冷たい川に落ちてからの記憶はひどく曖昧で、ただ強く頭に残っているのは水から這い上がらねばならないという生存本能と、芯まで凍るほど冷えと体焼くような熱を伴う痛みだった。 単独行動をしていた自分が誰かに助けてもらえる可能性は限りなく低く、とにかく自力で落ちた水の中から這い上がらなければならない。尾形は必死に冷水の中で足掻き、何とか川縁に縋り付いたがすでに低体温症の影響から手足はこれ以上動きそうにない。 川に浸したままの体からはどんどん熱が奪われ、足の先などは最早自分の体という感覚がない。引っ掻いた指先は積もった雪を手のひらの中にかき集めることしか出来なかった。 ずりずりと川の中に再び沈んでいく体をどこか他人事のように思いながら、尾形は寒さにわななく唇で白い息を一つ吐き出した。 「わ、生きてる」 頭上から落とされたのはそんな間抜けな驚きの声だった。 何だと思う間もなく、川岸にかろうじて乗っかっていた腕が掴まれた。ぐいぐいと容赦無く乱暴に引かれ、冷水の中から重い体が引き摺り出される。足先まで陸にあげられると、ひっくり返されて上から顔を覗き込まれた。 「意識は……あるか」 半分くらい、と独り言のように呟くのは猫の目のようにまん丸な瞳の少女だった。少女は背中側から尾形の脇の下に手を入れるとそのままずりずりと引きずって移動を始める。 尾形はただぼんやりと自分のブーツの踵が雪面に線を引いていくのを見つめていた。 そこで尾形の意識は完全に途切れた。 ::::: 次に意識が浮上したのはどれぐらい時が経っているのかは不明だが、尾形は布団の中にいた。 体はどうしてか動きそうもない、開かない口の隙間から掠れた呼吸音がひゅうっと鳴った。 「あ」と、声が傍からあがり、尾形は眼球だけを動かして声の元を見やる。 あの時見た少女が尾形を見つめていた。ぱちぱちとまん丸の目が瞬く。 「起きた」 そう呟くと少女は慌てて走り出すと勢いよく部屋のドアを開けて飛び出していった。尾形はそれを目だけで追って、そして緩慢に瞬きを一つした。 ばたばたとした足音に「病院の廊下を走らないの!」と叱るような年嵩の女の声が飛ぶ。 尾形はそこで此処が病院なのだとようやく理解に至った。 出ていった時と同じ勢いで戻ってきた少女は「ごめんなさい」と女に返すと、尾形が横たわる寝台の側に戻ってきた。 「尾形さん」 自分を呼ぶ声に、尾形は未だ覚醒仕切らぬ意識のまま少女を見上げた。 「今、軍の方をお呼びしましたから」 尾形はそこで少女の姿をしっかりと見た。今の今まで少女の猫のような瞳しか目にいれていなかったのだ。姿格好からして看護婦というわけではないようだ。幼顔の少女はただじっと尾形を見つめている。 開かない口をなんとか動かして、喉の渇きを訴えようとしたが喉からはヒューヒューとカサついた息が出てくるばかりで音にもならない。少女はじっとその様子を見つめたあと、困った顔で眉を下げると「水かな…」と小さく呟いた。 「口湿らす程度なら大丈夫、なはず……ちょっと待ってくださいね」 そう言って少女はまた部屋を出て行くが、先ほどより早く戻ってきたその手には小さな茶碗と白い布があった。少女はその布を小さく折りたたむと茶碗に浸し、乾ききった尾形の唇に当てた。 水を含んだ布が唇を濡らし、僅かばかりの水が口内に染みる。少しずつ、少しずつ与えられた水に乾ききっている口の中が潤ってきた。まどろっこしい水分補給に口を大きく開けようとするが、口周りが麻痺していて口はこれ以上開かないのがもどかしい。 「駄目です、尾形さん。顎の骨が折れているので、動かすと悪くなります」 口を動かそうと四苦八苦している尾形を嗜めるように少女が言う。その間も、ちょこちょこと口元を濡らす手は動き続けている。 そして小さな茶碗に入っていただろう水を含ませ終わると少女は乾いた手ぬぐいで尾形の口の周りに垂れた水を拭き取った。喉の乾きは先ほどより幾分マシになっていた。 そうしているうちに少女が呼んだのだろう医者と看護師がようやくやって来て、あれこれと確認している間に部屋の中にさらに人が増えた。医者たちに一旦の退出を促し自分の目の前に立ったのは鶴見だった。 「おはよう、尾形。気分はどうだ」 くそったれな気分だ、と言えたら良かったのだが、残念なことに自分は声を出すこともままならない。 「直江君、目覚めてからの尾形の様子は?」 邪魔にならない位置にと枕元側の壁際に身を寄せていた少女に問うた鶴見に、直江と呼ばれた少女は「喉が乾いていたようで、水を含ませました」と答えた。 他には、と重ねて問われたが直江は少しだけ考え込んでから「何も」と言った。 実際起きたばかりの尾形は、何かしでかすほどの余裕も体力もなかったため嘘は言っていなかったが、鶴見は探るようにじっと直江を見つめたあと「そうか」とわずかに落胆がのった声で呟いてから視線を尾形へと戻した。 「誰にやられた?」 がらんどうの穴のような真っ黒な目玉が二つ、尾形を見下ろしている。半分夢見心地であった意識の中で、最後の記憶が蘇った。 傷だらけの顔、戦地上がり、そして物々しい『二つ名』。 「ふむ……話せないか。それとも相手を知らないのか」 黙ったままの尾形に、口元に当てたてで顎鬚を撫で付けながら鶴見は独り言のように言う。 右手を持ち上げようとして走った激痛に布団へと力なく落ちた。「あ」と直江が小さく声を漏らしたのに、鶴見の視線がそちらに向く。尾形は今度は左手を持ち上げ、震える指先が、泳ぐように揺らいだ。 直江はその指先の下に、自分に掌を差し出した。 指に何かが触れたのに気づいたのかふらふらと揺れていた指が一瞬止まり、そして手のひらに指先をぐっと押し付けると、何かを描くように意思を持って動き出す。 その様子に口を閉ざした鶴見はゆるりと目を細めた。 「ふ」 掌に書かれた文字を直江は静かに受け止め読み解く。呟いた音に、反応して指がまた動く。 「じ」 直江の意識は掌に集中していた。指先の震えが強くなっている、限界に近い。 「み」 三つ目の文字を書いたと同時に尾形の指先から力が抜け、ずるりと力なく布団の上に落ちた。 「ふ、じ、み……ふじみ、か……」 意識が泥沼に浸るように黒に塗りつぶされていく中、そんな鶴見の呟きを聞いた気がした。