小樽、山中にて。 にわかに響いた銃声に罠にかかった兎を獲っていた手を止め直江は顔を上げた。 「ーー…近い」 残響音に耳をすませおおよその距離を探って顔を顰める。 少し前から森の気配がざわついていたことに嫌な感じはしていたが、そこに銃声とくれば穏やかじゃない。野盗でも出たのかもしれない。何かに巻き込まれる前にさっさと切り上げて帰るべきだろうと考え、直江は今日の成果を手早く担ぐと帰路を急いだ。 川沿いの獣道を歩いていると、川べりにできた小さな雪庇にくぼみが出来ているのが目についた。 その白い雪の中に黒いものがあることに気づき、直江は川に滑り落ちないように気をつけながらそっと近づいていく。 「死体だ…」 それは岸にしがみつくように腕を伸ばして冷たい川に体を沈ませていたのは、軍服姿の男であった。 かわいそうにどこかで足を滑らせたのだろう、直江は哀れに思いつつ踵を返す。 川から引き上げてやるには男の体は直江には大きすぎたし、死体相手に体力を使う気にはなれない。せめてもの情けに街にいる兵隊さんに死体があったことは伝えてやろうと思いつつ、足を踏み出した背後で微かなうめき声が聞こえた。 そろりと振り返ると、ずりっと雪の上に上がった腕がわずかに動いてる。直江は思わず天を仰いだ。 なんだか面倒なことになった気がする。 ::::: 夕方近く、川に落ちた兵隊を拾ったと少女が詰所にやって来た。 確認すると確かに一人所在がわからない者がいた。尾形上等兵だ。 「お嬢ちゃん、その男はどこに?」 小柄なその子を怖がらせないように腰をかがめてそう問えば、少しばかりムッとした顔をしつつも山の方を指した。 「腕と多分、顎が折れています。小屋には私と老夫婦しかいない。 小屋までは運べたがここまでは無理で、二人に預けてきました」 少し地方の訛りがある少女の言葉に同僚の声が頭によぎる。同郷の出身なのかもしれないと思った。 「そうか、面倒をかけたね」 ありがとう、と人当たりよく言ってやれば少女はこくりと頷いた。 小屋まで道案内をしてくれると言う少女を待たせ、上官である鶴見にもその件を報告し数人を連れて尾形を迎えに行ってくると旨を報告すれば、予想外にも鶴見は同行すると行って立ち上がった。 道中、冷えた体を温めるように渡したお茶を飲んでいた少女は鶴見の呼びかけに振り返る。 「行こうか」 少女はまた一つ頷いた。 道すがら、少女の素性を探る意味でも、話のうまい三島があれこれ話しかけているのにそれぞれが耳をそばだてていたと思う。 尾形上等兵の実力は自他共に認められたものがり、そんな男が間抜けにも足を滑らせただただ川に落ちるとは考えられない。彼女に対する疑念は僅かばかりあった。 少女は静か口調で「生まれはどこだい?」と聞いた三島の問いに、小樽の生まれであったと答えた。しかし先祖代々の故郷ではない。戊辰戦争以後「北海道」となったこの地に入植させられた、旧会津藩士が彼女の祖であるという。 とはいえ、彼女は幼い頃、兄とともに秋田に養子に出されていたため、小樽で育った記憶はほとんどない。そんな生まれ故郷の地に彼女が帰って来た訳は、兄の戦死が要因であった。 「兄は二◯三高地で戦死したそうで、遺体は戻ってきませんでした。 義姉さまは……もともと体と心が弱い方で、兄の訃報を聞いて完全に心が壊れてしまったのです」 少女は感情の籠もらぬ声で淡々とそう語る。 「義姉さまは、兄の死を未だ認められていない。 だから兄の死を看取った者がいたら探して、そうして兄が本当に死んだのだと義姉さまに伝えてあげたい」 半分は自己満足なんです、と言ったところで少女は先に見えてきた小屋を指した。小屋は現在、彼女が世話になっている猟師の老夫婦の小屋だといっていた。 「あそこ。死んでないいんですけど…」 足早に担架を抱え先に小屋に向かう数人を見送って少女は再び歩き出す。 「ところで、君。名前は?」 馬上から問うた鶴見に、少女は彼を振り返り見上げて「岡本 直江」と答えた。 「兄の名前は?」 「岡本 志保」 「所属は?」 「……わかりません。 届いた訃報には書いてあったかもしれませんが、それはその日のうちに義姉様が破いて燃やしてしまったから」 鶴見は愉快そうに笑う。 「苛烈だね」 「旅順にいたことはわかっています。兄がそう手紙を寄越したことがあったので」 小屋から担架に尾形を乗せた者たちが老夫婦に見送られて戻ってきた。 鶴見はその様子に目を向けながら口を開く。 「あの男も旅順にいたよ」 同じくそちらを見ていた直江が鶴見へと視線を戻した。 「私たちもそこにいたが、君の兄のことは知らない。 だけど、その男はどうかわからない。ここに来ていない他の部下達も同じくだ」 鶴見の言葉に直江は視線をわずかに落とし少し考えるそぶりを見せた。 「……中尉殿」 「うん?」 小首を傾げた鶴見に向き直って直江はゆるりと笑ってみせた。 「私に貴方の部下を助けた“ごほうび”をいただけないでしょうか?」 鶴見は歯をむき出して笑った。 それが岡本 直江と第七師団の出会いである。 ーーーーー 鶴見はただ単に(あるかわならない)兄の情報を餌に直江を使いっ走りというか使い捨てのコマにするつもりでのお誘い。 それを理解した上で誘いに乗って、第七師団についていく直江。