夕暮れの光は、壁の白さと色を奪い、影の形を歪ませ、光をただ粒子のように宙へと溶かした。その変わりゆく世界のほうが、むしろ静かに呼吸をしているように感じられた。カーテンの隙間から落ちてくる光は、時間というより、遠い記憶のかけらのようで、指先で触れればすぐ崩れてしまう砂のようでもあった。
そんな光の中で、いつものようにヴィオラを抱え、弦に触れもせず、その身体の一部を確かめるような仕草で輪郭だけをなぞっている男。指の動きは、彼自身の心を語るより先に、空気そのものを静かに震わせる。言葉よりも先にある何か──それを一織は音の気配として感じ取るのに、家森はまるで無意識のような顔をしていた。
彼のヴィオラに向かう姿勢は、どこか、祈りに似ていると一織は時々思う。祈りといっても胸の前で手を組むようなものではなく、もっと荒くて、不格好で、不器用な、人の形をした祈り。手の甲の少し乾いた質感や、無駄のない指の角度、弓を転がすときのわずかな癖。そのどれもが、彼の沈黙を支えているように見えた。彼は多くを語らず、語れず、そのかわりに理屈だけを前に置いて自分を曖昧にする。だけど、その曖昧さこそが、一織の目には誰よりも正直に映ることがある。弦に触れない弓の角度ひとつで、彼の呼吸の深さまでわかるような気がするのに、家森本人は気づいていない。その無自覚な距離が、美しくて、わずかに痛かった。
一織の記憶は、ふいに自分のヴァイオリンへと向かう。手のひらに残っているはずのない感触が、夕暮れの光をきっかけに蘇る。弦を押さえた瞬間の微かな痛み、弓の重さ、音になる寸前の緊張。そのすべてが未完成のまま、どこにも行かず胸の奥に残っていた。音にならなかった音が、部屋の静けさを背景にもう一度立ち上がるようで、懐かしさよりもむしろ、名前のない感情だけが強く浮かんだ。未完成という事実は、どこか痛みを含んでいるのに、その痛みが嘘みたいに美しかった。それはまるで、終わりがない関係を抱えていることの、静かな肯定に似ていた。
家森の横顔を見ると、光が彼の輪郭にたまって、細い線のように滲んでいく。彼の目元は薄い影に覆われて、その影がゆっくり動くたびに、心の奥の揺れまで映しているように見えた。彼は何も言わず、何も伝えようとしないのに、一織の目にはあまりにも多くのものが見えてしまう。彼の沈黙は拒絶ではなく、奥に隠している柔らかさを守るための壁のようで、その壁の薄さに気づくのは、たぶん彼自身より一織のほうだ。触れようとすれば簡単に壊れてしまいそうで、壊れてしまったらもう戻らない気がして、だからこそ触れられない。近いのに踏み込めない距離。その距離感が、音にならなかった旋律と重なって、一織の胸をゆっくり締め付ける。
「未完成って、それはそれで美しいんだよ。」
家森の声は、夕暮れの残り香に溶けるように低く響いた。言葉にすると途端に形を持ってしまうのに、彼の声は形を押しつけず、輪郭だけをそっと置いていく。それは音と言葉のあいだにある、目に見えない空白のような響きだった。未完成の正しさを肯定してくれるようで、それでいてまるで自分の話ではないかのように淡々としていた。そういうところが家森らしくて、やっぱり少しずるかった。
外では風が街路樹を揺らし、木の葉の擦れる音が、この小さな部屋の静寂をわずかに震わせる。光と影は溶けあい、夜へ向かう気配がゆっくりと沈殿していく。二人の間には、完成されることのない音楽のような沈黙が流れ、その沈黙は生き物のように息をしていた。一織は、家森の指先が描く見えない旋律を追いながら、触れられなかった音と触れられない距離が、こんなにも深く胸を満たすことに驚いていた。
未完成のままの旋律は、音にならないまま、しかし確かに存在している。家森の指の動きも、一織の胸に残る痛みも、この部屋の薄闇も、すべてが途切れずに続く線となって、静かに夜へ流れていく。その未完成の美しさを、一織は胸の奥でゆっくりと抱えながら、ただ家森の横顔を見つめていた。