止めようのない雪崩れのよう
そうだ、彼女は計画的に俺たちの前から消えたのだ。彼女は私物の一切を俺たちの家に置いて帰ることはなかった。それどころか、俺たちの家にはまともに調理道具や食器はそろっていなかったのに彼女は絶対にそれを買うことはしなかった。あれだけの料理をしようと思えば不足を感じるはずだし、経済的な問題もないはずなのに決してそれをしようとしなかった。彼女が自ら買ってくるのは食料を含む消耗品だけ。そして、苗字を教えなかった。
彼女は最初からこうするつもりだったんだろう。悟られないように消えるため、そして、自分を探す手がかりが残らないように、自分の存在を残すよう様なことを徹底的に回避し続けた。3年間も。
そんな彼女の思考を読むには俺たちは幼すぎた。小学生が高専生の考えなんて、よほどの条件がそろわなければ分かるわけがない。けれどこの年代になればその違和感に気が付けただろう。彼女のしたことは今になればとても分かりやすいものだ。それでも彼女がそれをしたのは、俺たちを幼いからと侮っていたからだろう。だから欺けると思って実行した。そして俺たちはまんまと騙されたってわけだ。
とはいえ、俺が彼女のその計画性に気が付いたのは津美紀が呪いによって眠りについた後だった。自分の鈍感さに苛立って、高専入学後、それをぶつけるように五条先生を問い詰めた。彼女は最初からいなくなる前提で来たのか、なぜ別れの挨拶もないのか。いま彼女はどこにいるのか、自分でも驚くほどに矢継ぎ早に質問が出てきた。けれど五条先生は「知らない」の一点張りだった。そこで俺はやっと理解する。五条先生もグルだったんだと。彼女が行方をくらますことを知っていて、容認していたんだろう。
ぐつぐつと煮えたぎるような怒りが腹の底から湧き上がってきた。そこに正当性があるかなんてわからない。検証する精神的余裕もない。
もうすでに鍵が開けられていたドアを少しだけ開けて、彼女は俺から逃げるように家の中へと体を滑り込ませる。その背中を追いかけるように腕を伸ばし、何とか自分の半身を滑り込ませることに成功した。
「ちょ、なに、をっ!」
早くドアを閉めようとして家に入ってすぐ身を翻しドアノブを力いっぱい握りしめたようだが、俺の左肩がドアに挟まっていることに気が付くとあっけなくその手を離した。俺に視線を合わせることなく彼女はうつむいたまま一歩後退り、壁に背をもたれた。一瞬、弱々しく見えた彼女から発せられた声には強い警戒と拒絶がにじんでいた。
「未成年とはいえ警察呼ぶから」
「へぇ、俺が誰か分からないのに未成年って分かるんですね」
誰か分からないと嘘をつきながら、俺の年齢をすぐさま計算できるほどきちんと覚えている。俺の誕生日か年齢を、そして会わなくなって何年経ったのかを。少しの喜びとそれを覆うように心がざらつく。
それなら尚更俺の前から消えた・・・?
「△△さん」
「出て行って」
「嫌です」
意思表示するように俺はわざと乱雑に玄関の鍵を閉めた。その音を聞いたあと、△△さんは観念したようにため息をついた。
「これ、誰の指示?」
「五条先生です」
「五条先生って、五条悟?」
「そうです」
「そう・・・」
「でも関係ないです。相手が△△さんなんで」
意味が分からないと言いたげに△△さんは顔を上げた。やっと視線が合う。それを逃さまいと△△さんの左側の壁に手をついた。それは随分と色気のない壁ドンだった。そんな俺の行動に驚いたのか△△さんは目を丸くした。
「何が何でも連れて帰ります。俺はアンタに聞きたいことが山ほどある。もう絶対に、勝手に黙って消えるなんてさせない」
この言葉に何の誇張もない。文字通りの意味だ。「相手の意思も尊重しながら」なんて考えはもはや塵芥となって消え去っていた。我ながら幼稚だと思ったが構わない。彼女がかつて俺たちの意思を尊重せず目の前から消えたように、俺は彼女の意思を尊重せず連れ帰る。
△△さんの唇が小さく開く。
「逃げないよ」
玄関のセンサーライトの照明が落ちる。その間際、視界の端に映ったのは力なく項垂れた△△さんの腕だった。
「“血”で自分の運命が決められるんだから」
それはひどく底冷えした声だった。
止めようのない雪崩のよう
いつだって許されたのは、
自分の持ちうる四肢をもってあがくことだけなのだ。
そして決して逃げられない。
いつだって許されたのは、
自分の持ちうる四肢をもってあがくことだけなのだ。
そして決して逃げられない。