巫山戯た月光と白雪

「逃げて下さいっ!」

何の下心など持たずに、差しのべられた純粋な救いの手。けれど彼女にそれを握るという選択などどこにもない。


彼女の選択肢はただ一つ。
死。

彼女の選んだ最善の選択肢。
死。

彼女の選んだ最期の選択肢。
死。

彼女の歩む未来はただ一つ。
死。



・・・のはずだったが、彼女に何も襲い掛かりはしなかった。

確かに耳には肉体を刃物が斬った音がした。
確かに鼻には肉体から出る紅い液体の匂いが掠った。

けれど、自分の身には何の痛みも走らなかった。
反射的につむった目を開けてゆっくりと視線を下ろしてゆくと、そこには白雪を染めてゆく紅い液体が広がっていた。襲い掛かりそうなほどその目を狂気で染めていた筈のそれは息絶え、横たわっていた。

「あーあ、残念だな」

新たな男の、声が聞こえてきた。しかし、彼女の思考はこの現状を理解しようとしていて、気付かなかった。そして彼も一切の視界も意識も彼女には向けなかった。それはあの人外を斬ったのであろう者にも言えることで、淡々と言葉を続ける。

「僕ひとりで始末しちゃうつもりだったのに、斉藤君、こんな時に限って仕事早いよね」
「俺は務めを果たすべく動いたまでだ。あんたと違って俺に戦闘狂の気は無い」
「うわ、ひどい言い草だなぁ」
「・・・否定はしないのか」

彼らの紡ぎだす言葉やその口調は人が血を流して倒れているこの状況下において、考えられないほど穏やかだった。まるでこれがただの何の変哲もない日常の一場面でしかないと言っているかのように。

そんな間に彼女の思考は風のように何の確信もない筈の噂の輪郭をなぞってゆく。
彼らが共に纏う着物の色、そして今居るこの場所。

浅葱色の羽織、京都。

散りばめられた一つの欠片が徐々にその形を露わにしてゆく。

(・・・新選組・・・・)

その存在を強く心で呟けば、それは水面に描かれる波紋のように広がってゆく。よく見れば、その人外が羽織っている着物も彼らと同じものだ。同じ組織の人間を殺したことに疑問が浮かんだが彼女にはそれ以上に重要なことがあった。

(もしかして・・・。でも、早すぎる・・・)

彼らに気づかれないようにそっと腰に差していたに手を添え、片方の足を後ろへさげた。全神経を尖らせ、息を整える。

「でもさ、あいつらがこの子たちを殺しちゃうまで黙って見てれば僕たちの手間も省けたのかな?」
「・・・少なくともその判断は俺たちが下すべき判断ではない」

ゆっくりと二人の隊士の視線と意識、そして言葉が彼女に向けられた。

「で君は何してるの?もしかして僕たちと戦うつもり?」

彼女に向けられた言葉の調子が、明らかに馬鹿にしていた。けれど彼女はそんなことなど気にせず、相手を睨み続ける。

「新選組が何か用?」
「何か勘違いしてるみたいだから言っとくけど、別に僕たちは君たちを追ってここに来たわけじゃない」
「・・・・・」
「けど、君たちをみすみすと逃がすことはできないなぁ」

明らかに矛盾する言葉は彼女には意味は分からなかった。

そう言って悪戯する子供のような微笑みを顔に浮かべたまま、何かするのかと思えば一歩後ろへ退く。その代りのように後ろから、先程までここには居なかった筈の新たな新選組隊士が冷酷な刀の矛先を彼女の生命の赤い液が多く通る首筋に突き付けた。

「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」

冷たく無慈悲な口調でそう言い放った新選組隊士は月光をその背に讃え、白雪と共にその黒髪を風に揺らした。刀に手を添えて体制を整えていたにもかかわらず、向けられた強い瞳に、彼女は反抗するということが出来なかった。彼女の思考とは裏腹に、手が蒸し器に刀から離れていった。


