」 「──そう?」 「言っておくが……お前が考えるほど、我輩はリリー・ポッターに執着してはいないぞ」 見上げた碧眼は驚いたようにゆっくりと瞬きしたあと、微かに苦く笑った。 「息子みたいだといえば──シリウスもそうだったな、名付け親になるくらいだし」 「…………」 「リリーはよくて、シリウスは駄目? よくわからないな、セブルスの許容範囲」 「それはお前もだろ」 呆れたように返せば、首を傾げられた。 「奴はポッターを敵に売った裏切り者だぞ──そう、なぜお前は穏やかに話せる」 見上げた瞳が微かに細められた。 「さぁて……なんでだろうね」 ちらついた濁った感情にまたはぐらかされたかと、スネイプは小さく舌打ちした。 カツン、カツンと小さく窓を叩く音に二人はそちらを振り返った。 窓の向こうで動くのはふくろう、恐らくマリーのものだ。 ベッドを降りようとしたマリーを制して、スネイプがベッドを抜け降りると窓を開けてやった。 部屋に入ってきたふくろうは、差し出したスネイプの手に乗ると咥えていた封筒を差し出してきた。 封筒には、ホグワーツの校章がついている。 「ホグワーツから……? こんな時間にか」 不思議に思いながら封筒をマリーに見せると頷いたので、スネイプは封を開けた。 「──……」 そして内容を見て目を見開いた。 スネイプの様子に何かを悟ったのかマリーが起き上がる。 「セブルス……?」 「ブラックが、シリウス・ブラックが──アズカバンを脱獄した……!!」 唸るように言って文面を睨み付けるスネイプを呆然と見つめながら呟いた、マリーの言葉は誰にも届いていなかった。 最も凶悪な囚人の脱獄。