白雪たちは一向にやむ様子を見せず、何か目的でもあるのか分からないが、未だに深々と降り積もってゆく。その理由を知る術など誰ひとり持っていない。

「あれ?」

何か珍しいものでも見つけた子供のような口調で新選組隊士の一人は黒髪に言った。

「いいんですか、土方さん。この子たち、さっきの見ちゃったんですよ?」
「いちいち余計なこと喋るんじゃねぇよ。下手な話を聞かせちまうと始末せざるを得なくなるだろうが」
「この子たちを生かしておいても、厄介なことにしかならないと思いますけどね」
「とにかく殺せばいいってもんじゃねぇだろ。・・・・こいつらの処分は帰ってから決める」

そう言うと、彼女の死と生の行使権をその手に握る黒髪の隊士、土方と呼ばれた男は刀を鞘に納めた。

「俺は副長の意見に賛成です。長く留まれば他の人間に見つかるかもしれない」

先程からあまり口を開かなかった隊士、斉藤はそれだけ言うと静かに視線を、息絶えたそれに向け、ため息交じりで呟いた。

「こうも血に狂うとは・・・・実務に使える物ではありませんね」
「・・・頭の痛ぇ話だ。まさか、ここまでひどいとはな」

土方もまた同じように落胆の声色で呟く。
ゆっくりと彼女は視線を下から自分の横にいる少女に向けた。少女は顔を俯かせ、恐怖にその身を震わせていた。けれど彼女は心底興味なさそうに目をそむけた。

「用がないなら失礼する」
「聞こえなかったのか?背を向ければ斬ると俺は確かにおまえに言ったはずだ」
「やりたければやれ」
「そんなに死にてぇのか」

眉間にしわを寄せ、だんだんと表情が険しくなる土方。相対する彼女の表情に相変わらず変化はない。終わりそうにない言葉の応酬に歯止めをかけたのは沖田だった。

「ねぇ、ところでさ。助けてあげたのにお礼の一つもないの?」

唐突に放たれたということもあるが、予想だにしない言葉を投げかけられる。けれど相手はふざけているわけではなくいたって真剣な様子だった。とは言っても、相手は見るからに、自分の本音や本心を隠すことに対して慣れているということは見れば分かる。だからこれが単なる悪ふざけでからかっているのか、そうでないのかは相手から推測できない。どちらにせよ、いけ好かない奴だと彼女は眉間にしわを寄せた。

それに答えたのは彼女ではなかった。隣でひざから崩れていた少女だった。“正直”という言葉だけで片付けていいのか分からないが、「ありがとうございます」と深々と頭を下げて礼を言ったのだ。新選組の隊士たちも隠すような素振りなど一切見せず、三者三様の反応を見せた。言い出した当の本人は腹を抱えて込み上げる笑いを必死に堪えていた。

「あー、ごめんごめん。そうだよね、僕が言ったんだもんね」

笑いを引っ込めると、こちらに向き直った。

「どう致しまして、僕は沖田総司と言います」

新選組隊士、沖田総司の自己紹介は少女と彼女に向けられているものの、彼女は聞こうとはしない。視線も合わせず突っ立っていると、手首を強く握られる。

「行くよ」

その主を見上げると、食えない笑みを浮かべる沖田総司だった。

「断る」

一瞬、するりと沖田の手から彼女の腕が抜けた。けれどそれはすぐにとらえられてしまった。今度は逃がすまいとさらに強く握られて傷みが彼女の腕に走る。

「君、僕から逃げられると思ってるの?」
「生憎、新選組に大人しく捕まっていられるほど暇じゃない。ここで殺さないなら離せ。時間の無駄だ」
「そんなに死にたいなら僕がお望み通り斬ってあげるよ。だから今はさっさと大人しくしてくれないかな、こんな寒いとこで長居したくないんだよね」

沖田はあからさまに面倒くさそうな感情を表に出し、刺すような鋭い視線を向けた。これ以上は無駄だと察した彼女はそのまま彼に手を繋がれて屯所まで連れて行かれることとなった。



出逢いは――突然で、最悪。

月は満ち、月光は輝いて、優しく夜を灯して、雪を照らしていた。

けれど私の心は月も雪も無く、酷く息苦しい。

ただ、私の心は闇喰われて無に帰すのを待つ―――――――だけ。





巫山戯た月光と白雪

この世は無情だからか
私をなかなか殺してくれない